第二話 行政担当官は、迅速な状況判断を尊ぶ。
「いいか、よく聞け。人間の九割は屑だ。より正確に言えば、あらゆるものの九割は屑だ」
王立大学教養学部で魔術経済学の講座を担当していた准教授は、一年生の最初に行われた授業の冒頭でそう言った。
このような、とりあえず否定から入る類の物言いは、格好良く見えるかもしれないがさほど賢明とは思えない。
そもそも「九割」に意味があるように見えて、その実、本人は別に細かく調べてそう言っているわけではないからだ。
多分、八割九分でも構わないし、もしかすると八割でも許容範囲なのかもしれない。
ただ、誰もが感覚的に「そんなもんかもしれないな」と思うような、近似値ではあるのだろう。
この論が正しければ、王国行政担当官には屑が含まれていないことになる。なにしろ競争率百倍の狭き門だ。人口比率でいったら更に稀少になる。
それとも「あらゆるもの」という部分が重要なのだろうか。
*
今年の行政担当官任命式は、大講堂で開催される。
ロランドは、人影がまばらになった王宮正門に駆け込むと、そこにいた門番に言った。
「今年のっ、新任行政担当官ですがっ、大講堂はっ、どちらでしょうかっ」
門番は目を丸くしながらも、
「あ、ああ、大講堂ならば正門を入って左手側の端にあるよ」
と答える。ロランドは荒い息のまま、
「有り難うございますっ」
と大きな声で礼を言うと、正門左方向に駆け出した。
流石はジェニス世界の五分の一を占める王国だけのことはあり、敷地が無闇に広い。
カシヲのお陰で時間を大幅に短縮できたものの、決められた時間までに大講堂に到着できるかどうかは微妙なところだろう。
――やるか?
ロランドは一瞬、そんなことを考えてすぐに頭を振った。それだと時間には間に合うかもしれないが、悲惨な恰好になる。
それに今後の役人生活において、順風満帆かつ平穏無事な日常を望むロランドとしては、どっちがましか考えるまでもない。
ロランドは足に力を入れる。既に前方に人影はなかった。行政担当官を志すものに自分のような時間に横着な人間はいないということだ。
もちろんロランド自身は決してこんな事態は望んでいなかったものの、なってしまったものは仕方がない。最善を尽くすのみである。
そんなことを考えつつ、荒い息を盛大に吐き出しながらロランドが走っていると、後ろのほうから何かがやってくる気配がした。
その直後、ロランドのすぐ横を一陣の風が通り過ぎてゆく。それを見た瞬間、ロランドは素直にこう思った。
――あ、ずるい!
飛行術式魔法で、自分と同じ色の制服――但し女性用のものを着た魔法遣いが滑らかに飛んでゆく。
しかも抜かれる瞬間に目が合ってしまった。その時、気持ちが顔に出ていたのかもしれない。
彼女が小さく息を吐き、二言三言呟くのが見えた。
次の瞬間、ロランドは自分の身体が空中に浮き上がるのを感じた。
「うわうわうわ」
思わず手足をばたつかせてしまい、赤面する。その状態でロランドは先行していた魔法遣いの隣に引き寄せられる。
長い黒髪を風になびかせながら、彼女は怒ったように言った。
「礼は言わなくていい。だから、あんな顔するのはやめて。生まれつき術が遣えるだけなんだからね」
「ごめんなさい」
ロランドは素直に謝る。顔が真っ赤になるのが分かった。
「……まあ、いいわ。どうやらお互い新任行政担当官のようだから、いつか仕事で返して頂戴。私の名前はベルファ。ベルファ・ギンズブルックよ」
「分かった、僕はロランド、ロランド――うわっと!」
急に身体が止まったため、ロランドの言葉が切れる。
「ついたわよ」
ベルファはすました顔で、大講堂に向かって歩き出した。
ロランドは慌ててその後を追う。
大講堂に入る時、入口扉付近にいた係員が二人を睨みつけたが、ベルファは平然としていた。
係員は舌打ちしつつ、扉を閉めてゆく。つまりはロランドが最後ということだ。彼は胸をなでおろした。
「礼は言わなくてもいいということだったけれど、君のお陰で助かったよ。どうも有り難う」
ロランドは頭を下げる。ベルファはかすかに振り返ると右の手を振った。
大講堂の中は同じ制服の、同じ年代の男女で一杯だった。
今年、王国行政担当官として採用された者は五百名。これは省庁関係のない総数で、任命式の後で省庁別に分かれることになる。
ロランドはベルファと分かれると、眉を顰めた係員に案内されて新任行政担当者席の左端一番後方の席に座った。見ればベルファは一番前の席まで誘導されている。
別に席の位置で何かが変わるわけではないものの、なんだか別世界の人のような気がした。とりあえず時間内に席につけてほっとしていると、右側から肩を叩かれる。
見ると、獣族猫系統の男が、にやにやしながらロランドを見つめていた。
