第11話

 ◇

 息がきれた。歩は走り、休み、走り、休みを繰り返していた。


――東久世から本久世まで、三十分もかかるなんて。私、足、遅い。でも、もう少し。頑張らなきゃ。


 ◇

 本久世は大きな建物がすくないものの、道がたくさんあって、歩はどこがどこなのかわからず迷った。


 駐在さんにたずねると、図書館は反対の方角だといわれた。


 そして、やっと図書館にたどりついたころ、空は雲に覆われていた。ゴロゴロと雷がとおくで鳴って、セミたちは静かになった。


 ◇

 歩は図書館の受け付けで息を整え、入場料を急いで払おうとする。と、財布を落として小銭がばらばらと床に散らばった。

 受け付け係のおじいさんが「大丈夫かい? お金はいらないんだよ」と言いながら小銭を拾ってくれた。

「ごめんなさい」

 謝る歩に対し、小銭をぜんぶ拾うまで、そのおじいさんは、笑っていた。

「全部あるかい……キミが噂の、東京の子かな」

「はい……どんな噂なのか、知らないけれど、東京から来ました」

「爾村の姉が〝一人でスポーツバックを担いでいる小学生の女の子が、困っているのを見かけたら、手伝ってやってください。すごく良い子です〟と言っていたよ」

 歩は、巴の顔を思い描く。

 おじいさんは、

「ここの一階で本の貸し出しをやっている。ここから続く廊下の先だよ。二階には個室がいくつかあって、イベントが……そっちはもう終わったが」そう言って天井を見上げる。

 歩も見上げた。

 入り口から緩い螺旋の描く階段。

 

 おじいさんは言う。

「何かやっとるはずだ。アイツらから音楽を取ると何もないからな。有名になったし大人にもなったが……ワシには華やかで賑やか過ぎる。こっちでじゅうぶんだ」

 おじいさんは廊下の奥を見る。歩もそちらを見つめた。

「廊下に少しだけ絵を飾っていてな……ワシは静かな時間、こじんまりとした世界を楽しむ性分なんだよ」

 

 廊下の横にプラカードが下がっていて、そこには〝作家の世界はこちらから〟と書かれていた。床に赤い絨毯が敷かれ、左にガラス越しで中庭が見えた。

 

 図書館は静かな音楽が流れている。館内のスピーカーと、二階から少しだけ音が聞こえた。


――きっとY・Aがいる。でも、絵もみてみたい。どうしよう?

 歩はおじいさんに尋ねた。


「私、どっちに行けばいいのか、わかんなくって困ってます。助けてください」

 するとおじいさんはにっこり笑って、

「両方に行くと良い。でも閉館は五時半だ。あと一時間ぐらいあるから……良ければ、お名前を教えてくれるかい?」と受付まで歩を招く。


 歩はおじいさんから受け取った、来館名簿の紙に名前の記入を済ませ、階段と廊下の間を行ったり来たりしていた。


 ◇

 歩はまず、廊下の絵画を見てから上に行くと決めて、その思いをおじいさんに言った。

「私、村に来て一番、頭をつかって決めました。いってきます」

「面白い子だ。こんな場所でも楽しんでくれれば、ワシも嬉しい」と男の人は笑って返した。


 歩は廊下に向かう。照明は無いものの、ガラス越しに入る光、曇り空から垣間見る太陽だけでじゅうぶんだった。

 

 ◇

 絵画は廊下、入って右側に飾られていた。

 まず繊細な鉛筆画が四枚――そこで歩の耳から音楽が聞こえなくなる。二階の演奏はもう届かす、館内のスピーカーのボリュームも絞られてるのを感じながら一歩、歩く。


 額の中には久世村の風景がくりぬかれたように描かれていた。

 これは駅の近く。小さな花畑のスケッチかな、と一歩。

 これは人の字川だ、知らない鳥がいる、何て言う鳥かな、と二歩。

 こっちは見てない。山の中の小屋かな、こっちも知らない。家の軒先かなと心で呟き三歩、四歩。

――人が描かれてない。ラフスケッチなのか、なにか意図があるのかな――そう思った。

 

