第3話 バード



トントン、と扉から訪問の音。

レクセンが「どうぞ」というと、長身痩躯の男が入ってきた。

広いひたいに、すこしとろんとした目。強いくせ毛が特徴的で、服装は着古した地味な上下。


「やあ、調子は、良さそうかい?」


聞きなれた低音で少し吃音のある口調に、レクセンは妙にホッとする。

彼は、ヒューデイツという年の離れた友人で、なにかと世話になることが多い。入院中、誰よりもこまめに訪ねてくれて、欲しいものなど要望にすぐ応えてくれた。

お礼を言うと、彼は、単なる心配性だよ、と笑うおおらかな人なのだが、ケイの正体を明かして大笑いしたその人で、いたずらっぽいところもあった。


レクセンは、ヒューデイツの面会で楽しみにしていることがある。訪ねる度に美味しいお茶を持参してくれるからだ。

レクセンは無類のお茶好きだ。

お茶好きといっても、午後のひとときを楽しむような、上品や優雅さを求めるものではない。一度飲んだらやみつきになるような、刺激のある渋みと苦みが好きだった。年寄りくさい趣味だとよく言われる。

なおかつ、ヒューデイツは薬草学に通じ、滋養にも良い調合を加えてくれた。

療養中のレクセンにとって、至高のお茶である。


「今日はどんなお茶なんです?」

「知り合いから、譲って、もらってね。いつもより、苦いかも」


ヒューデイツが、棚からレクセン愛用の湯のみと急須を出し、お茶を入れる準備をし始める。カチ、カチと陶器が触れる音が心地よい。


「・・・・良い、んじゃないかな。その、髪」


ヒューデイツが唐突に、ぎこちなく感想を述べた。吃音に緊張が重なっていた。彼はさりげないつもりである。

レクセンは短髪に整えた前髪をひとつまみしながら、複雑な笑みを浮かべた。

救出された直後は、血の気がなく、肌の荒れ、赤く腫れたような目もとのくま。打撲や擦り傷があちこちにあり、心身の衰弱が酷かった。

けれど、ここに運ばれてまでに数日あって、入院するときには少しは回復した。


すると、本来肩甲骨あたりまであった艶のある長い黒髪が、ズタズタにされていたことの方が、見舞いにきた知人には衝撃的に映った。

レクセン本人としては、髪を切られたことは、そこまでしょげることではなかった。むしろ髪で済んで不幸中の幸いと言える。

それでも、いざ髪を整えてみると、やっぱり気持ちはずいぶん穏やかになった。


「スースーして、まだちょっと慣れないんだけど・・・」


髪を触るレクセンの手首にはまだ縛られた痕が残っていた。

ヒューデイツはレクセンの表情の動きを見つめた。

彼女は、事件に関して、あるひとつを除いてほとんど覚えていなかった。しかし、その時の恐怖は、心の芯の芯に深く刻み込まれる。

傷は自覚なく無意識に現れることがあり、厄介なことに、癒えるのに相当時間がかかる。

自分がそうだったことを思い出し、今でも息苦しさを感じる瞬間がある。


いまのところ、彼女の言動をかえりみても、表面的な怯えは見られない、と感じる。

心理療法という言葉は一応あるものの、確立していないもので、でたらめな処方の方が多く、信じていない人が大半だった。

ヒューデイツだって詳しいわけではないけれど、己の体験があり、そして、レクセンを良く知っている。

だから頼まれたのだ。ロクシアに。内密に。


そういうわけで、ヒューデイツはそろそろ頃合いだと、まずは髪のことに触れてみることにした。

しかし、考えていた以上に気を遣う。どこまで踏み込むべきなのか、線引きがとても難しかった。


さっきの様子では、いまひとつはっきりしない。

ヒューデイツはなんとかもう一歩踏み込んでみることにした。脈拍が早くなってるのを自覚する。こっちが先に音を上げてしまいそうだ。

ヒューデイツはまず、断りもなくレクセンの顔に手を伸ばした。決してすばやい動作でなく、ゆっくりめに。

何の反応もみせなかったので、彼女の鼻先で手を止め、ひっこめた。

レクセンは、自分の手に染みこんだ薬草独特のにおいを感じただけのようだった。


わからない。

