第10話 土蜘蛛
秀長の予言 (予告か)により示された日がとうとう来た。装着した腕時計の短針は十の数字を指している。本来なら高校生は補導される時間に、原田と剣持の二人は歩道橋から、車通りのほとんどない国道を睨んでいた。
「恵一の『夜刀神』の力が機能してから、三分です」
己の力に封をして、神が共通して持つ特性である『忌避』の範囲を通常の三割程度にしていた剣持に、原田は伝えた。
「……来た。成功したみたいですね」
標的の姿を捉えた剣持はキャンプ用の椅子から立ち上がった。
原田が立案した作戦(言うほどたいしたものではないが、便宜上)は成功した。
内容だが、原田が奔走(正確に言えば奮闘)し、いわゆる『そういった集団』から聞き出し、割り出した珍走の通過地点で、待ち伏せするという至ってシンプルなものである。時代遅れの珍走も、この時ばかりは役にたった。ああいう手合いは仲間内の規則や時間は守るものだからだ。
剣持の要望は「狙いは二人なので、出来るだけ同行している人数を少数にしたい」という主旨だった。標的である近藤、小村それぞれの家に押しかけるという方法を取らなかったのは、一網打尽を望んだ為である。一人を処理している間に、もう一人に逃げられていては、剣持の望む、最低限に被害を抑えるという目的は果たせない。
思案中の原田と、先ほどまで瞑想と見まがうほど集中していた剣持の眼下に、様々な種類の光と、騒音が押し寄せた。歩道橋に近づく五台のバイクは、原田が通報し駆けつけた警察から逃げるために、蛇行などの遊びなく、懸命に走っている。
しかし彼らを追うものは既にない、『夜刀神』の力は、暴走族を二つに別ち、警察の追跡を、暴走族のリーダーが先頭を走る、もう一方の集団に向わせた。
「気を使ってもらって悪いね、原田君。これなら早く済みそうだ」
彼女が手摺に手をかけた瞬間に、その体は羽のように宙に浮いていた。そのまま流れるような動作で彼女は手摺の上に危なげなく立つ。
「装備は足りるかな」
原田の制止の声を振りきって、まるで自宅の階段でも下りるように、剣持は何の気なしに飛び降りた。
如何な方法か、地面に到達する寸前で、彼女は急激に減速した。難なく道路へと着地する。迫り来るバイクに減速する様子はなかった。進行方向に立ちはだかることは無論極めて危険だ。
しかし彼女ならば問題はない、刀を構えた姿を見て、原田は確信した。
やっと目の前に人がいることに気付き喚きだした近藤、対照的に彼女は静かだった。
抜刀の所作も、振り下ろす行為も極めて迅いのに、一連の動作が雑音を伴うことはない。
白刃が煌めき、血飛沫と破片が飛散する。
次の瞬間二台のバイクが横転した、火花を散らし道路を滑っていく。
原田はもう決したのだと早合点し、口を開こうとした。だが、彼の観察眼はすぐに認識を是正する。
金髪の男、近藤綺堂は自身に覆い被さるように横転した車体を、布団か何かのように軽々とはねのけた。単車としては巨大な部類のそれが、数回アスファルトを跳ねガードレールに突き刺さる。彼の本来の身体能力ならばそのままバイクの下敷きになり、救助を待つのみだったろうに。
「人の子は難儀じゃ、馬がなければ悪党も名乗れん」
立ち上がった男が既に近藤ではないことは、その腕力と禍々しい声が示していた。
剣持に斬られた近藤の右手右足の傷が、見る見る修復されていく。濁流のように流れていた血は、すぐに止まってしまった。
落下防止柵に立てかけていたゴルフバックを背負い、原田は歩道橋を駆け下りる。その間にも、近藤の姿をしたものは、確実な足取りで剣持に接近していく。
