第21話 決意
「あの……アズドル新国王っていうのは?」
リャットがビトカに問うと、ビトカは少し唸る。
「あのバカの処刑でアズドルの先代国王が心を病んで退位したんだよ。二年くらい前かね。で、新国王が強硬派だったらしくてこの有様さ」
「トレム王子が……トレム王子が、そんなことさせるはず……」
昔、まだサムドランがいたころ、王城へ向かったあの日のことが頭の中で蘇った。彼はとても聡明なひとだ。そして心優しい為政者だ。
「ああ、アズドルの王弟のこと? ちらっと聞いた話だけど、ここしばらく彼は王都から離れて地方の政についていたようだよ」
「ま、どちらにせよ早いとこ戦争は起きてただろうさ。奴らはローバリの属州か何かになろうとしてんじゃないかい? アーデラールの尽力もあってローバリは魔導師の数とそれを活用する仕組みが世界一と言われてるからね、ちょっとやそっとの天変地異じゃ倒れることもないくらいの安定加減だ、頼るしかないと判断したんだろう」
「だからってもっとやり方があったはず……! どうして戦争なんて始めるんですか! こんなことしてる場合じゃないでしょう!」
これじゃ、全部無駄になる。マーリアの死も、サムドランの死も、名前も知らない人たちの苦しみや犠牲も、ここにいるみんなの想いも。
全部意味のないことだったのだろうか? いや、無駄、あるいは意味のないことどころか、どう償ったって消えない重く熱い罪だ。シャイアドはあまりにも多くの命の上に立っているのに、その人たちの尊厳を蹴飛ばすように、浪費の先で潰えそうになっている。
──わたしの人生そのものが、悪だったのだろうか。
「シャイアド、落ち着いて。戦争を始めた理由だって、君も本当はわかっているんだろう。……大丈夫、まだ君は生きてる。僕もいる。何かやれることはあるはずだよ」
カッと湧き上がった心の色は、レキンの優しく真っ直ぐな黒で混ざり合うのをやめた。少しずつ、本当に少しずつだが、心に穏やかな黒が広がって、鎮まっていくのを感じる。レキンの言葉は、声は、表情は、いつも落ち着きを与えてくれた。
「そう、まだ諦めるわけにはいかない! ……師匠が昔、なかなか座学が伸びない俺に特別補習をしてる時、こんなことを言ってた。焦りは成功の背後を取る、って」
リャットがシャイアドの背中を軽く叩いて笑ってみせた。リャットの背後に、あの人の面影が見える。
まだ諦める時じゃない。その言葉が急に現実味を帯びて輪郭を浮かび上がらせた。
「……うん。そうだ、嘆いてたって何も変わらない……」半ば己に言い聞かせるように呟いてから、顔を上げる。「ねえ、今わたしたちに何ができる?」
問われたリャットはしばし黙り、それから助けを求めるように、口を固く結んでレキンの方を見た。レキンはリャットの視線に心底呆れたようにため息をつく。「まあもし君に何かいいアイディアがあったら、僕は君をローバリの魔導師会の会長に推薦してるところだよ」
「う、うるせえなぁ……で、あるの? ないの?」
レキンはいつも熟考するときのように眉間と顎に指先を当てる。思い当たるものがあったようだが、少しだけ不安げに眉をひそめた。
「……あるにはある。でも、賭けになってしまう」
「ないよりはいい! どんな作戦だ⁈」
「実は密かに検討してた計画がある。僕発案で、少し議長に手直しをしてもらったやつだ……」
リャットが食いついてレキンに迫ると、二人は家の資料室へ駆け込んでいった。シャイアドは二人の後に続こうとしながらも、胸によぎったものが足を止めてうまく動けない。
「……あんたはついていかないのかい」
残ったシャイアドに不思議そうに語りかけたビトカだったが、シャイアドの目が静かに燃えていたのがわかったのだろう、「その顔、そっくりだねぇ……。何か考えがあるんだろう」と苦笑した。