ヒューデイツは一旦病室を出て、沸かした湯を持って戻った。

そして、今度はレクセンの耳の後ろあたりへ手を伸ばした。指先が柔らかい髪にかすかに触れても、彼女は首をかたむけて、ヒューデイツの手を一瞥しただけだった。

肩や髪にひっついたホコリを取ってもらったという仕草だ。明らかな拒否反応はしめさなかった。


ふと、ヒューデイツはまるで恋人がやりそうな行為だと気づき、あわてて手をひっこめた。

その拍子に、棚のふちにひじをぶつけて、ガチャンと陶器がびっくりしたように跳ねる。


「あの、どうかしたの?」


ひとりで悶えているヒューデイツのあやしげで滑稽な行動に、レクセンが笑いつつも眉根をよせていた。ケイも彼の行動をずっと観察していたように見つめていた。

ヒューデイツはさっそくやりすぎてしまったと反省した。

もともと、一人でこもって時間を忘れて集中する研究者気質のヒューデイツに、患者の様子を観察して、さりげなく診断するという器用な真似はできなかった。

自分の短所を把握しているヒューデイツは、素直に吐露し、謝罪する。

ロクシアのことはさすがに黙っていた。レクセンにとって母親は禁句に近い。


レクセンとしては、ヒューデイツに試されたことになるが、特に嫌な気はしなかった。

確かに考えすぎで心配性な人だが、いつもこうして自分のためになにかと尽力してくれる。知らない医者よりよっぽど信頼できた。


「普通なら、拒絶反応があったり、するんだけど。どうやらレクスは、僕が思ってるより、丈夫だ」


女性を褒めるにはおかしな彼の言葉に、レクセンは照れ笑いをみせた。

それから、レクセンもヒューデイツにつられて自分を分析してみた。

ヒューデイツが言うほど、自分が強いとは思えない。

眠れないこともあるし、ほとんど覚えてないが、あのとき、何一つ行動できずにうずくまっていた非力な人間だ。

覚悟していたつもりが、それは全く足りてない口先だけのものだった。情けないと思うことの方が多い。

ヒューデイツに対する信頼もあるが、それは恥ずかしいので絶対口にはしない。


「多分、今のところ私が平気なのは、ケイのおかげだと思うんです」


二人に注目されて、ケイは額にしわの波ができるくらい両眉を上げて、まばたきした。

ケイは、自分を救出し、あの恐ろしい悪魔をのした。

ただ倒しただけではない。ナイフをかすらせもせず、またたく間にやっつけた。

はっきり記憶しているところだ。それが、自分を縛りつけたであろう恐怖を断ち切り、悪夢すら砕いたのかもしれない。

そういう自己分析を、つたないながらヒューデイツに説明した。


「そう、かもしれないな」


ヒューデイツは、自分の首をさすりながら同意した。

ケイがどんな働きをしたかは見ていないが、無二の友人が認めているほどだ。彼女もまた、強さを超えた何かを持っているに違いない。

楽観的判断はしないつもりだが、むやみに危惧しすぎてもよくない。

自分みたいな小心者の物差しで二人を測っちゃ駄目だな、と独白した。


ひとまずヒューデイツはお茶を入れることにした。

レクセンの病状を確かめることに必死で、あやうく忘れるところだった。

お茶が注がれると、さわやかな香りが湯気とともに漂った。すこし重たくなった空気を和らいでくれる。


ケイは熱いのは苦手で、毎回難しい顔で湯気とにらみ合う。

レクセンは香りと透き通った黄緑の色味を楽しみ、一口すすった。じーんと苦みが広がり、熱さがのどを通って胸をおりていく。


「あぁぁ、美味しい」


レクセンは、至福の表情でしみじみと感嘆を漏らした。たしかに年寄りくさい。

息を吹きかけていたケイも、やっと口をつけた。

とたんに、しわくちゃに渋った顔で、舌を出した。


「かっ!に、にぐぁ~」


見た目の印象からはまるで想像できない特有の訛りと、子どもみたいな大げさな表情に、レクセンとヒューデイツは笑い合った。





ヒューデイツは一冊の本を置いて帰った。レクセンは今までのどのお茶よりも感激した。

