第10話 始まりのオートミール【中編】
グツグツ……コトコト……。
すぐ近くで心地の良い懐かしい音がする。
ちょっと前まで母が台所で毎日のように奏でていた音だ。
カリカリに焼かれた目玉焼き。トロトロに溶けたチーズ。美味しくは無いが優しい味のしたザワークラウト。母と一緒に作った思い出のライスボール。晩酌のときに父が飲んでいた不思議なお水。
美味しかったことも、不味かったことも、楽しかったことも、分からなかったことも、その全ての思い出が母が奏でたこの音と共にあった。それは、あたしにとってかけがえのない宝物だ。
だけど、両親は共に死んでしまった。乗っていた馬車が転落したとき、あたしを守るためにあたしを抱きしめながら地面に強く打たれて死んでしまった。
もう、この世のどこにもあたしが愛した家族は居ない。
なら、ここは天国なのだろうか?
―――もし、ここが天国なら、目を開ければお母さんとお父さんに会えるのかしら?
両親が命にかけて助けてくれたこの命。あたしは、あたしが死んだら両親の死が無駄になってしまうと思って、その一心で生きてきた。
だけど、もし、もう一度二人に会えるのなら……。あたしは……。
夢なのか現実なのか分からない、モヤのかかったまどろむ意識をあたしは徐々に覚醒させた。
「あ、おきた」
「…………だ、れ?」
「それは、こっちのセリフだよ」
目の前に居たのは優しい母では無く、見ず知らずの少年だった。少年は両手を手を腰に当て、呆れた風な感じであたしを見つめる。
―――そうだ、あたしはこの家に忍び込んで……。そしたらこの子が居て……。でも、突然お腹が痛くなって……。それから……。
気が付けばベッドの上で寝かされている。ゴワゴワする安物の毛布を使っているがとても大きなベッドだ。おそらく家族全員で使っているのだろう。
「もうだいじょうぶなの……? かおいろ、すごくわるそうだったけど」
気分はまだ優れないが、お腹の痛みはすで無くなっていた。自分が頑丈なドワーフ族で良かったと思った瞬間だ。オルド族なら丸一日は厠から出てくることが出来なくなるところだ。
それに、どうやら突然倒れたあたしをこの少年が介抱してくれたようだ。まさか、あたしが空き巣で一瞬とは言え自分を殺そうと考えていたとは思いもしなかったのだろう。
…………しかし、これは使える。
この少年はまだ自分の正体が空き巣だとは気付いていない様子だった。だとすれば適当に嘘と本当を混ぜ、穏便に済ませるのが最善だ。あわよくば食料と寝床を確保出来るかもしれない。
「え、ええ。大丈夫……、と言いたいところだけど実はこのところまともなご飯を食べて無いの。そのせいかしら? 急に目眩がして倒れてしまったようね」
「やっぱりね。そう思ってご飯作っておいたんだ。 はい、どうぞ!」
「え? ……あ、うん? ありが、とう……?」
差し出される小さなカップと木製のスプーン。意外にもあたしが頼む前に少年はご飯を用意してくれていたようで、あたしは少し戸惑ってしまった。
「ちょうどご飯にするところだったからさ」
カップの中には粗く挽いた麦を使った粥。オートミールが入っていた。麦の煮えた暖かな優しい香りが鼻をくすぐる。
簡単な料理だが栄養は高く消化も良い。病人などにはうってつけの食べ物だ。
思わずゴクリと喉が鳴る。
ただ麦を煮ただけとはいえ、料理らしい料理など何ヶ月ぶりだろうか?
あたしは躊躇いも無くオートミールを口に含んだ。
「…………っ、…………美味しい」
「…………え」
素直な感想を言うと、少年は意外そうな表情を見せた。
驚きと疑念、そして戸惑い。あたしが『美味しい』と言ったことが意外だったのだろう。
確かに、一般的に見れば決して美味しいとは言えない味だった。ロクに味付けもされてなく、さらに煮込む時間が短かったのか口の中で半煮えの麦がザラっと舌の上を転がる。
…………だけど、まともなご飯を食べることすら叶わなかった今のあたしにとっては嘘偽りの無い正直な感想だった。
「どうかしたかしら?……?」
「あ、ええええっと……、な、何でもないよ!」
何故か頬を染め慌てた様子を見せる少年。
「でも……、欲を言えばもう少し煮込めばさらに美味しくなるかもしれないわね」
「……うっ。やっぱり」
今度は悔しそうな表情を見せる。子供らしくコロコロと表情が変わる様は見ていて微笑ましい。
あたしは、少年の出してくれたオートミールを残さず食べきった。半ナマとはいえ、ドワーフ族のお腹には何も問題は無かった。
…………もちろん、腐った卵はもうごめんだが。
―――さて、どうしようかしら?