 がらっとかわりカラフルな絵が続く。花、木、鳥、川魚や虫、家、図書館、川、山。

 先ほどの鉛筆画を新たに描きなおしたものからはじまり、生物、無機物が引き立てる絵。

 歩は先ほどより少し早く、歩いて行く。


 足を止めたのは雪に埋もれた爾村酒店の絵。しかし、そこに住んで、働いているはずの巴、恵の姿が絵の中にない、と息をつく。

 アキ、ハル、マサ、ユウにマナ、アスカ。みんなが住んでいるはずなのに、額の中の久世村には、誰もいないと歩は気を落とした。


――確かに絵は写真のよりも活き活きとしていて、草一本にさえ魂がこめられ、風がふけば揺れそう。でも人のいない風景ばかりで、

ちょっとさびしい。もしかして、この世界に人はいない、そう伝えてるのかな?


 そこまで考えると、もしかして私も、と、歩は頭を振って気持ちを整える。


 今度は抽象画のようなものが増えていく。

 それまでタイトルのなかった絵に、タイトルがふってある。そして鉛筆画、油絵、水彩画、コンピューター・グラフィックで描かれたものが飾られていた。

 

 絵をながめるにつれて、どんどん歩は苦しくなって、大きく息をはき、吸い込む。


――こんな絵、今まで見たいなんて思いもしなかった。でも、じっくり見ちゃ、ダメ。きっと、倒れちゃう。ゆっくり見よう。


 その絵は三角形がいくつもかさなり、ひとつの形をつくっていた。タイトルは『久世村』とある。

 歩は、それが三角測量法に基づいて描かれたものかな、と考える。


――きっとすべての線の長さは定規ではかっても、誤差がないんだ。確かに久世村というタイトルにぴったり。きっと私でも描けるけど、計算してプログラミングしなきゃ。

 

 それから歩は、おもわず息をすることを忘れてしまうような、抽象的かつ正確な村の絵が続くのを覚悟して、深呼吸をする。

 と、声を掛けられ振り返る。

 受付にいた、おじいさんだった。

「工藤歩ちゃん。そこから先は本の部屋だ。今は学芸員だけだが、気をつけなさい」

「えっ、あれ?」と、歩は辺りを見渡す。廊下の終わりにある大広間の入り口に気づく。

 廊下に振り返り、おじいさんに尋ねる。

「もう終わりですか? 他に絵は?」

「これだけだよ。後ろから見とったが、キミは孫より危なっかしい。しばらくワシが一緒にいて良いかな?」

「はい……おじいさんが好きな理由、わかりました。私が見てきた久世村、見たこともない久世村、でも実際にいる久世村……この三つがここの廊下にあるんです。前半は〝きみの見てる村は、この村で合ってる?〟って問いかけて思いました。でも後半から〝だったらこんな見方もあるよ〟って言ってるみたい」


 するとおじいさんは「人の字川にいるカワセミの絵。青とオレンジの色をあえて省いて、緑の濃淡だけでそのたたずまいを表現してる作品が、ワシのお気に入りだが」

「おじいさん、セミの絵なんてありませんでしたよ?」

「カワセミと言う名前の鳥なんだ。川や湖の近くにいる、可愛い鳥だ…… その鳥のスケッチも水彩画も、シンプルで好きなんだ。だが反して白と黒が逆さに描かれたような『冬の田園』も面白い。単に反転してるだけじゃない。目が痛くなりそうな、その刺激がまた……ワシは、一体どれが作者に見えている風景なんだろう、どんな楽しさを表現したんだと思って観る。調べても他人の解釈を聞いても駄目で、やがて自分で描きたい衝動に駆られる。ここの作品ぐらいワシでも描けるだろうと……おかしな感想だが?」

