第3話 渋谷駅にて(2)

「あ、ごめん。セクハラ紛いなことをしてしまった」

 固まっている私に気づいたらしく、少年は手を引っ込め、苦笑した。


「い、いえ……」

 そう言いながら、私は心の底から安堵した。あともう少し彼が額に触れていたら、溢れ出るオーラにあてられて気絶していたかもしれない。


「子どもの頃に、弟が椅子から落ちて床に豪快な顔面ダイブを決めたことがあってさ。額に大きなたんこぶを作ったんだ。そのときを思い出してつい。後で冷やしたほうがいいよ?」

 ひょっとしたらこの人、本当は一部始終を見ていたのかもしれない。

 けれど、それを直接指摘したら私が恥ずかしいと思って、遠回しに助言してくれたのかな?

 勝手な想像だけど、私は心が温かくなるのを感じた。


「そうですね、そうします。わざわざ声をかけてくださってありがとうございました」

 ぺこりと頭を下げる。

「大げさだな」

 彼は困ったような顔をした。

「いえ、声をかけてくださっただけで十分ですよ。実は私、今日田舎から上京してきたばかりなんです。渋谷は前に母と一緒に来たんですけど、駅の中に入るのは初めてで、迷子になってしまって……道を尋ねようにも怒られて、落ち込んでたんです。都会の人は冷たいんだって、危うく誤解するところでした。でもやっぱり、あなたみたいに優しい人もいるんですね」

「……。俺は別に優しくないよ。君に声をかけたのだって、ただの気まぐれだし」

 褒められるのは苦手なのか、彼はそんなことを言った。


「でも、その気まぐれに私が助けられたのは事実です」

「……。そんなまっすぐな目をされると困るんだけど……」

 彼は頬を掻いてから、肩を竦めた。

「いいよ、気まぐれタイム持続ってことで。どこ行きたいの。近くなら案内してあげる」

 彼はじっと私を見つめた。照明を受けて輝く、印象的な、鳶色の瞳。


「えっ、いいんですか? ハチ公に会いたいんです!」

「ならこの階じゃないよ。こっち。ついてきて」

 勢い込んで尋ねた私に、彼はそう言って歩き出した。

 バッグを肩に掛け直し、慌てて後を追う。

 私に配慮してくれているのか、彼の歩くペースはそこまで速くなかった。


「すみません、ありがとうございます。お詳しいんですね、この辺に住んでおられるんですか?」

「いや、全然違うところ。今日はたまたま遊びに来ただけで、別に詳しくはないよ。この駅は確かにややこしい造りだけど、案内板にさえ従ってればそこまで迷わずに済むだろ」

「う」

 彼の台詞が頭に突き刺さり、私はその重みに項垂れた。


 彼の言う通り、案内板はそこかしこにたくさんある。それでも辿り着けないのは、私が極度の方向音痴であるせいか、理解力に乏しい馬鹿であるせいか。学校の成績はそんなに悪くないんだけどな。


 方向感覚って、どうやったら養えるんだろう。お母さんは地図があったらどこへでも行ける人だけど、私は地図があっても活用できない。携帯のアプリを起動して、あっちこっちへスマホの先端を向けながら、それに従って歩くしかないんだ。ちなみにこのアプリ、駅の構内では全く役に立たなかった。


「迷ったなら駅員や、歩いてる人に聞けばよかったのに。一回や二回道案内を断られただけで落ち込むなんて、相当甘やかされて育ったんだね」

「うう……」

 全くの正論で、ぐうの音も出ない。


「それでもいま一人でいるってことは、これから一人暮らしでもするの?」

 人の波に乗ってまっすぐに通路を進み、彼は左手のエスカレーターに乗った。

「はい」

 私は一段空けて、彼の後ろに続いて乗った。


「じゃあもっと図太くならなきゃ駄目だよ。繊細なのは良いけど、いちいち細かいことに傷ついてたらこの先やっていけないよ。君のことをなんとも思ってない人の態度に振り回されてどうするの。落ち込む暇があるなら、気持ちを切り替えて他に寄り添ってくれる人を捜したほうがよっぽど建設的だ」

