第9話
◇
「ごめんね、お休み中だったのに」
赤ちゃんを抱えた女性が、お菓子やジュースをどんどんリュックに詰めていく巴に言った。巴は笑顔で「いいえ。いつもお世話になってますし、ときどきこうでもしないと勿体ないですから」と言って「でもこれ以上は入らないので。また来てくださいね」
「ええ。ほら、ありがとうって」
女性は赤ちゃんの手をもってバイバイさせる。
巴は赤ちゃんにむかってバイバイっといってから、母親に言った。
「これから暑くなるから、気をつけてください。親子ともども健康が一番ですから。もちろんお爺さんも」
「ええ。ちゃんと冷房をきかした部屋に寝かすから……ありがとう、ね」
そう微笑んで親子は坂を下っていった。巴はその背中に一礼してから、空に向かって背伸びした。
「商品を売ることにはなれていたけれど、さしあげるのは慣れていない。なんだかお客さまに気をつかわせているようで戸惑った。でも、気持ちはさっぱりした!」
店前では壊れた自販機を恵が修理していた――と言っても外板を開け、以前、業者から借りたマニュアルを読み、機器の異常を探し、電源を抜いたり入れたり、ゴミを取るぐらい――しゃがんだままで、姉と顔を合わさず言葉も交わさなかった。
理由は多くあり、巴もそれに触れないようにしていた。
「お人良しの、お姉ちゃんでも戸惑うんだ。こっちは……別の意味でさっぱり!」と恵は自販機を蹴りつける。
「直せるわけないじゃん! 業者に頼まないと無理! 孝志兄ちゃんの馬鹿っ!」
恵はさらに今日の珍客――特に工藤歩について文句を言う。
「警察に連絡しないと駄目じゃんか! お姉ちゃん、どうかしてるんじゃない?」
巴の言い訳は――先ほどの親子にたずねたところ、西久世に別荘があるのでその親戚家族かもしれないという情報が聞けたので――まず家族に連絡してから。警察は最終手段にしよう、だった。
空には雲のかげもなく、青空が広がっている。その下でセミの鳴き声と恵の文句、巴の言い訳が交差していた。
◇
「トモちゃーん、恵ちゃーん」
坂の上からの声に、恵が視線を移し巴が振り返る。うまい棒を歩きながら食べるマサと、工藤歩が歩いてきた。
「あれ? アキはどうした?」
「それそれ。その話だけど、店に入って良い? 暑いし、しんどい」
歩きながらマサはこれまでのいきさつを、巴に話していく。
いよいよ日差しが照り始め、水うちした道が、からからに乾いていった。数えきれないほどのセミが鳴き、一呼吸もつかない。
恵は歩に一瞥をくれ「私、もう寝るから」と店内に入って行った。
巴は店内の、日光のとどかないレジまえで、マサと歩を招き入れ話を聞いた。
◇
「思い出なんてそんなもんだ。どうしようもないから思い出って言うの」
巴はレジで清算しながらつぶやいた。一台しかない扇風機を一人占めして座ったマサ。歩の姿は店内にはなく、外にいた。
「私でも、卒業アルバムを見るたびにはっとなるよ。この子は誰だ? ってね。大した人数でもないのに名前と顔が一致しないなんて、ざらだよ」
「たった四年まえなのに? トモちゃんほど年とって」
マサは言いかけて、途中でやめた。巴が針のような目つきで、そばに迫ってきていた。
「トモちゃんほど大人になってないから」
そう言いなおすと、よろしい、とマサの頭をぐしゃぐしゃと巴はなでまわした。
「アキの気持ちにもなってあげなよ。転校の繰り返し、どこが故郷かもわからない。物心ついてから久世を出て、あっちにいったり、こっちにいったり……病気療養なんて理由で久世に帰ってきた。でも多感な時期に情報が多ければ、誰だって頭の中、ごちゃごちゃになるじゃん。マサだってしっかりと覚えてないんでしょ?」
「フウちゃんって女の子と遊んだ記憶はあるけど……写真が一枚も無い。なんでかな? トモちゃんはどう? フウちゃんについて」
