第2話 氷売りの卵
夜明けの港街に美しい鐘の音が鳴り響く。
それまで聴こえていた優しい漣の音は次第に起床した人びとの生活音の中に薄れて消え、街そのものがまるでひとつの生き物のように目覚める時間だった。
この港街に住む多くの人々の一日は街中に鳴り響く7回の美しい鐘の音とともに進む。
カルム食堂の店主、カルムは朝一番の鐘の音を厨房で聴きながら一人静かにスープを作っていた。
食堂の営業時間は1日に2回。3鐘目の鐘の音から5鐘目の鐘の音が鳴る間と、一日の最後の鐘の音が鳴ってから店仕舞いをするまでだ。なので、本来はこんな早朝に厨房で料理をする必要は無いのだが、これはこの時間にやって来るある特別なお客さんのためだった。
カルムがスープの味を確かめ、一人頷いていると勝手口から『コンッ、コンッ』と可愛らしいノックが鳴る。
どうやらそのお客さんが来たようだ。
「やぁ、おはよう。ラズリル」
「おはよう、ございます。カルムさん」
全身と頭をすっぽり覆う黒いフード付きのローブを身に纏った少女がぼんやりとした表情のまま頭をペコリと下げて挨拶をした。
カルムの胸の下に頭が来る程度の低い身長。
フードの下には整った顔と青い髪の間から長い耳がチラリと見える。
「先にご飯食べる?」
「いえ、先に、いつものお仕事、やってしまい、ます」
「分かった。よろしく頼むよ」
ラズリルを厨房の中に入れ、あらかじめ水を溜めておいた桶の前に促す。ラズリルは袖を濡れないように目一杯めくり上げ、桶の水の中に両腕を入れた。
そのまま1分、2分と時間が経つ。そして、ラズリルが桶の水の中から腕を引き上げると……。
「出来ました……」
彼女の手には研磨された宝石のように綺麗な透き通る大きな氷の塊が抱えられていた。
「……うん。今回は、そこそこの出来、です」
ラズリルが満足気な表情で氷を透かすように上に掲げる。氷に付いていたはずの水滴はいつの間にか消え、まるで冬の乾燥した夜風に晒されたあとの氷のようになっていた。
これなら早々に溶けることは無いだろう。
「今日の気温なら、たぶん夕方まで、持つと思います」
カルムはラズリルの作った氷を乾いた桶に入れ、特殊な作りをしてある大きな棚の一番上に置いた。
こうすることで密閉された棚の中に氷の冷気が広まり、中の食材の痛みを遅くするという仕組みだ。
この街で暮らす人びとはこれを氷蔵庫と呼んで使っている。といっても、ほぼ毎日氷の交換をする必要があるため氷蔵庫を使うのは主に酒場や食堂などの飲食店か、食料品などを商っているお店ぐらいだが。
「ありがとうラズリル。だいぶお母さんに近づいてきたんじゃないか?」
氷売りのラズリル。魔法と呼ばれるチカラを使い、水を氷に変え、それを商売としている子だ。
ちなみに魔法というのはエルフ族のみが使える不思議な術である。
カルムは魔法の使えないオルド族という種族なので詳しいことは分からないが、大気中を漂うマナという存在を操作して様々な自然の現象を意図的に引き起こすチカラなんだと以前ヒスイから聞いたことがあった。
これまでもエルフたちは、液体の蒸留、食料の冷凍保存など、他の種族には易々と出来なかったことをこの魔法という術を使い遥か昔から行っていたらしい。
「そんなこと、ありません」
しかし、ラズリルは首を横に振ってそれを否定した。
「わたしなんか、まだまだです。お母さんなら、丸一日は溶けない氷、作れます。……それに」
彼女は一瞬言葉を溜め、そしてフードを脱いだ。
肩まで伸びた青い癖の付いた髪とエルフよりも若干短い長耳が露わになる。
「わたし、ちゃんとしたエルフじゃ、ないから」
この大陸に暮らす4つの種族。エルフ、ドワーフ、オルド、ケモルフ。そのどれとも違う形をしたその耳は世間ではハーフエルフと呼ばれる存在特有の耳だった。
ハーフエルフはオルドとエルフの間に生まれた子供で、魔法の扱いに関してだけ言えばエルフよりも若干劣っていると言われている。
それに、ラズリルはまだちゃんとした氷売りでは無い。
本来の氷売りは生粋のエルフである彼女の母親で、ラズリルは先月からこの仕事を研修的に始めたばかりの、言うなれば氷売りの卵だ。
ちなみにラズリルの母親の氷の売り方はラズリルのように自分の足で回るのでは無く、夜のうちに作り上げた巨大な氷塊を雇った男手によって切り分け、夜明け前にそれを配達するというやり方をしている。
「…………、カルムさん。えっちですね」
「えぇっ!?」
突然、それまで無表情だったラズリルがフッと笑い、とんでもないことを口にする。
「わたしの耳、じっと見てました。だから、えっちです」
「ご、ごめん!」
