第18話 再訪:前日



レクセンは、熱に浮かされたような状態で、ロクシアの私室から退室した。

しばらくして、今までの出来事が頭の中にじわじわと浸透していくと、今からやらねばならないことが、泡のようにつぎつぎ湧いて出た。

まずは準備。

必要な物を揃えなければならない。

今回は調査隊でないため、自分がしなければならないことが圧倒的に増える。

もう一度やるべきことを復習しよう。

それと、遺物も調べ続ける必要がある。出発までになにかわかるかもしれない。

ああ、休暇の手続きもしなければ。

とにかく時間がない。


頭になにか乗った感触があって、レクセンの思考の泡が止まった。

ウォルフと目が合い、そこから肩からひじ、手首に目を移して、自分の頭の上に彼の手が乗っていることをようやく理解した。


「まずは落ち着け」


ウォルフの言葉はいつも簡潔だ。物事に動じず焦らずのウォルフを見ていると、レクセンもおのずと落ち着いた。

ついてこい、とウォルフは目配せした。レクセンは彼の広い背中を追った。

ウォルフが来たのは食堂だった。

昼時よりはすこし遅れた時間だったが、人は多く、レクセンとケイに嫌味を投げつけた女性研究員たちもいた。

やけにとげとげしい視線は向けるが、何か言ってくる気配はない。

ウォルフが共にいるからだ。ウォルフが女性の間で特に人気だからではなく、人気のあるロクシアと彼との関係を知っているから、である。


ウォルフ個人は、外見は良いが、寡黙で何考えてるかわからない、という印象だ。

レクセンからすると、口数は少ないが、目や仕草を見れば、割とわかる。親しい間柄だからわかることかもしれないけれど。

そのうえ、ウォルフは男好き、なんていう噂もあった。

彼の周りに他の女性の影が見当たらないことや、言い寄って相手にされなかった女性の腹いせで流れた誹謗だったが、本人は一切気にしていない。言いたい奴には言わせておけ、という姿勢である。


