第五話 行政担当官は、常に品行方正でなければならない。
王国公認絵師であり、日頃から靴を偏愛してやまない王立大学文学部史学科美学専攻の准教授は、大学の講義室でそのご自慢の赤い靴を陽光に輝かせながら、こう言った。
「ここに一本の曲線があったとします。そして、普通の人が見るとそれはただの線でしかありません」
彼女は爪の手入れが行き届いた指先で、空中に滑らかに曲線を描く。
「ところが、ある一定以上の知性ないしは知識を持っている者がそれを見ると、曲線の幾何学的な滑らかさや傾き、数学的な優雅さが、一種危険な薬物のように作用することがあります」
今度はすっと横に遅滞なく動く指先。
「つまり、真の『芸術』は見る側に素養を求めるのです」
どこを見つめているのか判然としない視線。
「準備の出来ていない者にとっては、それは意味の分からない前衛作品であったり、子供の悪戯書きとさほど変わらないものであったりするかもしれませんが、素養の備わった者からすれば、それは王国の至宝に匹敵するものであったりします」
そして、指は急停止して空中の一点を指し示す。
「ただし、そう『見える』ことが必ずしも良いこととは限りません――」
彼女は急に怪しげな笑いを浮かべながら、こう言い切った。
「――なぜなら、そのことによって人生を狂わされることも、ままあるからです」
*
「ちょっと待ってください。課長――」
ロランドは目の前を早足で進むヴィルヌイの背中に向かって言った。
「――さっきアメリア課長が言っていた話は本当ですか? 『素人じゃあ三日で死ぬからいらない』ってところのことですが」
すると、ヴィルヌイは急に立ち止まって、頭を天井に向ける。背中にぶつかりそうになったロランドは、自分の身体を左に傾けて姿勢を大きく崩しながらなんとかかわした。
そのため、ヴィルヌイの顔を斜め下から見上げるような形になったのだが、その時のヴィルヌイはなんとも悩ましげな表情をしていた。
「う―――ん。仕事の内容については明日以降、ゆっくり時間をかけて話すつもりだったのだがね」
そして今度は目をつぶり、腕組みをしながら考え込む表情になる。
「どうしようかなあ」
「あの、課長。思案中のところ誠に恐縮なのですが――」
ロランドは恐る恐る訊ねる。
「見た目お悩み中のご様子ですが、その、その割には声が大変楽しそうに聞こえるのですが」
「分かるかね」
「はあ」
そして、ヴィルヌイは今日何度目かの「人の悪そうな顔」になる。
「いやあ、私は楽しみを後まで取っておくタイプなのでね。こんなに早く明かすのはちょっともったいないんだよね」
ロランドも今日何度目かの溜息をついた。
――やはり俺は間違ったところに来てしまったのかもしれない。
うなだれたロランドの頭の上から、ヴィルヌイの言葉が降ってくる。
「とはいえ、もう終業時間は過ぎたから――」
そこで言葉が一端途切れたので、ロランドは顔を上げる。すると目の前には、ヴィルヌイの何かを企んでいるような笑顔があった。
「――この先の話は新人歓迎会の席で、ということでどうかな」
新人歓迎会というのは、その時ヴィルヌイが唐突に思いついたことだったのだが、人事第六課執務室に戻ってヴィルヌイがそう宣言すると、ゴルディウスもアリエッタも二つ返事で同意した。
「そいつは楽しみですなあ」
ゴルディウスは即座にヴィルヌイと双子のような笑顔を浮かべる。
アリエッタは表情がないので分からなかったが、首筋に並んだ
つまりは二人とも、事情は了解していることになる。
ロランドは同意すら求められなかったことに後になって気がついたが、聞かれても当然「行きます」としか答えようがなかった。なにしろ「素人だと三日で命を落とす仕事の内容」が餌である。食いつくなという方が無理である。
既に後片付けは終わっていたらしく、先輩三人はそのまま執務室を後にした。
ロランドはその後ろを黙ってついて行く。
