第4話 訓練
退院してから、数日。
レクセンは走る速度をゆるめ、息を切らしながらあごをあげた。
仰いだ空は白く濁っている。
いつもの靄空。
陽光が、水中から水面を見るように歪み、かすかにきらめいていた。
空はずっとこうだ。いつからこのもやがかった空になったのか、誰にもわからない。
遠い昔、青天にモヤが広がり、白く滲んでいった。さらに紺碧の海は灰が混じったような色に濁っていった。
突然だったのか、はたまた、徐々にだったのか。最初の変化は何だったのか、知る由もない。
ただ世界から青が失われ、《青失期》として今に伝わっていた。特に謎に包まれている時代で、どのくらいの過去だったのかも諸説ある。
現在、過去の最先端と比較すると、技術力も製造力も原料もまったく及ばず、その差は実に三百年程あると考えられている。
今のところはっきりしている過去の、二十二紀年代あたりと比べているのだが、三百年という開きは、現在の我々から見たものであって、その過去の人間から見れば、百年以上縮まるらしい。
とはいえ、二十二紀が終末とは考えにくく、謎はモヤのように濃く深かった。
レクセンは一度大きく息を吸って、走る速度を上げた。
呼吸は荒いが、まだいける。段々苦しくなる。だが、腕はまだ上がる。足は出る。
まだまだ、まだまだ。
自分の心肺が悲鳴をあげそうになる前に、視界の端でこちらを見て笑っている人をとらえた。
ゆっくり速度を落として立ち止まり、ひざに手をついて身体を支え、息を吐いた。
濡れた髪、まぶた、鼻の先から粒のような汗が垂れ、パタパタと地面に落ちた。
「おっと、今日はもうやめるのかい?」
「んじゃ、俺たちもあがるか」
二人の男性が、レクセンに皮肉を残して、笑いながら屋内に入っていった。
レクセンは力なく笑い返した。怒りやイラつきはではなく、申し訳なさに運動とは別の汗が出てしまう。
レクセンは日ごろから訓練している。
退院してすぐはさすがに控えていたものの、数日経っていざ日課に戻ってみると、体力の衰えに驚いてしまった。
たしかに日は空いてしまったが、ここまで体力が落ちるものなのか、と焦った。
はやく取り戻さねば、と気合を入れて訓練したところ―――
倒れた。
偶然居合わせたさっきの先輩二人が、慌てずに介抱して、人を呼んでくれた。
その後も、本気で気遣うより、少々冗談を言って笑ってくれる。
レクセンとしても、その方が変に畏まらずにすんでありがたかった。親切で、適度な距離感を持った二人には感謝だ。
襲撃監禁事件で配慮や同情していた周囲は、今回の騒ぎでは、こぞってレクセンを責めた。
やれ、ありえない。
やれ、何考えてる。
やれ、正座で反省しろ。
何を言われても、レクセンは黙って受け止めるしかない。
皆の中で、人質にされて怖い思いをした悲劇の新米、が、退院後すぐに運動して倒れた喜劇の新米、に上書きされた。なんとも間の抜けた話である。
先輩にああ言われては、これ以上続けるわけにもいかず、レクセンは上がることにした。いつもの日課の六割程度だ。
息を整えていると、ふと思い出した。
(あの時も深呼吸の数かぞえて、嫌な想像を振り払っていたんだっけ。これも数のうちに・・・入る、入るでしょ)
自分のドジっぷりから都合よく目を反らして、何回目か覚えていない深呼吸をして、レクセンは屋内に入った。
そこは第二訓練室で、角度のついた天窓の面積が広く、外と変わらず明るい。
これはほかの建物でもそうだった。より多く、より効果的に、陽光を屋内に取り入れる工夫がなされている。
モヤが太陽を覆ったことで日光は拡散した。そのかわり、一昼夜で光が届かない時間が減ったための設計であった。
室内には、軽い運動を主とした器具が置いてある。
彼女は用意していた水筒を取って素通りし、向かいにある第一訓練室に入った。
第二と、通路を挟んで対称的な空間。だが、器具は大きさもいかつさも、かなり異なる。
こちらは警護部の人間が毎日使用するため、汚れや摩耗が目立つ。
訓練に励む人はもうほとんどいないが、余韻の熱気がかすかにただよっていた。
第二と違うところは、三本の円支柱を仕切りとして、奥にもう一つひと際広く、天井が高い空間があった。床には、円状の試合場が三面、色で区切られている。
そのうちの一面で、まだ手合わせをしている二人組と、その勝負を、腕を組んで厳しい顔で間近でみつめる肌の黒い五十がらみの男性がいた。
あとは、片手間に遠巻きで見ている人がちらほらいて、はっきりした嫌悪のまなざしを向けている隊員も見かけた。
レクセンは円柱を超えないところで止まった。それ以上は空気が張り詰めていて、部外者は近寄りがたかった。
勝負している二人組は、頭、肘から拳、膝から足先、の保護具を装着している。
