第2話

 朝目が覚めると僕はここに居る。

 最寄駅から歩いて十分、1Kのロフト付きボロアパート。

「……さようならって、誰だよ」

 掛け布団を蹴落として、ベットの渕へ腰掛ける。

「夢……だよな……」

 夏目紡なつめつむぎは拭いきれぬ倦怠感に首を二、三度回し、そのまま天井を見上げてその名を呟いた。

「オウル……?」

 一月のまだ肌寒い、ガランとした部屋に放ったその名はやけによく響き、ついで締め切ったはずの部屋に風が吹いた。潮の香りを含んだ、もの哀しい風がカーテンを揺らす。覚醒しきらない、いまいちぼうっとした頭で考えて、夏目はゆっくりと強めに、火照った手の平で顔を拭い、もう一度窓辺を見直す。遮光性のない安物のカーテンは朝陽を透過して、それでもやはり揺れてはいなかった。

「睡眠の質が悪いから夢なんて見るんだ。……枕が悪い」

 誰に言うでもなくそう言ってから夏目は頭を振り、張り付いた眠気と夢の残り香を振り払う。緩慢な動作で立ち上がるとテーブルのリモコンを手に取る。移動しながらテレビをつけてリモコンをソファーへ放り投げ、コーヒメーカーをセットして洗面台へ。続く洗顔と歯磨き、朝食をとって仕事があれば出社。上京してからの5年間繰り返したルーチンワークは義務的な、ある種儀式的な体をなしていた。

 夏目はただ機械的に日々を送る。会社と家の往復に日々を費やす。休日は家に篭ってただ無為に時間を浪費する。彼はそれしか知らないし、それで良いと思っている。そんな夏目を見かねてある人は親切心から趣味を持てば良いと、またある人は憐憫から友人を持てば良いと言うが、そういう生き方が出来ない臆病な人間も、社会の歯車にさえなれない不器用な人間も居るのだと、世間は決して認めようとはしない。爪弾きにされない程度にはコミュニケーションに機能不全を持たない彼は結果、別段何不自由ない孤独に苛まれ、代わり映えしない平凡な毎日に蝕まれていた。

 夏目紡のいつも通りの退屈な一日は、いつもこうして始まるのである。

 歯を磨きながらソファーに腰掛け、とくに興味もわかない歌手の不倫報道を眺めていたが、続いて飛び込んだニュース速報に夏目はしばし手を止め、前のめり気味に座りを直した。

 落ち着いた朱鷺羽色のコートを着込んだアナウンサーが神妙な面持ちで、最近一番な連続殺人事件の内容を繰り返す。

「……繰り返します! つい先程、一連の『黒い女』による連続殺人事件の被害者とみられる遺体が発見されたとの情報です。場所は通勤客で賑わうJR新宿駅の目と鼻の先。現場は厳戒態勢で封鎖され、大勢の警察官により物々しい雰囲気に包まれており、また突然起きた惨劇に、周囲はショックでうずくまる女性や、現場を一目見ようと押し掛けた野次馬と制止しようとした警察官との間で怒声が飛び交うなど、以前混乱が続いております! 周辺にお住いの方は犯人が近くに潜伏している可能性もありますので、十分に警戒をして、不要な外出は避けるようにとの……」

「うわ、怖いな。凄く近いし。最近日本も物騒だよなあ……」

 画面表示された現場地図は夏目のアパートから一キロも離れていない場所であった。こういう事件は例え朝からでなくと気分が滅入るもので、それが異常な類のであれば尚更であった。

 洗面台で口をゆすぎながら鏡を眺め、夏目は思い返してみる。去年の年末から始まった『黒い女』事件。連日連夜の報道によれば被害者は年齢も性別もバラバラで関連性はなし、金品もそのままで物盗りの線も薄い。異様なのは此処からで、被害者はみな一様に何か巨大なハンマーで殺害されており、遺体は目も当てられない惨状との事らしい。友人が殺されながらも命からがら逃げ延びた被害者によれば、犯人は影のように暗い全身黒づくめの女で、彼等にこう問うたらしい。

『王はいづこに』

 その犯行の異常性と犯人の超常的な様にネットを始め一部で異常な盛り上がりを見せており、被害者の一人に強盗殺人の前歴があった事が明かされると、黒い女を神罰を下した神だと崇めたりとカルト的な人気に拍車がかかる。今では彼女を模したキャラクターが作られたりなんて、この事件に関する世間の見方はどこか熱病に浮かされた様な体を見せている。

「こんな異常者が人気なんて、なんだかなあ」

 テレビを見ながら食パンをコーヒーで流し込み、夏目は呟いた。

 先程の報道も朝食終わる頃には話題は現職大臣の問題発言に変わっており、スタジオではいつの間にかコメンテーターの肩書きのついた元お笑い芸人が物知り顔で持論を繰り返していた。

 夏目はただただBGMとしてそれを眺めながら、三杯目のコーヒーを啜り考えていた。今日は仕事もないし、先程のおかしな夢のせいでどうにも身体が重い、取り敢えず昼まで惰眠を貪ろう、そう決めた夏目が食器をシンクに放り込んだと同時、無機質なインターホンがなった。

 ふとさっきのニュースが頭をよぎり、身体がこわばる。時計に目をやると朝七時を少し回った所、荷物の配達にも公共料金にしても早い。インターホンが鳴ってから扉からはなんの物音もしない。

 付けっ放しにしていたテレビはさっきまでのワイドショーの側面が強い番組からお堅い報道番組にとっくに変わっており、再び映った先程の黒い女事件現場の映像に併せて、スタジオの犯罪心理専門家の解説が流れていた。

「いやこの類の事件の犯人ってのはねえ、段々エスカレートするんですわはあ。いやつまりね、こういう殺すこと自体が目的の無秩序型の異常者はね、外で出歩く対象が居なくなると、獲物を求めて次はんですわ。え? いやそりゃあ。まあ番組を御覧の皆様には戸締りを……」

 視線は扉に釘付けで、右手に持ったカップに注がれたコーヒーが波を立てる。それが自分の手が震えているからだと気付くと、途端に口内の異常な渇きに吐き気を催した。呼吸のたびにひゅうひゅうと穴の空いたホースの様な音がうるさい。扉からは未だになんの音も聞こえないが、夏目には分かっていた。

 そこには確実に、が居るのだと。


 もう一度、インターホンが鳴った。




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