蝉が、外でわんわんと鳴いている。熱を帯びた風が、全開にされた窓から吹き込んでくる。『夏』と言う言葉がこれ程までに似合う日は、そうそう無いだろう。そんな日に、夏休み最後の講習を終えて、俺たちは何をするでも無く教室に残っていた。午前中に講習は終わり、昼飯を食べた後は部活だったり委員会活動だったりと、クラスメイト達は次々と教室を去って行き、最後に残っているのは俺と西垣のふたりだけだった。

 一緒にいても、何か話をするわけでも無い。お互いがやりたい事をそれぞれやっているような、そんな感じの関係だ。西垣とは、はじめからそんな感じであったと思う。高校からの付き合いだが、不思議と直ぐに幼馴染のような、そばにいて当たり前のような関係になっていた。一緒にいて、居心地が良い相手だった。こいつなら、自分が何をやらかしても受け入れてくれると、そんな感じがするからかもしれない。


 西垣は、俺の隣の席で文庫本を読んでいる。それを俺は、机に突っ伏しながら見ていた。こんな真夏日の中、よく本が読めるなと思う。黒縁のメガネの奥は、規則正しく動いて活字を追っている。目付きが悪いと、本人は気にしているつり目だが、俺はそこまでではないだろうと思う。メガネで隠れてはいるが、西垣の眼は優しい色をしている。虹彩の色ではなく、雰囲気がそう感じさせるのだ。実際、西垣は誰にでも優しい人間だ。悪いことをやらかせば叱ってくれるし、こっちが落ち込んでいたらいたで、何も言わずにそばにいてくれる。まるで母親のような人間だと思う。時々、誰にでもその態度でいる西垣に苛立つ自分がいるが、そんな理不尽な俺の苛立にも、こいつは「どうした」と手を差し伸べてくるから困ったものだと勝手に考えていた。


 西垣は、相変わらず本を読み続けている。定期的にページを捲る音がする。目線は活字を追っているせいか伏し目がちになっていて、そこに睫毛の影が薄く落ちている。背もたれに体重をかけて本を読む姿は、優等生的な雰囲気も感じさせる。

(そういえば、こいつ顔には汗かかないんだな)

思ったより睫毛長いなとか、何となく西垣を観察していたらふと思った。ワイシャツから覗く首筋や腕にはうっすらと汗をかいているが、顔に関しては熱で少し赤くなってはいるものの、他の部分に比べて汗はかいていないようだった。これは、俺にとって新しい発見だった。

 机に突っ伏しながら、相手が気づいていないのをいい事にジロジロと観察していたら、規則正しく動いていた目線が不意に横に動いた。眼が合うと思った俺は、とっさに顔を机に向けていた。別に目が合おうが気にする事は無いのだが、体がとっさに反応していた。


「玉の緒よ、絶えなば絶えね……」


俺が顔を伏せた後、西垣がそう呟くのが聞こえた。今まで黙々と本を読んでいた西垣の声は、無意識に呟いたせいなのか小さく掠れ、普段よりもワントーン低い声だった。それでも、ふたりきりの教室にはよく響いたように聞こえた。その声につられるように顔を上げると、隣で手元にある細長い紙を見て、今まで見た事の無いような表情をした西垣の姿があった。

「どうしたー?西垣ぃ」

どうやら栞であるその紙を見て、そう呟いたようだった。ただ、より伏せられた眼からは今まで見た事もない色が見えて、思わずそう聞いていた。

「いや、何でもねぇよ」

西垣はそう言うと片手を振って、本に栞を挟んだ。パタンと本を閉じると、そのまま窓の外へ顔を向けてしまった。

 何を見ている訳でもないようなその顔は、やはりいつもの西垣とはちがう顔のようで、俺は自分の中にさざ波が立つような、何とも言えない感覚に襲われた。

 どうしてそんな顔をするのか。何を考えているのか。解らない。解らない事に苛立を覚えて、俺は西垣のシャツの裾を引っ張っていた。

「西垣ぃ」

「ん?」

どうしたと、首だけを捻って振り向いた西垣に、俺は机に突っ伏したまま言うべき言葉を見つけられずにいた。

「何、どうした」

そう聞いてくる西垣は、普段の西垣にしか見えなかった。さっきのは何だったのか。ストレートに、何を考えていたのか感じていたのか、聞いてしまえばいいのに、何故かそれが出来なかった。

「さっきの……た、ま……たまのおの?」

裾をつかんだまま、口から出たのは西垣が呟いた言葉についてだった。この流れならば、当然の質問だ。不自然ではない筈だと、咄嗟にひねり出した質問だった。

「ああ……『玉の緒よ、絶えなば絶えねながらえば、忍ぶることの、弱りもぞする』」

西垣はすらすらと答えた。聞いた覚えがあるものだった。確か百人一首か何かの和歌集にあったものではなかったか。あやふやな記憶を辿りながら、西垣にまた聞いてみる。

「何それ」

「和歌。新古今和歌集にのってるぞ、たしか」

「『たしか』って何よ、『たしか』って」

西垣の答えに、掴んでいた裾を離して軽く小突いた。ああそうだったと、記憶が蘇ってくる。

(そういえば、授業で課題が出た時にこいつが調べてたよな……)