とっさに謝るが正直今の会話の流れでフードを外すのは卑怯だと思った。まるでハーフエルフであることを意識させるようなタイミングだったので自分で無くても彼女の耳を見てしまっていたことだろう。
「ふふ、冗談です。気にしないで、ください」
「……はぁ、驚かさないでくれ。君の冗談は分かりにくいんだから」
セクハラ問題なんて洒落にならない。
もし、この場に姉のドロシーがいたなら、食堂裏に連れて行かれ鉄拳制裁を食らわされていたことだろう。
「カルムさんは、反応が面白い、です」
「大人をからかうもんじゃないぞ……」
相変わらず良く分からない不思議な子だ。悪い子でないのは確かなのだけど……。
「とりあえず朝ごはんにしようかラズリル。今日は何が食べたいんだ?」
「今日は……、んっと、ベーコンエッグと、トーストと、スープと、あとミルクを、お願いします」
「はいよ。そっちで座って待ってて」
ラズリルはコクリと頷き、誰も居ない早朝のカウンター席に座る。
彼女のためだけの専用食堂となる時間だ。
「カルムさん、質問良いですか?」
「ん? なんだい?」
「どうしてお母さんは、わたしに同じような氷売りのさせ方、させてくれないのでしょう。不思議です」
「……それは」
カルムは言い淀んだ。
確かにラズリルの疑問はもっともだ。
ラズリルの氷を作る技術は母親と比べるとまだ未熟だが、十分に売り物となるレベルだ。氷売りとして修行をするだけなら彼女の母親と同じように大量の氷を集中して作った方が技術を伸ばすという意味でも効率的だろう。
しかし、カルムにはラズリルの母親がどうして一軒一軒自分の足で赴き、氷を作るような方法をラズリルに命令したのか、その意図を理解していた。
果たして、その答えを今ここで言って良いものなのか。そんなことを考え、言葉に詰まってしまったのだ。
「……すみません、変なこと、聞いてしまって」
だから、カルムは知らないフリをして、心の中でそっとラズリルを応援することにした。
しばらくして、料理が出来上がる。
パンは昨日の余りだったがトーストにしたことで十分に食欲を掻き立てる甘く香ばしい香りを放つ。出来立てのパンだったならどれほど美味しかったことだろう。
そんなちょっと粗末なパンの代わりでは無いが、3枚の厚切りのベーコンをカリカリに焼いたベーコンエッグを作ってあげた。
シンプルなメニューだが、質素ではない。ちょっとぼんやりしたラズリルらしい朝食のメニューだ。
「卵って、不思議ですね」
ベーコンエッグをナイフとフォークで切り分けながら、ラズリルが突然そんなことを言い出す。
「水は冷やすと、固まります。けど卵は、熱を加えると、固まります」
卵の黄身をベーコンに絡め、トーストの上に乗せて口へと運ぶ。ラズリル流のベーコンエッグの美味しい食べ方だ。
「言われてみればそうだな。今まで考えたことも無かった」
「あと、殻のまま熱を加えると、爆発します。不思議です」
「こらこら、危ないぞ」
一体どこでそんな危ない経験を得たのか。 まぁ、一度経験をしたならもう二度と同じことはしないだろう。
「卵が爆発……、というか破裂する仕組みは以前師匠から聞いたことがあったな。確か、卵の中の水分が熱で膨張するのが原因で破裂するとかなんとか」
「物知り、ですね。カルムさん」
「前に俺も似たようなことを師匠に経験させられたことがあってね。竹っていう中が空洞になってる植物があるんだけど、知ってる?」
ラズリルは飲んでいたミルクを飲みながら軽く首を振る。どうやら知らないようだ。
「簡単に説明すると植物で出来た天然の筒、かな。それに熱を加えると中の空気が膨らんで卵と同じように破裂するんだ」
「ぱーん、とですか?」
「うん、ぱーんって破裂する」
「天然の筒……、ですか。世の中には、不思議な植物が、あるんですね」
「俺も始めて竹を見たときは同じことを思ったよ」
「でも、どうして、カルムさんのお師匠様は、カルムさんにそんなこと、させたのでしょう?」
「う~ん……、料理って食材を切ったり焼いたり茹でたり、いろんなことをするだろ? だから、扱い方を間違えたら危険なモノもあるってことを身を持って経験させたかったんじゃないかなって」
爆発の危険性を理解していれば、人は自然とそれを回避しようとする。
経験はなによりの財産とも言うが、まさにその通りだとカルムは思っていた。
「豪快な方、だったんですね」
「うん、それにこれは爆発に限った話じゃないよ。毒を持った食材の危険性や、扱い方、万が一の対処。食中毒への配慮とか。他人に料理を振舞うという仕事をしている以上そうした責任とは常に隣り合わせだということを本当は教えたかったんじゃないかな。……ってこれは俺が勝手に師匠を美化視してるだけだけどね」