「出て行く人間が多いからね。四年前は……げ、紫苑にギター返したころだ。やっぱり手入れしておけば良かったな。安物でも生まれて初めて買った楽器……あれは、私たちが小学生、いや中学のときだったか。隣町の」
「いやいや、僕ら子供の話。僕らの同級生の話だって」
「ああ、うん。もちろん覚えてるよ。でも、フウちゃんなんて子はいなかった。それは確かだよ」
「どういうこと? なんか怖いけど……」
巴は「思い出より、私には見て触れる現実が怖いよ」と言い、店の外に出ていった。
暑いから避難しなさい。そう巴が声を上げる。
すると歩は店前でゆっくり体を一回転させた。両手の親指と人差し指で窓を作り、それをのぞきながら店前をすこし移動しては回り、ときには手の高さを変えては回る。
「こんな田舎で路上パフォーマンス? ダンスにしてはキレが無いね」
巴がたずねると、マサが後ろからあきれたように答えた。
「アングルを探してるとかなんとか」
「写真でも撮るの?」
「だから、あの絵がどこの風景か、ああやって探してるらしいよ」
「よくわからないけれど……図書館は行かないの? アキのお兄さん、きっといるから。連絡しないと」
巴がそう言っても、マサは返事もしないし、扇風機のまえから動こうとしなかった。
「この、ぐうたら。あさってに走って行ったアキの方が健康体だよ」
◇
巴は踊るように回っている歩に近づいて、肩をたたいた。
歩は巴を見上げると、店の裏にそびえたつ山を指差した。
「トモちゃんさん、あの山は駅から見えた山ですか?」
「そうだよ。村を囲んでるのは全部、
「でも、ここは東久世ですよね? 駅の北口からみえた同じ壁山の部分が、どうして東久世にあるんですか?」
「お。するどいツッコミだ。推理ごっこでもやる?」
「推理じゃなく、お勉強です。ごっこでもありません。私、真剣ですから」
「よーし。じゃあ私が先生、歩ちゃんが生徒。久世村の地理について教えましょう」と、巴は膝を折ってかがんだ。石を拾って、地面にがりっと、大きく白い丸を書いた。
◇
「いいかな? 久世村では集落の名前と、東西南北が一致していないの。東久世は村の南にある……こう書いたらわかるかな?」
巴は『北が上、南が下』と石で地面に書く。そして丸の中に上下を分ける線をいれ『上には西久世、下に東久世』と書き、『駅から北にまっすぐ行くと東久世に入る。さらに行くと西久世にでて、さらにいくと村から出てしまう』と、横に書いた。
「で、本久世はここから全部なんだ」
円の左に縦線を書き、本久世と書いた。
「つまり本久世――南久世は、村の西にあるわけだ。ややこしいでしょ。わかる?」
頭をかきながら、歩は答える。
「この、トモちゃんさん先生の書いた線がそのまま、川なんですね。駅の周辺は東久世になってて、壁山に近づくと西久世になる……このお店は東久世のいちばん北にある、これで正解ですか?」
「正解。賢いね」と言って巴は親指をたてる。
「この線が〝
「めんどうなこと? 気になります。ヒントをください」
巴はまた、がりがりと書きはじめた。
「ほら、〝人〟って文字は〝ノ〟が一画目でしょ? 大昔に〝書きはじめがよそにあるのはけしからん〟っていう村人がいたわけ。でも見ようによってはどこからでも人の字になる。そんなことでケンカしてたの。今はそんなこと全くない。大昔の話」
「そうしていま、川の上流から右側が西久世になったのと、名前がむちゃくちゃになっているのにだれも文句をいわないのは、ケンカに勝ったひとが決めたから?」
「正解……歩ちゃん、どうして勝ったのか、わかる?」
歩はあごに手を当てて考える。
少したっても、歩は答えようとしなかった。
「勝った人には味方が大勢いて、土地がいちばん広かったから。これが正解でした……」
巴は自分で書いた図をみて、大きく溜め息をつく。
