第19話 ある雨の日の(1)
「じゃあねー、また明日!」
「うん、またねーくるみん」
入学式、記念撮影、HR――等々、今日の日程の全てを無事に終えた私は、T字路で菊池吉乃と手を振って別れた。
吉乃ちゃんはショートカットで背も高い、ボーイッシュな少女だ。中学ではテニス部に所属していて、高校でもそのつもりだと言っていた。
前の席の彼女が明るくて社交的で、仲良くなれそうなことに私は心底ほっとしていた。どちらかというと私は積極的なタイプじゃないから、向こうから話しかけてくれたのは嬉しかった。会話も弾んだし、本当に良かった。
学校生活において、雑談を楽しんだり行動を共にできる友達がいるかどうか、これは女子にとって大問題である。くるみんというちょっと変わったあだ名で呼びたいと言われたときは面食らってしまったけど。ピクミンみたいだなぁなんて思った。
どんな人だろうと思っていた友永くんも、吉乃ちゃんと似たタイプで、愛嬌があって人懐っこい。ゲームという共通の趣味があったから、話題にも事欠かなかった。
うん。幸先の良いスタートだ。私の高校生活は希望に満ちている。
そうであればいい。誰だって、寂しい高校生活よりも楽しい高校生活のほうが良いに決まっているのだから。
行きかう車を見ながら、傘を差して歩道の端っこを歩く。
朝から降っていた雨は、より強さを増している。足元の水溜りに無数の波紋が生まれ、揺らいでいる。通りの看板も雨に煙り、大人たちは心なしか早足で歩いていた。
雨の中、はしゃいでいるのは元気な子どもたちだけだ。水溜りに長靴を突っ込んで遊んでいる子どもたちを見て、若いなぁ、なんて思う。あの子たちよりも年を取ってしまった私は、一時の水遊びよりも濡れた靴の心配が先に立つ。大人になるというのはきっとこういうことなのだろう。
大きな住宅の庭には、目を奪う鮮やかな黄色い花をつけた、アカシアの木が植えられていた。葉の先端からぽたん、と雨の雫が落ちてきて、私の傘を叩いた。
あの桜はどうなっているだろう。
ふと私の脳裏をよぎったのは、近所にある公園の桜だった。公園の中にはちょっとした桜並木がある。そして、その桜並木から外れたところ、公園の出口に近い場所にも何故か一本だけ桜が植えてあるのだ。
なんで一本だけ離れた場所に植えられているのか、理由はよくわからない。
でも、私は桜並木よりも、あの桜のほうが気になった。群れからはぐれて、たった一本だけで凜と咲く、あの若い桜が。
私は足のつま先の方向を変えた。
傘を差していても、雨に打たれ続ける真新しいローファーのことを思えば、早く家に帰るべきなのだろう。でも、気になってしまったのだから仕方ない。
家に帰ってしまったらきっと、私は濡れた傘を畳み、きちんとボタンをかけて閉じてしまう。こんな雨の中、再び出歩こうとは思えない。出不精の私は、出かけたときは効率的に、全ての物事を片付けてしまいたい。
十分ほど歩いて、公園に着いた。まだ咲いていないツツジを横目に見ながら、タイルで補強された歩道を抜けて、目的地へと向かう。途中、桜並木がある場所を覗いてみたけれど、人気はなかった。さすがに雨の中、花見をしている人はいないらしい。公園内にいるのは散歩中らしき老人と、私だけだった。
アスファルトのひび割れに咲くタンポポを避けて、歩く。
目的地である桜の前に、誰かが立っているのを見つけた。詰襟姿の男子生徒だ。まだ距離があるためよく見えないけれど、同じ高校の制服のようだった。雨に濡れるベンチの前で立ち止まり、桜を見上げている。
……高坂くんだ。
彼もなんとなく桜のことが気になって訪れたのだろうか。
声をかけようとした私は、彼の表情を見て、言葉を喉元で飲み込んだ。
疑問が泡沫のように胸に浮かび上がる。
彼はどうして、あんな顔をしているのだろう。
見ている私が哀しくなるような――寂しそうな目。
迷子のような目をして、彼は雨の公園で一人、桜を見上げていた。
「…………」
声をかけるのはためらわれた。見なかったことにして立ち去るべきなのだろうか、そんな考えも頭を掠めた。ここは多分、私が踏み込んでいい領域じゃない。私と彼はそれほど親しい間柄でもない。どうしたの? なんて、気安く聞ける雰囲気じゃない。
でも――でも。
放っておけない。
私はきゅっと唇を噛んでから、口を開いた。
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