「いやあ、遅れるんじゃないかとひやひやしたぜ。間に合ってよかったな」
獣族は肉体能力に優れる反面、単純な性格の者が多い。隣の猫男もその例だろう。ロランドは苦笑すると、
「俺も間に合わないんじゃないかとひやひやしたよ」
と、幾分砕けた言い方をした。獣族はそのような気安い関係を好む。案の定、猫男は表情を崩すと、
「俺はギズムンド。ギズムンド・ハストエルだ。隣に座ったのも何かの縁だ。宜しくな」
と言う。ロランドも式典が始まりかけた周囲の様子を気にしつつ、ギズムントにだけ聞こえるような小声で、
「俺はロランド。ロランド・キーヴァードだよ。こちらこそ宜しく」
と自己紹介した。
猫男はロランドの名前を聞くと、少しだけ頭を傾ける。
「どっかで聞いたことのある名前だな。まあ、それより何より――」
あまり物事に拘らない代わりに、興味あることにはとことん食いつくのが獣族である。ギズムントはにやりと笑って言った。
「――お前と一緒に来たのは、ギンズブルックの令嬢だろう? 知り合いなのか?」
そう言われて、ロランドも気がついた。
ギンズブルック家――魔法遣いの中でも名門中の名門である。
「いや、ここに来る途中で初めて会った。そうか、ギンズブルック家の出身か」
道理で魔法の能力が高いはずである。
ロランドの家では魔法関係の道具を扱っているから、彼は多少の知識を持っていた。
それによると、魔法の物理的な効果は、空気中に含まれる微細な「魔法塵」によって生み出されている。
遥か昔、この世界には魔法が存在していなかったらしいが、それを大昔の失われた技術で、空気中に魔法塵を浮かべることで可能にしたといわれている。
魔法塵は術者の意識に呼応して凝集して魔法を顕現させるから、詠唱する呪文や用いる小道具に決まりはない。
古くから続く魔法遣いの系統になると自らのスタイルを術式として体系化し、発動の効率化を図っているから、呪文や魔法具も決まったものを使っているが、なくてもなんとかなる。
それでロランドはベルファの能力の高さに気がついた。
彼女は空を飛んでいる時、呪文詠唱していなかった。未熟な術者は常に呪文詠唱していないと、飛行術式が途切れて落下しかねない。
ところがベルファは、ロランドを浮かべるときも数語しか使わなかったし、普通に会話していた。見て分かる大きさの魔法具も使っていなかった。
ロランドの母親も本当ならば爆焔術式を必要としないほどの術者なのだが、
「だって、呪文詠唱したほうがそれっぽくて恰好良いじゃない?」
と言っていた。人それぞれだが、ともかく呪文詠唱しなくても使えるほうが術者としては高度である。
隣の席ではギズムントが頻りに頷いていた。
「なんでも、今年の任命者の中でも最上位の成績らしいぜ。ということは、魔法呪術省で決まりだろうな。さもなければ財務省か経済産業省だろう」
その言葉にロランドも内心頷く。成績上位者は自分の希望で配属先を決めることが出来ると聞いている。ロランドはそんなこと、聞かれもしなかった。
聞かれても魔法呪文省はそもそも適性がないし、財務省や経済産業省は入ってからの競争が激しいから、最初から希望しない。
外務省の地方軍勤務でなければ御の字。できれば総務省のような事務方でお願いしたいところである。
それに対して、隣のギズムントはこう言った。
「俺は地方軍一択だったけどね」
ロランドは軽く脱力した。
式典自体はありきたりなものなので、ここでは割愛する。
メインイベントは配属先の発表で、これは水晶盤通信によって行われる。
式典の最後、新任行政担当官は水晶盤を出すように指示される。カウントダウン表示の後、それぞれの配属先が表示されるという寸法だ。
係員の合図で、ロランドは鞄の中から水晶盤を取り出す。それを膝の上に置くと、カウントダウンが始まるのを待った。
別にすぐに表示することも可能なのだが、ここは運営側にとってもメインイベントらしい。たっぷりともったいぶった上で、カウントダウンが始まる。
五――会場全体に緊張が走る。
四――魔法遣いの何人かが思わず火焔を発動させる。
三――火焔が、係員による氷結術式で対消滅する。
二――その際に生じた水蒸気の粒が、水晶盤に落ちる。
一――何人かが息を飲む。
零――会場のあちらこちらから悲鳴が沸き起こった。
それは歓喜によるものであったり、落胆によるものであったり、人様々である。
ロランド自身は、水晶盤の表面を見つめて、おもわず唖然としていた。
「王国総務省人事局」――そこまでは希望そのものずばりで、願ったり適ったりである。
それに続く文字がなかなか頭に入ってこなかった。
「人事第六課勤務を命ずる」――「人事第六課」なんか、あっただろうか?
