第10話
◇
「――うおうっ!」
学生服の集団を引き連れたハルは、爾村酒店の店先で声を上げた。
地面に、数字と記号がびっしりと書かれていたから――こんなイタズラをしたら、恵はおろか巴だってようしゃなくゲンコツをふる。そうとう度胸がなければできない。アキでもマサでもやらないはず。一体――
ハルが見やると、店前の庇の下にあるベンチに巴は苦いものをかんだような表情で座っていた。
巴はゆっくりハルたちの方を向き、呟く。
「ハル、ユウ、アスカ、マナ……どうしよう」
立ち上がって、巴は助けを求めるようにハルたちに近づき、言った。
「あの子、私の手にはおえない……わかる? これ?」
ハルが足元をみると、やはりわけのわからない数字と記号が書かれていた。
「ぜんぶあの子が書いたんだけど……計算式らしいけど……なんとかを応用して、絵の位置を割り出すとか」
「ごめん、意味不明すぎて……ゆっくり説明してくれる?」とハル。
「わからない、私にはもう」と巴。
「あ、俺、わかるかも」とハルの後ろから一人の男子が声を上げ、身を乗り出した。
「やあ。キミが噂の子? 俺、ユウ。中学三年」
その男子――ユウは、ハル達の間を通り抜け歩に声を掛ける。
歩は顔を上げて手を止めた。
「はじめまして。私、工藤歩です。小学四年生」
「最小二乗法か。小学生なのに……何の問題?」
歩は村の地図をユウに手渡し「トモちゃんさんからお借りしました」と地面に書いた数式を見つめて言った。
「対象物を人の字川分岐点に絞ってるけど、山が連なっているから、どうしてもカメラの位置がふえてしまって……」
「キミ、写真測量をやってるの?」
「はい」
ユウは興味深そうに、いま歩がとりくんでいる計算式に目をやった。
「まいったな、我流だよ……」
そしてユウは、指を指し、歩に見るよう促した。その地面に書かれた式にはそれぞれに×印と○印の式があった。その○印がついた式のひとつと、いま歩の書いている計算式を比較しよう、と。
「こっちが証明式だろ? まずこの○印のついた式に取り組まないか? 一度にぜんぶを証明するのはキツイよ」
「同時にやるとだめですか?」
「いや、ダメじゃないけど精度が下がるから……あとなんでカメラの座標がこんなにばらついてるのかな? そもそも写真は? 人の字川はXのままだし、縮尺の数値もばらばら。やっぱり正確な測量にはならないだろ?」
ユウがそう言うと、歩はまた地面にがりがりとチョーク石で書きはじめた。
「対象物の座標は、だいたいでいいんです。一枚の絵の、位置を探したいから」
「え……もしかして逆探知の証明? 角度も距離もわからない出発点を割り出すため? 現場も見ないまま、しかも写真じゃなくて手書きの絵の?」
「はい。昨日と今日、お散歩した区画と、地図を借りて場所を照合しようかなって……あ、絵は正確と仮定したまま。でも候補が三ケタをこえて、ちょっと大変」
二人の会話を巴やハルたちは黙って聞くしかなかった。
意味がわからないから。
ユウは鞄から電卓、ペン、ノートをとりだし、地面に置き、しゃがんで歩に話しかけた。
「俺で良ければ手伝うけど……足をひっぱるかも」
「ありがとう。じゃあ、八十番の証明をしてください」
ユウは見渡して八十番をみつけると、歩のとなりに座って、電卓を打ちながらノートにエンピツで書き出した。
「へえ……けっこう、おもろー」
「〝おもろー〟って、どういう意味ですか?」
「おもしろいってこと」
にこっと笑いあったユウと歩。それから二人は、もくもくと計算をはじめた。
◇
ハルが引き連れてきた、女生徒二人はひそひそと話している。
「すごいなぁ……こんなのぜんぜんわからない」
「それより、あの子のほうがへんじゃない?」
ハルはそんな彼女らの背中を押して、店のなかに入った。そして二人に打ち明けた。
「――で、トモちゃんのオゴリじゃなくて、実はぜんぶ、あの子のオゴリ。だからイジメんな」
すると一人の女子生徒がそれに反発する。
「べつにイジメてない。ただ、ちょっとおかしいって思っただけじゃんか」
