第12話 知りたかったこと




 ウトラたちが結婚し、子どもを授かるまでにそう時間はかからなかった。

 シャイアドはなんとも変な気分だった。自分を含め、リャットやサムドランに特に大きな変化などは見られないが、市井の人々……ヴェーテルやウトラたちは目まぐるしく変わり、その足で進んでいく。きっとそのうち、決定的な差異を思い知らされる時が来るのだろう。それを経験して初めて、魔導師は魔導師として生きていくかを決めるようだ。昔、魔導師の伝記で読んだことがある。大切なものを失っても、それを暖かな思い出として心に灯し続けられる者だけが、永く魔導師として生きていけるのだと。

 シャイアドには自信がなかった。皆を失うことに怯えている自分が、そんな柔らかな心を持てるはずがない。マーリアを失ってしまったあの時から、ぱっくり割れた傷は膿んで重苦しいのだから、これ以上の別れに耐えられるはずがない。

 サムドランやアーデラールは、……マーリアは、何を思って生きてきたのだろう。たくさんの出会いと、同じ数の別れに、どうやって立ち向かってきたのだろう。何事にも負けない心を持っているのだと、今まではそう思っていた。しかし彼らにも傷を受けるだけの心はあるのだ。痛みを耐える力か、乗り越える力が、備わっているのだろう。

 今日は暖かな春の日だ。夕日が焚き火の終わりのようにくすぶり、闇が徐々に空へ染みていく。そらの日なので今朝も雲を見上げていたが、全くもって何も読めなかった。サムドランは雲読みの技術だけはアーデラールを凌ぐようなので手ほどきを受けるのを楽しみにしていたが、「あと四十年くらいしたら指導するさ」と流されてしまった。リャットは雲読みに関してはセンスがないらしく、本人が言うには「雲が……流れてる」くらいしかわからないらしい。そもそもリャットは朝に弱すぎるので、早朝に起きてくること自体が苦手なようだった。こうして夕方になって、たまに窓越しに空を見上げていることもある。やっぱりわからん、と首を振るだけなのだが。

「あのお転婆娘がもう来年には人の親か」

 夕食の手を止め、サムドランは感慨深そうにつぶやいた。

「いいなぁ……子ども……」

「はは、弟子をとるにしてもまだ八十年はかかるだろうからな。それまで我慢することだ」

 サムドランは愉快そうに笑い、焼きたてのパンに手を伸ばす。シャイアドはふと、先ほど屋敷に来た役人から預かった郵便物を思い出し、ポケットから取り出す。

「そういえば師匠、なんか師匠宛に急ぎの手紙が来てますよ」

 サムドランは魔法でその手紙をシャイアドの手から浮かせて受け取ると、封蝋の紋章を見て顔を曇らせた。

「どうかしたんですか」

「ああ……なんでもないさ。今朝、少し気になるものを見てな」

 サムドランの雲読みは恐ろしいほど当たる。当たるといっても普段は誰がいつ転ぶだとか明日の市場にはこの食材が並ぶだとか、些細なものばかりだ。しかし稀に、本当に大きなことを見てしまう時があるのだという。いつもそんな風にして、見たいものを見れたらいいのになぁと、サムドランはぼやいていた。

「さて、明日は課題の提出日だから、完成させておくように。どうしても手を貸して欲しければ、私の書斎に来なさい」

 サムドランはパンを食べきると、席を立って書斎へ行ってしまった。いつもは食後にハーブをブレンドしたお茶をのんびり飲むというのに、どうしたのだろう。

「あの手紙の封蝋、何が捺してあった?」

「見たことない紋章だったけど、でもあの紙質や蝋の艶からして、かなりのお金持ちだろうね」

 しかしどこかで見覚えがあったような気がしていた。どことなく王家の紋章に似ている気がする。王の近親者だろうか。

「そういえばシャイアドは課題終わった?」

「あとちょっとかな。リャットは?」

 リャットが黙ったのを見て、シャイアドは色々察する。

「……手伝おうか」

「ありがとうございます……」




 なんとか課題を終わらせ、サムドランに提出したものの、サムドランはあの手紙以降顔を曇らせたままだった。何かあったのか聞いても「なんでもないさ」とはぐらかされてしまう。それを見たリャットが「二人ってばそっくりだね」といたずらっぽく笑った。