先頭をヴィルヌイとゴルディウスが並んで進む。なにやら愉しそうな様子で話しているが、おおかたロランドを紹介した時の各課長の反応の話だろう。「チェレンボーン」という言葉が何度か聞こえている。
その後ろをアリエッタがしずしずと進んでゆく。執務室では頭を出していたが、今の彼女は全身が布で覆われていた。顔も布の奥に沈み込んでいてよく見えないが、時折後ろを振り向いてくれるのが身体の動きで分かった。
しかし、彼女は何も言わない。
ヴィルヌイのお楽しみの邪魔をする気はない、ということだろう。それでも彼女の気遣いが分かって、ロランドは嬉しかった。
さらに廊下を進むと、その先で人事第一課の執務室の前を通る。そこまで差しかかった時、部屋の中から、
「それではお先に失礼致します」
という声が聞こえ、その直後にベルファが姿を現した。
彼女は四人の姿を見つけると、一瞬だけ怪訝そうな顔をしてから、ロランドに近づいてきた。
「ロランド、貴方、ヤマファさんのご子息でらっしゃったのね」
ベルファは、基本的には丁寧な言葉を用いながらも、
『ロランド、貴方』というところに冷たさをにじませ、
『ヤマファさん』の部分にかすかな敬意を含ませた後、
『ご子息でらっしゃった』の部分に若干の非難を加える、
という実に高度な言い回しをしたので、ロランドは苦笑した。
「ええと、そう。ごめんなさい」
ベルファは眉を上げる。
「どうして謝るの? それならそれで私は全然構わないのだけれど――」
彼女はロランドのほうに顔を寄せてくる。それは育ちのよい家柄出身者特有の、対人距離の近さだった。
さほど育ちのよくない、それどころか、
「相手の素性が知れないうちは不用意に近づかないこと」
「間合いに入ってしまったら、仕方がないので相手が誰であっても先に手を出すこと」
という戦場での鉄則のほうを両親から叩き込まれていたロランドは、右腕が即座に動こうとしたので慌てて押さえる。それで思わず赤面してしまった。
女は男の普段とは違う気配を察することに敏である。
ただ、ロランドの反応は普通と少々違うのだが、普通の男による羞恥の反応と受け取ったべルファは、にやりと笑うとさらに距離をつめてから言った。
「――ところで母親としてのヤマファさんはどんな方なのかしら」
そして、彼女はその日一番の笑顔を浮かべる。
「なにしろ、魔法遣いにとって彼女は『生ける伝説』ですから」
「はあ」
ロランドは間の抜けた返事をした。
これには理由がある。
ロランドはこれまで自分がキーヴァード家の者であると知った人々から、同じような質問を何度も受けていた。
「ヤマファは普段はどんな人なのか」
あるいは、
「カシヲは普段からああなのか」
という問いかけの、前者には尊敬が、後者には恐怖が、若干込められていることが多い。
あまりにも同じことを訊ねられるので、ロランドは同じような気の抜けた返事をしてから、同じような回答をしていた。
その時のヤマファへの回答も同じである。
「どんなって言われても、僕にとっては普通の母親だよ。料理上手で、おっとりとした」
すると、ベルファはそれを聞いた人々と同じような顔で驚いた。
「えっ、貴方、何をおっしゃっているの?『火焔魔女』が普通の主婦? えっ??」
自分の母親が現役時代に何をしでかしたのか、ロランドは詳しく知らない。彼の周囲にいる事情を知悉しているはずの者も、遠慮して言わないようにしているところがある。
それでもこのような反応を目にしていると、今の様子からは想像も出来ないほどの「やんちゃな」生き方をしていたことが想像できた。
これが父親のカシヲの話となると、こうなる。
「どんなって言われても、僕にとっては普通の父親だよ。冗談が好きで、おおらかな」
すると、それを聞いた相手は、
「な、ん、だと……」
と顔面蒼白になりながら呟くと、そのまま黙り込むのが常である。
ともかく、ロランドはその時、慌てふためくベルファの顔を間近で見ながら、頭の中で微かにアラームが鳴るのを聞いていた。
