第7話 童話の中のお姫様のような

「ねえお母さん、今日もこの絵本がいい!」

「あんたは本当にシンデレラが好きねえ」

 幼い頃、私は『シンデレラ』が大好きだった。寝る前、母に読んでもらうのは決まって何度も読み返されてぼろぼろになった一冊の絵本。

 継母と姉たちに日々いじめられていた可哀想な少女が、魔法使いのおかげで可憐に変身し、舞踏会で王子様に見初められる。


 シンデレラは女の子の夢が詰まったような物語。


 絵本に描かれているのは、透き通るガラスの靴に、宝石を散りばめたドレスとティアラを身に纏ったロングヘアの美しい少女。

 きらきらとシャンデリアが輝く立派な王城で、自分の手を取るのは世界でたった一人、私だけの素敵な王子様――。


 母が感情豊かに物語を話すたび、私はシンデレラに自己投影し、胸を躍らせたものだった。

 いつか私にも素敵な王子様が……


 ……なんて、世の中はそんなに甘くはない。

「天パはちょっと」

 とある男の子に、失笑とともに言われた言葉が蘇る。

 ああ、あれは、砂糖の入っていない珈琲のように、とても苦い記憶。



 ジリリリリ……

「わかった、わかりました、起きます……」

 枕元で大騒ぎする携帯に白旗を揚げて、アラームをオフにする。


 設定音量が大きすぎたかもしれない。隣家までそれなりの距離がある田舎の一軒家ならともかく、ここはアパートだ。今度は音量を少し下げておくことにしよう。

 徹夜したせいで瞼が重いけど、8時までにゴミを出さなければ。


「ふわぁ」

 大きな欠伸を一つ。目尻に浮かんだ涙を手の甲で拭い、ベッドから下り、カーテンを引き開ける。どんなに眠くても、こうして太陽の光を浴びれば自然と意識もはっきりする。

 いい天気だ。透き通るような水色の空に白い雲が浮かび、雀が呑気に鳴いている。


 見える景色は全然違うけれど。田舎で見る空も、都会で見る空も、変わらず綺麗だと素直に思える。


「……っと」

 目の前の細道を歩く人影を見つけて、私はカーテンを閉じた。

 通りに面した庭には鉄柵の前に木が植えてある。でも、人目を避けるには完全ではない。枝葉の隙間から覗こうと思えば覗くことができる。


 しまった、ここは実家じゃないんだから。

 パジャマ姿で不用意にカーテンを開けてしまった自分を恥じつつ、レースカーテンを引いておく。陽光を取り入れ、なおかつあまり見られたくないのならこれが一番だ。


 手でセミロングの髪に触れる。今日は跳ね具合もそこまでではなく、ほっとした。母譲りの激しい天然パーマがかかった私の髪は、その日の湿気の多さで膨らみ具合が違う。梅雨の時期なんて最悪だ。冗談抜きでコントの爆発後みたいな大惨事になる。兄も天然パーマだけど、私ほどではないから羨ましい。


 さあ、毎朝の習慣としてシャワーを浴びよう。

 ついでに夢に見てしまった憂鬱な記憶も全部、水に流してしまおう。

 私は着替えを手にお風呂場へと向かった。



 高坂くんに会えたら、昨日の――正確には今日の――お礼を言わなくちゃ。

 ひょっとしたらゴミを出すときに会えるかもしれない。

 そう思いながら、アパートの前の集積所にゴミを出し、備え付けのネットを被せていた私は、

「おはようございます」

 背後から聞こえた挨拶に振り返った。


「初めて見るお顔ですね。ひょっとしてあなた、昨日引っ越してきた方ですか?」

 そう言って愛想よく微笑んだのは、美しい少女だった。

 艶やかに流れるストレートの長い髪は、まさに私の理想の髪質そのもの。陽光を浴びて天使の輪ができている。

 筋の通った鼻梁、二重の瞳、桜のつぼみのようにピンクに色づいた唇。細身なのに胸は大きめで、佇んだその姿には品がある。


 ……なんて綺麗な人だろう。

 私は彼女の存在感に圧倒されてしまった。

 デフォルメされたクマがプリントされた野暮ったいフードつきのパーカーに、歩きやすそうなサンダル、片手にはゴミ袋。ありふれた庶民の格好をしているのに、溢れ出るオーラが彼女を庶民という簡単な言葉で片付けることを許さない。光り輝く宝石のようだ。