「思っても口にだすな、そういうことを」
「はあ? ハル、ケンカ売ってんの?」
にらみ合う二人の間に巴が割り込んだ。ぐったりと疲れきったように力なく二人の肩に両手をおき、間をつくる。
「やめなさい。もしここで恵に聞こえたら……ただでさえ、こんがらがってるのに……とりあえずジュースでも飲んで、休もう。三十分だけ、私、マジで寝る」
店にある古いハト時計は十一時を過ぎていた。
◇
午後になって、ますます村の気温はあがっていく。盆地の久世村はサウナのように蒸し暑くなった。
巴はほぼ三十分経ってから店にもどり、まず外で書き物している歩とユウに声を掛けた。
「そろそろ休憩しなさい。これは命令」
その声で歩とユウは、ようやく腰をあげ、店の中にはいってきた。
「アユちゃん、てきとうな数値だけで逆探するとカメラ位置がむちゃくちゃ多くなるのは当然だから。計算より聞き込みとか現場に行って確認するほうが手っ取り早いよ」
「でも、ユウさんのおかげで十ヶ所まで絞りこめました。ありがとうございます」
歩が頭をさげると、ユウは手を上げてこたえた。そしてハルたちが集まっている休憩場所――店内で飲み食いが許されている座敷――の畳に、たおれるように寝転ぶ。
歩は巴にトイレの場所をたずねていた。
「ユウ、なんだったの、あれ」
さきほどハルとケンカしていた女子生徒がたずねる。彼女が持っていたラムネをうばいとってユウは一気に飲み干した。
「あ、こら!」
「ハンパじゃないな、あの子は……俺とは頭のできがちがう」
女子生徒は顔を赤くして、ふりあげたこぶしをゆっくりとおろした。ユウは一仕事を終えて気持ち良さそうに扇風機の風を浴びた。
「あの子がやってたのは絵からの測量。しかも、逆探っていう最初に観測した場所を導き出す計算をして、さらにそれが正しいか証明までしてた……普通なら、やる前から無理だって思うけど、あの子の数式見てたら、クイズに思えて……解けそうで解けない感じでわくわくした。で、挑戦したけど惨敗だった」
「ユウは去年の全国模試で――」
「学力は関係無い」と言ってユウは続ける「俺の家は小さな土建屋だけど、大卒が中卒に習う光景なんてよくある。もちろんその逆も。現場と机上は違うベクトルなんだよ。あの子は現場。マイペースって言うか、独創的でほおっておいても一人で何でもこなす。でも真似や共同作業するなら、こっちの経験をゼロにしないと着いて行けないタイプ……この前の成績が良くって、親父の使ってた電卓を貰ったんだ。その電卓はふつうのとはちがう関数電卓ってやつで、いじってるだけで面白かったんだけど……俺はそれをつかって、やっと答えがだせるのに、あの子は……ほんと、日本は広いなぁ」
すると巴が店前から、これ消していいの、と声を張り上げた。
「はーい。ノートに写したんで――って俺がやらんとダメか」
背伸びをしてから、ユウはまた店から出ていった。
◇
「暑いからだ。そうじゃないとユウがあんな子に負けるもんか」
さっきからユウにこだわっている女子生徒――マナが呟く。
「ユウが一番賢いもん。なんならテストでもしてみろって、ねえ?」
そう彼女が話しかける相手は、メガネをかけた女の子――アスカはアイスを食べながら本を読んでいた。
「ちょっと聞いてる?」とマナが声を強くして尋ねる。
「うん。ユウくんとマナちゃんは仲がいいもんね」
マナはアスカのほっぺたをつまんでひっぱった。
「このうそつき! 話がかみあってない!」
「ごめんなさい~ゆるして~」
ハルとマサはその風景の片隅で、マサから話を聞いた。
フウちゃんとアキについて――。
◇
ハルはフウちゃんについて考えた――しかし、ハルはただの泣き虫な女の子としか覚えていなかった。
「なあ、ちょっといい?」
「なに?」
アスカのほっぺから手をはなし、マナはハルをにらんだ。
「二人は、フウちゃんを覚えてる?」
マナとアスカはおたがいに見合って、くすくすと笑い出す。
「そりゃあ覚えてるよ。あんたら四人で〝春夏秋冬〟だもんね、アスカ?」
「なんのことだよ」とハル。
するとアスカが説明をした。