 歩は手を上げて、

「大丈夫です。感じたこと、そのまま心を言葉にして良いこともあります。この廊下がその証拠です。だれかがこの配置をいじると、いまの私の感情、崩れちゃいます。私、全部を見たついさっき、〝これが私の感性だよ〟って、堂々と言われて、私だって感性はある。あれ? でもどうしよう――ってなってました。おじいさんが話してくれなかったら、きっと気づかないまま読書してました。絶妙な長さです。音楽、あえて流してないんですね? もし大好きなドビュッシーが流れていたら、絵の世界から私は、抜け出せません。もっとたくさん飾って美術館にすると、きっとみんな好きになって、私みたいな危なっかしい子で満員です」


 おじいさんは笑顔で「そうかな。キミやワシが暇で、年寄りなだけではないかな?」と歩に尋ねる。


「はい。でも、私のお父さんが言ってました〝歩、まず鑑賞者の意識を統一させること、感情を共感させることを考えなさい〟って。そう思って思い返すと、ここの作品はそこまでとどきそうでとどいてない。でもなんだか、モヤモヤして胸が収まらない。もう一度見て……ううん。今度は、最後から見ていきたいです。閉館まで三十回は往復できるはず。明日も時間はたくさんあるから、楽しみながら感想を考えたいです」

「二階は行かないのかい? アイツら、あれでも忙しい。明日はわからないよ」 

 

 行きたいけれど、CDで我慢――そう言って、歩とおじいさんは三往復をこなした。


 

 ◇

 五回目の折り返し。

「この作者はなにも選ばないな」とおじいさん。「もし目に映るのが都会のビル群でも、大自然でも描く。道具が鉛筆だろうがクレヨンだろうが描く。パソコンがあればそれで描く。投げ出さず最後まで描いて、評価や出来栄えまで人任せ……ずぼらな、素人の気質だ」

 

 おじいさんは、この絵の鳥がカワセミで、もっと色彩が豊かなこと。

 てんとう虫の絵の背景、桜の花びらに混じって紫苑花がある、ちがう季節が交差しているなどなど、歩の知らない事や気づかなかったことをいろいろ教えた。

 そしておじいさんは、

「ここに絵を置いたのはワシなんだ。こんな風に普通の美術館なら笑われてしまうこと、当たり前の知識を平気で言える気楽さとか、人がいない空間の面白さを作ってみた。絵の作者も絵も、そう望んでいると思ったからな。ひねくれ者の道楽、とも言うがね」と言って笑う。


 そんなおじいさんに、歩は嬉々として多くを尋ねた。


 ◇

 六回目の始め。歩は挙手して、

「おじいさん、ほんとうにここの絵が好きなんですね。美術館はよくいきますか? 自分では描かないんですか?」と尋ねた。

「美術館にはなるべく行かない。素晴らしいものは、心臓に悪い。一度だけ海外で本物のモナ・リザを観たが、さっきのキミのように息が止まってしまった。感想なんて、素晴らしいもの、としか言えないな……創作活動はつらいから辞めた。たぶん、この廊下が最後の作品だ。だから喜んでくれたキミと出会えて、嬉しいんだ」

「良ければお名前を教えてください」

「ん、言ってなかったか……四つの音と書いて四音よつね。ここの絵を描いた夏原は同じ大学の後輩でな、自慢も兼ねて置かせてもらっている」

「えっ……夏原……画家の夏原……」と歩はつぶやいてから、「おじいさん、アキ、ハル、マサの三人を知っていますか? アキたちの同級生、フウちゃんを覚えてますか? きっとこの絵の作者と関係があるはずです」と尋ねた。

 おじいさん――四音は頷く。

「もちろんだとも。アキのお兄さんはここで働いている。夏原ミチルちゃんはこの絵の作者の娘だ。そのあだ名も、ミチルちゃんがとても嫌っていたから覚えている……あの子が、キミと同じぐらいの年ごろにとても嫌な事があった。だがアキたちには、黙っていてくれないか?」

「はい」と歩は頷いてから、「私、Y・AのCDを持ってます。もしかして、おじいさんは関係者ですか?」と尋ねた。


「歩ちゃん、世の中には知らないほうが良いことがある。うっかり声にしただけで、生きることが辛くなるかもしれない。大人が隠すのはそんな理由もある」

 その返事を聞いて、歩は廊下に飾られた絵と四音、天井――きょろきょろ視線を移していた。

 