なにしろ、視界の大半を占めるベルファの顔の向こう側に、わずかにアリエッタの振り返った姿が見えている。布の奥にある瞳が、なんだか光っているような気がするのだが、これは気のせいではあるまい。
行政担当官着任初日から、なにやら先行きが不安になる人間関係の兆しを感じながら、ロランドは小さく溜息をついた。
*
いろいろと聞きたそうなベルファとは王宮正門前で分かれる。
魔法遣いは、自分の能力を常に高い水準に保つことを義務のように考えているから、ベルファは当然のように空を飛んで帰ることにした。日々鍛錬を欠かさないのだ。
彼女は小さく呪文を唱えると、空中に椅子があるかのように横座りする。
見えない椅子はベルファを載せて、まるでそうすることが前世からの約束事であるかのように、滑らかに空中を滑り出してゆく。
彼女の姿が見えなくなるのにさほど時間はかからなかった。
「さすがはギンズブルック家のご令嬢だけのことはある。あの飛行術式魔法は並大抵ではないな」
ヴィルヌイはそう言って感心したが、表情と声にわずかながら「まあ、そんなものか」という意味が含まれているようにロランドには思えた。
――そういえば課長は何の術者なのだろう?
見た目からして妖精族である。
それに人事第六課長を拝命しているくらいだから、凡庸な人物であるはずがない。
また、王国は実力主義を標榜しているから、ただの貴族出身者を厚遇することは考えにくい。
ロランドはそのあたりのことを訊ねようとしたが、先輩三人がさっさと歩き出したので、言い出すタイミングを失った。
先程までロランドのほうをしきりに振り返っていたアリエッタも、ベルファが帰ってから振り返ることはなかった。そちらもロランドには意味が分からない。
しかも、なんだか布地が内側から押されて形が変わって見える。その角度は鋭利だった。
――まあ、歓迎会の席でいろいろと聞けばいいや。
ロランドはそう考えて足を進めるが、後でこの時の判断をひどく後悔することになる。
人事第六課の新人歓迎会は、王宮正門から東に歩いてしばらくいったところにある、大通りに面した居酒屋で行われた。
一応、文字で書くとこうなる。こうなるのだが、店の前に立ったロランドは、
「えっ!?」
という素直な
まあ、それはやむをえまい。なにしろ、そこは一見して居酒屋には見えない外観をしていたのである。
『森の兎』
店名表示はそうなっており、店の前に並べられた露台には、兎をかたどった陶器が、ところせましとならんでいる。そこに先輩三人は躊躇いもせずに入っていったから、ロランドは慌てて後に従った。
店内はさらにすさまじかった。
視界のすべてが兎グッズで埋め尽くされる。しかも、それらはことごとく少女の妄想並みに可愛らしさを前面に押し出してくる。奥行きが長いので、それこそ兎の巣穴のようになっている店内を、雰囲気に合わない四人連れは進んでいった。
奥の方には女性店員がいる。
彼女はこちらに気がつくと、
「いらっしゃいませ」
と言いながら、それはもう愛想良く笑った。
ロランドの背中の毛が逆立つ。
また本能が、今度は右足を即座に動かしそうになったので、彼は必死に押さえ込んだ。顔の上を一筋の汗が流れてゆく。冷や汗である。
――これは、やばい!
彼はそう確信しながら、前方で満面の笑みを浮かべている店員を見つめた。表向きはまったく無害に見えるが、あのカウンターの下に隠れた両手には恐らくは凶器が握られている。そう、ロランドは確信した。
店員にヴィルヌイが声をかける。
「ギリアスはいるかい、ジョージィ?」
「もちろんです。イアハート様」
ジョージィは、小さく首を傾げながら笑顔で答える。
そして、何も持たない両手をカウンターの外、前から見えるところに出すと、店の奥へと続くドアを左腕で指し示した。
「どうぞ」
ロランドの背中の毛が即座に倒れる。
彼はそれでも警戒しながら、三人の後ろについて店の奥に入っていった。全員が中に入ったことを確認すると、ジョージィは速やかに扉を閉める。そしてまた店の正面方向ににこやかな笑顔を向けると、
――ああ、あいつはマジでやばかった!