「嫌な歴史だよ……ただし、ずーっと話し合ってとっくにきちんと解決したからね。今のお爺さんお婆さんが歩ちゃんより小さい時代。それこそ昔話だ。これを踏まえたうえで、質問タイムです。あ、個人情報は答えません」
歩はすぐ手を上げた。
はい、と巴は指差す。
「その石は何ですか?」
「これ? チョーク石。ほんとうは
歩は地面から一つ拾ってながめてみた。
「違う。それはただの石、ほら、こんなヤツ」
巴からもらったチョーク石は、ほかの石よりすこしだけ白く、足でふむと折れてしまいそうな、名前どおりチョークのような硬さだった。
「変な石」
「そう? 都会にも転がってるはずだけど」
んーと歩は唸って、
「石って、気にして見たことがないです。それより信号を見てないと、怒られちゃいます」
「そりゃそうだ」
かっかっかと笑う巴にむかって、また歩は手を上げた。
はい、と巴は指差す。
「この村に、神社はいくつありますか?」
「お稲荷さんなら多くあったけれど、ぼろぼろで危ないから私の学生時代にほとんど取り壊しになった。もう大きいのが二つ、西と本久世にあるぐらい」
「潰れたのを含めても村を見渡せるほど、高い場所ではありませんよね?」
「そうだね……どっちも自分の土地しか見えない、かな……ごめん、風景まで深く観察してないや」
「トモちゃんさん先生はずっと住んでないの?」
「歩ちゃん、ここに限らず田舎の神社は住民がボランティアで維持してるの。神主さんがいるところはよっぽど信心深いか、いわれのあるところじゃないかな。久世は初詣とかお祭りとかのイベント以外、お掃除するためだけに行くの。地面を見てないとお掃除できないし転んじゃうでしょ? 熊とか出るともっと怖いからね、手早く済ませて帰る。だからみんな、風景なんて覚えて無いと思うよ」
歩は問う――自分の土地、というのは、西久世は西久世だけ、本久世は本久世だけを見渡せるということかと。
巴は頷く。
「トモちゃんさん先生……そのチョーク石でちょっと、地面に書き物していいですか?」
「いいよ。靴でこすれば消せるからね」
チョーク石をつかって、歩は地面に何か書きはじめた。
巴は日差しに照らされつづけ、汗をかいた首にパタパタと手であおいだ。
「あっついね。歩ちゃん、お母さん、家にいるかな?」
「いません」
巴の顔から笑顔が消えた。
「まさか、嘘ついて家出したの? だったら――」
「ちがいます。西久世に、お母さんの別荘があって、昨日からそこに泊まっています」
「じゃあ、お母さんはお出かけ中?」
「はい」
「いつ帰ってくるの? そもそもどうやってここに来たの?」
「お父さんが〝もう一人旅ぐらいできるだろ。お母さんの所へ行きなさい〟っていっぱいお金をくれたんです。嫌だって言ったけど〝せめてそのお金を使いきるまで帰ってくるな〟って」
「そんな……そのお父さん」
「おかしくはないです。お母さんとも仲良しです」
歩は強く言い続けた「よくある事なんです。お仕事が忙しくなってくると、私の下手なバイオリンがうるさく思えて……しかたないんです。それに私、バイオリンよりお父さんとお母さん、旅行が好きですから。今回だってわくわくしながら一人で電車に乗って、途中でとっても美味しいお弁当食べて、ぐっすり眠って夜中に着きました。タクシーもバスも無いから、歩いて、途中パトカーに乗せてもらってハラハラどきどき……ここの別荘に着いたのは、家を出て今日で四日目。一人旅は毎年一回はやりますから、へっちゃらです。でもパトカーには初めて乗ったんです。お巡りさんってすごいんです。すぐに電話番号とかプロフィールを調べる機械を持ってるんです。でもなかなか出してくれないんです。ずっと質問ばかりで……同じことを何回も聞いてくる」
歩は地面を見据え、文字や数字をがりがりと書き続ける。