 また一週間が経ち、そらの日になった。早朝、やけに覚めた目で空を見上げていたら、シャイアドはあることに気づき、背筋がぞくりとする。

──あの日と同じ雲の流れだ。

 途端に頭の中に鮮烈な映像が舞い上がった。耳の奥でマーリアの声と、とても恐ろしい音と、自分の息が切れる音がばちばちと弾ける。たまに夢で見るよりも、ずっと鮮明な光景だった。

 シャイアドは気づいたら寝巻きのまま部屋を飛び出していて、サムドランの書斎のドアを荒々しく開け、その人がちゃんとここにいるように強く願った。

 すでに身支度を済ませていたサムドランは、書斎のベランダから空を見上げていた。シャイアドが飛び込んで来たことに気づいているはずだが、振り返らない。

「あの……師匠、わたし、なんだか……」

「シャイアド。まず、着替えて来なさい。それから、リャットを起こして、ここに連れてくるように」

 静かにそう告げたので、シャイアドはおとなしく従い、早打ちする心臓を抑えて逃げるようにその場を後にする。

 全てをなくしてしまったあの時とは、もう違うはずなのに。

 ただ一つ残った胸のペンダントを握り、どうか力を、と痛切に祈った。




 寝ぼけ眼をこするリャットを連れて書斎に戻ってくると、サムドランは椅子に深く座っていた。

「シャイアド、どうやら私はお前さんに全てを話さなければならないらしい。リャットも、聞いておきなさい」

 シャイアドは俯きつつ、頷いた。リャットは何が起きたのかわかってない様子で、「どうかしたんですか」と眠そうに尋ねた。

「施しの剣の真実と、シャイアドの秘密を話そうと言っているんだ」

「えっ、……それは」

 リャットは一気に目が覚めた様子だったが、同時にシャイアドも面食らう。思いがけぬ単語が出て来た。施しの剣の真実とは、どういう意味なのだろう。

「どうしてわたしが知りたいこと……マーリアの死に、施しの剣が関わってくるんですか」

「ああ、端的に言うと、お前さんと施しの剣の事件は、深い深い関係がある」

 あっさりと告げたサムドランは少しだけ目を伏せた後、椅子をくるりと回し、後ろを向いて話を続けた。

「施しの剣はな……七百年の歳月を経て、力を使い果たしそうになっている。だがそれが世間に知られれば、あっという間に世界は混乱に陥るだろう。だから、アーデラールはあの剣を隠したんだ。盗まれたことにすれば、恩恵が薄まって世界的不作になっても誰も疑わないからな。

 ……そして、裏で施しの剣を復活させ、こっそり元の場所に戻す。これがおそらくあいつの計画なのだろうよ」

「それと……わたしに、何の関係があるんですか」

 サムドランはまたこちらへ振り返ると、机の引き出しからひとつの大きな香を取り出した。そして手早くそれに火をつけると、部屋中に煙を充満させた。これは追憶の香だと気づいた時には、意識は視界とともにモヤの中へ溶け込んでいった──。



「大兄さま、明日、あの子が生まれるって本当なの?」

 マーリアはやってきて早々、挨拶もなしにそう尋ねた。午後のティータイムを楽しんでいたサムドランはため息をつきつつ、「雲読みで見たんだからそうなんだろうよ」と返す。

「そう……」

「あいつも来るんだろう? だがあいつは多忙に多忙を重ねたようなやつだからな、ちゃんと子を育てられるのか。まさかあの子を何も知らない一般人に育てさせるわけないだろうな」

