第5話 突撃・隣のデリバリーキャット
引っ越し作業で疲れているはずなのに、妙に意識が冴えてしまって、眠れない。
慣れないベッドに横たわっているせいだろうか。
ひたすら自分に眠れ眠れと言い聞かせていた私は、諦めて仰向けになり、薄闇の中で目を開けた。
枕元に置いた携帯を取り上げて時刻を確認してみる。
眩しい液晶画面に表示された時刻は、夜の1時半過ぎ。
いつもならとうに家族皆で眠っているはずの時間。
ベッドに入ったのが12時過ぎだから、1時間以上も眠れずに懊悩していたことになる。
私は小さく吐息して、天井を見上げた。
見慣れない天井と壁。家とは違う間取りに、家から持ってきた家具たちが並んでいる。本棚の上に置いてあるのは、昔おばあちゃんが飼っていた三毛猫によく似たぬいぐるみ。太った不細工な猫だったけど、その不細工ささえ可愛かった。
――ミケは庭に迷い込んできた野良猫だったんだよ。可哀想なほどがりがりの子猫でねぇ、ぶるぶる震えてて。見てるだけで悲しくなって、我慢できずに引き取ったのさ。いまじゃこんなに丸々と太って、見る影もないけどね。
おばあちゃんはミケを撫でながらそう言った。
その言葉はわかるような気がする。
がりがりに痩せ細った猫よりも、丸々と太った猫のほうが幸せそうで好きだ。
おばあちゃんの膝の上で丸まっていたミケは、見ているだけで微笑ましかった。
在りし日の懐かしい思い出が蘇りそうになり、視線を移す。
通りに面したモスグリーンのカーテンの隙間から光が漏れている。
都会の夜は明るい。深夜でも眠る気配を見せない。
大通りで車が走る音と、道行く人の声も聞こえる。
ひときわ大きな笑い声が弾けた。声の高さからして、あれはきっと若者たちの笑い声だ。こんな深夜にどこに出かけていたんだろう。
なんて楽しそうな笑い声なんだろう。
親元を離れて、私は一人。夜更かししたって、もう誰も怒らない。
お菓子を食べたってゲームをしたって、華やかな夜の街に出歩いたって――何をしたって自由なのに。
私はいま、どこまでも自由で、どこまでも孤独だ。
自由という名の荒野に放り出されたよう。
ベッドの隣、左手の空間を見る。実家では、親子三人が同じ和室に布団を敷いて眠っていた。私が一番端っこで、真ん中に母、その隣が父。
でも、私の左隣には誰もいない。
そもそもこの部屋は洋室で、親子三人が眠れるほどのスペースもない。
お父さんの豪快な鼾にはお母さん共々悩まされていた。
不思議なもので、なくなるとそんな騒音すら寂しく感じるものらしい。
気づけば若者たちは移動したらしく、もう声も止んでいた。聞こえてくるのは車の音だけ。大音量で流されていた車内の音楽も、数秒も経てば遠ざかり、消えていく。
ベッドから下りて、テレビのリモコンを取り上げる。
東京は驚くほど番組が多い。地元では放送されていなかったアニメも放送されているし、音楽番組も再放送じゃないから、最新版のヒットチャートを知ることができる。
とても便利だ。ここでは情報も、流行も、何もかもが最先端。
チャンネルを切り替え、バラエティー番組で止める。出ているタレントやトーク内容にも興味がなかったけど、とりあえずこの番組が見ていて一番明るくて、楽しそうに見えたからだ。
暗いところでテレビを見ると目が悪くなるだろうか。でも、照明をつけるために立ち上がるのも億劫だった。
テレビ画面の明るさに合わせて、部屋の中が明るくなったり暗くなったりする。光が網膜を焼いて、眩しい。
そのまま、十数分が過ぎる。
もう春だというのに空気が冷たい。
テレビの明るい笑い声と、部屋の静寂と寒さが氷みたいに肌を刺し、私はベッドの縁に背を預け、床の上で膝を抱えた。
唇を結んで、そのまましばらく、睨みつけるようにテレビを見ていると。
トントン。
ベランダに面した大きな窓を、誰かが叩く音が聞こえた。
「…………?」
顔を上げて、カーテンが閉じられた窓を見る。
聞き間違いだろうか。こんな深夜に窓を叩く人がいるとは思えない。
私に用事があるとしても、ベランダから訪れるなんてありえない。
一階だから、忍び込むのは簡単だろうけど……って、忍び込む?