「清治くんは春でしょう。明正くんは秋、正行くんは雪で冬じゃない。ほら、季節がそろってる。私たちはそう呼んでたよ。知らなかった?」
言われてみれば――しかし、ハルの疑問が声になる。
「なら、フウちゃんはどこが夏にひっかかるの?」
「えーっとね……あれ? んーと」
アスカは目を閉じて考えた。
マナも頭をかいて、もやもやした記憶を引っ張り出そうとしているようだった。
「春夏秋冬のはずだけど……苗字だったかな、どこかに夏があったよ」
アスカの答えにするどくハルがつっこんだ。
「それならフウちゃんより〝ナッちゃん〟にならない?」
「それもそうだね……ねぇ、そもそもフウちゃんってどこに転校したんだっけ?」
アスカはマナにたずねる。
「それ以外に、いなくなることってある?」
アスカはさらに質問した。
「それなら転校先に手紙出したりしたはずだよ? でも、いちばん家のちかい私だって、転校先も電話番号も教えてもらえなかったんだよ? おばあちゃんがマナちゃんに聞けっていうから」
「ええっ、私、てっきりアスカに聞けばわかると思ってた! じいちゃんがアスカなら知ってるっていうから」
なんだか妙なことになってきた――とハルは鞄からノートを取り出し、書きはじめた。
「整理しようか。まず、俺とマサ、アキとフウちゃんで春夏秋冬コンビだった」
ハル、フウ、アキ、マサと書いてそれぞれの下に春夏秋冬をわりふった。
「ちがうよ。四人ならカルテット」
うしろから歩が指摘して、全員がハルを見る。すると顔を赤くして書き直した。
「えーっと、春夏秋冬カルテットはあった。まちがいないな。四年前、遠足に行った。俺は覚えてるし、マサも覚えてる。アキは覚えてないけど……マナちゃんはどう?」
マナは首を横にふった。
「覚えてないか。アスカちゃんは?」
「うん。フウちゃん、お母さんがいなかったの。遠足とか運動会のとき、よく私がお弁当つくってあげたの。でも……寝坊して、オニギリだけしか作れない日があったの。それがたぶん、その遠足の日だとおもう」
覚えているのはハル、マサ、アスカ。
覚えていないのがアキとマナ。
ハルはノートに書き、○で囲んで二つのグループにわける。
「で、ここから。フウちゃんはいつ村を出た? 俺は三年前だったとおもう。でも、どうやら間違いっぽい」
「いや? 三年前であってる」
「ううん。四年前の夏だって」
「トモちゃんに聞いたら?」
みんなが一度に喋るので、ハルの筆が止まった。
「私が書くよ」
歩がそのペンをとって、かわりに書きはじめた。
○ハルの記憶
フウちゃんを覚えている。四年前、遠足に行った。
彼女が転校したのは三年前とおもっている。
○マサの記憶
フウちゃんを覚えている。四年前、遠足に行った。
彼女が転校した時期をわすれた。
○マナちゃんの記憶
フウちゃんを覚えている。四年前の遠足はしらない。
彼女が転校したのは四年前の夏とおもっている。
○アスカちゃんの記憶
フウちゃんを覚えている。四年前の遠足をしっている。
彼女が転校したことを正確に覚えていない。
○ユウさんの記憶
フウちゃんを覚えていない。四年前の遠足をしっている(フウちゃんについては否定)
誰かが転校したのは四年前の夏(フウちゃんではないと言い切った)
○アキの記憶
フウちゃんを覚えている(フウちゃんではない?)四年前の遠足を覚えていない。
彼女の転校については不明。
「これで、どう?」
歩が意見をもとめると、みんなはいっせいに、うーんと唸った。
「――ってかアンタ、なんでユウの記憶を知ってんのさ」
マナがイラついたように聞くと、歩はけろっと答えた。
「計算しながらお話したから。そのとき、ちょっと気になったから質問したの」
「で、なんで〝さん〟づけなの?」
「中学生だもん」
私も中学生だ――とマナがこぶしをふりあげようとしたそのとき、ユウがみんなの輪に入ってきた。
こぶしをかくすように、マナは机を叩いた。
「こんなこと考えたって解決しないって、無理、無理!」
そう言い捨てて、マナは店内の駄菓子をあれこれとかき集めていった。