「あの……わたし、思ったんです。アズドルがローバリと戦う口実を作るならば、それは間違いなく施しの剣。ローバリが施しの剣に何か細工をしたからこんなことになっただとか、そういった文句をつけて宣戦したのかもしれません。……なら、だとしたら。戦場は、どこか」
「……公表されてる限りでは、お前さんが思ってる通りの場所だよ」
やっぱり。そうだった。そうではなければいいと、思ったのに。
「あんたらがいたっていう、あの街の近くだ。あのバカがいた頃はあの街も難攻不落の最強の砦とも呼ばれたんだけどね。今は無理だろうねえ。新任の領主はただの貴族だから、もし攻め込まれれば落ちるだろうさ」
シャイアドには、たくさんの大切な人がいる。リャットをはじめとする彼らのことは、絶対に失いたくない。シャイアドは彼らを守りたかったし、彼らもまたシャイアドのことを守ろうとしてくれる。
その中でも、ひときわ守りたい人がいた。どうしても、何があっても、何をしてでも、幸せになってほしい人がいた。
「ウトラ……」
リャットは暗闇の中を一緒に走ってくれた。レキンは暗闇に明かりと地図をくれた。
──ウトラは、光を失ったわたしに生をくれた。
シャイアドにとって、ウトラは特別だ。初めて見た魔導師でもなんでもないのに、……きっと光のない世界で初めて得た温もりだからこそ、シャイアドの心からずっと離れない。
掛け替えのない友が、空の上にある星が、危険にさらされようとしているのなら。
「ビトカさん、ごめんなさい。あの街に連れて行ってくださいませんか」
「……自分がどれほどバカなことをしようとしてるのか、わかってるのかい」
「一瞬でいいんです、きっとあなたなら半刻もあれば往復できますよね。……連れて行ってください」
ビトカは静かにシャイアドの目を見つめた。シャイアドも、ビトカの目を見つめた。
「生き残ったって、大切な人がいなければ意味がないんです」
「……わかったよ」
ビトカは片手を挙げるとどこかから飛んできた箒を受け止め、ひらりとまたがった。
「あの二人には内緒だ。気づかれる前にさっさと片付けようか」
面倒臭そうな顔をするビトカだったが、表情のどこかには何かを懐かしむ様子が見えた。シャイアドも急いでまたがり、ビトカの細く小さな体にしがみついた。
「ありがとうございます、ビトカさん!」
「口閉じな、舌噛むよ!」
箒で飛ぶのは、何年ぶりだろう。最後に飛んだのは、マーリアの散歩に付き合って後ろに乗った、冬の昼だった。たくさん着込んで、丸くなって、マーリアにくっついた。悠々と高所を飛んで見せたマーリアは暖かくて、柔らかかった。
今は違う。何もかも、違う。シャイアドは振り落とされないようにビトカにしがみつき、下を見ないように強く目をつぶった。
想像より早く街に飛んできたビトカは、兵士に見つからないように身隠しの魔法を使用しつつ、飛行魔法選手が惚れ惚れするような技術で空中を何度か回ると旧サムドランの館の裏手に舞い降りた。シャイアドは長時間の飛行で固まる体を解す間も無く転がるようにしてウトラのもとへ駆けて行った。ビトカは降りた場所で待っているから、早くしろと送り出してくれた。
自分で発動した身隠しの魔法は、どうやらうまくいったらしい。不安そうな顔で街ゆく人々は、誰一人シャイアドに気づかない。シャイアドは何度も通った道順を久しぶりに頭の奥から引っ張り出し、突き当りにあるウトラの工房を見つけると、その中へ転がり込んだ。大きな音に驚いたらしい幼児の泣き声が響く。それと同時に動転したような、それでも幼児に配慮した小さな驚き声が上がった。
「嘘……シャイアド?」
声の方に顔を向けると、あの子がいた。
