第10話 ある雨の日の、

 入学式の日。

 高坂くんと同じクラスだったら嬉しいな――などという仄かな期待は、廊下に張り出されたクラス分けの表で粉砕された。


 私は1組。彼は5組。教室は校舎の端と端。

 この配置だと、校内で彼と偶然に出会う機会はそうそうないだろう。


「…………」

 今日、私は、高坂くんのアドバイス通り、朝にシャワーを浴びた後、前髪をヘアアイロンで伸ばして、後ろは一つにくくり、雑貨屋で選び抜いた水色のリボンをつけてきた。


 洗面所の鏡の前で、ばっちり決まったと浮かれるくらい、綺麗に仕上がったから、高坂くんには是非感想を求めてみたかったんだけど……な。


 うん、やっぱり、世の中はそんなに甘くないよね。


 掲示に殺到している新入生の中には、クラス表を見てはしゃいでいる子もいるし、肩を落としている子もいる。あの子たちは中学時代からの友達なのだろう。もちろん、一人で上京してきた私に友達なんているわけがない。


 知り合いの高坂くんがいてくれたら、心強かったんだけど。

 肩を落としかけたとき、私の目に映ったのは同じ1組の表内にある名前だった。

 友永旭。

 どこかで聞いた覚えが……あっ。

 そうだ、白雪先輩が言っていた、桜庭荘の205号室の住人だ!


 どんな人なんだろう。

 私は階段を上って、1年1組に入った。1組は階段のすぐ傍なので便利だな、なんて思いつつ、黒板に張られた座席表を確認する。自分の席は教壇にほど近く、あまり嬉しくない場所だ。友永くんは私の斜め、二つ後ろの席だった。


 振り返って確認すれば、友永くんは既に着席していた。

 私は頬杖をついて、眠そうにしている彼の姿に衝撃を受けた。

 彼は高坂くんよりも背が高くて、凛々しく精悍な顔つきをしている。彼もまた顔面偏差値が高いイケメンだ。桜庭荘は顔面偏差値の高い人ではないと入居できない決まりでもあるんだろうか……いや、ないな。そんな審査があったら、私が入れるわけがないもの。


 ともあれ、私が彼を見て驚いたのは、単純に格好良いからではない。

 彼の髪もまた癖っ毛なのだ。天然パーマといっても良いほどに跳ねている。

 彼は……まさか……!?


「あ、あの。初めまして、私、桜庭荘の104号室に住んでる日下部といいます」

 声をかけると、窓の外を見ていた彼は、私を見て軽く目を見張った。具体的にいうなら、曲がりくねった私の髪を見て。

「えー……ちょっと質問なんだけど」

 友永くんは頬杖を解き、真顔で尋ねてきた。


「毎朝の髪のセット、何分かけてる?」

「三十分近く。雨の日はそれ以上かかることもある」

「小学校のあだ名は?」

「ブロッコリー」

『…………』

 私たちは、そこで互いに押し黙り、見詰め合った。

 数秒の後、友永くんは無言で肘を曲げ、すっと私に向かって手を差し出してきた。


 がしっ!!


 漫画のようにその手を力強く握り合い、深く頷く私たち。

 ……同志!!

 言葉などなくとも、私たちはこの日このとき、わかりあったのだった。


 

「じゃあねー、また明日!」

「うん、またねーくるみん」

 入学式、記念撮影、HR――等々、今日の日程の全てを無事に終えた私は、T字路で菊池吉乃と手を振って別れた。


 吉乃ちゃんはショートカットで背も高い、ボーイッシュな少女だ。中学ではテニス部に所属していて、高校でもそのつもりだと言っていた。


 前の席の彼女が明るくて社交的で、仲良くなれそうなことに私は心底ほっとしていた。どちらかというと私は積極的なタイプじゃないから、向こうから話しかけてくれたのは嬉しかった。会話も弾んだし、本当に良かった。


