第13話 何かの上で
*
ヤームルに運ばれ、街を出る時、シャイアドはずっと黙っていた。黙りこくって、ヤームルにしがみつき、ただただ静かに泣いていた。
こうして森の中を走る馬車に揺られている今も、荷台の奥で小さくなって丸まっており、時折鼻をすする音が聞こえる。サムドランとの別れから少しだけ時間が経って我を取り戻しても、リャットはなんと声をかけるべきかわからなかった。太陽だけは、いつも通り天頂で輝いている。まるで自分は世界の全てを照らし、明るくしているんだと思い込んでいるような光だ。
自分も師を亡くし、胸は張り裂けるように痛い。父を亡くした時と同じ痛みだった。兄が死んでしまうかもしれないと知った時に恐れた感情が、容赦なく込み上げてくる。
だが、シャイアドが抱えているもの……いや、押し付けられているものと比べれば、些細なものだというのはわかりきっていた。
大切な家族だった師が、二人も、自分が原因で亡くなっている。しかも自分の死は世界の安寧へと繋がると明かされ、対して今まで守ってくれていた優しいひとたちはもういなくなってしまった。それに彼らはあのサントーシャムの弟子だったというではないか。事情がどうであれ、そんな偉人を殺してしまったことになったシャイアドの肩は、押しつぶされそうなのだろう。
悲しみ、疑問、怒り、後悔、申し訳なさ──様々な粘っこく重い炎が、シャイアドを襲っている。救う手立てを持つ人たちは、もうこの世にはいない。
リャットがどんな言葉をかけたって、彼女を慰める力は持たないだろう。今はただ、少し離れた場所で彼女と一緒にいてやるしかなかった。
ヤームルはずっと御者台で馬を操っていたが、やがて手綱を魔法に任せると、荷台へ入ってきた。人の目をごまかすための瑣末な木箱や藁をかき分けて、リャットと目があうと、視線をさげてしまう。
「師匠に全部打ち明けられて、協力をせがまれた時、ひどく驚いたよ。……七百年も生きてきた人も、死ぬのは一瞬なんだね」
シャイアドに配慮してか、随分と小さな声だった。リャットは頷き、やり場のない感情に拳を握りしめる。
「あの人が死ぬ必要は、あったんですか。シャイアドと一緒に逃げればよかった。そうすれば俺たちはこんなに苦しまずに済んだのに。あの子も、ただでさえたくさんのものを押し付けられているっていうのに、そこに師匠の死を重ねるのは、あまりにも……」
「アーデラール議長を背後にローバリが告発したのは、師匠だけだった。シャイアドがローバリから誘拐され、その犯人が師匠だったという筋書きだよ。つまりアズドルが是が非でも捕まえようとしていたのは師匠だけ。君の獣は絶対に罪人を見つけ出すということで有名だからね、逃げてシャイアドを危険に晒すより、自分の命を賭して確実に逃がす方を取ったんだろう。マーリア様亡き今、ローバリ側にシャイアドとの正式な師弟や家族関係を持つ人はいないから、表立って追っ手は出せないだろうし……。きっと、やむを得なかったんだ。だって最後、あの時──」
ヤームルは何かを言いかけたが、慌てて話を逸らす。
「でも、今回のことで大きな疑問があるんだ……。議長にシャイアドの居場所が割れていたのは仕方がない。世界一の魔導師だからね。でも、議長がその気になれば、シャイアドを彼の目前に引きずり出すような方法も取れたはずなのに……どうして師匠だけを狙ったんだろう。それに師匠はアズドルの重鎮だ。わざわざローバリとアズドルの軋轢を加速させる方法を取るなんておかしくないか? 第一、彼は師匠と兄弟弟子だったというのに……ああ、師匠が彼の兄弟子らしいよ。仲が悪かったのかな……。憎しみで、動いたんだろうか」
リャットはアーデラールの名くらいしか知らないので、よくわからない。だがきっとそうではないと思った。私怨で動くような者が、穏やかな国の議長を七百年間も続けられるだろうか。
何かきっと、理由があるのだ。自分には到底考えつかない、深い理由が……。
だが今は、そんなことどうでもよかった。大切なのは自分たちのこの先と、シャイアド自身だ。生きている以上、生きなきゃならない。シャイアドがこの先何を選ぶかはわからないが、それでも、今足元にある地面から前に進まねばならないのに変わりはない。
「あの、ヤームルさん。俺たち、これからどうなるんですか?」
「あてにしてる人のことは、僕もよくわからないんだけどね。師匠が言うには、”一番会いたくないが、一番信頼できるやつ”だそうだよ。もうすぐ着くと思うけど……」
走ってきた距離からして、もうローバリに入っているのは確実だった。もしかしたら既にローバリを出ているかもしれない。しばらくぼうっとしていたので、どれほど走ってきたか、実のところよくわからなかった。
アズドルは西にローバリとの国境を引き、他は海に囲まれている。海路で逃げるには船に乗らなければならず、その船に乗るには十年前に強化された厳しい役人の目を掻い潜らなければならない。それならばと比較的逃げやすい陸路で、危険を承知でローバリを通り国外へ逃げようとしていた。
ヤームルが立ち上がって前方を確認しようとしたとき、不自然な音がして、馬車が大きく揺れた。立ち上がりかけていたヤームルは藁へと突っ込む。リャットが手を貸して引っ張り出していると、荷台のシャイアドが座っている後方からしわがれた老婆の声が聞こえた。
「まったく、あの男もとんだ面倒を押し付けてさっさと死に晒しやがって。死に逃げだねありゃ。残った方の迷惑も考えて欲しいよ。本当にバカしか生き残ってなかったんだから、あー頭がいたい。まああたしもこうして生きてるってことはあいつらと同類なんだろうけどね。ほらあんたら、ぼさっとしてないでさっさと出てきな」
顔を覗かせると、花の薄い花弁のようなピンク色の髪をした老婆が、杖をついて仁王立ちしていた。シワまみれの顔は鬼のようにこわばっていて、リャットは震え上がった。昔兄に聞かせてもらった山姥にそっくりである。
「し、失礼ですが、あなたは?」
ヤームルが服についた藁を払いながら尋ねると、老婆は不機嫌そうな面をさらに歪ませた。
「ビトカ。あの男の……サムドランとかいう馬鹿野郎と同期で、サントーシャムって呼ばれてる人の一番最初の弟子さ。あんたらの話はあの馬鹿から聞いてるよ」
「あなたが、あの! 初めましてビトカ様、私がヤームルで、この子がリャット、そっちがシャイアドです。リャット、君らを保護してくれる、ビトカ様だ。表には出てこないが、知る人なら知る、師匠にも負けない高名な魔導師だよ」
リャットは面食らった。この山姥が、あのサムドランと兄弟弟子で、しかも高名な魔導師ときた。人は見かけによらないとは、このことだろう。
「さあ、何回も言わせんじゃないよ、とっとと降りな。こっから先はあたしの畑だ、まさか踏み荒すつもりじゃないだろうね」
リャットとヤームルは顔を見合わせたが、やがておとなしく降りることにした。このおっかない老婆に逆らったら、ひき肉にされそうだ。
リャットはシャイアドに優しく声をかけて、手を貸して一緒に降りた。それをビトカはじっと見つめている。
「……その子が堰の子かい」
「違います、”シャイアド”です!」
リャットがむっとして言い返すも、ビトカはやかましげに杖を振り上げ、リャットをシャイアドから引き離した。それからシャイアドの顔を覗き込む。元々背がかなり小さいのと、背が曲がっているので、俯いているシャイアドの顔を覗くのは容易そうだった。やけに真剣な顔で、ビトカは語り始める。
「シャイアド。あんたは自分のせいでサムドランが死んだとか思ってるだろうがね、それは間違いだよ。あの馬鹿は新しい時代にかけたんだ。我が師匠がいなくても……生きている人間だけでやっていける時代を願った。そのためにお前さんが必要だった、ただそれだけのことだろう。
でもね、あたしのところに来たからには、世界とか、正義とか、馬鹿たちの犠牲とか、そんなの気にしなくていい。勝手に生きるか、勝手に死ぬか。あんたは自由だ。もうこれ以上、あたしはあんたに背負わせないからね」
シャイアドは何も答えなかったが、じっとビトカの目を見つめているのであろうことはなんとなくわかった。
「それに……よかったじゃないか、シャイアド。あんたには一緒に生きてくれる仲間がいる」
小さな声でそれだけ言うと、ビトカはリャットとヤームルの方を向いて、森の奥の道を杖で指し示した。
「あっちの奥に開けた草原がある。そこにあたしの家があるから、ついて来な」
杖をついているというのに恐ろしく速い足運びでさっさと歩いていくビトカに驚きながらも、リャットは顔を上げたシャイアドの方を振り返る。
シャイアドはまだ泣いていたが、それでも、ようやく目の前が見えたようだった。
ビトカの家は随分とこぢんまりとしていて、成長期真っ盛りのリャットとシャイアドが預けられるにはどうも小さすぎる。
リャットが微妙な顔をしていると、ビトカは「手伝いな」とヤームルに声をかけ、そのまま森の中へ入って行ってしまった。首を傾げて待っていると、肌がぴりりと疼いたかと思えば、乾いた爆発音のような音が轟いた。
「えっ、ちょっ、あの人本当に信用していいの?」
様子を見に森へ入ろうとすると、腕をかたく掴まれる。振り返れば、シャイアドが暗い顔で小さく首を横に振った。そして、掠れた声でつぶやく。
「……どこにも行かないで」
リャットはどきりとした。今この子から離れるのはあまりにも惨いことなのだと思い知った。
「大丈夫、どこにも行かないよ」
シャイアドの手にそっと手を重ねると、こわばっていた指が少しずつほどけていく。このまま心も溶けてくれればいいのに。
しばらくして、森の中から大きな葉音を立て、ぴんぴんしているビトカと少し疲れた顔をしたヤームルが戻って来た。二人の背後にはやたらたくさんの丸太が浮いている。先ほどの爆発音は、伐採の音だったのか。
「ほらお前さんたちどいてな、死にたくなきゃね」
リャットたちはビトカの家から十メートルほど離れた。これから何をするのか予想はつくが、それがどんな風に行われるのかは全く想像がつかない。
ビトカはヤームルの額に触れ、「こんな感じにするよ」と言って思念魔法で何かを伝える。ヤームルは頷き、丸太とそこらの土をビトカの家の上方に浮かせた。
それを見て頷いたビトカは両手をかざし、目を瞑るとぶつぶつと呪文をつぶやいてから、一気に魔力を放出した。目を見張るほど確かで洗練された技術に、肌が粟立つ。
空気と魔力が揺れ、ビトカの家がぐるぐると時空の渦に呑み込まれた。というのは気のせいだったのかもしれない。意識の下に”新しい家”がつるつると滑り出し、リャットが息をするのを思い出した頃には、目の前に三人で住むには十分な広さの家がそびえていた。
「まあ、こんなもんだね。あんたナヨっちい顔しといてなかなかやるじゃないか」
「……お褒めいただき光栄です」
褒められたのは嬉しいものの、一言多かったためヤームルは心から喜べない様子だった。リャットは思わず苦笑したが、横に立っていたシャイアドが新しい家を見上げているのが目に入り、そちらに目をやる。
「すごい……」
目を輝かせているシャイアドを見て、リャットはぼんやりと、シャイアドも同じなんだなと思った。魔法を見上げる気持ちに、触れてみたいと思う気持ちに、生まれや育ちは関係ないのかもしれない。
「さ、あんたら、入りなさい。ヤームルも今日は泊まっていくんだろ?」
「ああ、はい、そうしていただけると助かります」
新しい生活というのは、いつだってドキドキする。緊張と興奮の胸の高鳴りだ。リャットのような農民は一生ひとつの村で生きていく運命にあるので、まさか自分が魔導師になり、こうして二度目の新生活を迎えるとは、十歳のころには思いもしなかった。
もっとも、今回ばかりは緊張と興奮だけ味わうという訳にはいかない。これから先不安が山のように立ちふさがっている。絶対に回避出来ない、大きな難題……施しの剣をどうすれば全て解決するのか。正直なところ皆目見当がつかない。あの時見つけられると言った気持ちは嘘ではないが、さすがに何をすればいいのか、さっぱりわからなかった。それにまだサムドランの死はじくじくと心に傷を残している。あの人の分まで生きようとは思うのだが、その気持ちで真っ直ぐ前を向けるほど、心というのは単純ではないのだ。
第一、シャイアドがまだ生を選ぶと決まったわけではない。生きたいとは言っていたが、それはサムドランが生きている世界での話だろう。大切な師匠を二人も自分のせいで殺してしまったシャイアドが、すぐに生きたいと願えるとは思えなかった。マーリアもサムドランもどちらを選んでも構わないと言っていたのだし、堰の子としての使命を全うすることを選ばないとは言い切れないのだ。リャット自身は、シャイアドに生きていて欲しかった。それが自身のエゴだと知っているので強くは言えないが、それでも、シャイアドがいない世界などあまりにも色がない。喜びも、気づきも、新しい景色も、見えそうにない。
サムドランの記憶の中で、マーリアは人々がシャイアドの犠牲の上で生きるのはおかしいと言っていた。しかしシャイアドはマーリアとサムドラン、二人の大好きな人の死の上で生かされている。二人は自分の行いがどれほど残酷なものかわかっていたのだろうか。自分が良ければ、犠牲になっても許されるのだろうか。口ぶりからして、彼らもサントーシャムと望んでいない別れかたをしたようなのだし、もう少し思いとどまって欲しかった。世界がそんな思い通りにいくほど簡単にできていないことくらい知っている。彼らがどれほどの苦悩の末にそれを選んだか、そのあっけない選択の裏にどれほど冷たく鋭い悲しみが隠れているのか、リャットには想像もつかない。それでも、シャイアドを生かしたいのなら、彼らにも生きていて欲しかった。だけれど……。
──ああ、そうか。俺が彼らに願うように、俺が父や兄に願ったように、彼らもあの子に生きていて欲しかったんだ。
どうしようもなかった。だから、抗った。
家の中で、ビトカはよく磨かれた木のテーブルにつくように促した。全員が座ると、彼女は腰への負担を和らげるクッションをどこかから持ってきてその上に座り、座ったまま魔法でお茶の道具一式を取り出し、全員に茶を配った。それからお茶にいくつかの砂糖を落とし、かき混ぜながら、ゆっくり口を開く。
「シャイアド。一応確認しておくけどね、あんた、どうしたいんだい?」
その質問は今のシャイアドには酷だと思った。リャットは言い返そうかと思ったが、口を開けた瞬間シャイアドに手を捕まれ、驚いて言葉が飛んでしまう。
シャイアドの顔にはまだ深い悲しみも傷跡も残っていたが、それでもやはり彼女は生きている。静かな眼差しを、ビトカに向けた。
「……きっとまだ、猶予はあります。でなければ、アーデラール議長は無理矢理にでもわたしを……殺しに来たはずです。こんなことを、マーリアや、サムドランさんを殺した人に思うなんて、自分では許せないんですが……彼は、きっと待ってくれてるんだと、思います。わたしの心が決まるのを。この世に未練をなくすように仕向けて。あるいは、解決策を見つける時間を与えているのか……、その両方かもしれません。
だから、わたしは、ひとまず議長が迎えに来るまで、足掻きたいです。施しの剣がなくても生きていける世界を、マーリアやサムドランさんが見たかった世界を、わたしも見てみたい……」
ずっと声を出していなかったせいか、シャイアドの声はかすれていた。それでもしっかりと自分の気持ちを伝えたシャイアドの視線は真っ直ぐ前を向いていた。
「妥当ってとこかねぇ。いいのかい、アーデラールの策に乗るってことになるんだよ?」
「いいんです。だって怒ったところでわたしには他の策なんて思いつかない。大勢を犠牲にして生きたいと願ったって、この場に議長に抗えると確信できる術があるわけでもない。
……わたしが生きてても、死んでも、無駄になる命があります。今のわたしにはどちらも背負う覚悟なんてない。だから今は、いろいろなものを探すことに専念します。それから決めても、遅くはありませんよね」
「……アーデラールは、なんだかんだ甘い奴だからね。主義主張がぶつかった時こそ容赦はないが、あんたみたいな子どもをみすみす殺せるほど、心は死んでない。きっと待ってくれるだろうからね、いいんじゃないのかい、それで。あたしにゃ知ったこっちゃないけどさ!」
シャイアドは、ずっと考えていたのだ。この逃亡劇の中で、たったひとり。
アーデラールがシャイアドを”わざと”見逃していることにも、なんだか納得がいった。リャットの中では目的のためなら兄弟弟子さえ殺せる冷酷無比の魔導師であるが、ビトカの物言いからして、人格者の面もあるようだ。一体どちらが彼の本当の顔なのだろうか。……いいや、きっとどちらも彼の側面なのだろう。伝聞でその人をよく知るなんて、できないのだ。
ヤームルは顔をしかめていた。師匠を殺した人間の肩を持たれては、弟子の立つ瀬がない。だが彼にも思うところはあるようで、苦虫を噛み潰したような顔をして、黙ってやりとりを眺めている。リャットもヤームルと同じ気持ちだったが、あからさまに顔に出してはシャイアドの決意を否定してしまうような気がして、曖昧な顔をしていた。
今はとにかく、シャイアドが生きたいと願ってくれたことを、素直に喜ぼうではないか。
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