一方は、上背があり、肩幅広く筋肉質で、鷹揚に構えた男。いかにも強そうだ。
もう一方は、相手に比べればかなり細身で、ひとまわり体格が劣っていた。
見た目だけだと、まったく勝ち目がないように思える。
レクセンは身体の小さい方を、声を出さずに応援した。頭部の保護具で隠れているが、ちらちらと白い髪がこぼれている。
間違えようがない。ケイだ。
病室でのほほんとしていた彼女とは別人と思えるくらい、猛々しい顔つきだった。息はかなり乱れていたが、闘志は萎えていない。
足さばきの摩擦音が重なり、気息が早まる。ぶつかり合うたびに、汗が散り、打撃音がはじけた。
二人は一旦離れたが、一呼吸もしないうちに男の方が鋭く間合いをつめた。
蹴りを繰り出そうと膝があがると、ケイはすばやく反応して間合いをはずす。
男は蹴りの予備動作を踏み込みに切りかえ、ケイを再度間合い内にとらえた。
牽制、崩し、捌き、打撃と防御の残像がからみあう。
男は拍子を変化させ、中段からすくうような軌道で、ケイを掴みにかかった。
ケイは身体をひねり、手を払いながら肘を撃つ。男も肘を受け流して、回りこむように攻撃を放つ。
かみ合った歯車のように、二人は一瞬のうちに攻守を入れ換えながら回転した。
レクセンは、半分も目で追えなかった。
この数日で、幾度となくケイの戦いぶりを見ていた。
そのたびに、彼女の強さに目をみはった。いや、強さというだけでは足りない。そこにあるものは腕力や肉体の強さではなかった。
体格差の圧力に負けない技量、攻撃を受けても怯まない気力。
それもある。が、そういうものとも違う。
レクセンは初めてケイの強さを見た時、言葉にできない何かを肌で感じた。
レクセンは、できる範囲の訓練を自分に課し、休まずに地道にこなした量と継続に、それなりの自信はあった。
だがケイのそれは、レクセンの自信を完全に打ち砕いた、という度合などはるかに超えた別次元の鍛錬密度だった。
自然と触発された。
負けたくないとか、ケイにできるなら私もできるという対抗心ではない。再びケイに助けられた時、今度こそ足手まといになりたくない、という決心だった。
案外、肌で感じたのは、自分と似たようなケイの決心かも、と今では思えた。
病み上がりに無理をしてしまった原因はここにあった。
「もう、身体は平気なのかい?」
唐突に、真後ろから耳元で声をかけられた。
レクセンはぞわっと首筋に鳥肌が立ったが、悲鳴は口をふさいでなんとかのみこんだ。勝負に集中していて、ここまで近寄っていたことに全く気付かなかった。
レクセンは首を縮めた固い姿勢のまま、大きく横に一歩移動して声の主から離れた。そして、稽古を邪魔していないか確認してから、振り返った。
「悪い悪い、ちょっとしたいたずら心さ」
口の端をあげて肩をすくめるのは、ショーンという男だった。
少し幅のある体格で、銅色の短髪と瞳。同じく幅のある顔に、整えたあごひげをたくわえ、三十くらいの見た目だ。しっとりした黒い背広を着ている。
レクセンは彼のことを詳しく知らないが、調査団内で耳にしたことはあった。浮き名としてではあるが。
最近、よく出没してはこうしてちょっかいかけてくる。その勢いでたまに口説いてくる。レクセンが苦手とする人物だ。
ショーンは柱にもたれ、片手を腰にあて、片手でひげを撫でて、勝負を眺めた。
笑みは消えていて、目を細め、真剣な面持ちだ。
レクセンはそれを横目で観察した。こういう仕草がさまになるのは、魅力なところなのかもしれない。
そうしている間に、勝負は白熱していた。
踏み込んだ脚が、交差する接近戦。
背が低い分、重心も低いケイは、すねをこすらせて相手を脚から崩す。その間に一撃もらうが、かまわずに攻撃に転じ、下から脇腹、あごと攻める。
男は、あごを狙うケイの拳をはじくと同時に、腕を取り背中の方へひねりあげようとした。
ケイは力の流れに逆らわずに身体を反らし、側頭部へのひざ蹴り。
男はひじで防御する。ケイの腕を取ったのはおとりで、がら空きになったケイの胴体に肩からぶつかった。
ドン、とケイが床を跳ねた。かろうじて受け身をとったケイに、すかさず男はかぶさった。
勝負あった。
「よし最後の一本だ!構えろ!」
良く通る声で指示したのは肌の黒い男で、警護部の部隊長を務めている元軍人のボーデンだ。
男はすぐに構えたが、ケイは倒れたまま立たなかった。ようやく立てても、構えるのも辛そうなほど疲弊していた。
始めの合図などない。
男が無造作に突進する。ケイは牽制で拳を振りつつ、左に回った。
だが動きがにぶく、男にあっさりと拳を払われ、そのまま体当たりをくらった。体重の軽いケイは、またしても簡単にふっとんで、仰向けに倒れた。
「だらしないぞ、ケイ!もうひとつ!」
ボーデンは簡単に終わらせない。いつものことだが厳しい。