いまこうして調査団の役員の娘と《青威》の女をはべらせたウォルフに、また新たな噂が生じるかもしれない。

すこし考えれば、この組み合わせは妥当なのだが、噂を立てる輩にそんな思慮はない。噂の的になってもどこ吹く風の彼は、二人に食事を持ってきた。

それぞれ大好物な肉料理なのは、ウォルフの気が利く証拠だ。


「ここのところ、しっかり食べてないだろう」


そういえばそうかもしれない。

食べ慣れた食事がいつもより美味しそうに見え、いかに空腹だったことに気づく。

一口食べると、止まらなくなって、食べ終わるまで一言も喋らなかった。

二人の食べっぷりにウォルフは小さく微笑んだ。


お腹がふくれて、レクセンは一息ついた。

疲れが完全に取れたわけではないが、気分はずいぶん晴れやかになった。

冷静に思い返せば、遺物を発見したあたりからずっと浮ついていたかもしれない。

この数日の間に、まさに怒涛の展開をレクセンは味わった。まさかこんなことになるなんて、いまだに夢にしか思えない。


「・・・あの人は、どうしてここまでしてくれたのかな」


独り言とも、目の前のウォルフに問いかけるともとれる言葉だった。


「本人に直接聞けるようになったら、聞けばいい」


ウォルフは普段通りの口調で答えた。まるで突き放したような言い方だが、レクセンはそうではないと知っている。

けれど、真意を測りかねていたレクセンに、ウォルフは付け足した。


「俺がロクシアについて話したところで、すべて信じきれないだろう」


正論だった。レクセンの表情が曇る。

レクセンは、やはりロクシアのことを聞くと、どうしてももやもやしたものが胸の奥にたまってしまう。簡単にぬぐえる感情ではなかった。

今回の一連の出来事も、目まぐるしい展開でふわふわしていたからこそ、良い結果になったかもしれない。

いつもの自分のままならば、わだかまりばかり気になっていら立ち、どこかであの人をつっぱねて、文句だけ並べ立てていただけだろう。

もしかしたら、あの人はこれを狙って三日間という期間を与えたのではないか。


考え込んで、何気なく机のシミを指でなぞっていたレクセンの手に、不意にウォルフの手が重なった。

突然のことに、レクセンは考えていたことが全部吹き飛んだ。

ウォルフの大きな手の甲は、血管や骨が浮かび、鍛えた部分が節くれだっていた。

さらに手のひらからは、柔らかさも固くざらついた感触も、手の温かさも、はっきり伝わってくる。


レクセンの心拍数がとたんに上がった。

胸元から首が、首から顔が熱くなっていくのが、自分でもわかった。手を重ねられるのは、頭に手を置かれるのとわけが違う。

せっかくあなたが落ち着かせた心を、なぜあなたがまた乱すの、と慌てた。


ウォルフとしては、レクセンとは違っていた。

さきほどの頭に乗せたときと同じ感覚なのだ。気が回るようで回らない、鈍感なようで鋭い、不思議な距離感の持ち主である。

ウォルフは、レクセンの様子を見て、彼女が手をひっこめるより先に手を引いた。

ロクシアがそれを見ていれば、成長したわね、とウォルフに言っていたところだ。

数拍おいてウォルフが口を開いた。


「どんな結果になっても、帰ってきたらもう一度礼は」

「そ、それは言うつもり。うん、ぜったい」

「ヒューにもな」

「そっか、なにもかもヒューデイツさんのおかげだものね」


ウォルフもうなずいて、感心のつぶやきをもらした。


「すごいな、あいつは本当に」

「うん、ほんと。ここまで予見してたみたい」


レクセンが強く賛同した。だが、ウォルフの感心は、レクセンのそれとはかなり異なる。

この母娘の仲を以前から知っていたが、ウォルフは何もできなかった。

ボーデンもアヴェリーヌも、発掘部のオダンもただ静観していた。

他人がどうにかしようとしても、逆効果になることだってありうる。結局は本人同士が気づき、変わらなければならないことだ。

それが一番いい方法だと、みんなが口をそろえて言う。


ウォルフは鋭いがゆえに、レクセンがロクシアのことを心の底から憎み切れないのは、わかっていた。

逆にロクシアは、娘のことを思いつつも、自分のしたことを許せずにあきらめて、わざわざ突き放すようなところがあることもわかっていた。

それなら、もっと素直になって、正面から向き合って話し合えば済む話だ。

ウォルフは鈍いがゆえに、単純でまっすぐな答えを出す。

ボーデンには、「それができたら苦労はしない。お前は絶対に黙っていろ」と念を押されてしまい、何もできずじまいだった。


しかしヒューデイツだけは、二人の確執をなんとかしたいと気を揉んでいた。

黙って見守ることが正しい、とウォルフは自分が言われたことをヒューデイツにも言った。

それに対し、ヒューデイツは理解したうえで首をふった。


「余計なことでも、無駄なことでも、間違ったことでも、なにがいつ、きっかけになるかわからない。ぼくはただ、あの二人が、笑い合ってほしいんだよ」


まったく同じ気持ちだったウォルフは、それ以上何も言えなかった。

止めた方がいいと思いながらも、どこかで期待していたのだ。

しかし、いつになってもヒューデイツが何か実行した様子はなかった。あいつも何もしない事が正しいと気づいたのか、と思っていた。

そのはずが、まさかこんな方法を試してくるとは。

もしレクセンの相談が自分に回ってきたとしても、こんな方法は思いつかないし、できるとも思えない。

ずっとなんとかしたいと考えていたヒューデイツにしかできないことだと思った。


なんてやつだ。

あいつは、自分にできないことを実行した。ならば、あいつにできないことを、自分も実行したかった。自分は身体を張ることしかできない。

無二の友人がつないでくれた絆の糸を切らせたくなかった。おとなしく謹慎などしていられず、護衛を買って出た次第だった。


レクセンを連れていくならケイも連れていく方がいいだろう。

幸いケイは見習いだ。その立場を利用して、同行させればいい。

ケイのためだと考えて決めたことだが、一応本人の意志を確認はしておく必要はある。