作業の手を止め、泣きつく子を抱きあげながら、目を丸くするウトラ。しばらく見ない間に「おかあさん」になっていたウトラを見て、それでも昔の面影そのままで、シャイアドはどうしてか泣きたくなってしまった。だが今はそんなことをしている場合じゃない。荒れる息をなんとか整えて、シャイアドは工房の奥に子どもと二人でいたウトラの元へ近づいた。
「ウトラ、あのね、戦争が、始まるの」
ウトラはその言葉に悲しそうにさっと眉をひそめた。
「……そう。……先月、フィエルが徴兵されたの。職人として、武器や防具を作らされてる。私はこの子がいたから免れたけど……」
それからウトラは思い出したように顔を上げ、自分が左手の親指につけていた指輪をシャイアドの同じ指にはめた。
「これ、お守り。私が作ったの。いつかシャイアドと再会できたら渡そうって、思ってたんだ。こんなタイミングになっちゃったけど……。あーあ、あの頃に戻れればいいのに。シャイアドも、サムドランさんも、リャットもいたあの頃に」
シャイアドは一瞬、本当に一瞬、ウトラをこんな顔にさせているのも、全て自分が原因であることにくじけそうになった。でもなんとか踏みとどまって、自分の目的を思い出す。
「ウトラ、ありがとう。それでね、聞いて欲しいんだけど……この街は危ないよ。アズドルの軍が押されたら、確実に巻き込まれる。このご時世、みんなの心に余裕はない。何をされるか、わかったもんじゃない」
シャイアドはウトラの手を取った。
「──逃げよう、ウトラ。お願い。わたしと一緒に来て」
ウトラの子どもが不安そうに母を見上げた。
嫌な沈黙が流れる。衝撃を受けていたらしいウトラは、しばらくして小さく微笑んだ。
「……ごめん、できない」
「っどうして、……あ、大丈夫、ウトラの家族もみんな連れて行ってあげるから! だから、逃げよう!」
ウトラの腕を引っ張っても、彼女は梃子でも動かなかった。我が子を下ろしてから小さく首を横に振って、そっとシャイアドの手を外す。
「それじゃダメ。私たちだけ逃げるわけにはいかないよ。みんな……ターニャもブレックもレードさんも……とにかく、街の人みんな、置いていけない。フィエルのことも、ここで待たなきゃ」
ウトラが冷静すぎるのに、シャイアドはうろたえた。
「そん……な、こと言ったって、生きなきゃ! 綺麗事言う前に、生きてよ! あなたには生き残る確実な道があるのに!」
「私は誰かを裏切ってまで生きたいとは思わない」
あんまりにもまっすぐな目だった。
(どうして……どうしてそこまで綺麗でいられるの?
どうして、いつもあなたは眩しいの……?)
「……でも、そうだね、この子だけは、連れて行ってくれる?」
ウトラはまだ年端もいかぬ小さな子を前に出した。その子はすっかり怯えきっていて、泣くこともできずにぐずりながら母の手にすがりついていた。
まん丸いその子の目がシャイアドを捉えた時、シャイアドの脳内を、重く冷えた何かがものすごい勢いで通り過ぎる。
──誰かを裏切ってまで生きたい、とは、思わない。
高ぶっていた気持ちも、エゴを肯定する意志も、何もかもが一気に冷えていく気配がした。燃えていた炎が、燃料を取り上げられたのだ。
だが、消える炎の中から、見えたものがある。
生き方を、死に様を決められる人の眩しさは、やはりどうしても羨ましい。
綺麗だ。憎いくらいに。
──やっぱりわたしはウトラが好きだ。
だからこそ、失いたくない。
リャットだって、レキンだって、ビトカさんだって。
絶対に、何があったって、失いたくない。
急に黙ったシャイアドを気遣わしげに見つめていたウトラを見つめ、シャイアドは決心した。
「……わたし、この戦争を、終わらせてくる」
「……え?」
「大丈夫、ウトラ、待ってて」
工房内に立てかけてあった箒を手に取り、シャイアドは外に飛び出した。そのまま箒にまたがり、軽く飛んで城壁を飛び越える。ビトカがこの街にいれば、何かあっても安全だろう。