 サムドランの心配に、マーリアは顔にさっと影をよぎらせる。

「そのことなんだけどね、大兄さま……あたし、その子を育てることになったんだ」

 思いがけぬ告白に、サムドランは手からティーカップを落としてしまった。くぐもった音がして高そうな陶器は欠け、絨毯に染みが広がる。しかしサムドランはそんなこと気にもとめず、渋い顔をしている末の妹弟子に詰め寄った。

「お前さんが? 子育てだって?」

「だって……忙しいあの人に負担をかけたくなかったから」

「お前な……負担をかけたくないからって……あの子は世界を救う鍵だぞ? ちょっと目を離した隙に死んでました、じゃ済まされないんだぞ。一人で気ままに過ごすのが好きで赤ん坊なんて大嫌いだと言っていたお前さんが人の子を育てられるのか? もういっそ私が育てたほうがいいんじゃないか。明日、ここに連れてきなさい」

 マーリアは鬱陶しそうな顔をして、懐から一枚の紙切れを取り出した。それをサムドランに押し付けるように渡してから、机の上に置いてあった焼き菓子を勝手に口に放り込む。サムドランは渡された紙をまじまじと眺めて、ため息をついた。カードには”マーリアなら大丈夫です。彼女の好きにさせてあげてください。”と書かれている。

「……あいつも何を考えているんだか」

「応援してくれてるんだよ、大兄さまと違って」

「本当にお前たちは……」

 サムドランは今朝の雲読みを思い返した。あの子の誕生の他に見た市場の様子──明日の市場にはたくさんの燻製魚が並べられるのかと、少し楽しみにしていた自分が恨めしい。どうしてこう、肝心な時に肝心なことは見られないのか。

「とにかく、心配は山積みであたしも頭がおかしくなりそうだけど、赤ん坊だけは死守してみせるから!」

 それだけ言い残して、マーリアは箒にふわりと腰掛け、夕焼け色の髪を青空になじませながら飛び去ってしまった。

 サムドランは床に飛び散った陶器とお茶を眺めながら、頭痛に唸った。




 妹弟子の嵐のような訪問の十五年後。彼女はまた喧騒を纏い屋敷に転がり込んできた。

──今度は、目にいっぱいの涙をためて。

 屋内の植物園で愛する植物たちの剪定をしていたサムドランは、転移用の魔法陣から転がり出てきたマーリアに驚き、慌てて駆け寄った。

「大丈夫か」

 顔を上げたマーリアの顔は悔しさと悲しさに歪んでいた。

「大兄さま、あたし、あたし……」

 サムドランには、心当たりがあった。数週間前に見た、予言……シャイアドと名付けられた子が、追い立てられる運命。それが今まさに、動き出しているのだろうと悟った。

「あたし、絶対にあの子を殺したくない!」

 マーリアは吐き出すようにそう叫び、怒りにまかせて大きな声を上げて泣き始める。

「最初こそ、こんな手のかかるクソガキいつか殺してやるって思ってた! でも、でもね、あの子が大きくなるに連れて、どうしようもなく大切に思えて……大切な弟子なんだ! ……命よりも大事な友達なんだ……。あの子を殺さなければ、施しの剣は……師匠の遺産は復活しないなんて、どうしてそんな、酷い運命が許されるのさ……」

「あいつは……アーデラールはなんと?」

 マーリアはアーデラールの顔を思い出したのか、さらに顔をくしゃくしゃにさせる。

「何十回も、何百回も、抗議したさ! でもあの人は、いっつも”計画の変更は認められない”って! もう、なんだよあの石頭! わからずや! 頭でっかち!」

 恨みを込めてそう言い放った後、幾分か気分が落ち着いたのか、マーリアは項垂れた。

「……わかってるよ、あの人が正しいことくらい。この世界の誰よりも人々を愛して、誰よりも人々の幸せを望んでいることだって……。でもあたしはどうしても受け入れられない。あたしらの都合で、あの罪もないいたいけな子どもを殺して、たった一人に全てをなすりつけて、のうのうと平和を与えられるって……あたしらは、師匠の何を見て、何を学んだっていうんだい! サントーシャムという寄っ掛かりにされて、救世主とかいう理想を押し付けられて、あのひとという人間を否定されて! ……ねえ、大兄さま、おかしいだろ、こんなの。民衆だって、自分たちが誰の犠牲のもとで生きているのか、何も知らずにいていいはずがない」