「近藤綺堂は、どこに隠した?」
自身の予想が当たっていて欲しくないと願っていた剣持であるが――
「この中におるぞ」
――残念ながら外れてなかったようだ。近藤綺堂の姿をしたものは、腹を指差し笑った。
「お主は、なんじゃ、秀長の妾、それとも娘か? 何れにせよ今更何をしに来たのか」
近藤は見る見る肥大していった。人の形をしていたものは、熟れた果実が破裂するかのごとく異形に変化して行った。
剣持が近藤だったものに向かい、言葉を発しようとした瞬間、近藤の鎖骨の辺りから電柱のように太く長い蜘蛛の歩脚が生えた。生えた勢いのままに、脚は槍のような速度と鋭さで剣持に襲いかかる。
「殺しにだよ」
冷たく、聞こえるか聞こえないかの音量で、その決意は言葉に託され解き放たれた。
夜空から一振りの刀が降る。鍔に施された椿の意匠が美しく煌き、剣持に肉薄していた蜘蛛の脚は、その流星のような軌道の太刀に串刺しにされた。
剣持の髪が風圧で靡く、彼女の鼻先で怪脚は止まった。
「剣持さん!」
原田は叫び、階段からゴルフバックに入っているものを投げた。
それは日本刀だった、剣持に届かずとも良い、そもそも、そんな特殊な形状のものの投げ方は練習してない。宙に浮きさえすれば、あとは、彼女の力でどうにかなる。
彼女自身が先ほど歩道橋からの跳躍を無事に行えたのも、あの力故だろう。刀を持ち、それを制御することで落下速度の調整を可能にしたのだと思われた。
浮遊した刀の一つは主の手に速やかに収まった。抜刀は迅速に行われ、そのまま、電光石火の動きで、彼女は近藤の体から生じた二本目の脚を切り落とす。
剣持の背後からも奇襲があった。軽自動車ほどの巨体を持つ大蜘蛛が、牙を打ち鳴らし彼女に踊りかかった。だが、この行動は、彼女に向うにしてはあまりに安易だ。剣持は後方の怪物に対し、依代に宿る大半の存在が持つ『忌避』の特性を、一瞬だけ全開にする。
「小村翔太、まだ人だな」
小村翔太だった大蜘蛛は、この威圧に怯んでしまった。それは刹那のことであるが、彼女の前では致命的な過ちに変わる。
剣持は大蜘蛛の脚を踏み台にしてその肉体に飛び乗り、大蜘蛛の頭胸部を刺し貫いた。
流れ出た体液とともに、何かが砕ける音が周囲に響いた。
蜘蛛の巨体は見る間に縮んでく。原田はそれで小村から『依代』が取り除かれたことを知った、つまりは、剣持が一つ目的を果たしたことを察した。
他の暴走族(小村が搭乗していたバイクの下敷きになって気絶しているもの以外)は、逃げ切っている。近藤と小村が、大蜘蛛に変身するのを目撃したものは居ない。また、『依代』の破壊による、小村の再人間化を見たものもいない。
人に戻りつつある小村の背中から剣持は跳んだ。
攻撃中の剣持を横から薙ごうと、もう一体の大蜘蛛の三本目の脚が放たれたが、剣持の速さゆえに、脅威は靴底に掠るだけだった。
着地し、襲いくる脚を斬り、吐き出された糸を避け、接近し――、
「近藤を返す気などないだろう? 土蜘蛛」彼女は刃を突きつけ敵の意志を確認する。
大半の脚を失い、辛うじて自立する大蜘蛛の肉体に剣持は切っ先を食い込ませた。
この時、先ほどまで戦いに魅入っていた原田は、彼女の口から出た言葉により冷静な思考を取り戻すこととなる。
彼女は、大蜘蛛のことを土蜘蛛と呼んだ。その姿は、『土蜘蛛草紙』などに見られる源頼光と渡辺綱に退治された妖怪に似通っていたが、釜坂が『夜刀神』を操ることから考えれば、今近藤を乗っ取っているのは、むしろ各国の『風土記』に記される朝廷に従わなかった土豪のことだろうか。
「『返す気などない』……どういうことだ?」