飛行免許は持っていないが、もはや法律など守っている場合ではない。箒を飛ばして、草原の低空を駆けた。風が耳元でびゅんびゅんと鳴る。頭の中は、施しの剣の場所の予想でいっぱいになっていた。あの剣は一体どこにあるだろう。このあたりの森の中にあるのは確かだが、細かい場所は公表されていない。そもそも無くなってしまっているのだから見つかるわけがないのだが、施しの剣は、サントーシャムによって差し込まれた始まりの地で待っている。彼女の一番の弟子の、アーデラールとともに。根拠はないが、シャイアドはそう確信していた。
軍に空を飛んでいるところを見つかるとまずいので、上から探すことはできなかった。闇雲に探していては、日が暮れてしまう。逸る心を押さえつけ、シャイアドは脳みそを絞るようにして考えた。
「……そうだよ、わたしは、堰の子だ……」
元来、施しの剣とは惹かれ合う関係にあるはず。根拠なんかなかったが、今は賭けでも試すしかない。
一度止まって深呼吸をいくつかしてから目を閉じた。
一縷の光の線が見え、弾かれるようにそこへ向かって飛ぶ。慣れない運転であちこちに切り傷を作りながらも、森を何個か越えて行った。
長時間の飛行による体力と精神の消耗でふらふらになりながらも飛んでいると、ついに木にぶつかって墜落してしまった。
枝や小石にまみれた地面を転がり、それでも顔を上げ、箒を握りしめて走った。
「大丈夫、一度やったから」
自分に言い聞かせて走り続けていると、突然目の前に影が落ちた。
転んだのか、気絶するのか、よくわからないまま見上げると、人が立っていたことに気づいた。目の前に落ちた影は、人だったのだ。
その顔を見て、全身から血の気が引く。
──君の、獣……!
一瞬にして身動きを封じられ、魔法を封じる特殊な文言が書かれた布で腕と口を拘束されてしまった。何かしようと思考を始めた瞬間にはすでに仕事を終えていて、抗いようもない。それにしてもなぜ彼らがここにいるのだろう。残念ながら、この君の獣はヴェーテルではなかった。話などさせてくれないのは明らかだ。
引っ張られて連れてこられたのは、見知ったあの人の前だった。周りにはキャンプ地が展開されており、昨晩はここで夜を明かしたのだろう。
「トレム様、この者が周囲を徘徊しておりました」
「トレム、王子……!」
顔を上げて、大きな天幕の中にいたトレムと呼ばれた人を見上げる。不敬だと取り押さえられたが、トレムは「よせ」と辞めさせてゆっくりシャイアドの目の前に歩み寄ってきた。斜め後ろにはヴェーテルもいる。トレムは丁寧に、シャイアドの口を覆っていた布をその手で取り払った。
「そなたはシャイアドだな? 覚えているぞ、どうしてここに。それと今の私は王子ではない。王弟だ」
不幸中の幸いとはまさにこのことだ。シャイアドは藁にもすがる思いでトレムに訴える。
「王弟殿下、どうか話をお聞きください。わたしはこの戦争を止めに来ました!」
思いがけぬ言葉に目を見張ったトレムだったが、シャイアドを拘束する君の獣が「痴れ者の言葉にお耳を傾ける必要はございません」と警告する。
「しかしこの者は──」
「聞くに値すると思いますが」
思いがけない提言をしたのは、横の青い天幕から出てきたメリタリヤだった。数年前と、何も変わらない。むしろ少し若返ったように思えた。
「お久しぶりですね、シャイアド。我らの師が亡くなられて、さぞ苦労したことでしょう」
「あの、サムドランさんは」
サムドランの汚名をそそごうと口を開いたが、メリタリヤの何も話すなと言わんばかりの眼光で言葉を引っ込める。
「師は最後まで師でしたよ。……それで、先ほどの話の続きを」
「は、はい……。その……詳しくは申し上げられませんが、十年前に施しの剣が存在した場所まで、わたしをお連れください」
「なぜ詳しくは話せぬというのだ」