「……じゃあお前は、あの子を……シャイアドを殺さない道を選ぶというのか?」

 涙をぬぐい、ゆっくりと顔を上げたマーリアの目には、誰もが持つ心の弱い部分をひやりとさせるような、強い強い覚悟が光を放っていた。

「あの人はあたしを殺してでも、シャイアドを迎えに来るだろうね。だからあたしは抗いたい。少しでもあの子が未来を生きられるようにしたい。……大兄さま、手を貸してくれないかい」

 サムドランは、黙った。シャイアドを殺さなければ、世界から施しの剣は力を使い果たした末に無くなってしまうと考えるのが妥当だろう。そしてまたあの暗黒期がやってきたら、人口が増加した現在ではどれほどの死者が出るか想像もつかない。

 簡単に頷ける話ではなかった。もちろん、マーリアもそんなことはわかっていたらしく、サムドランが渋っても顔色を変えなかった。

「施しの剣が力を弱めたのはさ、仕方ないことなんだよ、大兄さま」

「自然の摂理に従い、我々は死ぬべきだと?」

「ああ、あたしはそう思ってる。誰かの犠牲で生きていくくらいなら、みんなで死んだほうがいい」

 暴論だ、とサムドランは頭が痛くなった。ため息をついてこめかみを押さえたサムドランを見て、マーリアは首を横に振った。

「人間が絶滅すればいいとか、そういう意味じゃないよ。大兄さまだって知ってるだろう、新たな魔力源の可能性の話を……」

「あれは、アーデラールでさえ手のつけられないものじゃないか。確かまだ三百年はかかるんだろう。それに動き出したって完全に剣の代わりになるまでどれほどかかるか……。まさかそれを確立させるまで、施しの剣なしで生きていけと?」

 マーリアは答える代わりにサムドランをじっと見つめた。

「……こんなことは言いたくないが、馬鹿だとしかいいようがないよ、マーリア」

「でも大兄さま! そのために、あたしたち魔導師がいるんだろう。何かあった時のために、暗黒期のような時代を越えるために、施しの剣なんかなくてもなんとか耐え忍ぶだけの知識を、技術を、師匠が死んだ後の七百年間で蓄えてきたんじゃないか!」

 それでもサムドランは頷きたくなかった。

──たかが一人のために世界を危険にさらすなど、考えられない。

 マーリアはサムドランの目を見て全てを悟ったようで、拳を強く、骨が軋んでいるんじゃないかと思うほど握り込んだ。爪が食い込んだ肌から、赤い血が滲んでいる。

「これだから全部知った顔した魔導師は! どうして与えられたものを諦めて受け入れることしか選べないんだ! ……師匠も哀れだよ。みんなに未来を生きて欲しかったから施しの剣を遺したのに、その遺産で人間は歩みを止めようとしてる。いつまですがりつくつもりなんだろうね。今から七百年後、千四百年後、またシャイアドのような”堰の子”が生まれて来る保証なんてどこにもないのに」

 サムドランは、ゆっくりと顔を上げた。マーリアの燃えるような瞳に網膜を焼かれた気分だった。背骨に、あの人の気配を感じた。七百年前、自分たちを拾い育ててくれた、そして、伝説にすげ替えられた悲劇に消えていった、あの人の気配を。

「あの子には百年後を生きる権利がある。それを奪っていい権利なんて、あたしたちにはないんだ。魔法という神秘に侵されて、自分が万能の存在であるような気になるな!」

「……そこまで言われては、私も考えを改めざるを得ない」

 あの人ならなんと言っただろう。何を願っただろう。今はもう、そんなこと知る術などないのだが。

「実に……愚かな選択ではあると思うが……──手を貸そう、マーリア。全くお前には、いつもいつも手を焼くな……」

 マーリアは先ほどまでの尖った表情を和らげ、一騎当千の兵が纏う装飾のように綺麗な笑顔を見せた。サムドランはどうも、この末の妹に弱いという自覚があった。きっと師匠と一番心を通わせていた子だからだろう。皆師を敬い尊び距離を置いていたが、彼女だけは師と友人のように接していた。