と内心思った。
彼女の顔の上を汗が一筋流れてゆく。
*
さて、『森の兎』の別館は、本館の明るさとは対照的に照明が落とされている。
燃焼草ガスによるランプが店内の様子を朧げに浮かび上がらせており、燃焼草が微生物に分解される際に発生する甘い香りが満ちていた。
この燃焼草というのは、そこいら中に自生している植物である。組織内に微生物を共生させており、微生物は光合成による栄養分を分けてもらいながら生きながらえていた。
ところが、燃焼草が刈り取られてサイロに詰め込まれると、光合成による栄養供給が絶たれる。すると微生物は、いままで自分の家であった燃焼草の組織そのものを栄養素とすべく、分解を始めた。
その際の副産物として生じるガスには燃焼性があり、照明はもちろん、動力源として使われることもある。
魔方塵とともに神代の時代に作られたものと言われているが、それを詳しく知るものはこの時代においては『物語保管人』だけであった。
四人は甘い空気をかき分けて進む。
ロランドは表の明るい世界と隔絶された闇の世界に戸惑いを覚えた。
行政担当官は王国のエリートである。それゆえ常に品行方正であることを求められる。
ところが今いる店は、どう考えてもそれとは対極にある世界である。
そのような世界があることを知らぬほどロランドも
店の通路は途中何度か折り返しになっている。わざわざこういう構造にしてあるのだろう。四回折り返した後で前方に男性が立っているのが見える。
「いらっしゃいませ」
そう言って男は頭を下げた。
その時、ロランドの背中の毛は男に反応しなかったが、それでも彼は警戒した。
前方の男は確かに素手である。しかしそれは「何も必要ない」ことを示していた。男の存在そのものが抜き身の刀に近い緊張感を生んでいる。
男に近づいたゴルディウスが話しかけた。
「よう、元気そうじゃないか。ギリアス」
「お互い壮健でなによりです、ガンズ様」
言葉では親しげな様子であるが、二人の間には緊張した空気が流れた。ロランドは過去に何か因縁があることを悟る。
「こちらへどうぞ」
ギリアスが右手を出しながら先導する。
その先には壁によって仕切られてた個室の並ぶ空間が広がっていた。細分化されすぎて全体が全く把握できなかったが、とても静かだった。
他の客の姿は見えない。見えないように工夫されているのかも知れないが、居酒屋にありがちな騒々しさはなかった。
「こちらでございます」
ギリアスが店の一番置くと思われる席に四人を案内する。
見たことろ一つのテーブルに六つの椅子がセットされた部屋で、ギリアスが椅子を二つ片付けた。要するにゴルディウスの大きさを勘案したということだろう。
四人が席に着く。
ヴィルヌイとゴルディウスが早々と並んで奥に陣取ってしまったので、ロランドはアリエッタとともに通路側に並んだ。
「よろしくお願いします」
と、ロランドはアリエッタに向かって頭を下げたが、アリエッタは微かに頭を下げて応じただけだった。執務室での親しげな様子との違いに、ロランドは戸惑うがいかんともしがたい。
仕方なく前に向き直ると――
ヴィルヌイとゴルディウスが必死に笑いをこらえていた。
注文した形跡はないのに、飲み物と食べ物が速やかに運ばれてくる。
目の前に並んだそれは、鳥の串焼きであったり、茹でた鞘入り豆であったり、それをつぶして再び固めたものであったりと、見事な居酒屋の一品である。
飲み物は巨大な器になみなみと注がれた泡立つ透明な酒で、これも燃焼草が分解された後に生じる副産物だった。燃焼酒と呼ばれており、その名の通り火がつくほどに度数が強い。
そこで飲料の他に、ガスと同様に動力源として使われていた。ちなみに、ガスの方が圧縮して液状化すれば長く使えるので、汎用性が高い。そのため民生品のほとんどがガスを使用している。アルコールの方は軍需品に使われていた。
それゆえ燃焼酒を別名『軍人殺し』と呼ぶことがある。