トレムの困惑した様子に、シャイアドも参ってしまった。今から全て説明するには、あまりにも時間がない。第一、話したって信じてくれるとは言い切れない。師匠が死んで頭がおかしくなった、哀れな魔導師だと思われてしまうかもしれない。
「とにかく、わたしを施しの剣が存在したところにお連れいただければ、戦争を止めてみせます。どうか、どうか信じてください」
もちろん、理由を話さないのは自分でもバカバカしいことだとわかっている。それでも今はこうするしかなかった。案の定、トレムは唸る。
「私もそなたの力になってやりたいし、本当に戦争を止められるなら送ってやりたい……が、知っての通り施しの剣は我が国の宝だ。正確な位置はメリタリヤをはじめとした宮廷魔導師と我々王族、そして獣の者しか知らん。それを仮にもローバリの魔導師であるそなたに伝えることはできないのだ、わかってくれ」
トレムの立場もよく理解できる。どうしようもなくて、シャイアドは俯いた。応えあぐねていると、思わぬところから助け船が出た。
「具申します。この者を途中まで連れて行ってはどうでしょうか。施しの剣跡地まで案内こそはしませんが、近くまで。そこで下ろすのです。そこから自力で跡地を見つけられれば神の思し召し。見つけられなければ、それまでのこと」
進言したのはヴェーテルだった。ずっとトレムの斜め後ろで無感情にこちらを見つめていたが、どういう風の吹きまわしか。
トレムはしばらく黙っていたが、メリタリヤのほうをちらりと一瞥し、彼女が頷いたのを見て決心したようだった。
「よし、ではそうしよう。万が一にも裏切らんように、ヴェーテル、お前の馬に乗せろ」
ヴェーテルが了承し、これでとりあえず即捕虜か何かにされる心配はなくなった。小さく安堵のため息をつく。
なんとか拘束は解かれ、腕に巻かれた布も丁寧にヴェーテルがとってくれた。
「お前、魔導師でよかったな。ローバリ人ならその場で殺されてもおかしくはなかった」
国際法で、攻撃魔法を戦争に使用してはならないと決まっており、戦場での魔導師の役割はもっぱら防衛であった。そのためこんな明らかなローバリ人であっても、拘束こそされどただちに排除しなければいけない危険だとは判断されなかったのだろう。一応つけておけと、ヴェーテルがフード付きのコートをくれた。万が一周りの兵士たちに見られたらいらぬ混乱が生まれるからだろう。
「あの、いろいろありがとう、ヴェーテル」
「お前のためだけじゃない」
「それでもありがとう」
「……ああ」
そうこうしている間にキャンプは畳まれ、皆が馬や馬車に乗り出発することとなる。シャイアドは促されるまま馬にまたがり、その後ろにヴェーテルが乗った。他の多くの兵士は馬などのれるはずもなく、個人に馬を割り当てられている君の獣の身分の高さが伺えた。そのまま遅い速度で歩み始め、心地よいリズムが体に響く。
「……ねえ、ヴェーテル。ずっと聞きたかったことがあって……。君の獣であるあなたは、どうしてあの街にいたの? どうして、突然戻ってしまったの?」
「なんだっていいだろ」
「よくないよ、だってあなたはわたしの大好きな友達の、お兄さんだから……」
ついさっき、ウトラに会ったことは黙っておいた。下手にヴェーテルの動揺を誘うべきではない。
ヴェーテルは小さくため息をついてから少し黙ると、ぽつりぽつりと何があったかを明かしてくれた。