 彼は真面目に説くわけでもなく、世間話でもするような調子で語った。

 別に聞き流しても構わない、そんな態度だった。


「都会には善人も悪人も、色んな人がいるんだ。これからたくさんの人と出会う中で、一生ものの人に巡り合えたらいいね。頑張れ」

 最後の言葉を言うときだけ、彼は私を振り返った。口元が小さく上がっている。

 頑張れ。

 何気ない一言は、強く私の胸を打った。


 初めて一人で田舎から上京して、期待よりも不安でいっぱいで。

 広い構内で迷子になって、声をかけた人には邪険にされて、挙句に日傘で転ばされて。

 泣きそうだった私に、彼は気づいて声をかけてくれた。


 それがどんなに、どんなに嬉しかったか。

 さらにこうして、励ましの言葉までくれた――。

 今度は違う意味で泣きそうだったけど、私は笑った。彼の笑顔に応えるために。

「頑張ります」

「よろしい」

 彼はおどけたように頷いた。

 あんまりその仕草が大げさなので、私はつい噴き出してしまった。


 ……敵わないなぁ。

 胸のうちで呟き、ひとしきり笑った後、私は尋ねた。


「あの、お名前を聞いても良いですか? 私は日下部くるみっていうんですが」

「内緒」

 彼の返答はそっけなかった。

 急に私から興味が失せたように、ふいっと前を向いてしまう。

 諦めきれず、私は食い下がった。


「で、ではせめて名字だけでも」

「言わない」

「……そうですか」

 しょんぼりと項垂れる。

 悪用なんてしないのにな……警戒されているのかな。

 怪しい人間じゃないですよ! ただの女子高生ですよ! と、声を大にして訴えたい。

 でも、言いたくないという相手に、無理は言えない。

 どうしたものか悩んでいる間に、エスカレーターが頂上に着いた。

 彼はエスカレーターを降りて、右手に曲がった。

 名前を教えてもらえず、落ち込んでいる私をどう見たのか、彼は振り返った。


「だって、言わないほうが多分、長く覚えててもらえるだろ」

「?」

 言っている意味がわからず、私は首を傾げた。

「ここで名前を言ったら納得して、それで終わりだ。でも、言わなかったら『結局あいつはなんだったんだ』って、名前も言わない変な奴として記憶に留めてもらえると思うんだよね」

「あー……」

 なるほど、確かに一理ある。あっさり名前を明かされるより、秘密にされるほうが気になるもんね。


 私の微妙な相槌を同意と解釈したらしく、彼は悪戯っぽく笑った。

「だから言わない。縁がなければこれっきり、もう二度と会うこともないだろうしさ。そんな奴の名前なんてどうでもいいだろ。きっと今日のことだってすぐに忘れる。記憶なんてそんなものだよ」

「じゃあ、もし縁があったら?」

 理屈はわかるけど感情が納得できず、私は尋ねた。


「そのときはもちろん、ちゃんと名前を教えるよ」

 彼は微笑んで、長い人差し指で前方を指差した。

「あっ」

 私は思わず声を上げてしまった。

 そこにあったのは、8番出口の案内。

 これこそ、私が三十分さまよっても見つけられなかった、『ハチ公前広場』……!!


「この階段を上ったらすぐだから、いくら方向音痴でもわかるだろ」

「はい。本当にありがとうございました」

「いえいえどういたしまして。じゃ、そういうことで」

「……本当に名前は教えてもらえないんですか?」

 何の未練も見せずに片手を上げた彼に向かって、私は最後に悪あがきをしてみた。上目遣いにじいっと見つめる。念力を込めて。


「うん」

 むむ。念力、通じず。

「では、せめて一つあなたを知るための情報をください」

 私の言葉は予想外だったらしく、彼は軽く目を見開いた。

 これは私なりに考えたが故の言葉。

 少し変わっている彼の対応に合わせて、私も最後に変わったことを言ってみようと思ったのだ。彼の言葉を借りるなら『変な奴として記憶に留めてもらえると思う』から。


 聞き分けの良い女の子としてすぐに忘れられるくらいなら、変な奴としてでもいいから少しでも長く記憶に留めておいてほしい。これは私のわがまま。

 だって、私はきっと、今日ここで出会ったあなたのことを忘れないもの。

 頑張れと励ましてくれたあなたのこと、一生忘れない。

 真剣な眼差しで見つめていると、彼は小さな笑みを浮かべた。見透かしたような笑顔だった。


 そして、ちょっとした秘密を打ち明けるように、真面目ぶった顔で言った。

「猫を飼ってる。普通とは違う、ちょっと変わった猫」

「猫……」

 猫を飼っている人はたくさんいるだろう。

 でも、彼もそうだとは、いま初めて知る情報だった。両親への報告に、ただの『名前も知らない少年』ではなく『猫を飼ってる名前も知らない少年』と、少しだけ情報量を増やすことができた。

 どんな猫なのか、メスなのかオスなのか、種類はなんなのか、興味は尽きなかったけど。


「じゃあね」

 彼は綺麗な微笑みだけを残して、人波の中へと混じり、すぐに見えなくなってしまった。

 ……都会には、あんな人も居るんだ。

 格好良くて、親切で、ちょっと不思議な人。

 彼のおかげで都会のイメージが一新された。

 本当に色んな人がいるんだ、都会って。

 怖いけど、面白いところだ。


 たかだか数人の対応だけでイメージを決めつけるなんて、失礼だよね。その何十倍も何百倍も人がいるのにさ。

 だいぶ軽くなった足取りで、私は階段を上った。


 額はまだずきずきと痛むけど、いまは大丈夫だと言い張れるほどの気力がある。

 大きなスクランブル交差点の近く、小さな広場のような場所で目当てのハチ公を見つけた。きちんとお座りして、まっすぐに前を向いているその姿からは、一種の風格すら感じられる。


 私は早速スマホを構えた。実家に戻る前は、この場所でお父さんとのデートの待ち合わせをしていたという、お母さんに送るために。

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