ユウはノートに書かれたみんなの記憶をながめていた。
「ユウくんは覚えてないんだね。フウちゃんのこと」
アスカがさびしそうに言った。
「なんか、かわいそう。いっしょにいたときは、同じ学校に通ってたのにな」
「それだけど……俺が知ってる下級生で、転校したやつは二人だけだぞ。その一人はアキ。帰ってきたけどな」
みんながユウをみた。
マナが駄菓子を両手に抱えながら振り返り、たずねる。
「もう一人は、女の子だよね?」
「もちろん。一時期、俺らの同級生、上級生とか大勢が一気に転校しただろ。その中にいたとおもう」
「ユウくんの言う女の子――」とハルがたずねる「俺たちの同級生で合ってる?」
「ああ。おまえら馬鹿みたいに走り回ってて、その後ろを自転車でずっと追いかけてたよ。大人しくってさ、俺、あんまり喋ってないから忘れたんだろうな。ただ俺、その子に相談されたよ――アキにどう告白しようって。でもどう答えたか、忘れた」
するとマサが頭をがりがりと、かきむしりだした。
「ああ、もやもやする! つまり、フウちゃんがその子で、ええっと」
「何度も言うけど……フウちゃん、って子を俺は知らない。ただ、おまえらが四人で遊んでたのは覚えてる。その子のあだ名じゃないか」
「じゃあ、夏の入った名前、苗字はおぼえてませんか?」
歩の質問に、ああ、と言ってユウは独り言のように呟きはじめた。
「夏見、夏川、夏村……ちがうな、ええっと……夏目そうせ……そういやハル、美月先生の弟さん、ここに来る前、会ったろ? あの人が巴さんと葬儀の話がしたいって」
「ユウくん、俺らマジなんだ。知らないなら知らないでいい。ボケたいなら黙ってて」
ハルがつっこむと、くすっと笑いがおきた。
ユウはハルをにらんで言った。
「俺だってマジだよ。そもそも
歩をのぞいた子供たちが、同時に「あ」と言った。
両手に抱えた駄菓子をぼとぼと落として、マナが感激したように声を上げる。
「夏原……夏原ミチルちゃん! 思い出した、思い出した! さすがユウ!」
走ってマナはユウの背中に抱きつく。ユウはよろめきながら「そ、そりゃあ上級生だから」としどろもどろに言った。
アスカとハルもすっきりしたように笑い、夏原ミチルについて話をもりあげた。
「そうそう、夏原! 西久世のはずれにでっかい家があった! 白木屋敷とどっちがでかいのかって話をさ――」とハル。
「今も残ってるよね? 私、いちばん家がちかいけど、お父さんがこわい人だったから、一度も行ったことがなかったの! 画家さんだったって聞いたけど――」
「でも本人は音楽が好きで、よく歌ったり、先生にピアノを習ったり――」
「そうそう! 指がすっごく長くてきれいで、先生から『転ぶときは頭から転びなさい』って! で本当におでこをすりむいてて――」
どっと笑い声が起きる。それぞれが、夏原ミチルについてのエピソードを語って、笑った。
「……でもなんで、フウちゃんになったんだろ?」
マサがぽつりと呟く。
と、一気にその場が静まった。マナがマサのお腹をたたく。
ぱちんと音がするものの、マサは何事もないようにしている。
「なにすんの、マナちゃん」
「空気よめ、この筋肉デブ」
マサがみんなの視線を感じ、ごめんと言った。
「夏原ミチルがどうしてフウちゃんになったか、か……これは、もう」
ユウは、お手上げ、といった感じで両手を広げた。
すると歩はまっすぐ手を上げる。
はい、とユウは指差す。
「夏原ミチルちゃんが、春夏秋冬カルテットでいいのでしょうか?」
「それは確かだろ。なあ?」
みんながうなずく。
「では、フウちゃんイコール夏原ミチル、となります。すると、とても大きな問題がでてきます」
「なんでフウちゃんなのか、ってことだろ?」とユウ。
「ちがいます。それは――到着点までの、点の一つにするべきです」
ユウが真剣なまなざしでアユを見つめた。
アユはノートを見つめ、たんたんと喋りだした。