総毛立つのを感じた。
都会には色んな人間がいるということを、私は今日学んだ。冷たい人、マナー知らずの人、優しい人、愛想の良い人、親切な人。
私が知らないだけで、都会には他にもたくさんの人がいるのだ。
たとえば、痴漢とか。
「…………」
護身用の武術を習ったこともない、ごく一般的な女子である私は、どうしたら良いのかわからず固まった。
緊張に心臓は跳ね回り、噴き出た冷や汗が背中を濡らしていく。
一人であることにここまで恐怖を覚えたのは初めてだ。
ど、どうしよう。
警察に電話するべきなんだろうか。いや、不審者だと決め付けるのはまだ早い。
大丈夫、鍵はきちんと掛けてある。窓ガラスを割るなんて暴挙に出られない限りは大丈夫。そっとカーテンの隙間から覗いて、確かめてからでも遅くはない、大丈夫……
大丈夫と繰り返し自分に言い聞かせながら、唾を飲み込み、そっと立ち上がろうとしたところで。
「ちょっと、起きてるんでしょう? それともテレビつけたまま寝てるの? 寝てるなら寝てるって返事しなさいよ」
聞き覚えのある声がして、私は目を見開いた。
「ミヤビさん、無茶言わないでください。寝てたら返事なんてできるわけないじゃないですか。本当に寝てたら悪いですよ。声をかけろなんて言われてませんよ?」
たしなめるような声も聞こえた。まだ若い、子どもの声だ。恐らくは男の子。
緊張が消えていくのを感じながら、私はベランダへ向かった。
リビングの扉を開けるとすぐにベランダで、その前にはちょっとした庭がある。
「だって、カーテンがきっちり閉まってて見えないんだもの。どうやって寝てるか起きてるか確認しろって言うのよ。声をかけて反応を窺うしかないじゃない」
「それはそうかもしれませんけど……」
「安眠を妨害するほど大きな音を立てたわけでもないしさ。あと十秒だけ待って反応がなかったら、寝てると判断して帰りましょ」
カーテンを引き開けると、何やら小声で話している二匹の猫がいた。
細い通りの外灯に照らされて、猫の体毛の色まではっきりとわかる。一匹はオッドアイを持つ白猫、もう一匹は緑色の瞳の黒い子猫だった。白猫に比べて一回り小さい。
黒猫は突然カーテンが開いたことに驚いたらしく、耳を立てて固まっている。
白猫は左右異なる瞳の色でじっと私を見上げ、その目を細めた。
「あら、律の言った通りね。起きてた」
私は窓を開け放った。薄着のパジャマに夜気が身に滲みて、寒い。
でも、私は寒さよりも二匹の猫の存在に戸惑っていた。
一匹はミヤビ。それはわかる。けれど、もう一匹は初対面だった。
この子が高坂くんのもう一匹の飼い猫のノエルだろう。これで全くの他人ならぬ他猫だったら衝撃だ。世の中には一体どれだけ喋る猫がいるのかと本気で悩んでしまう。
「……どうしたの、二匹とも。こんな夜更けに」
「どうもー、突撃・隣のデリバリーキャットでーす」
ミヤビはおどけたように言って、前脚を上げた。
「デリバリー……?」
ミヤビの発言は、私の頭の中の疑問符をさらに増殖させた。
「何よ。このあたしがせっかく小粋な挨拶をしてやったっていうのに、ノリが悪いわねぇ」
首を傾げた私に、ミヤビは不服そうに鼻を鳴らした。
「あ、えっと、あの……こ、こんな夜更けに突然すみません」
怯えたように、ノエルは一歩下がった。怒っている自覚もないし、口調で責めたつもりもないんだけど、どうも怖がらせてしまったらしい。愛想良く笑って、優しく言えばよかったなと、私は出迎えの態度を反省した。
「ぼくはノエルっていいます。ミヤビさんと同じで……律さんの飼い猫です」
ノエルはお辞儀するように頭を下げた。
「その、実はぼくたち、律さんにあなたの様子を見に行くように言われて来たんです。一人暮らしを始めたばかりで、ホームシックになって泣いてるかもしれないって」
「え」
私は唖然とした。高坂くんが、そんなことを?
「窓からそーっと様子を見てくるだけでいい、寝てたら寝てたで構わないって言われてたのに、なんで思いっきりノックして起こすようなことするんですか、ミヤビさん。起きちゃったじゃないですか!」
「これは寝起きの顔じゃないわよ。反応の速さからしても、本当に起きてたんでしょ? だから問題なし」
ノエルの抗議に、ミヤビはしれっとした顔――だろう、多分――で言った。
「大有りですよ! なんでミヤビさんはやることなすこと適当なんですか!? これじゃ律さんの気遣いが台無しです!」
「うっさいわねー、律が寝てるあたしを叩き起こすから悪いのよ。大体、話し相手ならあんただけで良かったじゃないの」
「ぼくとくるみさんは会ったことがないんですよ!? 初対面の猫に『慰めに来ましたー』って言われても戸惑って警戒されるだけじゃないですか! 何を話せって言うんですか!」
「あんた人見知りだもんね。元は引きこもりのコミュ障だし。いや、いまでもか」
「ひ、酷いです!」
「……えっと、二匹とも、言い争うのはそれくらいにして、とりあえず中に入って。こんな深夜に大声出すとご近所迷惑だろうし、あなたたちが喋れるっていうのは一応内緒なんだよね?」
『あ』
自分自身のことだというのに、二匹はようやくそのことについて思い出したらしく、揃って前脚で口を塞いだ。
その様子が可愛らしくて、私はつい噴き出したのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます