第15話 のこされたもの





「シャイアド、顔色が悪いけど……」

「……多分、平気」

 あの丘に近づくたび、心臓がもぎ取られそうなくらい痛んだ。

 この風は、空は、ずっとずっと慣れ親しんできたものだ。十五年の楽しかった思い出がここにまだ根付いているはずなのに。だというのに、あの数分間、そう、たった数分間によって、全てがシャイアドを傷つけるものとなってしまった。自分の全てが、シャイアドの首に手を伸ばしてくる。大切な思い出が、猛烈な熱を伴って胸にやけどを残していく。

 息が苦しい、やはり、ダメだ、怖い。

 ありもしない恐怖に、シャイアドは道半ばで座り込んだ。またマーリアがいなくなってしまう。また、守れない。

 リャットはそんなシャイアドを怒ることなく、奮い立たせるわけでもなく、そっとしゃがみこんで、シャイアドの背に腕を回した。

「大丈夫。大丈夫だよ」

 息が、少しずつシャイアドの意の中へ戻ってくる。

 暖かい。どうして暖かいんだろう。

(なんで、どうして。ここにはもうマーリアはいない。マーリアはいないのに)

 マーリアはいない。

 それでも、暖かかった。

「俺がいるから、大丈夫」

 リャットの優しい手、言葉、全てが、シャイアドの中でゆっくりと溶け、震えていた心の中の幼い自分を包んだ。誰かの温もりって、どうしてこんなにも──。

 大丈夫、という言葉には、きっと魔法がかかっている。

「今日はここまでにして、明日また来ようか」

「……ううん……大丈夫。もう、大丈夫。ありがとう、リャット」

 息を整え、すっくと立ち上がったシャイアドをリャットは心配そうに見ていたが、シャイアドの決意の固さを感じ取ったのか、苦笑して後をついてきた。

「無理はするなよ、辛かったらすぐに言うこと」

「うん」

 ようやく、足元がしっかりと見えた。わたしには仲間がいる、と自分に強く言い聞かせる。

 村から続く道を十分ほど歩いて、木々がひらけた先に、それはあった。

「うわ、こりゃ確かに……って、あれ? 誰かいる」

 リャットが指し示した先には、確かに、一人の青年が立っていた。髪は黒く、背が高いのでローバリの民であろうが、どこかの魔法学校生のような制服を着ている。シャイアドたちと同い年くらいの見た目の彼は、花束を屋敷の前に供えていた。夕暮れの赤と真昼の青が混じった、供えるには少々奇抜すぎる花束は、いかにもマーリアが好きそうなものだった。

 彼は目を閉じてしばし黙祷した後に、こちらを向いた。口元に浮かぶ笑顔が印象的だった。

「やあ、シャイアド、久しぶりだね」

「え、知り合い?」

 久しぶり、と声をかけられたからにはおそらくそうなのだろうが、困ったことにシャイアドには全くもって思い当たる節がなかった。ローバリの民の魔導師であれば、顔を忘れるはずはない。だが彼の顔はシャイアドの記憶には残っていなかった。

 顔をしかめて思い出そうとするシャイアドを見て、青年は「あはは、やっぱり覚えてないか」と笑う。

「僕はレキン。ここドルフォア村出身で、ニグシサ魔道学校の生徒だよ。君たちと同い年」

 ドルフォア村出身だということより、ニグシサの魔導師であることにシャイアドは目を丸くした。事情を知らないリャットが「ニグシサって?」と小声で訪ねてきた。シャイアドが答えようとすると、レキンが少しだけ声色に棘を含ませて割り込む。

「ローバリで一番の魔法学校のことさ。悲しいことにね、みんながみんな、君みたいに勧誘されて立派なお師匠様のもとで学べるわけではないんだよ」

「な、なんで俺のこと知って……」

 レキンはリャットの言葉を無視して、またシャイアドに視線を投げた。

「思い出してくれた?」

 同い年の、レキン少年。そういわれてみれば、そんな名前の孤児がいたような気がしなくもない。確かマーリアが森に捨てられていた赤ん坊を村まで連れてきたとか、なんとか。悲しいことに、育てられない赤ん坊を親が森に捨てるケースは少なくはない。マーリアはそんな子どもたちをしょっちゅう拾ってきては、村や遠い教会などに預けていた。それなりに頻繁にあったので、記憶から薄れていたらしい。こうやってかろうじて思い出した今も、幼い頃のレキンがどんな顔をしていたのか、どんな少年だったのか、全てに靄がかかっている。