倒れたケイは、胸を激しく上下させるだけで起き上がろうとしない。もう限界なのだろう。
「どうした、いつまでへばっている!あと五本追加されたいのかっ!」
ボーデンが、まったく容赦ない叱咤を飛ばした。
ケイは、ごろん、とうつぶせになり、手足を一つ一つ立てて、四つんばいになった。
それから重たくなった身体を持ち上げる。もう一人己を背負ってるような立ち方だった。
「お~お~、きっびしいもんだ、あの黒おやじ。しかし、それにしても――」
横にいたショーンが、口もとを少しひきつらせてつぶやいた。
黒おやじとは、ボーデンの見た目と、厳しい性格の二つを指している。
ピッタリのあだ名かも、と内心思いながら、レクセンはショーンの次の言葉を待った。
「――いい尻してるなぁ」
感慨深そうにゆったりした声で、とんでもないことを口にした。真剣に見ていたのはそこだったとは。
ショーンは、レクセンの冷たい視線に気づくと、ニンマリとした。
「あの尻に目がいかない奴の方が、男としてどうかと思うがね」
さも当然、という開き直った答えが返ってくる。
やっぱり苦手だとレクセンは思った。
「よし、今日はしまいだ!」
ボーデンがようやく終わりを告げた。
さっきと変わらず、男は立っていて、ケイは床に沈んでいた。
ボーデンはケイと組手をしていた男に歩み寄った。
「ウォル、もっとこっちの土俵で闘え。力と重量、有利で圧して振り回してやらんと、こいつのためにならんぞ」
頭部の保護具を外しながらウォルと呼ばれた男はうなずいた。
彫りが深く、精悍な顔立ち。鋭い目つき、長い鼻筋。薄く緑がかったくすんだ金髪が特徴的で、寡黙な男である。
ウォル、は彼と親しい間柄の呼び名で、ウォルフベルクが本名だ。普段はウォルフと呼ばれることが常で、誰もが本名を呼ばない。忘れているのかと思うくらいに。
本人ですら、ウォルフと名乗るくらいである。
レクセンは、ウォルフやボーデンとは知り合いだ。というのも、彼らはロクシアとかなり親しい。
当たり前のことだが、ここにはロクシアと交友関係の人は多い。その中でも、彼らはロクシアがもっとも信頼をよせる二人であった。
その二人があれこれと格闘内容の反省点を確認している足もとで、ケイは大の字で倒れたままピクリとも動いていなかった。
もう指一本動かせないようで、反省点もまったく耳に入っていない様子だ。
やれやれ、と顔を見合わせた彼らは、腕の保護具、脚の保護具を順に抜き取ってやった。
頭部は、駆け寄ったレクセンがすでに外しにかかっていた。
上にひっぱりあげられて、顔が可笑しく変形しても、ケイはされるがままだ。
「何の用だ。部外者が立ち入っていい場所ではないぞ」
ボーデンがかたい声を向けた相手は、レクセンではなくその後ろにいたショーンである。
「なぁに、あんたの秘蔵っ子を見にきただけさ」
悪びれる様子もなくショーンは軽く答えた。
「秘蔵っ子ではない。ただの見習いだ」
ボーデンは淡々と返すと、動けないケイに言った。
「ケイ、今日の片付けは、私らがしといてやる。先にあがってもいいぞ」
片付けや掃除は、見習いであるケイの仕事だ。時には保護具や鍛錬器具の補修などもしている。
その免除を言い渡されたケイは、スパッと跳ね起きて、たちまち走り出した。が、すぐに折り返し、レクセンの腕を取って、また急旋回して走った。
「ケイ!?ちょっと、ひっぱらないでこけちゃう、ケーイっ」
脱兎のごとく訓練室を出ていった。さっきまでの疲労はなんだったのか、と疑うくらいの素早さだった。
ショーンが、呆然として入口を見ていると、何故かケイがまた姿をみせる。
そして入口前で、きちんとした一礼をして、今度こそ去っていった。
ボーデンは、してやったりという表情だ。ウォルフも含み笑いをしている。
「せめて名乗るくらいさせろや」
「ふん、おまえのことを知る必要なんざどこにもないわ。ほれ、洗って干せ」
保護具が山盛りになった箱をショーンに渡した。
「なに!? なんで俺が?」
「あいつがいないなら、もう誰にも会う用事はないだろう。私がお前をロクシアのところへ連れていく必要もないようだ。なら、私がゆっくりと片付けをするとしよう」
ボーデンはしたり顔で言う。
「この・・・っ」
黒おやじめ。本命の用事があることをわかってて言ってやがる。
ケイを見に来たのはあくまでついで。ケイのことを耳にして興味がわいたからだ。
だが、さっきケイを見に来ただけと言ってしまった。
良い男は言い訳なんてしない。有言実行かつ成功、がショーンの信条である。
箱を一旦置いて、ショーンは上着を脱いだ。
「わかったよ、やって差し上げらぁ」
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