「出発点は、フウちゃんはいつ、どうして転校したのか。点1は、なぜ夏原ミチルがフウちゃんと呼ばれていたのか。点2は、どうしてアキはそれを否定したのか。点3は、アキはどこへ行ったのかの答えになるはず。それが四年前の記憶――ユウさん。まずどこが到着点ですか?」
その発言にしばらく呆然として、ユウはとまどいつつ答える。
「あ、ああ――逆トラバースの応用で考えろってこと?」
やがて、ごくりと、ユウはつばを飲み込み、頭をふって答えた。
「ごめん。俺の仮説は、そうとうエグイから……」
「〝エグイ〟ってなんですか?」
「気持ちが悪いってこと。これは……もっと
「……それならもう、わからないね」
くすっとほほえみ、歩は駄菓子のならべてあるところにかけあしで向かった。
◇
ユウは畳に座って天井を見上げた。
マナは、ユウのとなりに座って、駄菓子を漁りながら夏原ミチルにつて喋る三人と、鼻歌を口ずさむ歩に聞こえないよう、そっと声をかける。
「ねえ、あの子はぜんぶ知ってるんじゃない?」
「さあな……でも答えを知ってて問題を出すような意地の悪い子には見えない。あの子はほんと、とんでもなく頭の良い子だよ」
「なんで?」
「俺、真相まで良い感じに迫った。けど言いたくなかった。だから閉合トラバースにしたいって、意地悪く言ったんだ。ならあの子、『だったらわからない』と、あっさりと降参しただろ。俺の気持ちをわかってくれたんだろうな。俺の予想が、あまり大きな声でいえないから」
「何、その、閉合なんとかって」
「閉合トラバース。出発点からのびた線が、いくつかの点を通って到着点にたどり着いたとき、そこが出発点といっしょのところにあって、閉じた多角形になる場合の測量法。この閉合トラバーは点と点との距離が大事だけど、けっこう修正がきく。点の位置さえ正確なら何度でも計算して正確な答えを導き出せるってメリットがある」
マナの膝に頭をあずけ、ユウは横になった。
びっくりしたマナは、それでも嫌がるそぶりをせず、ユウから目をそらした。ユウは目をとじてぶつぶつ呟く。
「でも、あの子の言う、点の位置は俺たちの記憶だろう。あの子はつまり、俺らの記憶がどれぐらい正しいかって問いかけた。少ないけどいろんな人が住む村で、記憶っていう点で結んだとき、きっとわかるはずの、本当の過去……それを思い出す方法を教えてくれた……部外者の子には計算できない、これは俺らの問題だって教えてくれた」
「全然わかんないんだけど……」
「だったら聞けば? きっとマナの好きな……漫画とかアニメで例えて、ていねいに教えてくれるはずだよ……でもちょっと、強引でやりすぎ……そういう子だよ」
そしてユウは大きなアクビをし、ちょっと寝かせてと言って、すぐ寝息をかきはじめた。
◇
「こうやって線がひと囲みの図形になるんです。だから閉合といいます。その線がずれて、ふたの開いたような図形になると、開放になります。これらの位置をもとめるのが多角測量、もしくはトラバース測量といいます」
座敷ではユウとマナがぐっすりと眠っている。
ハルとマサ、アスカと歩の四人はレジの置いてあるせまいカウンターを占拠して、小声で話していた。
「出発点をふたつ作って高さまでもとめるのが、結合トラバースです。そしてこれは、基本とした久世村の地図から結合でもとめた、ある場所を、さらに逆トラバースという最初の観測位置を導き出す応用問題です。ユウさんに証明してもらった八十番例題からつくりました。やってみてください――あ、数学とちがって、X座標は北、Y座標は南をしめしていることに注意して」
歩のノートに書かれた図と計算式をみて、教えられたとおり筆をはしらせるものの、アスカは首をふって降参した。
ハルは、説明を聞くフリをして、ガム風船をどこまで膨らませられるか挑戦していた。
マサはただ、うまい棒を食べ続けていた。
「やっぱり、私にはむずかしいよ。もう頭から湯気がでそう」
「それは大変です! もう休けいしましょう!」
いそいで歩はノートを閉じた。ノートの表紙には『歩からの挑戦状』と書かれている。
ユウのノートが捨ててあったので、それをぜんぶ書きかえて、歩がつくった問題集だった。歩はそれをユウたちが眠る机まで歩いていった。