 シャイアドが控えめに頷くと、レキンはおかしそうに笑った。どうやらはっきり思い出してないことはお見通しらしい。

「村に派遣される魔導師の話を村の人に聞いたと思うけど、今回から僕が任されたんだ。ここへは村に行く前に寄っておこうと思って。君たちはどうしたんだい」

「俺たちは……なんというか、調べ物が」

「施しの剣について?」

 笑みを浮かべるレキンに、シャイアドとリャットの背筋がぞくりとした。

「……ねえ、まさか……あなたはその歳でニグシサの首席なの?」

「それは、僕がアーデラール議長と繋がっているか否か、という趣旨の質問でいいのかい。答えは”はい”だよ」

 ニグシサ魔道学校はローバリいちの魔法学校であるが、その所以が創設者だ。アーデラール議長……彼がローバリの建国と同時期に設立した学校で、代々首席はアーデラール議長と繋がりを持つことができる。

 飄々とした態度のレキンにリャットは頭にきたようで、シャイアドをかばうように前に立ちその胸ぐらを掴んだ。

「一体なんのつもりなんだよ! 口ぶりからして、議長が隠してること全部知ってるんだろ。なのにマーリアさんの墓参りの真似事なんかして、俺たちをおちょくってんのか! というか議長は最短で二年は待ってくれるって言ってたのに、どうして議長の息がかかったお前がこのタイミングでやってくるんだよ!」

 レキンはリャットの顔を黙ったまま見つめてから、ぼそりと何かを呟いた。かろうじて聞き取れたそれは高度な護身魔法で、レキンに詰め寄っていたリャットが弾き飛ばされた。シャイアドは慌ててうずくまるリャットに駆け寄る。勢いは強かったが、どうやら怪我はないようだ。

「これだから野蛮人は困るんだよ。最初に言っておくけどね、リャット、僕は君が大嫌いだ」

「はあ?」

「墓参りの”真似事”だって? なんの事情も知らない君がよく言えたものだね」

 レキンは怒っていた。顔から笑顔が消え、じっとリャットを見下げている。まるで溢れ出る憎悪に必死に蓋をしようとしているかのような目だ。

「確かに僕は議長とつながりがあるし、全てを知っていると言ってもいい。でも、僕は君たちの敵じゃない。アーデラール議長が、なぜ僕のような若すぎる学生に全てを告げたと思う? それはね、僕が世界で唯一、ドルフォア村で生まれ育ち、シャイアドとマーリア様を知っていた人間だから。世界で一番シャイアドとマーリア様を愛する魔導師だから! アーデラール議長は、そんな僕にシャイアドの力になるよう頼んだんだ。あの人の潔白を疑うのなら、僕は今ここで死んで証明してもいい」

「そんなこと言ったって……議長が、マーリアさんを殺したんだろ! なんでお前はそんなやつに協力してるんだよ」

「何も知らないくせに……」

「ああそうだよ、何も知らないよ! お前たちが何も話さないからだろうが!」

 開き直ったリャットにシャイアドはひやりとしたが、レキンは不意にシャイアドの顔を見ると冷静さを取り戻したらしく、熱くなってしまった自分を悔やむように俯いた。

「……無知は時として身を守る。僕は……無知は罪だと思うけれど、知る必要のないことも時にはあると思うんだ」

──確かに、知らなければよかったと思うことはたくさんある。知らなければ、この苦しみは変わっただろうか。知らぬままマーリアに殺されていれば、それは幸せな人生と呼べたかもしれない。少なくとも、今よりはずっと楽なものだったに違いないのだ。

 リャットは不服そうに背の高いレキンを見上げていたが、何も言わずに立ち上がった。服についた土を払い、小さなため息をひとつこぼす。

「俺たちは今までアーデラール議長に散々やられてるんだ。今更信じろって言われても、……シャイアドはどうかわからないけど、俺は信用できない」

「まあ、もっともだと思うよ。僕も流石に全面的に信じてもらえるとは思ってないから、少しずつ、君たちの信用を得ようと思ってる。それまで警戒してくれて構わない」

 二人は意見を求めるようにシャイアドを見た。シャイアドは何か言わなくてはと思い、どうにか口を開く。

「わ、わたしは……その、議長は絶対に許せないけど、子どもにだまし討ちをしたりさせたりするような人じゃないことは知ってる……から」

 アーデラール議長については、シャイアドが一番苦しんでいた。シャイアドはつい先日まで、本当に彼を尊敬していたのだ。ローバリの人々は、皆一様に心から幸せそうな顔をして「あたしらが毎日を過ごせんのは議長様のおかげだ、ありがたや、ありがたや」と彼を拝む。マーリアも偉大な魔導師の代名詞として彼のことを話すときはいつも目が輝いていたし、声はまるで歌うような調子でとめどなく飛び出し、何よりも楽しそうだった。そして、サムドランやビトカの口ぶり……彼は兄弟弟子を心から愛していたし、愛されていたことは明らかだ。