巴はその姿を見ながら、歩の言葉を聞く。
「到着したけれど誰もいないので、お巡りさんにすごく怒られました。嘘つき呼ばわりされて――電話でお父さんも怒られました。私に謝ってくれて、迎えに行くって約束しました。でもちょっと時間が掛かるから……お巡りさんが見張りでいてくれたけれど怖くて、眠れませんでした。お母さん、かえってこないし……ここに来るまえも同じことをしてます。あちこち立ち寄って、探して、次の街に……でも、お母さん……どこにも、いなくって……もう意地でも、一人で探してやるって。お巡りさんに頼らないぞって思って……でもきっと、お金が無くなる前に帰る……お父さんの仕事が忙しくたび、ずっとこうしてます。きっとこれからもずっと」
歩は喋り続け、書き続けていたが、
「ウチの恵と同じと思ってたけど、違った。ごめん」
巴が歩の頭に手を置き、ゆっくり撫でる――そこで言葉と手が止まった。
「すごいじゃんか。駄菓子ぐらい買い占めて当然。もっとわがまましたり、悪い事してもいいのにさ。もう社会の最低限のルールがわかってる。しかもお父さんとの約束を守ってて。マジですごいよ」
ほんの数秒のことだった。歩が左手で目をこすって、再び、地面に書き始める。
「言われるまで我慢してる風に見えなかった。本当にお父さんが好きなんだね、お母さんも……私や恵はそんなピュアじゃない。我慢なんて大嫌いだからきっと、怒るか泣いちゃう……こうやって触れられるのに、山下清、オリバー・ツイスト、カフカ少年みたいに思えて……ごめん、良い例えが出ないや。どれも間違ってるね」
すると歩は顔を上げて、笑う。
「その人たちは知らないけど、きっと当たりです。何かを探す旅人はぜったい共通点があります。私、ここでトモちゃんさん先生、恵ちゃんさん、アキ、ハル、マサって素敵なお友達ができました。もう、寂しくないです。ここでお父さんを待ちます」
巴は微笑んで「とても優秀なので、ここから自習時間にします。適度に水分補給と休憩するように」と言って手を離した――。
◇
が、その手を歩は掴んだ。
「すみません、トモちゃんさん先生……さっき出た言葉で、よくわからなくって」
「うん。いいよ」
「トモちゃんさん先生、ときどき語尾に〝じゃん〟〝じゃんか〟ってつける……それと〝マジで〟って、どういう意味?」
歩の瞳は真っすぐ巴を見上げている。
巴は汗をかきつつ、その瞳を見下ろすのだが、
「えっ、えっと」と巴の声と視線がぶれた。
「じ、〝じゃん〟は私の口癖だね――〝だね〟のかわりに〝じゃん〟って言ってしまう。同意を求めるとき〝じゃんか〟って言うみたい。ごめん、乱れた若者言葉ってやつかな」
「ううん。お父さんが〝なにごとも古いものと新しいもの、ふたつ同時に吸収しろ〟って。〝それを比較検討するだけでも経験になる。いるかいらないか、良いか悪いかの問題は別の問題だ〟って言ってました」
「そ、そう? い、いろんな意味ですごい親子だ、マジで―—」と咳払いをしてから「わ、私の場合〝マジで〟はね……ほ、本気とか真剣とか誠意、決意とかたくさんの想いを含んでいて、決して軽い気持ちでは無いって意味で使ってる。人それぞれだけど」
そう言った後で、巴は小さく「たぶん」と付け加える。
歩は手をぱっと離し、頭を下げた。
「トモちゃんさん先生、マジでお相手してくれてありがとう」
そして顔を上げて、歩は巴を見上げて言う。
「私、村に来てからマジで一人だったじゃんか。キレちまいそうだったじゃん。でももう平気、マジで――こう使えばいいの?」
巴は後頭部を掻きながら「うん。でもね歩ちゃん、無理して使わなくていいんだよ。今の歩ちゃんのままでも、すごく素敵。これは本心だ」と言って、店内に戻った。
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