酒が入った大きな器は二つあり、それぞれに小さな器が添えられていた。ゴルディウスが目の前にあった大きな器から、小さな器に酒を移す。そこで、ロランドも目の前にあった大きな器から小さな器に酒を移した。
「それでは課長、お願いします」
ゴルディウスが小さな器の方を片手でヴィルヌイに差し出す。
それをヴィルヌイが両手で受け取る。小さいと思っていたが、彼女が持つと器は片手に余るほどの大きさだった。
ロランドが注いだ方の器は、早々にアリエッタが横から持ち去っている。
「さて、それでは始めようか」
とヴィルヌイが宣言したので、ロランドは焦った。
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってください!」
「何か問題でもあるのか」
「あるのかって、大ありじゃないですか。器がまだ届いていないようにおもうのですけれど」
「いや、もう全部届いているじゃないか」
「その、私とゴルディウスさんの……」
そこまで言って、ロランドはゴルディウスの手に件の大きな器が収まっているのを見た。
「……いや、その」
これはいわゆる上司からのいじめにあたるのだろうか、とロランドは一瞬考える。ただ、結論を出すのに時間はさほどかからなかった。
「いただきます」
彼は大きな器を手にとった。ヴィルヌイのにやりと笑う表情が視界に入ったが、そこは突っ込まずにスルーする。
「それではただ今より、ロランド君の歓迎会を始めることにする。では、乾杯!」
「「(乾杯)」」
ロランドの耳にはアリエッタの唱和する声が聞こえる。それがなんだか愉しそうだったので、ロランドは、
――まあ、いいか。
と思って、大きな器の中身を半分ぐらい飲み干して、器を机の上に戻す。
ところが、他の三人はそのまま器を傾け続けていた。
――えっ、えっ、えっ?
彼らの器の傾きは止まらない。特にゴルディウスは豪快に飲み続け、角度からすると三分の二までは飲み干している。そこでロランドは先程の言葉の意味を悟った。要するに『乾杯』ということである。
彼はこういった無言の挑戦にいささか弱いので、半分残った器を持ち上げると、先輩に遅れまいとして、一気に傾けた。わずかに口の端からこぼれたものもあったが、なんとか遅れずに飲み干し、器を元に戻す。
すると、ヴィルヌイが澄ました顔で言った。
「ロランド君、私は酒の強要は好きではないから、自分のペースを守って呑みたまえよ」
どの口で言っているのか、とロランドは思った。
いずれにしても最初の酒が綺麗さっぱりなくなったところで、ギリアスが寄ってくる。
その姿を目の端で確認したヴィルヌイは、
「では、ここからは各自、自分の好みで呑み給え。あ、それからロランド君の支払いは先輩持ちだけれど、遠慮なんかしないようにね」
と、これまた澄ました顔で言う。明らかな挑発であったが、ロランドはそれに乗った。
「有り難うございます。では、同じものをもう一つ頂けますか」
と、彼が澄ました顔でギリアスに注文すると、ギリアスはこう言った。
「承りました――キーヴァード様」
途端に、他の客の姿が見えなかったはずの店内で、空気が俄に緊張するのをロランドは感じた。
そもそもロランドは自分が誰なのかをギリアスに明かしていない。
それは他の三人も同様である。そんな会話はなかった。
にも関わらず、ギリアスはロランドのことを知っていた。
ロランドはギリアスの顔に見覚えがなかったから、店の客ではないと思われる。その辺は「お店の子」であるから、抜かりはない。
となると、どこで会ったのかロランドには分からなかった。
ただ、なんとなく分かったことがある。ギリアスがあえて「キーヴァード」の名を口にしたのは、この場にいる他の客への警告だろう。だからこそ周囲の空気があれほど緊張したのだ。
少なくとも、他の客も『キーヴァード』の名を知っているし、それを警戒する類いの稼業の人々、ということになる。そう、ロランドは理解するとともに、頭が痛くなった。
どこまで両親の武勇伝が拡散しているのか、彼には想像も出来なかった。
お代わりが出たところで、ヴィルヌイが机の上に肘をついて、ロランドのほうに身を乗り出した。
