陽炎

@asataka3142

西垣

「玉の緒よ、絶えなば絶えね……」


(玉の緒よ、絶えなば絶えねながらえば、忍ぶることの、弱りもぞする……)


 まるで俺のようじゃないか。ふとそう思えて、自嘲の笑みが浮かぶ。ちょうど読んでいた文庫本について来た、薄っぺらい紙の栞に書かれていたそれを呟いていた。


「どうしたー?西垣ぃ」


隣の席、何もする事が無く机に突っ伏していた聖が、こちらに顔を向けた。


「いや、何でもねぇよ」


ひらひらと片手を振り、本を閉じて窓の外へと目をやった。


  ここは夏休み、補講もやっと終わりを迎えた八月はじめの教室。俺と聖は、夏休み最後の補講が終わった後も、ただ意味も無くうだうだと教室に残っていた。外 からは、部活に勤しむ生徒達のかけ声とホイッスルの音、それに負けじと、蝉がわんわんと鳴いていた。太陽がさんさんと熱と光を降らせる外に比べ、ちょうど 日陰にあたった教室は、昼間といえど薄暗く、窓から差し込む光がやたら眩しかった。まるでここだけ、外から隔絶されているようで居心地が良かった。


「西垣ぃ」


「ん?」


外を見ていると、隣からシャツの裾が引かれる感覚がした。首だけ捻り隣を見ると、机に突っ伏した状態のまま、聖がこちらを見上げていた。


「何、どうした」


「さっきの…た、ま…たまのおの?」


「ああ…『玉の緒よ、絶えなば絶えねながらえば、忍ぶることの、弱りもぞする』」


「何それ」


「和歌。新古今和歌集にのってるぞ、たしか」


「『たしか』って何よ、『たしか』って」


聖がにやりと笑いながら、軽く小突いてきた。聖の茶髪に染めた癖っ毛が、ふわりと揺れた。


「そんなに気になるなら自分で調べろよ。たいして興味もねぇだろうが」


「ええー」


ふて腐れたような態度をとってはいるが、興味がないのは本当のようで、それ以上聞いてくる事はなかった。聞いて来た所で、俺も意味を教える気はさらさら無かった。


(意味なんて教えたって、お前はきっと、わからないよ)



 補講で古今和歌集の話題が出た時、俺は古文の課題で調べた歌を思い出していた。それが、『玉の緒よ……』の歌だった。


 『玉の緒よ、絶えなば絶えねながらえば、忍ぶることの、弱りもぞする』


  この命よ、絶えるならば絶えてしまえ。


  生き長らえてしいると、


  恋を耐え忍ぶ心が弱くなってしまっても困るから。


 密かに抱いた恋心を外に知られてしまうくらいなら、いっその事、この命尽きてしまえと、してはならない恋に落ちてしまった女性の思いを綴った歌。


  意味を初めて知った時、死にたいと思う程、隠したい恋心なんてあるのだろうかと、理解が出来なかった。でも、今なら理解出来る。知られてしまったら、それで全てが壊れてしまう。全てが終わってしまうのだと、そう嫌でも思い知らされたら、己の思いを知られる前に、きっと人は死を選ぶだろう。


 (絶えなば絶えね……)


 いっそのこと、俺のこの命も絶えてくれればいい。今にも溢れでそうなこの思いが、お前に知られるくらいなら。本から少し飛び出した栞を見ながら、そんな事を考える。


「聖」


 窓の外に、目を向けた。部活に勤しんでいた生徒はもう帰ったのだろうか。蝉の声の中に、車の駆動音が遠く聞こえている。


「んー。どったの、西垣」


「さっきのあれ。女の恋心を詠ったもんなんだよ」


俺は振り返ることも無く言った。


(言ったところで、意味は無い……のに)


何を期待して、何を言おうとしているのだろう。命絶えろと思ったのは、自分なのに。もう、零れ始めていたのか。零れてしまった思いの片鱗は、決して元には戻らない。でも、大丈夫。まだお前には届かない。


