第2話 渋谷駅にて(1)
田舎から上京してきた者にとって、渋谷駅は強大な
私は駆け出しの冒険者の気分で、頼りないひのきの棒――もとい、ショルダーバッグを装備し、国内でも複雑怪奇極まりないターミナル駅に挑んでいた。
でも、三十分も経って目的地であるハチ公像に辿り着けないとあれば、負けを認めざるを得なかった。色んな場所を歩き回り、エスカレーターを何度も上ったり下りたりしたものだから、現在地すら不明。完全に迷子だ。
腕時計は既に昼の一時過ぎを指している。猶予はあと三十分だ。三十分以内に見つからなければ諦めるしかない。新居に引越屋さんのトラックが着いてしまう。
ハチ公……ハチ公ぉぉぉ!! あなたは一体どこにいるの!?
渋谷には前回母と一緒に来たけど、あのときはかの有名なハチ公を見ずに過ごしたから、今日は写真を撮って母に送るつもりだったのだ。
調べによれば8番出口から地上に出ればすぐにハチ公に会えるらしい。
でも、その8番出口がわからない。
「うう……」
おかしい。案内板を見て移動しているはずなのに、何故私は目的地に辿り着けないのだろう。この店はさっきも見たような気がする。
この明るいコンコース、さっきも通ったよね。
「ここはどこ……」
無駄に広い構内の片隅で、私は途方に暮れていた。
初めて一人で訪れた東京。前は母の後をついていくばかりで、何も考えずに済んでいた。
でも、それは大いなる過ちだった。
お母さんたちが何を見てどう判断したのか、どうしたら目的地に着けるのか、見ておけば良かった……!
構内の人々はさくさく進んでいく。全員、暮らしていた田舎の二倍速で歩いているような気がする。もはや競歩に見える。
都会の人たちは特殊な訓練でも受けているのだろうか。
構内はできる限り早く歩けと小さい頃から教育されてきたのかな?
駅員さんに道を聞こうとしても、みんな忙しそうで気後れしてしまう。
最寄り駅で暇そうに鼻をほじっていたあの駅員さんをここに連れてきたら、己の職務怠慢を認め、恥じ入るんじゃないだろうか。多分、多忙を極めるこの駅じゃやっていけないだろうな。都会と田舎とじゃ『忙殺』の単語の重みが違いすぎる。どこのお店でもお客さんの数が半端じゃない。一体どこからこんなに人が沸いてくるんだろう。
ただの迷子が額に汗を浮かべて頑張っている駅員さんの手を煩わせるわけにはいかない。
こうなったら、歩いている人に聞こう。勇気を出して!
これからは自分のことは自分で解決しなきゃいけないんだ。頑張れくるみ!
自分を鼓舞して、拳を握る。
男の人より女の人のほうがいいな。できれば優しそうな人。化粧をばっちり決めた女性じゃなくて、純朴そうな……うん、あの人なんて良いかもしれない。
私は眼鏡をかけた女性に狙いを定め、近づいた。
「あの、すみません」
遠慮がちに、蚊の鳴くような小声で話しかける。
「は!?」
即座に思いっきり喧嘩腰で返され、睨みつけられた。
「ひっ」
あまりの剣幕に、私は小さく悲鳴を上げた。心臓が恐怖で縮む。
えっ、えっ、なんで怒られるんだろう。声をかけただけなんだけど。
女性のおとなしそうな外見に反して繰り出された強烈な先制パンチは、私の意気を挫くには十分だった。
「な、なんでもありません、ごめんなさい……」
謝罪の言葉を最後まで聞くことなく、女性は足早にその場を去った。
と……都会の人って、怖い……。
たったいま恋人と大喧嘩したくらいの機嫌の悪さだったな……それともあれが普通なの?
いまの対応を意訳すると『田舎娘が気安く都会人に話しかけんじゃねえ、百年早いわ』?
立ち尽くしていると、後ろから来た人にぶつかった。
「突っ立ってんじゃねえ!」
「ごごごめんなさい!!」
怒鳴りつけられて、私は人波の外に飛び出した。しばらくそのまま早足で歩いてから、再び人波の中、外側へと戻る。
も、もうダメだ。逃げよう!
状況が不利な場合は戦術的撤退も大切!