「……あの街へ行く少し前、君の獣だった俺の両親が、事故死した。俺は君の獣の卵として親から訓練を受けてたんだが、親という師がいなくなって、新しい指導者を探してた時……サムドラン様が俺の前にふらりと現れたんだ。それで、”新しい人生に興味はないか”と声をかけてきた。あの人は国王に並ぶくらい権力があったからな、他の君の獣は反対できるはずもなく、俺は拒絶する理由もなく、なされるがままついてった。正直なところ、俺を連れて行った理由はわからない。あの人に聞いても”なに、気まぐれさ”とはぐらかされるだけ。仕方なく俺は鍛冶屋のランギとしての生を得た。まあ、最初は仕事として演じてただけだけどな。でも少しずつ……本当に少しずつ、毎日が楽しくなっていった。俺は今まで”ただ俺を生んだだけの大人”と、”淡々と仕事をこなすだけの人たち”の元で生きてたから、絆や関わりを大切にするあの街の人たちは新鮮だった……。笑いかければ笑顔が返ってきて、優しさに優しさを返したくなる。どんな殺し合いより、生を実感したというか……。だが、まあ、親の有能さもあって、俺はこれでも将来を有望視されてた君の獣の卵でな、お前が来た少し後に、呼び戻されたんだ。君の獣は常に人手不足だから。なぜかサムドラン様は止めなかったな。だから、戻った」
「戻りたくなかったのに」
シャイアドはヴェーテルが思っているであろうことを付け足した。ヴェーテルの手綱を握る拳が、少し動いた。
「……ここが、俺にふさわしい場所だから戻ってきた。それだけの話だ」
「でも……」
「殿下のことは心からお慕い申し上げている。戻りたくなかったわけじゃない」
そっか、と呟いて前を見据えた。側方に切り立った崖を臨むこの道は、戦場に続いているのだろう。そして、施しの剣にも。
シャイアドはある決心をして、服の中からあるものを引っ張り出した。ヴェーテルは最初身構えたが、彼はシャイアドが常にペンダントをつけていることを知っていたので取り押さえはしなかった。
「あのね、ヴェーテル。これ、わたしの大好きな師匠にもらったお守りなの」
シャイアドは訝しげにこちらを見つめるヴェーテルに、淡い苔色のペンダントを差し出した。
「あげる。きっと何があってもあなたを守ってくれると思う」
「……お前の大事なものだろ」
自分でとっておけ、と言うようにヴェーテルはやんわりとシャイアドの手を押しのけた。これがシャイアドにとっていかに大切なものか、かつてランギだった彼はよく知っている。
「わたしにはウトラにもらったやつがあるから」
シャイアドは左手の親指を掲げて見せた。
「でもこれは……」
頑ななヴェーテルだったが、シャイアドは無理やり身を乗り出して彼の首にかけた。下手に動いて馬を暴れさせてはいけないので、ヴェーテルは仕方なく受け入れる。
「いらないなら、それ、ウトラに渡して。全部終わって、生きて帰ったら、あなた自身がその手であの子に渡して。わたしの、最後のお願い」
「最後……?」
首を傾げたヴェーテルだったが、意味を理解すると少し手を強張らせた。
「命をかける人間って、本当に卑怯だな」
呆れた様子のヴェーテルだったが、おとなしくペンダントを服の中に入れた。淡い光が見えなくなると、ひどく心細くなった。ずっと一緒だったマーリアのお守りが、手元から離れた。シャイアドにこのペンダントを託した時、マーリアも同じ空洞を抱えたのだろうか。
そういえば、マーリアはこのペンダントについて、師匠が作ったものだと言っていた。マーリアの師はサントーシャムであるから、このペンダントは施しの剣ほどではないが、遺産とも言えるかもしれない。
「……それ、たぶんサントーシャムが作ったお守りだと思うから、効果は抜群だと思うよ」
「そんなに惜しいなら、お前が墓場までつけてればいいだろ」
シャイアドの寂しそうな横顔を見てヴェーテルがため息をついた。
「ううん。……きっと、そのペンダントの中に、わたしの意志も、マーリアの意志も、生き続けるから……」
だから、大事に持ってて。生きて帰って。
ヴェーテルは少しの沈黙の後に、諦めたように「わかったよ」と呟いた。
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