少年はあたしの体調を気にしてくれているようだし、頼めば一晩ぐらいなら泊めてくれるだろう。
とはいえ、姿を目撃されてしまったのはかなりの痛手だ。この子の両親が帰ってきたらあたしが空き巣だということがバレるかもしれない。名残惜しいが、明日の朝にはこの村を発つ方が良いだろう。
「ところで、さ」
そんなことを思考していると少年が再び声をかけてきた。
「……なに?」
「君はひょっとして、泥棒なの?」
「…………っ!!?」
一瞬、心臓が止まるかと思った。
この子はあたしの正体に気付いていたのだ。
「君が持ってるそのナイフ。ニワトリおじさんのナイフと同じ模様。前に街で作ってもらったってボクに見せてくれたんだ。それを持ってるってことは…………」
―――どうするっ? まだ体調は万全じゃない。 逃げ出そうとしても大人に報告されたらすぐに捕まってしまう。
「………………」
あたしは何も答えることが出来なかった。しかし、その沈黙こそが自分の正体を答えているようなものだった。それを察した少年は「やっぱり……」とだけ声を漏らす。
―――どうするっ? どうするっ? どうするっ?
思考と鼓動が早くなる。ここまで頑張って生きてきたのだ。せっかく両親が命にかけて助けてくれた命をこんなところで失うわけにはいかない。あたしが死んだら身を呈してまで守ってくれた両親の死が無駄になってしまう。
「泥棒をしてるってことは、その……。食べるものとかにも困ってるんだよね」
―――この子の口を封じる? いえ、何も殺す必要は無いわ。縄で縛ってしばらくの間だけ動けないようにすれば……。
「………………」
無言は肯定。少年は言葉を続ける。
「それならしばらくのあいだ。……その、う、うちに泊まっていかないかな? ……なんて」
「へ?」
自分の口から無意識に素っ頓狂な声が出た。
この子は今なんと言った? 『泊まっていかないかな?』あたしの耳には確かにそう聞こえた。
「あなた、……馬鹿なの?」
「ば、馬鹿じゃないよ」
「いや、馬鹿でしょ」
相手の正体が泥棒だとわかっていながら、介抱して食べ物を提供した挙句、自ら泊まっていかないかと提案する。これが馬鹿で無くてなんなのだろうか。
「これは、えっと、その、……そう! 取引だよ!」
「取引……?」
「実は、父さんと母さんは今、街に行ってるんだ。帰ってくるのは10日後……、だったかな?」
「ええ、知ってるわ」
その二人が馬車で遠出するのを知ったからこそこの家に忍び込もうとしたのだ。帰ってくるのが10日後という情報は初耳だったが、それを言う必要は無いだろう。
「それで……、その……」
「…………?」
「…………そ、そう! ひとりで留守番してると退屈だからさ……、あはは……」
「なるほど……。あたしに留守番中あなたの相手をしろと? そう言いたいのね?」
なんとも子供っぽい理由だった。
「それで、この条件なら君にも都合が良いんじゃないかなと思って。家から出なければ大人にバレることは無いし、泊まってる間はご飯は作ってあげるし、寝るところにも困らないよ!」
確かに、魅力的な提案だ。留守番の相手をしているだけで安全な場所で食べ物と寝床が提供されるのなら、これほど好条件は無いだろう。……しかし。
―――はたして、本当にそれだけかしら?
少年の発言にはところどころ妙な突っかかりを感じた。まるで、なにかを隠しているような、そんな感じだ。そもそも泥棒であるあたしに妙に好意的なのも気になる。
しかし、取引の条件が魅力的なのも確かだ。
「もしも、その取引に応じなかったら?」
「君のことを他の人に言う」
あたしよりも年下のくせに、随分と悪知恵が回る。
「…………ええ、分かったわ。悪い提案でも無さそうだしね」
「ほ、ほんとっ!?」
どのみち体調が全快するのには数日かかる。それまでは大人しくこの子の相手をして、回復次第すぐにでもこの村を去れば良い。
この子を無理やり黙らせるという手段もあったが、どうせ安全を確保するなら穏便に済ませることに越したことはない。
「ただし、美味しいご飯を食べさせること! それがこっちからの追加条件よ」
「うん、分かった! …………えーっと……?」
「…………?」
「君の名前、なんて言うのかなと思って。 あはは……」
名前……。ああ、そういえば自分にもそんなモノがあったわね、と思い出す。しばらく名乗ることも呼ばれることも無かったのですっかり忘れていた。
「あたしの名前はドロシーよ。あなたは?」
「ボクはカルム! よろしくね。ドロシーちゃん!」
「ええ、よろしくカル……、今なんて言ったのかしら?」
「ドロシーちゃん」
「あなた歳は幾つ?」
「今年で7歳だよ」
「私は10歳よ」
「年上っ!? うそだぁー! こんなに小さくて可愛……、子供っぽいのに」
「子供……っぽい……? ふふっ……、どうやら、私を怒らせたいようね……」
バキッと手にしていた木のスプーンを折ってみせる。太くて頑丈なスプーンだったのでオルド族の子供には出来ないことだ。
「ひっ!? じゃ、じゃあ、ドロシーお姉ちゃんで!」
「うん、よろしい」
私は満足してカルムの頭を優しく撫でてあげた。
「それじゃカルム。改めてよろしくね」
「う、うん。よ、よろしくね、ドロシー……お姉ちゃん……」
それにしても、まさかもう一度この名前を呼ばれる日が来るとは思ってもみなかった。
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