ハチ公は絶対にいま撮らなきゃいけないってものじゃないし、また今度――と、決意した、そのとき。
いきなり、前から鋭い棒のようなもので足を突かれ、膝ががくんと折れた。
「うぇっ!?」
漫画みたいに『きゃあ』なんて可愛らしい悲鳴は私の口からは出てこなかった。私の女子力は既に失われていた模様。
成す術もなくその場に転び、うつ伏せの姿勢で倒れる。
とっさに手をついて衝撃を緩和したものの、激しく額をぶつけて目の裏に無数の星が飛んだ。
い……痛い、し、何よりも、恥ずかしいっ……!!
渋谷駅の床にキスをしていた私は、急いで顔を上げた。
容赦なく周囲から降り注ぐ視線が全身に突き刺さる。
中には失笑してる人もいて、ますます恥ずかしくなり、顔に血が上った。
おのれ、わらわの足を突いた不届き者は誰じゃ!
どこかの姫様になりきり、素早く前方を確認。
倒れたまま両手を突っ張っている私の視界に映ったのは、日傘を持って歩いているかなり太めの女性の後ろ姿だった。日傘の取っ手ではなく、日傘本体をそのまま鷲掴み、歩く動作に合わせて前後に振っているから、危ないことこの上ない。彼女の後ろのスペースは心なしか他の人よりも空いていた。
なにあの人!? なんで混雑してる構内であんな持ち方してるの!!
危ないでしょう!! 小学生、ううん、幼稚園児でもわかるよ!! いま下手したら私、前歯折ってたよ!?
心の中で悪態をついた後、急に空しくなった。
……まあ、私も前方不注意だったしなぁ。
のろのろと起き上がる。
ああ、額が痛い。猛烈に痛い。これ絶対痣になってるだろうな。
痛む額を押さえて構内の端に座り込んでいても、誰も声をかけてくれない。俯いた視界の端には、軍隊の行進みたいに皆が左右に分かれて逆方向の波を作り、歩く足元が映っている。
私はため息をついた。
都会とはこういうものなのだろうか。建物は見上げるほどに高く立派で、内装だってこんなに綺麗なのに、そこを行く人たちは他人に対して無関心。少しでも時間を割いてはくれないらしい。
わずかな慈悲と親切を期待するのは、わがままなのだろうか。
田舎の村なら、みんなお互いに顔見知りだし、誰かが困ってたら、必ずといっていいほど誰かが声をかけてくれるのにな。
駅まで送ってくれた両親と祖父母と、近所のおじいちゃんたちの顔が頭に浮かんだ。
皆から頑張れと言われたけど、都会の洗礼を受けて既に挫けそう。
つんと鼻の奥が痛くなる。
私は泣くものかと歯を食い縛り、立ち上がろうとして。
「大丈夫?」
声が聞こえた。
額から手を離して、そちらに顔を向ける。前に立てば道行く人の邪魔になるからだろう、左手に立っていたのは、細身の一人の少年だった。
同い年くらいだろうか。絹糸のように艶やかな髪、長い睫毛に守られた大きな瞳。四肢はすらりと長く、長袖から革紐のブレスレットが覗いていた。
「え、私?」
こんな美少年に声をかけられるとは思わず、私は狼狽した。
「君以外の誰」
彼は苦笑した。確かに、目を見て話しているのに、話す対象が別人なんておかしい。周りには私以外、座り込んだり、立ち止まっている人もいないし。
「座り込んでるから、気になって。どうかしたの?」
幸運なことに、彼は私が床に顔面ゴールを決めた一部始終を見ていなかったらしい。改めてあんな無様な姿を指摘されたら、顔から火を噴いてしまいそうだ。
「い、いえ、なんでもないんです。転んでしまって。でも大丈夫」
私は脇に転がっていたショルダーバッグを掴み、慌てて立ち上がった。
空いている片手を振って、無事をアピールする。
「なら良いんだけど。でも、額が腫れてない?」
少年は無造作に手を伸ばし、私の額に触れた。
壊れ物に触るように、そっと優しい手つきで。
ひええええええ!!?
同年代の異性に触れられるなんて初めての体験だ。
きっといま、私の顔は真っ赤に染まっていることだろう。
かかか顔が! 顔が近いですよ!?
あなたが類稀なる美少年なのは光り輝くオーラが証明してるから! 至近距離でも見惚れるほど綺麗なのはもう十分わかったから! 降参するから離れてください!?
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