 今朝見た夢を思い出す。

 彼女のような人こそ、お姫様に相応しいんだろうなぁ……


「あの?」

 私が絵本の主人公と彼女を重ね合わせ、ぼうっと見惚れていたせいだろう。少女は小鳥のように小さく首を傾げた。その仕草がとても似合う。


「あ、はい、そうです。おはようございます」

 私は我に返るや否や、会釈をした。

 同性相手に見惚れるなんて前例のない経験だった。慌てて口早に言う。

「昨日104号室に引っ越してきました、日下部くるみです」

「私は203号室の有栖川白雪ありすがわしらゆきです。ちなみに桜庭高校に通ってて、今年3年生になります。よろしくお願いしますね」

 あ。

 胸中で呟いて、私は口を半開きにした。

 私の隣をすっと横切った、凛とした背中を見つめる。彼女の動きに合わせて揺れる髪は陽光を受けて、一本一本が透けるようだった。


 203号室の住人。

 彼女こそ、ミヤビが高坂くんの『彼女候補生』と言っていた人だ。


 なるほど、彼女ならば高坂くんの隣にいても全く見劣りしない。もしも二人が交際することになったら、誰もが羨む美男美女カップルが出来上がるだろう。ミヤビが見た目だけで勝手に判断したのだとしても、この美しさならば納得できる。


 有栖川白雪。名前すらもお姫様らしい。不思議の国のアリスと、白雪姫。

 アリスはお姫様というわけではないけれど、童話の主人公であることには変わりない。彼女がお姫様なら、私は名もない村娘Dくらいかな。


「ありがとう」

 ゴミを出しやすいように、私がネットを上げると、有栖川さんは口角をそっと持ち上げて微笑した。


「い、いいえ」

 あまりにも魅力的な笑顔に、どぎまぎしてしまう。

 お姫様に笑顔という名の褒美を賜ってしまった。

 こんな顔で微笑まれたら王子様も虜になるだろう。同性の私ですら不覚にもときめいてしまったのだから。


「あの、私もこの春から桜庭高校に通う1年生なんですよ。有栖川先輩……と呼ばせてもらってもいいでしょうか?」

「ええ、もちろん。気軽に白雪先輩と呼んでもらえたら嬉しいわ。良かったら、私もくるみちゃんと呼ばせてもらえたら嬉しいのだけれど……とても可愛いお名前だし」

 有栖川先輩はねだるように、じっと私を見つめた。上目遣いの、少し潤んだ瞳で。


 ……余談だけど、『ねだる』と『ゆする』はどちらも『強請る』と書く。

 何が言いたいかというと、こんな美人にこんな顔で見つめられて、断れる人はいないということだ。もうこの世の真理といってもいいほどに。


「どうぞ。それでは、白雪先輩」

「ありがとう、くるみちゃん!」

 美人が童女のように無邪気に喜んでいるのを見ていると、名前にちゃん付けされて感じる気恥ずかしさなんてまあいいか、という気分になるから不思議だった。

「やったわ、桜庭荘に待ち望んでいた女の子が来てくれた! 存続の危機だったけれど、最後の一年も開催できるかも……!」

 喜色満面に、白雪先輩は不思議なことを言った。


「なんのことですか?」

「あら、ごめんなさい。私ったらついはしゃいでしまって」

 彼女はこほん、と軽く咳払いしてから、悪戯っぽく笑った。

「くるみちゃん、紅茶はお好き?」

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