第19話 欲しいもの





 その日以降、シャイアドは何かに追われるように、これまで以上に必死に働いた。リャットが何度もそんなに働いたら倒れてしまうと叱ったのだが、シャイアドは目を伏せてごめんなさいと呟くだけだった。

「……シャイアド、君が焦る気持ちが一体何からきているのか、なんとなく予想はつくけど……。焦っちゃダメだよ。焦りは成功の背後を取るって、師匠言ってただろ」

「でも、でもね、どうすればいいかわからない。わたしに何ができるんだろうって、幸せに生きていたら、良くない気がして……」

 レキンはその様子を側から見ていたが、やがてそっと家を出て裏手へ回った。もうすでに日が沈んでしばらく経っている。村人はとっくに眠っているだろう。それにこの空き家は人家からそれなりに離れている。一応周囲を確認してから、通信用の装身具を取り出し、あの人の元へとつないだ。しばらくの間通信先は無人だったが、やがてある人物が静かにやってきた気配がした。レキンは未だ緊張に固まる体をほぐすように深呼吸してから、そっと語りかける。

「──議長。こんな時間にすみません。ひとつ、お聴き願えますか」

『ああ、聴こう』

「その……最近、シャイアドに元気がないんです。おそらく、村の様子を見て、自責の念にかられているのかと……。こういう時、私には何ができるのでしょうか……」

『……』

 広がる沈黙に、レキンは我に返った。

「あ……すみません、こんなことに貴重なお時間をいただいて……。私一人で解決すべき事柄でした……」

『いや、構わない。……ただ、昔を思い出していたんだ。我が師と同じだ、彼女は。己の存在で人々の命が損なわれたと嘆く。本当はそんなことはないというのに。……いいか、レキン。本来誰にも、不特定多数の誰かの命を背負う”権利”などない。私のような、均衡のため便宜上人々の上に立ち政を執る者には、当然命を背負う”義務”は存在するが。しかし、私と違い、シャイアドも、我が師も、ただそこに在る命だ。人を殺すために手を汚しているわけではない。シャイアドが生きづらさを感じているのなら、それは間違いなく私の責任だろう。七百年間、私は堰の子というシステムの存在に甘え、新しい供給源の研究を心血を注いで行うことはなかった。だから、己を責めずに私を恨めばいい。君たちに残された五年弱と比べ、私は七百年もの膨大な月日を無意味に過ごしてきたんだ』

「……議長、シャイアドは聡明な子です。あなたを恨んだって、何の意味もなさないことを知っている。というより、彼女自身、あなたを恨みたがっているのに、恨めないんです。きっとそれもまた、苦しいのだと思います。誰も恨めないまま、自分が生きていることによって多くの人々が苦しみ、あるいは死んでいく。それにもしあなたを恨んだって、そこにあるのは暗く重い感情だけです」

 アーデラールはしばらく黙っていたが、先ほどと全く変わらない淡々とした声でまた語り出した。

『そうか、恨みもまた、彼女への重りとなるのか。……ならば、どうすることもできないだろう。シャイアドは優しく、聡明だ。己の気持ちは己で整理をつけるしかない。レキン、君にできるのは、ずっと彼女の味方でいることだ。いつか私を裏切ろうとも、君だけは彼女の側にいればいい』

「……議長」

 それでは、最後、あなたの側には誰がいるんですか?

 その言葉をぐっと飲み込み、レキンは黙った。彼は誰も必要としていないかもしれない。

『何はともあれ、小さな魔導師君、君には早急に対処しなければならない問題があるようだ。私も執務に戻るとしよう。健闘を祈る』

 アーデラールの言葉に、レキンは不審に思って周囲を見渡した。早急に対処しなければならない問題? 一体何のことだ。

 そして背後を振り返った時だった。

「……!」

 ルルジが、目一杯顔を歪ませて、佇んでいた。

「……いつから、そこに?」

「お前がその変な腕輪を取り出したあたりから」

 ルルジの顔には、明らかな憤慨と侮蔑が含まれている。

 ああ、失念だった。おそらくルルジは祖母の薬でももらいにきたのだろう。彼女の祖母は寝つきが悪く、たまに鎮静剤がなければ眠れなくなる。そろそろその薬が尽き、発作も起きるころだと予期しておくべきだった。

「なあ、どういう意味だ? シャイアドが生きてると、なんか悪いことでもあんのか?」

 その問いは疑問というより、確認に近かった。先ほどの会話を全て聞き、理解してしまったのだろう。

「そんなことはないよ」

 レキンはルルジの感情を何とかかわそうと思ったが、むしろそれが逆鱗に触れたらしく掴みかかってくる。レキンたちの奮闘によって村の環境はまともになってきており、ルルジの体にも肉は戻ってきていたが、それでもまだか細く心もとない。何より人として、振り払ってはいけないと思った。

「ふざけるな! おれは全部聞いたんだぞ、なあ、シャイアドが生きてるせいで、おれたちはこんな目にあってんのか⁈ おれのかーちゃんもとーちゃんも、にーちゃんも、ねーちゃんも、弟たちも、全部シャイアドに殺されたのか⁈」