――やっときたか。
ロランドもわずかに身体をヴィルヌイの方に傾ける。
するとヴィルヌイはにやりと笑って、言った。
「それにしても、初日にして既にギンズブルック家のご令嬢とお近づきになるとは、君も実に手が早い」
隣でアリエッタが身震いしたのをロランドは感じ取った。
――意味は分からないが、なんとなく不味い。
本能でそう判断したロランドは釈明を試みる。
「いや課長、それは誤解です。ベル……ギンズブルックさんとは今朝、同じ時間に出勤しただけのことで、それ以上でもそれ以下でもありません」
「しかし、彼女はやけに親しそうだったじゃないか」
「いやそれは、私の母の話が聞きたかっただけのことで」
「ふうん、で、なんと答えた?」
「それは正直に『普通の母親だ』と」
すると、その場にいた全員が驚きの表情を見せた。正確には、アリエッタの様子は見えないので、なんとなくそんな感じがしただけなのだが、間違いあるまい。
代表してヴィルヌイが口を開く。
「いやしかし、天下の『火焔魔女』じゃないかね。君の母親は」
「そうですが、私には普通の母親なので、それ以外のことは言いようがないのです」
「……まあ、そうだとしようじゃないか。では、彼女から魔法の手ほどきは受けなかったのかな」
「はあ、魔法の才能がなかったもので」
「それにしても酷い。採用試験の時の実技の点数は聞いているが、全候補者中、下から数えた方が早いものだったじゃないか。ベルファのほうが余程優秀だ」
ロランドはそれを聞いて逆に驚いた。そこまで低いとは思っていなかったからである。
合格率の低い行政担当官任用試験であるから、下から数えた方が早いのは致命的だ。
――ちょっとやり過ぎだったな。
そう反省しつつ、彼は素直な疑問を口にした。
「それじゃあ、どうしてギンズブルックさんが人事第六課配属にならなかったのですか? 彼女は希望していたはずですが」
「あ、そうきたか――」
ヴィルヌイが「しまった」という顔をする。
「――ああ、この流れでは第六課の仕事について説明をするしかあるまいな」
「お願いします」
今度こそ逃げられないように、ロランドは真面目な顔でお願いする。
さすがのヴィルヌイも覚悟を決めたようで、彼女は少し姿勢を正してから話を始めた。
「さて、ロランド君。君は王立大学在学中に人事第六課のことを耳にしたことはあるかね?」
「ありません。必修科目に王国行政機関に関する講義はありましたが、その中で人事局は人事第五課までと教わりました」
「そうだろうな――」
ヴィルヌイが頷く。
「――人事第六課自体はもう十年以上も前から存在しているが、一般にはその存在を明かしていないからな。人事局配属者に対しては各課長からその存在が説明されて、その上で緘口令が言い渡されているはずだ」
「その割には、ギンズブルックさんはその存在を知っていたようですが」
「ああ、ギンズブルック家だからな。あそこは昔から王国行政担当官を輩出してきた名門だ。多くが魔法呪術省所属だが、たまに総務省所属の者もいる。その辺から情報が出たのだろう」
「それはありなのですか」
「まあ、完璧な情報統制なんてものは期待しても無駄だからな。許容範囲内だ」
そのヴィルヌイの言葉で、ロランドは人事第六課を「極秘事項ではないが、積極的に人に話すことは憚られる部署」と位置づける。
つまり、堅気の部署ではないということだ。
せっかく地方軍から遠く離れて念願の事務方配属になったと思ったら、実際は人目を憚る得体の知れない部署である。しかも、なんだか地方軍配属の場合よりも嫌な予感がするのだが、これは気のせいだろうか。
そんなロランドの心理を彼の表情から読み取ったのだろう。ヴィルヌイはにやりと笑うと、こう言った。
「察しが良いので実に助かる。今、君が考えた通りだ。他の人事各課は
「あの、質問よろしいでしょうか」
「ああ、随時訊ねてくれて構わん」