「んー。好き過ぎて耐えられませんわ!みたいな?」


「あってるような、ないような、だな」


「じゃあどういう意味よ」

 静かに、俺は振り返った。振り返ったその先には、ヘラリとだらしなく笑う聖の顔があった。クラスの中で、いつもその顔は中心にあった。女生徒から黄色い声が上がるくらいには整っている顔が、今ではだらしなく崩れている。それを見て、俺は眩しいくらいに綺麗だと思った。そして、その顔を見て、また思い知らされるのだ。お前の中の俺の立ち位置と、俺の中のお前の立ち位置は、似ているが程遠いのだと。


 放課後の教室に差し込む光が、聖の顔を照らす。男にしては長い睫の影が、目元に落ちている。綺麗だと、やはり思った。


「密かに抱いた恋心が相手に知られてしまうくらいなら、いっその事、自分の命なんて尽きてしまえ」


「へー」


「簡単に言えばそう言う意味だよ。お前には……きっとわからないさ」


そう言って、俺はまた本を開いた。聖は何も答えないが、最後に言った一言で顔を顰めたのは、視界の端で見えていた。


 開いたページの真ん中に挟まれた栞を外し、裏返して机に置いた。活字を追うが、内容は一切入ってこなかった。裏返した栞が、やけに目に焼き付いて来る。


(なぁ……)


心の中で、幾度となく繰り返した問いかけが、ぐるぐると反響する。


(お前の中で、俺は、何処にいる?)


答えなど、とうに知っている。自分の気持ちに気づいたその時から、それよりも前から。聖に出会ったその時から、俺の立ち位置は変わらない。



「なぁ、聖」


変わらないはずなのに。この口は何を言おうとしているのか。


「俺は、お前の中では、何なんだ」


何を、夢見ているのか。暑さで頭がぐるぐると回っている。栞が目に焼き付いて、瞳孔を焦がしてくる様だと、よくわからない事を考え始める。



「そりゃぁ親友に決まってんじゃん」

もう一度、隣に顔を向けた。そこには、しかめっ面のままの聖が此方を見上げていた。

(やっぱり、綺麗だ)


「そっか……そりゃあよかった」


とりあえず、笑っておいた。もっと上手い誤摩化し方があるだろうとか、いきなり何を言っているんだと自分自身に驚きながら、それでも聖を綺麗だと思ってしまう自分に一番驚いていた。


「変よー、今日の西垣」


「そうだなぁ。暑さに頭やられたかもな」


そう言うと、また意味も無く笑った。思いが溢れて、零れていくのを笑い飛ばした。飽和量は超えている。後はもう、空っぽになるまで溢れてしまえばいい。


(親友でいられるだけ、幸せ、なんだよ……)


笑う俺を見上げながら、未だに怪訝な顔をしている聖を見てそう考える。それでいいのだ。やはり、知られてはいけない。知られてしまったら、そこで全てが終わるのだから。


(ああでも、足りねぇよ……)


そう、足りないのだ。飽和量を超えた思いは、元々行く宛など無かったのに、さらに質量を増している。今はまだ、夏の暑さに狂ったのだと誤魔化せる。だがその内、それすらも無理になるだろう。隠す事など、出来なくなる。裏返した栞が、視界の端でそう主張していた。


(苦しい、なぁ……)


お前が近すぎるから、余計に苦しい。


 いっそのこと、死んでしまおうか。人は、いとも簡単に、極端な考えにたどり着く。お前に知られて、全てが壊れるくらいなら。終わってしまうくらいなら。そう、あの歌のように。


(式子内親王、だったよな……)


ああ、彼の歌人も、これほどまでに苦しくもがいたのだろうか。




 夏の放課後。差し込む陽の光。


 照らし出されたのは、お前の姿と、無様に足掻く俺の姿。


 お前の隣にいれるだけで幸せなのだと、知っている。


 それでも俺は、それ以上が欲しいのだと、声を上げずに叫んでいる。


 溢れ出した思いに自ら溺れて、


 もがく手が、いつかお前に届く事を欲しながら、


 届いてはいけないと、代わりに己の首を締めるのだ。



  玉の緒よ、絶えなば絶えねながらえば、忍ぶることの、弱りもぞする


(なんて滑稽なんだ……)


俺の命よ。この思い知られる前に、歌と一緒に消えて逝け。



 遠くで蝉が、泣いている。


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