本は、柔らかい革表紙で、指二本分の厚さ。部分的に黒ずんでいて、角がめくれ上がり、かなり年季が入っている。

レクセンは感慨深そうに、表紙の革の感触をたしかめていた。


「何の本?」


ケイが、まだ少しお茶の苦みが残った顔で尋ねた。

苦い苦いと言いながらも、残さずに飲みほしたせいだろう。

ケイが声をかけてきたのは初めてだったが、それに気づく前にレクセンは反射的に答えていた。


「私が一番大好きな本の第一巻。複製なんだけど、もうほとんど残ってないの」


触れていた手をどけて、ケイの方へ本を向ける。題名を読もうとして、ケイは眉間にしわをつくった。

レクセンはクスリと笑った。読めないのはケイが悪いのではない。日常で使われていない古い文字だからだ。


「冒険記で、私がこの仕事に憧れるようになったきっかけでもあるの」

「どんなんなん?」


レクセンは、表紙をめくり、最初の文章を読んだ。




私は旅する。失われた時の扉を求めて―――


かつて、古き人々が歩み、築き上げた歴史をさかのぼる。


言うほど簡単なものではなかった。


想像を上回る厳しさ、限界を超えた険しさがあった。


そして、ようやくたどり着いた先に、


彼らの生活があった。知恵があった。信念があった。


そして、人生があった。


私は、時間を超えてすれ違うひとりひとりと会話していく。


時には、風化して埋もれた瓦礫の下で。


時には、暗い地の底の塔の壁画で。


時には、深い深い森の大樹の祠の書物で。


時には、過酷な時を耐えた聖なる神殿の秘匿の部屋で。


しかし、私が開いてきた扉は、無数にあるうちのほんの一握りにすぎない。


私の後に続く、まだ見ぬ君たちのために、旅をつづる。


君だけの空白の扉を開き、古き時の静寂を拓く《バード》であれ。




何度読んでも、レクセンはこの文章を初めて目にしたときの高揚感を思い出す。

ケイはまばたきをして聞いてきた。


「《バード》?」


ええ、とレクセンは該当する頁をすぐに開いた。読み込んでいる証拠である。


「彼はね、ここで壁にあった文字を誤読してしまうの。古くてかすれてて。で、のちのち間違いに気づくところがあるんだけど、この冒険記にあえて正解を書かなかった」

「なんで?」

「それは、自分で見つけなさいってこと」


レクセンは本を閉じ、ふたたび表紙を見せる。


《Va  ard》


「この誤読をそのまま読んで、《バード》。空白部分も残した題名になってるってわけ」


は~、とケイが感嘆した。


「でもこれ、かなり古い冒険家のものだから、もう正解とか意味とかわかっちゃってるの。だけど、これって正解を知って終わり、じゃないと思うの。最後の一文にもあるように、自分なりに空白を埋める答えを探し求める、その姿こそ《バード》なんだよ、きっと」


レクセンは、これこそがわたしの目標、とまだ心の中でしか言うことができなかった。

これを豪語できる日はずいぶん遠い。


「は~、かっこいか。調査団のみんな、《バード》てこと?」


ケイの感嘆は一段と高くあがったが、レクセンの口角はさがった。


「この本知らない人の方が多いのよ。大きな発見を成したわけじゃないから、あまり知られてないし。いまさら冒険って時代でもないし。だから《バード》なんて使われてなくて、単純に、調査員とかが一般的かな。・・・変な蔑称とかはあるけど」


最後のつぶやきは、ケイには届かないごく小さなものだった。

しきりに感心していたケイは、もっと知りたいと言ってくれた。

レクセンは張り切って、初めて会話していることも忘れて、色々と語っていった。


「この人はね、危険を顧みず色んな場所に冒険に出ているから、意外な場所に手記が残っていたりしてて。その時その場所で出会う人や景色を細かく書いてるのが大好きなのよ。この人の歩いた道程を追おうとした人もいて――」


二人の間にあった微妙な空気は、いつの間にかなくなっていた。



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