「有り難うございます。その、そうなりますとゴルディウスさんのような荒事専門の方が向いている部署と言うことで意味がよく分かりますし、貴族筋のギンズブルックさんの配属先として不適切なのもよく分かりますが、彼女はそこまで理解していたはずです。にも関わらず、第六課を希望していたということになるのですか?」
「ああ、まあ、そういうことになるかな――」
急にヴィルヌイの言葉が曖昧になる。
「――彼女のことだから人事第六課の業務内容も聞いていることだろう。それでもなおここで働きたいと考えた彼女の真意については、私にもよく分からないな」
そう言ってヴィルヌイは酒を一口呑む。その様子を見ながらロランドは、
――いや、それは嘘だ。
と感じた。
ヴィルヌイはベルファの真意をちゃんと把握しているに違いない。その上で、人事第六課には相応しくないと判断したのだろう。
そうなると、こんどは別なことが気になる。
「あの、もう一つ宜しいでしょうか」
「どうぞ」
「あの、そうなると私が配属になった意味が分かりません。学科はともかく、実技の成績が下から数えた方が良い人間に向いている部署とは思えないのですが」
「ほう――」
ヴィルヌイの目が急に細く鋭くなる。
「――君には思い当たる点はなにもないと?」
「はあ」
ロランドはいつものようにとぼけながら、内心冷や汗をかいていた。
――ばれている、のか?
そんなことはないはずだった。
高等学院から王立大学までの間、目立つ行動は極力避けてきたし、朝の通勤手段についても父の特殊能力の問題であって、自分のではない。
親がかなりの有名人だから、何か特殊能力があると勘ぐられても当然だが、
だからこそロランドは、最初のうちこそ騒がれても、途中からは期待外れという評価を受けてきたし、自分でもそれが妥当と考えていた。
しかしながら、配属の段階からヴィルヌイは何かを把握していたらしい。でなければ今年も「配属なし」で済ましていたはずだろう。
いずれにしても、ここはあまり深入りすべきところではない。
話をすり替えるために、
「あの、私もそうなんですが、その、アリエッタさんもどうして人事第六課に――」
と言いながら、アリエッタの方を向いたロランドは硬直した。
アリエッタが布を脱いでいる。
(……酔っちゃった)
彼女はそう呟いた。
自己紹介の時、アリエッタの肌はエメラルドグリーンに近い透き通った緑色だった。しかし、それが今は薄らと桃色に染まっている。酔って体温上昇したことによる変化だろう。
布を脱ぎ捨てたのも、熱かったからに違いない。これは体温調整が出来ないのだから仕方がないことだ。
仕方がない――のだが、ロランドは布の下に隠されていたものを目の当たりにして驚愕した。
確かに体温調節のために必要なものが布であるから、その下には体温調節には直接関係のないものになる。そして布が必要なくなるというのは、外気温が高い場合か体温が上昇した場合であるから――
いやもう、そんなことはどうでも良い。
要するに必要最小限の薄い服しか着ていないわけであるから、身体のラインがそれはもうものの見事に見える。
蜥蜴系統とはいえ、外見がそうなだけで卵生ではない。基本的な身体の構造は人族と共通しており、アリエッタは女性であるからして――
いやもうそんなこともどうでも良い。
要するに薄い衣の下からはそれはもう見事としか言いようのない曲線美があらわになっている。
それは言い換えれば多次元方程式によって導き出されるフォルバッハ曲線の具象化でもあり、位相幾何学におけるアナハイム理論の精緻な図形化であったりする。
胸のあたりから腰を経由するラインの美しさは、それこそムラビオ予測に対する中間的な解法に等しい数学的な優美さで――
それもどうでも良い。
「……美しい!」
そう、全身から絞り出すような賛美を口にした後、ロランドは急激な酔いにより卒倒した。
「ああ、やはり彼はチェレンボーンと同じ側の人間のようだね」
ヴィルヌイはそう言いながら苦笑する。
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