第6話 2匹の猫と

 三毛猫のミケが死んでから、実に三年ぶりに触る猫の感触は、やはり心地よいものだった。猫が膝の上にいて、思う存分撫でることができる。

 これを至福といわずになんというのだろう。


 さっきまで感じていた寂しさはもうない。地平線の彼方に消え去った。

 室内の温度は変わっていない――いや、むしろ一度窓を開けたおかげで少し下がってもおかしくはないのに、二匹の猫が来ただけで寒さすら感じなくなったのだから、人間の体感温度というのは意外と適当なものだ。


 ……とはいえ。

 床の上に座っているノエルを見つめる。


 ミヤビは『好きにしなさい』という感じでくつろいでいるけれど、ノエルのはそうではないのが傍目にもわかる。緊張しているらしく、床の一点を見つめてじっとしている。


 ミヤビ曰く、この子は人見知りで、コミュ障――コミュニケーションを取るのが苦手だ。いくら高坂くんに頼まれたからといっても、初対面の人間の家に来るのは精神的にも辛かったのだろう。


 高坂くんは何故この子を派遣したんだろう。ミヤビだけのほうが良かったんじゃないかな。


「ねえノエルくん」

「は、はいっ?」

 身体が跳ねたし、返答する声も裏返った。うん、これはやっぱり、派遣する人選ミスならぬ、猫選ミスのような気が。


「しんどかったら下りていいよ?」

「い、いえ、大丈夫……です。すみません」

 ノエルは恐縮したように言った。


 部屋にあがるときも、ミヤビは遠慮なくあがったのに対し、ノエルは『猫の毛って気にしませんか? 律さんが毎日ブラッシングしてくれてるから、そこまで落ちないとは思うんですけど』と確認してきた。ここまで人間に気を遣う猫もいないんじゃないかな。


「あの……ぼくも触ってもいいですよ?」

「う、うーん、申し出はありがたいんだけど……」

 苦笑する。私はあきらかに怖がっている猫を触れるほど無神経じゃない。


「また今度、君に信頼してもらえたときのお楽しみにするよ。野良猫だって、そう簡単に撫でさせてはくれない子がほとんどだから」

 スキンシップを図るのは、信頼を深めてからが常識だ。誰だって、見知らぬ他人に触られたら不快感しか覚えない。それはきっと猫も人間も一緒だろう。


「……そうですか」

「いくら高坂くんに言われたからって、知らない人間のところに来るのは怖かったよね。来てくれてありがとう」

「い、いえ、そんな」

 できるだけ柔らかく、優しく。それが誰かと仲良くなるためのコツだ。特にノエルのような、人見知りの子には。


 微笑むと、ノエルは多少、緊張が解けたらしく、立ちっぱなしだった耳を少し下げた。


 テレビの番組が終わる。もう2時になるらしい。

 高坂くんもまだ起きてるのかな。

 ちらりとリビングの壁を見る。この壁一枚を隔てた向こうに、彼がいる。


「寝なくていいの? くるみ」

「うーん、寝ようとはしたんだけどね。なんとなく眠れなくて」

「そう。律があたしたちを寄越したのは正解だったらしいわね。電気もつけずにぼーっとテレビ見てるなんて、寂しい人間の極致じゃないの。もしかして泣いてた?」

「な、泣いてはないよっ」

 私は急いで否定した。

 泣く寸前ではあったけど、と胸の中だけで付け加える。


「なら良いけど。でないと律がもっと早くあたしたちを寄越しとけば良かったって要らない後悔をしそうだもの。間に合ったみたいで何よりだわ」

 ミヤビは尻尾を小さく動かした。


「律さんは優しい人ですからね」

「優しすぎて損よ、あの性格。隣人がホームシックで泣こうが喚こうが関係ないのにねぇ」

「喚かれたらうるさくて迷惑だと思いますけど」

「そっか。大家さんに相談しなきゃいけなくなるわね。ま、律を困らせる人間なんてあたしが許さないけど。どんな手を使ってでも追い出すわ」

「ミヤビさんは本気でやりそうなので怖いんですが……」

「やるわよ。殺ってやるわよ」

「いま『やる』の意味が恐ろしいものになってたような」

「気のせいよ」

「ねえ」

 声を上げると、ソファの上下で話し合っていた二匹がこちらを向いた。ノエルは曲がっていた背筋を再び伸ばし、ミヤビはぴくりと片耳を動かして私を見上げる。ついでに爪を見せ付けるようにして上げていた前脚も下ろした。


「どうして高坂くんはあなたたちを寄越してくれたんだろう」

 高坂くんと私は今日偶然知り合っただけの間柄。関係性を表すならば『顔見知り』程度で、『友達』ですらない。道案内をしてもらって、少し話しただけで友達になれるなら多分、皆人間関係で悩むことはないだろう。