疑りをはらんだ原田の囁きは、大きな叫びに掻き消された。
「待て! ある、『帰す』方法があるぞ」
霊剣の痛みのため、荒れた声で土蜘蛛は言った。原田はそこで一旦分析を止めた、今どう勘繰ろうが、秀長(そしてこの一連の事件の真相)に辿り着くには、情報が少なすぎると判断した為だ。
「解った。でも少し良いかな、私はあれの娘だ」
彼女は原田に左手で合図を送りながら、蜘蛛と人間の混在する化け物に、挑発であれ「妾」と仮定された事を不快だったと告げた。
「すまぬ」
変化後も顔ごと残っている人の瞳にも、先ほど造られたクモの目にも恐怖が浮かんでいた。
「こやつは帰そう。あなたの言うことなら何でも聞こう。あなたがあの方の子なんて知らなかっ――」
刃が、振るわれた。二度目の絶叫が夜の街路に木霊する。
「まあ、それは大した問題じゃない、近藤はもう戻れないと知っている」
小村翔太の肉体とは違い、近藤綺堂はどれほど刃を受けても決して人に戻らなかった。原田は察した、剣持秀長の予言はやはり予告だった、『完全にのっとられた』のだと。
追い詰められた土蜘蛛を何よりも震いあがらせたのは、刀による追撃ではなく射抜くような彼女の眼光だった。
「それに、あの男の子供という事実こそが、私にとって最も忌むべきことだ」
刃のような冷たさで、切先のような鋭さで彼女は告げた。土蜘蛛に刺さる一本、右手に持つ一本。殺意に呼応し、空に浮かんだ五本の刀。
「私は、ただ義務を果たすだけだ。慈悲などあってはならない、それが子として生まれたものの責任とは思わないか」
七本の刃が、その異形に向った。苛烈に、迅速に、美しさすら感じる暴威が、彼女の敵を徹底的に肉片にする。容易く、容赦の一片もなく。
その討伐の姿も、その夜の出来事も、原田には神々しく映った。土蜘蛛を殺す剣持には明らかな余裕があった。わざわざこんな回りくどい準備をせずとも、彼女ならば二人を処理することぐらいできただろう。人を巻き込まない、その前提が彼女の中に、確かな意志のもと存在していたのを改めて知り、原田は心のどこかで安心した。四日前の覚悟は、まだ役に立ってないが、間違ってはいなかったようだ。
「ありがとうございます」
全てを終え、血の海から戻った彼女に原田は頭を下げた。誰に言われるでもなく過酷な守護の役を引き受け、そしてそれを可能とする彼女の精神と能力に全幅の敬意を払った。
しばらくして頭を上げ、原田は息を呑んだ。
剣持は無傷だった。しかし決着の後、明らかに戦いの途中(ましてや常態)とは、似ても似つかない雰囲気を帯びていた。
美しい顔には憂いが滲んでいた。この時、原田は二つのことを知った。
必要不可欠であろうとも、彼女は他人を傷付けることを決して許せない。彼女のこの使命感は、殺意に比しても鋭く冷たいものであった。原田が神社で思い出した恐怖の正体とは、まさしくこの彼女の使命感に他ならないのだろう。
そして、あと一つは、その彼女の信条は今回の件にも当てはまるということ。『完全にのっとられる』と秀長が予告しており、彼女自身もう救えないと確かめ、事の責任は、製造者秀長と使用者である近藤にあるというのに、彼女は近藤を殺したことを後悔していた。
「こちらこそ」
寂しげな彼女の笑顔を、原田は何も出来ずただ見送った。
生ぬるい風が、塵埃を吹き飛ばしていく、自失していた原田がやっとのことで振り返り見た、彼女の棚引く黒髪は、酷く悲しげにも酷く勇壮にも映った。
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