 学校生活において、雑談を楽しんだり行動を共にできる友達がいるかどうか、これは女子にとって大問題である。くるみんというちょっと変わったあだ名で呼びたいと言われたときは面食らってしまったけど。ピクミンみたいだなぁなんて思った。


 どんな人だろうと思っていた友永くんも、吉乃ちゃんと似たタイプで、愛嬌があって人懐っこい。ゲームという共通の趣味があったから、話題にも事欠かなかった。


 うん。幸先の良いスタートだ。私の高校生活は希望に満ちている。

 そうであればいい。誰だって、寂しい高校生活よりも楽しい高校生活のほうが良いに決まっているのだから。


 行きかう車を見ながら、傘を差して歩道の端っこを歩く。

 朝から降っていた雨は、より強さを増している。足元の水溜りに無数の波紋が生まれ、揺らいでいる。通りの看板も雨に煙り、大人たちは心なしか早足で歩いていた。


 雨の中、はしゃいでいるのは元気な子どもたちだけだ。水溜りに長靴を突っ込んで遊んでいる子どもたちを見て、若いなぁ、なんて思う。あの子たちよりも年を取ってしまった私は、一時の水遊びよりも濡れた靴の心配が先に立つ。大人になるというのはきっとこういうことなのだろう。


 大きな住宅の庭には、目を奪う鮮やかな黄色い花をつけた、アカシアの木が植えられていた。葉の先端からぽたん、と雨の雫が落ちてきて、私の傘を叩いた。

 あの桜はどうなっているだろう。


 ふと私の脳裏をよぎったのは、近所にある公園の桜だった。公園の中にはちょっとした桜並木がある。そして、その桜並木から外れたところ、公園の出口に近い場所にも何故か一本だけ桜が植えてあるのだ。


 なんで一本だけ離れた場所に植えられているのか、理由はよくわからない。

 でも、私は桜並木よりも、あの桜のほうが気になった。群れからはぐれて、たった一本だけで凜と咲く、あの若い桜が。


 私は足のつま先の方向を変えた。


 傘を差していても、雨に打たれ続ける真新しいローファーのことを思えば、早く家に帰るべきなのだろう。でも、気になってしまったのだから仕方ない。

 家に帰ってしまったらきっと、私は濡れた傘を畳み、きちんとボタンをかけて閉じてしまう。こんな雨の中、再び出歩こうとは思えない。出不精の私は、出かけたときは効率的に、全ての物事を片付けてしまいたい。


 十分ほど歩いて、公園に着いた。まだ咲いていないツツジを横目に見ながら、タイルで補強された歩道を抜けて、目的地へと向かう。途中、桜並木がある場所を覗いてみたけれど、人気はなかった。さすがに雨の中、花見をしている人はいないらしい。公園内にいるのは散歩中らしき老人と、私だけだった。


 アスファルトのひび割れに咲くタンポポを避けて、歩く。

 目的地である桜の前に、誰かが立っているのを見つけた。詰襟姿の男子生徒だ。まだ距離があるためよく見えないけれど、同じ高校の制服のようだった。雨に濡れるベンチの前で立ち止まり、桜を見上げている。


 ……高坂くんだ。

 彼もなんとなく桜のことが気になって訪れたのだろうか。

 声をかけようとした私は、彼の表情を見て、言葉を喉元で飲み込んだ。

 疑問が泡沫のように胸に浮かび上がる。

 彼はどうして、あんな顔をしているのだろう。


 見ている私が哀しくなるような――寂しそうな目。


 迷子のような目をして、彼は雨の公園で一人、桜を見上げていた。

「…………」

 声をかけるのはためらわれた。見なかったことにして立ち去るべきなのだろうか、そんな考えも頭を掠めた。ここは多分、私が踏み込んでいい領域じゃない。私と彼はそれほど親しい間柄でもない。どうしたの? なんて、気安く聞ける雰囲気じゃない。


 でも――でも。

 放っておけない。

 私はきゅっと唇を噛んでから、口を開いた。

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