第11話 ちょっと残念

「高坂くん」

 呼びかけに応じるように、彼は一度だけ目を瞬いた。

 まるでその瞬間に目が覚めたように、少しだけ驚いたような顔をしてから、私を見る。そのときにはもう、彼は彼に戻っていた。迷子の表情は消えていた。


「日下部さん。奇遇だね。どうしたの、こんなところで」

 全く同じ言葉を返したかった。どうしたの、こんなところで。なんで泣きそうな顔をしてたの。誰かのせいだったら、私はそいつを思いっきりぶん殴ってやりたい。あの表情は、あまりにも哀しすぎる。


 ――などという本音が、まさか言えるわけもなく。


「桜を見に来たの。雨で散っちゃったんじゃないかなって。やっぱり少し散っちゃってるね」

 地面や歩道に散らばる桜の花びらを見て言う。

 傘から落ちる雫が邪魔で、私は傘を傾けて水を落とした。


「じゃあ俺と同じだ。校舎と校門の間に桜があるだろ。花びらが散ってたから、こいつもそうじゃないかなって思ってさ」

 こいつ。彼は目の前に立つ桜を、知り合いか友達みたいに呼んだ。


「昨日の夜、ここでミヤビとノエルと花見をしたんだ。だからつい気になったんだよな。ミヤビがもう一回来たいって言ったのに、無理かもなーって」

「ああ、なるほど」

「でもまあ、心配したって俺らにはどうしようもないよな。雨で花が散るのは自然の摂理なわけだし」

「うん。残念だけど仕方ないよ。高坂くん、肩濡れてるし、早く帰ったほうがいいよ?」

 彼が猫を交えた二度目の花見ができるかどうかよりも、彼自身の現状のほうがはるかに心配になって、私はそう言った。


「あー、ほんとだ」

 彼は言われて初めて気づいたような顔をした。

 私は放課後、吉乃ちゃんや他の女子と喋っていたため、帰るのは少々遅れた。

 それなのに彼と出会ったのは、5組のHRが特別に長引いたわけではなく、彼は私が雑談に興じていた間、ずっとここにいて、ぼうっと桜を見ていたのかもしれない。


 それを半ば本気で心配してしまうくらい、彼の制服は雨に濡れていた。ズボンの膝から下も水が浸透している。


「帰ろうか」

「うん」

 短く同意して、私は彼に従って歩き出した。

 男子と肩を並べて歩くというシチュエーション自体、なかなかに稀なことだと思うけれど、帰る場所が同じなんだから仕方のないことなんだと誰にともなく言い訳する。


 これはただの成り行きで、デートでも何でもない。だから、緊張する意味もない。肩の力を抜いて、自然に振る舞えばいいんだ。


「ノエルくんって、高坂くんに懐いてる?」

 自然な感じで尋ねてみる。

「多分、それなりには。なんで?」

 高坂くんは傘の下で首を傾げた。

 なるべく自然に……自然って、どんな感じだったっけ?

 白状しよう。本気で悩んでしまうくらい、私は動揺していた。

 彼の隣にいるというこの状況に。すぐ傍にある、端整な顔立ちに。


「私の部屋に来たとき、人間を怖がってるような節があったから」

 心臓の音が聞こえやしないかと冷や冷やしてしまう。

 落ち着け。冷静になるんだ。


「ミヤビちゃんは人見知りなだけだって言ってたけど、帰る前に、私がベランダで転びそうになって、大きな音を立てたとき、ノエルくんは物凄くびっくりした様子だった。警戒して、身構えてた。あれは人見知りっていう言葉一つで片付けられるような反応じゃないような気がして。もしかして過去に何かあったのかなーと思ったり」

 二匹の猫をベランダまで送ったときのことだ。屋外用のスリッパに履き変えた私は、ベランダで危うく転びそうになった。

 その拍子につんのめった私がノエルのほうへ向かいそうになったとき、ノエルは弾かれたようにその場から逃げた。


 踏み潰されるとでも思ったのか、彼はベランダの端っこで身を固くした。殴られる寸前の人間みたいな反応だった。

 睨みつけるように、警戒心をむき出しにして、私を見ていた。


 それからすぐに、彼はミヤビに窘められて「なんでもないんです」とごまかしたけれど。


 あの反応はちょっとショックだった。私は誤って猫を踏んづけてしまうくらいなら、猫を避けてベランダに設置した物干し竿に自ら激突したほうがましだ。

 猫を飼い、猫を愛する人間なら、多分、皆がそうだと思う。

 猫を怪我させるくらいなら、自分が怪我をしたほうがいい。


「ああ……そんなことがあったんだ」

 高坂くんは話すかどうか迷うような素振りを見せた。けれど、私の視線が外れないのを知って、息を吐き出すように話し始めた。


「元々ノエルは他の人の飼い猫だったんだ。ミヤビだって元は野良猫だった。そのせいか、ミヤビには放浪癖があって、たまに部屋を抜け出して散歩に行くんだ。ある日ミヤビが『こいつも世話をしてくれないか』って、散歩の帰りに一緒に連れてきたのがノエル」