ウォルフがケイに目を移すと、ケイはいまにも椅子からずり落ちそうな体勢で寝かかっていた。


レクセンはウォルフにつられてケイを見て、かなり焦った。

おかしな体勢のせいで、上着がめくれておへそが丸見えになっていて、あられもない。ウォルフからは見えない角度だったのは幸いだ。

片手ですそを下にひっぱりつつ、ケイをゆすり起こしながら、レクセンは言った。


「今日は、帰ったら何も考えずに寝ます」

「ああ、それがいい」


ウォルフはうなずいた。




とうとう、出立が明日に迫った。

レクセンはすでに準備を終え、明日を待つばかりだった。順調に支度を整えられたため、時間に余裕ができた。

どうせなら旧市街に足を運んでみるのありかも、と思っていたところに、ケイから伝言がきた。

内容はなく、ただ来てくれという伝言だった。

何か問題が起きたのかもしれない、とレクセンは嫌な予感をかかえて、急いで東棟に向かった。

伝言に記された場所は、訓練室ではなく、普段使われていない東棟の角の部屋だった。


レクセンはおずおずと扉を開いた。

独特のお香の良い匂いが鼻をくすぐった。ケイから香る匂いに似ていた。

室内の手前には、両ひざを床につき、立てたかかとに座る、半分正座のような姿勢の男性が二人いた。

背中と後頭部で、ウォルフとヒューデイツだとわかる。その奥に、ケイが同じ座り方で、頭をうつむけていた。

三人とも祈りをささげているようで、神妙な静寂がお香の煙とともに漂っていた。


なぜこの三人が揃っているのかわからなかったが、問題というわけではなさそうで、レクセンは胸をなでおろした。それと、ヒューデイツに感謝を言える良い機会だった。

声をかけずに待っていると、ウォルフとヒューデイツが、一度目を合わせ、同時にゆっくり振り向いた。


レクセンは途端に吹き出してしまった。二人の顔は、黒い液体で落書きされていたのだ。ひとりだけでも笑ってしまうのに、二人だと二乗の威力だ。


「ふ、フフッ、ふたりして、何して――」


あとは言葉にならなかった。

笑いすぎて涙を浮かべるレクセンの目前に、ケイがヌッと顔を出した。ケイの顔も落書きしてある。白い肌の彼女はいっそう黒が目立つ。


「あははっ、ケイまで、どうしたのその顔」


ケイの黒くなった指先がすいっと目前に迫った。そして額に触れると、レクセンの笑みが瞬時に凍った。

まさか自分まで落書きされるなんて、まったく考えていなかった。


「えっ、いや、やめ、ケイ!あ、あぁっ、ケイィーッ!」


ケイの指が、あえぐレクセンの顔を這いたくった。

力でケイにかなうはずもなく、レクセンの抵抗は無駄に終わった。

ケイは、放心したレクセンをヒューデイツのとなりに座らせて、また祈りに入った。

抵抗したせいか、他の二人よりひどい顔になっていた。線がうねって、飛沫が散り、首までが黒い液が垂れていた。


「ケイが育った町で、町の外へ出かける人が、無事戻ってくるためのおまじない、なんだそうだ。許して、やってくれ」


頭をレクセンの方にかたむけて、ヒューデイツはささやいた。

顔を向けると笑ってしまうので、目線はケイの後頭部に固定したままだ。

抗いがたい引力でケイのお尻に目がいってしまうのは、レクセンには絶対に言えないことである。


「はぁ、なんというか・・・、すごい・・・習慣」


レクセンは力なく返事した。

怒りはあまりなかった。こんな顔で怒った自分を想像しても、まるで迫力がない。それよりも、嫌な予感はこれだったのね、と受け入れてしまった。

そして、ふと疑問がわいた。


「無事に帰ってくるお祈りなのに、なぜヒューデイツさんまで?」

「町に残る人と、出る人のつながりを、強めるほど効果がある、らしい。ほら、こいつと模様が違うんだ」


ヒューデイツがウォルフの顔を指さす。

レクセンはウォルフとヒューデイツの模様を見比べた。たしかに上下対称のような形なのはわかった。

それよりも、ウォルフの、どこか悟りを開いたような無表情がまた笑いを誘った。


「いつもこの・・・祈願は、してるんですか?」

「たぶん。ぼくは前回、初めて犠牲者になったから」

「犠牲者って――」


そこに、扉が開く音がして、また誰かが入ってきた。普段ならすぐに振り返るのだが、この顔だとためらってしまう。

レクセンは、自分が入ってきたときに、となりの二人がすぐに振り返らなかった理由を、身をもって知った。


「おい、何をしてんだおまえらは」


太い声はボーデンのものだった。

レクセンは、部隊長のような上司をも呼び出したケイの怖いもの知らずに、かなりおののいたが、同時に振り向いてみたくなる気持ちが、急にわいてきた。

ヒューデイツも賛成らしく、同時にボーデンに落書き顔を向けた。


「ぶはっ!何だその顔はっははは、――はっ!」


老いたとはいえ、元軍人のボーデンである。

危険察知の能力は、レクセンとは比にならない。大笑いを止めて、寸でのところでケイの手首をつかみ、咄嗟に防御した。

ヒューデイツが、おおっ、と感嘆した。レクセンも、すごい、とつぶやく。

しかしながらケイは止まらなかった。

ボーデンの厚い胴体に、ひょいと両足を巻きつけ、全身の力でボーデンの防御を破ろうとする。

余計なところで、抜群の身軽さを発揮するケイ。ケイの身体を抱える形になり、さらに、落書き顔が間近に迫ってくる威力は耐え難い。ボーデンは片ひざをついた。


「ぐぅう、ケイ、私はっ、隊長だぞ、わかってぬぉおおああーーっ!」


断末魔が室内にひびいた。

ヒューデイツが犠牲者と言い表したことも、よくわかった。自分もああいう悲鳴を出していたのだろう。

彼は例えをつけ加えた。


「童話とか、作り話とかに、こういう、いたずら妖怪小僧がいそうだよなぁ」

「たしかにいそう」


隊長を負かせてどことなくうれしそうなケイと、力尽きてくずおれるボーデンの姿が、作り話の挿絵として簡単に想像できた。

ウォルフも合点がいったように深々とうなずいていた。



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