 でも、だったら、どうして。

 理屈で悲しみを抑え込もうと、何度もなんども腫れた心を潰したが、いつもその言葉が膿のように出てくる。出しても出してもなくならない膿のせいで、シャイアドの心はもはや手のつけようがなかった。どうして、愛する人たちを、愛してくれた人たちを、あなたは。

「……僕、シャイアドに嫌われたらどうしようって思ってたんだ……。ごめんね、辛い思いをさせて。でも僕は必ず君の力になれる。どうか、僕のことを使ってほしい」

 レキンは少しだけ安心したように、それでも悲しそうな顔で手を差し出した。シャイアドはおずおずと手を握る。冷たいが、優しい手だった。

「議長が、わたしたちを手伝うように派遣したって言ってたけど……それは本当なの?」

「うん。ニグシサは世界中の叡智が集う場所だからね、行動範囲が限られている君たちには必要だろうって」

「なんで議長はそこまでしてくれんだよ」

 リャットがふてくされたような顔で言った。

「……簡単なことだよ。チャンスを与えてるんだ。全てを巻き返すチャンスを。あの人は施しの剣に頼れない今、なんとかやっていくために本当に骨身を惜しまず働いているから、こちらまで手は回らない。だからせめて僕を、ということだ」

 リャットはなんだか悔しそうな顔で俯いてしまった。シャイアドもリャットの気持ちがよくわかった。そんなことを言われては、彼を憎らしいと思うこちらが悪のように思えてくる。いや、実質悪なのだ。世界から見れば。

 浮かない顔をした二人を見て空気を変えようと思ったのか、レキンは「そういえばね」と潰れて風化しかけている屋敷のある一点を指差した。

「あそこに、隠し扉があるみたいなんだ。でも僕ではどうやったって開けられなかった。きっとシャイアドにしか無理なんだと思う」

 あそこは確か、マーリアの書斎があった場所だ。シャイアドは屋敷のことはなんだって知っていたが、唯一あの場所だけは近寄ってはいけない気がして避けていた。まさか床に隠し扉が仕掛けられていたなんて、あの頃は夢にも思わなかった。

 マーリアが、開けなさいと言っている気がした。最早苦しみや辛さの向こうにいたシャイアドは、意を決して、瓦礫が退けられて露わになっている一枚の床の扉に手を伸ばす。シャイアドの魔力に反応した扉は青く光り、滑るようにしてそっと開いた。

 中にはやや広い空間があり、二十冊ほどの本が乱雑に積まれていた。シャイアドたちからすぐ見えるところに綺麗にまとめられた紙の束があり、その上にちぎられたメモ用紙が置いてある。

「なんだこれ、文字?」

 リャットが首をひねってそのメモ用紙に書かれている言葉を読もうとするが、あまりにも汚い字なので読むことができないようだ。もしかしたら古代文字かなんかだと思っているかもしれない。しかし、シャイアドにはこの筆跡に心当たりがあった。

──これは、間違いなく、マーリアの文字だ。

 ひどく焦っていたのか、繊維が散らばったような走り書きだが。それでもこの文字は、マーリアのものである。

「”あなたの力となりますように”」

 レキンが、小さな声で読み上げた。





 ビトカは家主の消えた屋敷を漁っていた。

 地下の隠された書庫には大量の施しの剣についての資料があり、ひとつだけあった机の上に、まるで研究の集大成だと言わんばかりの使い込まれた分厚い紙の束が置いてあった。

 ビトカはそれにそっと手を置くと、語りかけるように口を開いた。

「お前は本当に大馬鹿野郎だよ。確かにお前が生きてるよりは死んだ方が……命をかけたほうが役には立ったけどね、あの子達を置いてくなんてほんっとうに……本当に大馬鹿野郎だ、それ以外言葉が見当たらない。まあでも、あんたにもあの時の師匠の気持ちが十分わかったろ……聞いたよ、あんた、処刑の朝……信じられないくらい若返ってたそうじゃないか。何が後の世代に託すだよ、笑っちまう。まったく、自分でやりゃいいのにあたしにこんな手に余る面倒ごと押し付けて……いつかあの世で会ったらただじゃおかないからね、覚えておきな」

──じゃ、おやすみ。

 ビトカは最後にそう呟いて、古ぼけた本を回収し、その場を後にする。

 書庫の入り口は、誰にも見つけられることのないよう、永遠に開かないよう、魔法をかけた。


 せめて安らかに眠るがいい。

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