 ◇

 声が響いた。

 四音の声でも歩の声でもない、館内のスピーカーからとても大きく、かつ、歩に聴き慣れた声が流れる。


「ご来館の皆さん、大っ変、お騒がせします。これから二階イベントホールより、館内の音響設備の確認作業を行います。一曲だけ、即興の演奏をします。チェック、ギター」

 

 歩は、唾を飲み込む。

――トモちゃんさんの声だ。

 その思いを口にする前に、ギュン、という音から、単調なフレーズが繰り返し流れる。

――紫苑さんの、音だ。

 

「ネクストチェック、ドラムス」

 ドド、ドン、ドラランと音が鳴り、ギターのリズムにするりと入り込む。

――コウさんの叩き方。なら、もしかして。


「ネクストチェック、ベース&キーボード」

 ギターとドラムだけの音に、ビィン、と音が混ざる。

 やがて音がゴウン、ゴウンと、地響きのように広まりいく。


――トシさんの硬いピッキング、トウヤさんのミキシングだ。こんなバラバラで、即興なんて嘘だ。できっこない。


「ラストチェック、ボーカル」と、巴の声で音がぴたりと止まり、静まった。


「Decide to……What is hot and What is not」

 その声は巴のものでは無かった。四音より若くて、落ち着きと情熱を備えた、男の声。

「Let’sGO」

 

 シンバルが三回鳴り、突然、たくさんの音の波が歩の耳、体、世界を覆う――


「十年前」と、四音は言った。「閉館時間が近づくと毎日がこれだった。爾村の姉、しっかり者になったと思っていたが、変わらないな。もっとまともな言い訳をしないと、ワシらまで怒られてしまうが……」

 四音は、口元を緩ませ、腕を組んで天井を見ていた。

 しばらく二人は流れる曲を聴いていた。


 ◇

 曲は三分弱のロックだった。

 アウトロでハウリングが鳴る中、

「I wish all songs for you life」

 と聞こえて、ぷつりと止まった。


 歩が、余韻と感想、そして二階に行かなかった後悔で黙っていると四音は言った。

「アイツらの曲は全部集めたが、この曲は初めてだ。孝志も今日、帰ってきたばかりなのに」

「四音おじいさん、作曲と練習と本番は、ぜんぜんちがいます。合同練習の初日でここまでの音なんて出せません。何年も考えて、話し合い、練習したはず。音響だってセッティングに時間がかかるはずだし、詞だって適当な詞じゃないです」

 四音は首を横に振り、考えたり練習なんて、と続ける。

「小学生のころから挨拶代わりにセッションしてきたような連中だ。メンバーが揃えばいつでもどこでも曲作りをはじめる。一人なら考えて、聴いて、弾き、歌う。反省し、腕を磨き、新しい曲の案を練る。再会したときすぐ音にできるようにする……それがアイツらの練習だよ。もっとも、アイツらは練習だと思ってない……ワシには真似できないことだが、紫苑に言わせるとあまり特別でも重要でもないらしい。問題はこれから。完成させるまで魂を削るような日々……せっかく孫がいるのに、まだまだ不安だ」

「私、わかりました。四音おじいさんは、紫苑さんのお父さんですね?」

 四音は首を横に振る。


「ワシの孫は紫苑の子もいるが、ワシと紫苑は親子ではないよ。ワシの娘は一人だけだ。その娘は他所にいる」

 歩は首をかしげる。

 四音は、親子も芸術も答えは無い、と言った。

「娘がアイツらに混じっていたころ、曲を完成させるためとても悩んで苦しんだ。たとえ完成しても、とりつかれたように次々と……そのせいかな、アイツらの曲はすべて、早く楽になりたい、そう言ってるように思える」


 歩はすこし、ムッとして「四音おじいさん、私は少しちがう意見です。これから二階へいって確かめてきます」と廊下を引き返し、階段へ歩いていった。


 四音も後ろを追った。

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