「歩ちゃん、静かに、起こさないように」
アスカが小声でいうと歩はかすれるような声で「はい」と返事した。
唇に指をあて、そろーっとゆっくり歩は足をあげて歩く。
なるべく足音を立てないように、ゆっくり、ゆっくりと一歩ずつ机に向かった。
あと一歩というとき、精米を終えて店内にもどってきた爾村恵が、背後から声をかけた。
「なにしてるの。寝ている人にいたずらしたら、だめよ」
「シーッ、シーッ!」
歩は人差し指を立てて、言い続けた。
恵は、ははっと軽く笑う。
「シーッ、シーです! 恵ちゃんさん、シーッ!」
「言ってる間にやればいいのにさ。それに私たちの声より、外がうるさくない?」
数秒間、ぽかんとしてから、歩はさっとノートを机に置き、すたすたとレジまでもどってきた。
セミの声のほうが歩たちよりもはるかにうるさい。それでも起きないユウとマナを起こすのにはもっと大きな音が必要だ。恵はそれに気づかなかった歩をみて、笑って言った。
「キミ、一見しっかりしてるのに、どこかぬけてるね」
「よく言われます。マヌケとか世間しらずとか……アホとか病気とか」
恵は、歩の頭に手をおいて撫でまわした。
「最初は当たってるかも。でも病気って言われたら怒ってもいいんだよ。私だって怒っちゃうな」
「じゃあ、キレちまっていい?」
「それはだめ。絶対にだめです」
その言葉に、マサは大笑いした。
「説得力ないよ。恵ちゃんは――」
「何さ?」
「……何回もキレるのをがまんしてる、大人です」
よろしい、といってマサのお腹を軽くたたく。
「二年生はどうしたの? せっかくだから在庫処分しようと思ったのに。明日もセールするのかな。お姉ちゃんの貯金だって、店の資産なのに、言い出したら聞かないんだもん」
巴は先ほど恵に店を任して出かけて行った。
恵はその理由を聞かなかった。それよりもすがたのみえない村の子と、処分しようと用意した賞味期限の近い駄菓子のコーナーが心配だとこぼす。
すると、アスカが笑顔で答えた。
「二年生は午後から特別授業なんです。ほら、本久世の図書館でイベントをやってるでしょ? あれのゲストさんが来るから話を聞いて、感想文を書くって」
「ああ……紫苑さんが言ってたっけ。そっか、孝志兄ちゃんもそれで」
アスカの言葉に、歩が何度もはい、はいと大きく手を上げた。
はい、とアスカが指を指す。
「お母さんの個展ですか? 風景画ですか、鉛筆画? シオンさんってあのシオンさんで、タカシ兄ちゃんさんてあのタカシさんですか? それと図書館はどこ?」
とつぜんの質問攻めに、アスカはびっくりして、どれから答えようか迷ってしまった。
その場で何度もジャンプして、早く答えて、と歩が急かす。
「落ち着きなさい。昨日、紫苑さんがチラシを配って……これ」
恵はレジの下から、一枚の広告を歩にわたした。
みるみると歩の表情があかるくなる。
yourhand、myheart~この小さくて静かな世界で~
久世村図書館イベントホールにて
AM11:00~PM5:00
入場料無料
Y・A
チラシにはこの文面と図書館の場所だけのっていた。
「恵ちゃんさん、何時、いま何時ですか?」
「三時五分だけど? キミ、お母さんを探すんじゃなかった? これは――」
「はい! でも、レジ下からぼた餅です! 私、ここにいってきます!」
スポーツバッグをもって、歩は店から飛び出した。
外はすこしだけ、熱気がひいていたが、それでも蒸し風呂のようだった。
「傘もってるー? これから雨がふるかもよーっ?」
はーい、と返事がしたので、恵は安心して見送った。
ハル、マサ、アスカの三人はなんだろう? と顔を見合った。
「よくわかんないけど……」
恵は空を見上げて呟く。
「せっかくの空がちょっと、荒れそう……ほんとに、孝志兄ちゃんの馬鹿……」
黒っぽい色をした雲が、壁山の上からゆっくりと太陽に近づいていく。さきほどまでの熱気が、どんどん引いていった。
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