「そんなに気になるなら自分で調べろよ。たいして興味もねぇだろうが」

ぼんやりとした記憶を辿っていると、西垣から少し苛立ちを感じる声音で返された。

「ええー」

ふて腐れたふりをしながら、西垣の返事に一瞬感じた違和感に内心首を傾げた。恐らく、本人も気づいてはいないだろう。本当にわずかだが、刺々しさがあった。俺の態度に怒っているのだろうか。そこまで怒りを買うような態度だっただろうか。ただ解るのは、きっとこれ以上この話題を続けても、西垣は答えてはくれないだろうという事だった。

 西垣は、手元の本に目線を戻していた。本と言うよりも、本から少し頭を出している栞を見ているようだった。やはりその横顔は、俺が今まで見た事もないような表情に感じられて、つい先ほど感じたさざ波は収まらず、ざわざわと体全体に広がって行くようだった。


「聖」


 落ち着かない感覚を持て余していたら、今度は西垣から話しかけて来た。話しかけて来たのだが、その目線は俺では無く、何故か窓の外へと向けられていた。

「んー。どったの、西垣」

どうしてこっちを見てくれないのだろう。何故、さっきは怒っていたのだろう。俺のざわめきが伝わらないように、普段通りの返事をした。

「さっきのあれ。女の恋心を詠ったもんなんだよ」

「んー。好き過ぎて耐えられませんわ! みたいな?」

西垣の方から、栞の和歌へと話題を振って来た事に一段とざわめきが大きくなる。拒絶されたように感じた刺は、俺の気のせいだったのだろうか。曖昧な記憶を辿りながら、和歌の意味を考える。

「あってるような、ないような、だな」

確かこんなような意味だっただろうと答えると、外に目を向けたまま、西垣は曖昧に答えた。

「じゃあどういう意味よ」

何が言いたいのだろう。西垣の考えが解らず、どう答えたら正解なのか解らず、とりあえず笑って聞いてみた。そこでやっと俺へ静かに視線を向けた西垣に、少しほっとしながら顔を見上げると、メガネのレンズに俺のヘラヘラした笑い顔が映っていた。

「密かに抱いた恋心が相手に知られてしまうくらいなら、いっその事、自分の命なんて尽きてしまえ」

少し苦笑いしながら、感情を押し殺しいるような声音で西垣が言った。

「へー」

「簡単に言えばそう言う意味だよ。お前には……きっとわからないさ」

そういうと、西垣はまた本を開いて読み始めてしまった。まるでもうこの話題は終わりだと言わんばかりに。俺には解らない、とはどういう事なのか。その意味をどう捉えればいいのか解らず、俺は思わず顔を顰めていた。

 西垣が裏返しにして机に置いた栞を見つめながら、西垣の言葉を頭の中で反芻する。少し逆光になってきた教室の中で、西垣の顔が見えなくなる。いったい今日はどうしたのか。何か俺が、西垣の気に障る事でもしたのだろうか。隣に座る親友の気持ちがわからなかった。


「なぁ、聖」


本に目をむけたまま、また西垣が口を開いた。


「俺は、お前の中では、何なんだ」


本当に今日はどうしたのだろう。俺の知らない所で、こいつに何かあったのだろうか。まるで呟くように、俺にではなく、西垣自身に向けているかのような問いかけに、俺はまた顔を顰めた。

「そりゃぁ親友に決まってんじゃん」

俺の答えに、西垣はまたこちらに顔を向けた。俺は思わず、何を当たり前の事を聞いているのかと、しかめっ面のまま西垣の顔を見上げた。


「そっか……そりゃあよかった」


西垣はそう言うと、笑った。笑った筈なのに、俺は何故だか、今俺はこいつを傷つけてしまったのではないかと、直感的に思った。


「変よー、今日の西垣」

何かあったのか。どうしてそんな顔をするのか。俺が何かお前を傷つけたのか。言葉にできない疑問が、また心にさざ波を立てていた。

「そうだなぁ。暑さに頭やられたかもな」

そう言うと、西垣はまた笑った。笑っている筈なのに、笑っていない。そう思えて仕方が無かった。俺はどう答えたらいいのだろう。西垣は笑っているのに、俺は何故か笑えなかった。

「悪い悪い、もう帰ろう」

だからもう気にするな。何でも無いからと、西垣は本を閉じると席を立った。西垣の動きに合わせて椅子がぎぎぎと音を立てる。

「……そうだな。帰るか」

帰り支度をする西垣に、俺も習うように席を立った。本当なら引き止めて、問いつめたい気持ちだった。どうしてあんな事を聞いたのか、どうしてあんな顔をしていたのか。そして帰ろうとしている今も。

 でも、俺には出来なかった。聞く勇気が出なかった。ついさっき『親友』だと言ったのは自分だ。だが、今はその言葉にすら自信が持てなくなっている。先に歩き、教室を出る西垣の背中を見ながら、後を追うように教室を出た。顔を合わせないよう半歩後ろを歩きながら、また西垣の言葉を反芻する。いつもなら居心地のいい二人の間の沈黙が、今は少し気まずかった。


 きっと明日には、何事も無かったかのように、どちらからか連絡をして、普通に遊んだり何んだりとするのだろう。半歩前を行く西垣の顔は解らないが、教室の、逆光の中で見た西垣の顔が今も目の前にチラついて、ざわざわと心が波だっていた。

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陽炎 @asataka3142

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