「ありがとう、大兄さま……」

「で、何をすればいいんだ?」

「……あたしは、何とかアーデラールを説得しようと思う」

 力強く語ったマーリアだが、同時に悲しそうに笑った。

「でもきっと、あの人の決意を変えることはできないだろうね。だってそういう人だから。……大兄さまには、あたしの身に何かあった時、あの子を……シャイアドを、保護してほしい。あたしが与えられなかった知識や技術、それに自由を、教えてあげて。アーデラールも、流石にアズドルの大兄さまの元へは大きな行動は起こせないだろうから。そしていつか、運命に抗う力を得たあの子に、施しの剣の真実と、あの子に押し付けられた運命を、教えてあげてほしいんだ。自分で選びなさいって、あたしはあんたが何を選んでも、変わらずあんたを愛してるよって、伝えて」

「死ぬつもり満々じゃないか、お前さんらしくもない」

 サムドランは茶化すように言ったが、マーリアの予感は正しいとわかっていた。アーデラールの決意を変えられる人間など、それこそ今は亡き師だけだ。しかも厄介なことに彼は本当に天才と称するにふさわしい存在だ。師匠は人から逸脱するほどの力を持っていたために天才には収まらない器だが、彼女を抜きにすれば、アーデラールは間違いなく歴史上一番の魔導師だろう。そんな人間に、この世界の誰であっても勝てるはずがない。……ただ一人、可能性があるとすれば、数年前に見つけた原石であるリャットだろう。だがあの子より何倍も頭が切れ、七百年もの間成長を続けるアーデラールに追いつくには、途方もない時間と努力が必要だ。

「あたしは誰かに押し付けられる死には反対だけど、自分で選んだ道の先に死が待ってるなら、それでいいって思ってるよ」

 全くめちゃくちゃな子だと、サムドランは思った。だからこそ好きなのだが。

「そうかい、もう好きにしなさい」

 マーリアは頷いてから涙を拭い去ると、立ち上がり、魔法陣の方へ歩み寄る。

 彼女の志と同じくらい高いヒールのその足で魔法陣を踏む前に、ふと振り返って、心配するサムドランにいつものように微笑んだ。

「実はね、あの子が生まれた後、一度だけ雲読みで変な未来を見たんだ。あの子のためにあたしが死ぬってね。本当に、信じられなかったよ。あのうるさいだけの猿みたいなやつのために死ぬなんて馬鹿じゃないのかって思ったし、気持ち悪かったけど。でも、今のあたしは後悔してないし、むしろ嬉しいんだ。……大兄さま、ごめんなさい、そしてありがとう」

──どんな窮地でも笑って冗談を飛ばした彼女とは思えない別れ方だった。



「大変だったよ、マーリアの頼みを果たすのは。王に怪しまれないようにするために色々と細工をし……まあそんなことはいい。そんなわけで、シャイアド、私はお前さんを引き取ったんだ」

 シャイアドは自分の頬に涙が伝っているのに気づいていたが、拭うことに気が回らなかった。

 一体、どういうことだ? 自分が死ねば、世界は救われる? だがマーリアはそれを良しとせず、シャイアドに未来を与えるために、世界を救おうとするアーデラールに抗って死んだ?