「責任……、隣り合わせ……」
ラズリルは手にしていたナイフとフォークの手を止めた。
「カルムさん、……あの、わたし、お母さんの考え、わかったような気がします」
「そう、それは良かった」
「……はい!」
ちょっと直接的過ぎたかなとも思ったが、ラズリルが自分でそれに気づけたのならそれで良いか。カルムはそんなことを思いながらラズリルと一緒になってミルクを飲む。
そんなことを話していると食堂の二階からドタドタと誰かが降りてくる音が聞こえてきた。
「カルムくん、おはよー!」
起きてきたのはヒスイだった。
「おはようヒスイ」
「おはよう、ございます」
「あ、ラズリルちゃんだ! おはようございます!」
「カルムくん! あのね! あのね! 今日夢の中でカルムくんがね!」
「ほら、ヒスイまず顔を洗ってこないと。綺麗な顔が目ヤニで汚れてるぞ」
「え、……あっ! ~~~~~~っ!!!」
ヒスイは顔を真っ赤にして食堂から去っていった。さすがのヒスイもラズリルというお客さんの前で寝起きの姿は恥ずかしかったらしい。
「ヒスイちゃん、相変わらず、です」
「ああ、見た目はあんなに綺麗なんだから中身ももうちょっと女の子らしくなってくれると良いんだけどね」
「…………え?」
「……ん?」
何か変なことを言っただろうか? ラズリルの表情は相変わらずぼんやりしていて感情が読めないが少し呆れているようにも見えた。
「…………そういえば、カルムさんは、わたし実は、卵の黄身が苦手なんです」
「どうしたんだ突然?」
まぁ、ラズリルが突発的に不思議なことを言い出すのはいつものことなので大した意味はないのだろう。
「濃厚で、口の中にまとわりつく、あの味が苦手でして」
「へぇ、珍しいね」
卵の好き嫌いで言えば圧倒的に白身が嫌いな人の方が多い。むしろ黄身を嫌いは人はあまり聞かなかった。
「カルムさんは、どうですか? 黄身、好きですか」
「んー…、そうだな……」
そんなタイミングだった。
「顔洗ってきました!」
ヒスイが戻ってきたのは。
「もちろん、俺はキミが好きだよ」
瞬間、ラズリルがフッと笑い。
「カルムさんに告白、されてしまいました」
頬を染めてそんなことを言う。
「…………んん??」
「か、カカカ、カル、ム、くん……!?」
後ろでは顔を真っ赤にしたヒスイがこちらを見ていた。
そこで始めて理解した。カルムがラズリルに発した『俺は黄身が好きだよ』という言葉がヒスイにどう聞こえたのかを。
「カルムくんが、ラズリルちゃんを……!? カルムくんが……!?」
「いや、まてヒスイ! 今のは卵の話で――」
「子供は何人に、しましょう? 大丈夫、です。ハーフエルフはエルフより、子供を作りやすい、ので」
「た、卵!!!? こ、子供!!!? あわわわわわっ!!!!????」
追い打ちとばかりにラズリルは誤解を招きそうなセリフを被せてくる。
「う、うわぁぁーん!!!!! カルムくんがぁー!!!!!」
そしてついにヒスイが頭から湯気を上げ泣きながら逃げ出してしまった。
ああなってしまってはしばらく冷静にはならないだろう。
カルムは呆然と立ち尽くすしか無かった。
「では、わたしもそろそろ、次のお店に向かわないと、いけないので」
「ラ、ラズリル。一体ヒスイはどうして……?」
「カルムさんは少し、女の子の心を、経験した方が良いと、思い、ます」
どういうことだろう。そんなことを考えていると、ズボンの裾を誰かに引っ張られるのを感じた。
「カルムぅ? たった今ヒスイが泣きながら出て行ったけど、朝から一体なぁにをしてるのかしら?」
姉のドロシーだった。身長はカルムの半分程度の彼女だったが、ドワーフ族である姉のチカラは身に染みて理解していた。
カルムは蛇に睨まれたカエルのように動くことが出来無かった。
「ごはん、ごちそうさま、でした」
ラズリルはそんな様子を片目に丁寧にペコリとお辞儀をして食堂から去っていった。
ラズリルの食べ終わった食器の上には苦手と言っていた卵の黄身は一切残っておらず、むしろパンで拭き取るように綺麗に平らげられているのだが、当然カルムはそんなことに気が付くはずもなかった。
「姉さん、落ち着いて! 話せばわかる!」
「女の子を泣かせるような愚弟には問答無用よ!」
その後、カルムはドロシーとヒスイに誤解を解こうと説明したが、それは失敗に終わる。
氷売りラズリルの残した誤解という名のとけること無い氷は再びラズリルが食堂にやってくる夕方まで解けることは無かったのだった。
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