事前の情報収集では、人事課は第五課までだったように思う。
ただ、隣にいるギズムントが要望通りの地方軍配属で余裕をかましていたため、ロランドは、
――まあ、次の会場で聞けばいいか。
と、開き直ってしまった。
実際のところ、彼がこの場でもう少し大騒ぎしていれば、彼の運命は僅かなりとも好転したのかもしれないが、その時の彼にそんな知識はない。
後から振り返って、「ああ、あの時もっと動揺していれば」と思うばかりである。
*
ここでギズムントと分かれたロランドは、総務省の役人に誘導されて省内の会議室に向かうことになった。
彼と同じく総務省配属となった者は三十名近くおり、驚いたことにその中にベルファが含まれていた。今年の最優秀任命者であるから、本人が希望しない限り総務省配属はなかろう。
周囲の同期達もこれは相当意外だったらしく、ひそひそ話が湧き上がっている。その中を彼女はやはり平然とした表情で歩いていた。
総務省は王宮の中でも、正門に近いところに執務エリアを持っている。これは対外的な対応が多い部署であるが故のことだろう。日々の通勤を考えても、このロケーションは非常に好ましい。
ただ、入口に近いということから逆に食堂から離れたところになる。この点はマイナスと言えなくもない。
そんなことを考えながら集団に遅れないように歩いていると、先頭が左折して部屋の中に入っていった。
ロランドも続いて左に曲がる。すると広々とした室内には、右に「総務局」、左に「人事局」という縦看板があり、それぞれに椅子が五列並んでいた。
五列――ここでロランドの脳裏に黄信号が点る。
いやいや、どこかの課の配属者がいないだけかもしれない。
係員の指示に従って、それぞれが着席してゆくのを見ていると、五列が順次埋まってしまった。
係員が困惑した表情でロランドに近づいてくる――彼の脳裏に赤信号が点った。
「あの、君は人事局の配属者で間違いはなかったかな」
「はあ、発表では総務省人事局、人事第六課となっていましたが」
ロランドがそう言った途端、室内の空気がざわりと動いたのが分かった。
事情の分からない新任行政担当官同期が怪訝な表情になる中、周囲を取り囲んでいた先輩らしき局員達が、驚いた顔をしている。
目の前にいる係員に至っては、顔面蒼白になっていた。
ロランドの脳裏で、赤信号が煌びやかに点滅し始める。
その時、会場の後方右端のほうから、
「連絡不行き届きで申し訳ない。彼の配属は昨日決まったものでな」
という、傲慢とも思えるような堂々とした声が響き渡った。会場内が静まり返る。
ロランドが振り向くと、そこには一見して妖精族と分かる女性が腕組みをし、足を肩幅に開いて立っていた。
彼女は雰囲気を物ともせず、言い切る。
「何をしている。うちの新人だ。立たせたままじゃ話にならない」
それを聞いた係員は身体を硬直させると、
「は、はいっ、分かりましたっ」
と言いながら慌てて椅子を持ち出してきた。
ロランドは相変わらず頭の中で赤信号を点滅させつつ、その椅子に座る。心なしかサイレンまで聞こえるような気がした。
彼は頭を下げつつ、危険を察知した小動物のように視線をあちらこちらに向けてみる。すると、第一課の席に座っているベルファと目が合い――
彼女がなんだか悔しそうな顔をしていることに気づいた。
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