「違う」

「うるせえ、さっさと認めろクソ魔導師どもが!」

 レキンたちがもめていると、家から人影が出てきた。どうしたのかと不思議そうな顔をしたリャットと、……シャイアドだ。

 最悪だ。もっと場所を考えるべきだった。

(どうして僕は、肝心なところで詰めが甘いのか)

 ルルジの目がシャイアドを捉える一瞬にして永遠を、レキンは眺めるしかなかった。頭の中がぎゅっと縮んで、ろくな思考もできそうにない。

「お前……お前、お前! お前が、おれの家族を、あいつらを、みんなを!」

 シャイアドはルルジの憎しみに染まった顔と怒鳴り声を驚いた顔で見つめていたが、彼女の振り上げられた拳に何かを悟ると、とても、とても悲しい顔をした。

 そして初めて会った時とは違い、ルルジの怒りを受け入れるように、体を強張らせた。

 ルルジがシャイアドの腹部を強く殴るかと思われたその時、リャットが間に入る。彼の脇腹に、ルルジの殴りが入った。

「おい、どけよ、リャット!」

 ルルジがリャットを突き飛ばそうとしても、当然大きな体格差がそれを阻む。

「やめてあげてよ、お願いだから!」

 リャットはルルジの肩を掴み、懇願するように俯いて叫んだ。

 あの穏やかなリャットの大声に、ルルジは怯む。後ろ姿だけでも、顔面いっぱいに戸惑いが浮かんでいるのが想像できる。シャイアドの顔には、あいも変わらず深く鋭い悲しみが刺さっていた。

「本当に、頼むよ、これ以上シャイアドを責めないで……!」

「だ……だって、こいつのせいで……」

「シャイアドは何も悪くないんだよ……! ただ君達と一緒で、大切な人たちと生きたいだけなのに、ずっと、ずっと苦しんできたんだ」

「お、おれにはそんなの関係ない!」

「確かに君の怒りも正当なものだ! だから、俺には君に強制はできない。でも、お願いだ。シャイアドも一生懸命に生きてるんだよ、それを、否定しないで……」

 めちゃくちゃな主張だ、とレキンは思った。いや、ひどく自分勝手と言うか。ルルジに「そんなの知ったことか、おれたちの苦しみはどうなる」と一蹴されれば終わる、稚拙な説得に過ぎない。人殺しと自然災害でも引き合いに出せば多少は説得できるだろうか、とレキンはぼんやりと考えた。

 でも、それでも。リャットには人の心に迫る才能がある。

──ゆっくりと、ルルジの拳が下がっていった。

 人の気持ちを動かすには、己の感情を包み隠さず相手にぶつければいいのだろうか。

 レキンには、よくわからなかった。

「じゃあ、教えてくれよ……おれは、何を恨めばいい? どうすればこの気持ちはすっきりしてくれる?」

「俺には綺麗事しか言えないけど……俺たちと楽しく生きよう。残された人間で、必死になって生きよう。そうしたらきっと、怒りにも整理がつくよ。亡くなった人たちとの思い出も、いつか今よりずっと大切なものになる。……それじゃ、ダメかな」

「でも、シャイアドが生きてたら、もっと人が死ぬんだろ」

「そうさせないために、俺たちはここに来たんだ。ドゥ・アーダルスでの調査や研究で、みんなが幸せに生きられる未来が訪れるかもしれない。誰を怒る必要も、誰を憎む必要もない、そんな未来が」

 ルルジは静かに、シャイアドに顔を向けた。こちらからは表情は見えないが、リャットの顔からして先ほどよりずっと落ち着いた目をしているらしい。

 そしてしばらくためらってからそっとシャイアドに近づくと、俯きつつもぼそぼそと少しずつ呟きはじめる。

「……正直、よくわかんねえけど……」

もう、顔を見なくてもわかった。

──彼女は前を向いた。

「約束してくれ、もうこれ以上、誰も死なせないって、その努力をするって!」

 シャイアドは悲しげな顔から一転、目にいっぱいの涙を湛えて、そっとルルジを抱きしめた。彼女の細い首筋に顔を埋めて、「うん……!」と泣き始める。

(……苦しみを越えるには生きるしかないって、救いのない結論だよな……)

 少なくとも、レキンにはそう思えた。でもルルジは納得し、シャイアドは喜んでいる。なら、それでいいのかもしれない。

 そこでレキンはあることに気づいた。

 ……そうか、シャイアドに必要だったのは許しだったのか。

 アーデラール議長はきっとそれに気づいていた。しかし、あの人は公平な人だ。シャイアドと人々、どちらの肩を持つわけにもいかなかった。だから時の解決を待てと言った。こんなに早く結果が出てしまったが。

(……上等だ、僕は最後までシャイアドの味方でいよう。議長なら大丈夫だ。あの人は全ての意味で強いから。でもシャイアドは、とっても脆い。彼女に生きててほしい。彼女の力になりたい……)

 だからこそ。

 レキンは柔らかく微笑むリャットに目を向けた。

 やはり、どうしようもなく、リャットが羨ましかった。

 この感情は、きっと一生消えることはないのだろう。

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