 高坂くんは渋面を作った。


「ノエルを飼ってた人間は良い奴じゃなかった。凄く気まぐれな人間で、優しいときは優しいけど、機嫌が悪いときはノエルにも当たり散らす。猫がよく吐くのは知ってるよな、前に猫を飼ってたって言ってたし」

「うん」

 飼っていた猫は食後に吐き戻しをすることがあったし、セルフグルーミングの際に飲み込んだ毛玉や草を吐くことだってあった。

 人間と比べて猫は吐きやすい動物だ。床に吐くのはまだしも、大事な物の上で吐くのは正直、勘弁してほしかった。人間都合で悪いけれど。


「ある日、ノエルが吐いたとき、思いっきり蹴っ飛ばされたらしい」

「は!?」

 私は目を剥いた。

 猫を全力で蹴飛ばす人間がこの世に存在すること自体が信じがたく、許せない。


「猫に暴力を働くなんて最低! そんな人に動物を飼う資格なんてないよ!」

「だよな」

 同意した高坂くんも辛そうだった。

 彼の表情を見て、まくしたてようとしていた言葉を飲み込む。握り締めた手の爪が皮膚に食い込んで痛い。

 でも、それくらいしないと憤激は収まりそうになかった。


「半狂乱になった飼い主にボコボコにされて、命からがら逃げたノエルを保護したのがミヤビ。初めて会ったときのノエルは可哀想だったよ。俺の一挙一動に怯えてた。じーっと部屋の隅っこで俺を見てるから、緊張感も半端なかったな。ミヤビのフォローもあって、どうにか一緒に暮らしてきたけど、どう接したらいいのかわからなくて悩んだよ」

「……どうやってノエルくんとの距離を縮めたの?」

 高坂くんの表情を見ていると、激情は冷めていった。


 向かいから歩いてきた人に道を譲るため、いったん彼の後ろに移動してから、再び隣に並んで訊く。人間から虐待を受けた猫がそう簡単に心を開くとは思えない。


「きっかけはノエルが吐いたときの対応じゃないかな」

「どんな?」

「……。いや、自分で言うのは恥ずかしいから」

 高坂くんは気まずそうに手を振った。察するに、吐いた猫を咎めず、優しく接したんだろう。彼がどうやって一匹の猫の心を開かせたのか、興味はあったけれど。

 私は気持ちを切り替えて、微笑んだ。


「そっか。でも、とにかく良かった。ノエルくんがいま、幸せそうで。飼ってるのが高坂くんなら、これからも安心だよね」

「そう?」

「うん。高坂くんは優しい、いい人だもの。安心だよ」

 私の言葉に、高坂くんは困ったような顔をした。


「……あ、そうだ、髪。俺の言ったとおりにしたんだ」

「あ、うん」

 私は急な話題の転換に戸惑いつつも、左手で髪に触れた。ポニーテイルにしてまとめている髪。

「思った通り、可愛いね」

「……ありがとう」

 ああ、すみません。わかりました。面と向かって褒められると、どういう反応をすればいいか困りますね。


 笑った彼の表情が、してやったりと言っているようで、私は恥ずかしさと同時にほんの少しの悔しさを覚えた。


「クラスは離れたね。いままでの因果からして隣の席かと思ったけど、外れた」

「うん」

 いつの間にか、私たちが住むアパートはすぐそこだった。もう視界に入ってきている。

「ちょっと残念」

 それは、ただ、何の気なしに口をついて出た言葉だったけれど。

「俺も」

 聞こえてきた声に、私は隣を見た。

 高坂くんは、何か? という顔をしている。肯定したことに、特に深い意味はないらしい。いや、あっても困るけど。……困るのかな?

 悩んでいる間に、アパートに着いた。廊下を歩いて、並んだ扉の前に立つ。


「それじゃ、また」

「うん、またね」

 高坂くんは一足先に自分の部屋へと入っていった。

 ぱたんと目の前で扉が閉まる。

 それを見てから、私は肺に溜まっていた空気を長く吐き出した。


 ――ちょっと残念。

 さきほど聞いた言葉が頭の中でリフレインする。

 まさか、肯定されるとは思わなかったな。

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