 彼が優しい人なのは知っている。混雑する渋谷駅の構内で、彼だけが足を止めて、私に声をかけてくれた。額にできたたんこぶの心配をして、迷子の私に付き合ってくれた。


 でも、隣に住むことになったその子がホームシックで泣いているかもしれないからって、わざわざ飼い猫に様子を見に行かせたりするだろうか。


 私ならそこまでしない。ほとんどの人間はそうだと思う。

 それなのに、彼はそうした。

 彼はまたしても、私が寂しさで涙を流す前に止めてくれた。

 彼は自分のことを『優しくない』と言っていたけど、言葉と行動が大いに矛盾している。私の膝にいる猫と、足元で見上げている猫がその証拠。


 彼に遣わされたこの二匹がいなかったら、私は寂しさに負けていた。東京に来たことを後悔してしまっていた。


「だから言ったでしょ、律は優しいのよ。きっと人一倍寂しい思いをしてきたから、寂しさには敏感なの。善人に思われたくないらしいけど、根っからの善人なのよねぇ。そこがまた律の魅力でもあるんだけど。あ、でも、惚れるんじゃないわよ。律の彼女候補生はもういるんだから」

 私の膝の上から下りて、ミヤビは隣に座った。


「彼女候補生?」

「そうそう。2階の203号室に住んでる律の先輩よ。同じ高校に通ってる人で、今年3年生で、よくわからないけど『せーとかいしょき』をしてるんだって。凄く優しくて綺麗で、あの人なら律の彼女になってもいいわ。許す」

「ミヤビさんは一体どこの立場から許可を出してるんですか……?」

「ふふ」

 二匹の掛け合いが漫才みたいで面白くて、私は笑った。


「そっか、そんな人がいるんだ。ここは学生向けのアパートだから、同じ学校に通ってる人が多いのかも。明日にでも挨拶に行ってみようかな……」

 不意にこみ上げてきた欠伸を噛み殺す。ベッドにいたときは全く眠気などなかったのに、二匹が来て気が緩んだのか、瞼が重くなってきた。


「あんたいま、欠伸を噛み殺したでしょ。深夜まであたしのお喋りに付き合わされた律と同じ顔してるもの」

 一連の動きを見ていたらしく、ミヤビが目つきを鋭くした。


「う」

「あたしたちが帰っても、もう寂しくはないでしょ?」

「うん」

「そ。律からあんたへの伝言なんだけどさ、『返却はいつでもいいよ』だって」

 その伝言に、私はきょとんとした。

「……返却って、ミヤビちゃんたちのこと?」

「そうよ。あんにゃろう、あたしたちをレンタルショップのCD扱いしてるんだから。失礼しちゃう」

 ミヤビは目をつりあげて、般若の形相をしている。


「なんかムカつくから、しばらく居候してやってもいいわよ。それであたしたちの大切さを知ればいいんだから」

 ミヤビはソファの上でうつ伏せのポーズを取った。拗ねているらしい。

「ぼくは何も言ってないんですけど、ぼくも居残り決定なんですか?」

「あんたに物事の決定権はない」

「なんでですかっ!?」

「ガキだからよ」

「ミヤビちゃん、気持ちはわかるけど帰ってあげて。私は十分あなたたちに救われたから。あなたたちが帰っても私はもう寂しくないよ。ありがとうって、高坂くんにも伝えて欲しい」

 ミヤビの頭を撫でると、ミヤビは「むー……」と唸った。


「大事な飼い猫が二匹ともいなくなっちゃったら、高坂くんが寂しいと思うんだ。ミヤビちゃんは高坂くんのことが大好きなんでしょう? ノエルくんも、私の家じゃくつろげないよ。私だっていきなりほとんど知らない人の家に泊まれって言われても困るもの。ね? ミヤビちゃんは愛らしくて美しくて可憐で思いやりがあって優しくて健気で繊細で儚い美猫なんでしょう?」

「あんな長台詞、よく覚えてたわね……」

「記憶力には自信があるの」

 得意げに胸をそらすと、ミヤビは不思議そうに首を傾げた。


「方向音痴なのに?」

 高坂くんに渋谷駅で迷っていた事実を聞いたらしい。

「……方向音痴と記憶力は関係ないもん……」

 私は小声で言った。


「そっか、じゃあ、帰ろうかしらね。ノエル」

「そうですね」

 ミヤビに応えるノエルの声は少々弾んでいた。やっぱり帰りたかったらしい。


「うん、今日はありがとうね、二匹とも」

「そう思うなら今度はカニかま用意しといてね」

「わかった」

 私は笑いながら、二匹の猫を連れてベランダへと向かったのだった。

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