 全ての黒幕は、アーデラール議長……いいや、シャイアド自身だったのだ。


 自分が生きているだけで、苦しむ人が大勢いる。

 その事実はあまりにも、受け入れがたいものだった。急な話すぎて、まるで自分が自分でなくなったようだ。シャイアドという子を、後ろからぼんやりと眺めている存在になった気がする。全て、出来の悪い喜劇のように思えた。

「お前さんは”堰の子”と呼ばれる特別な子でな。七百年の因子を背負ったその”堰の子”を程よく成長したころに殺すと、施しの剣に世界を養うだけの力を取り戻させることができる。我が師、サントーシャムと呼ばれるあの人も、剣を作る際、途方もない年月をかけて育てた己の器に宿る魔力をほとんど捧げる方法を取った」

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ、色々衝撃なことが多すぎて頭がごちゃごちゃに……、シャイアドは、どうなるんですか?」

 リャットがこんがらがる頭を振り切るように尋ねると、サムドランは「さてな……」と顎を撫でた。

「私にも、さっぱりわからん。シャイアドをアーデラールから遠ざけた私の選択が正しかったのか、それすらも」

 シャイアドにはもう目の前が見えなかった。涙で歪んでいるだけではない。体が、脳が、前に広がる現実とシャイアドとを切り離そうとしていた。

 サムドランがシャイアドに近寄り、抱きしめて、始めて寄る辺を得た気持ちがした。溺れかけたところに、サムドランという浮きを見つけたのだ。

「でもな、シャイアド。私はマーリアと同じで、後悔はしていないよ。するはずがない」

 優しく背中を叩かれ、シャイアドは年甲斐もなく声を上げて泣いてしまった。先ほど見たマーリアのように。誰かに救って欲しかった。この息のできない世界から拾い上げて欲しい……。

「それと、いいか、よく聞きなさい。これは全て、私やマーリアが勝手に選んで、勝手にお前さんに託したものだ。全て投げ捨ててしまいたければ、それでいい。お前さんも被害者だからな、というか、一番の被害者だ。気に追う必要もない。だが、これだけは聞かせてくれ。

 シャイアド、お前さんはどうしたい?」

 シャイアドには、全てがどうでもよかった。マーリアに生かされたこの命とともにまたみんなと明日を暮らせれば、世界なんてどうだっていい。

 しかし自分が生きている限り、世界も、みんなも、不幸になってしまうかもしれない。


 生きたかった。でも、生きたいなんて言えなかった。


 シャイアドが押し黙っていると、横から「シャイアド!」とまるで激励するような大きな声が聞こえた。見れば、リャットがマーリアとよく似た目をしながらこちらへ寄ってきて、肩を強く掴んでくる。

「そんな顔するなら、正直に言えばいい! 生きたいんだろ⁈ ならそれでいいじゃん! 俺も師匠も絶対に否定しない! もし世界が危ないっていうんなら、解決する方法が見つかってないのなら、一緒に探そうよ! 俺たちなら、絶対に見つけられるから!」

 リャットの力強く希望を宿す目に溢れる涙を抑え切れないまま、喜びが顔に芽吹く。もう感情も顔もぐちゃぐちゃだ。いっそ全て混ざり合ってしまえばいい。

「うん、そうだね、リャット……わたしたちなら、見つけられるよね」

 シャイアドはサムドランに向き直った。いつも鋭い目は、今は昼下がりの新緑のように暖かい色をしている。

「師匠、わたし、生きたいです」

 サムドランは、優しく、しっかりと、頷いた。

「……若者に後を託すというのも、たまには必要だろうしな。私にはもう、心残りはないよ」

「え?」

 サムドランがシャイアドとリャットをまとめて抱きしめた直後、部屋のドアが大きな音を立てて開き、見知った人物が飛び込んできた。

「師匠! まずいです、なぜかもう街に君の獣が来ています!」

「ヤームルさん?」

 ここにいないはずのヤームルが飛び込んで来たのを見て、リャットは首を傾げた。しかしシャイアドはサムドランのつぶやきと、今朝の雲読みでなんとなく理解してしまっていた。何より、突然シャイアドに全てを打ち明けたのだ。

──全て、わかりきっていたことじゃないか。

「ヤームル、後は頼んだぞ」

「……やっぱりまだ納得できません。師匠もお逃げください! いくらあなたと王が懇意だからといって、法を第一に考えるあの王が、あなたの処刑を取りやめるはずがない!」

 リャットはようやく全てを察し、顔いっぱいに焦りと驚愕を浮かべる。

「し、師匠、どういうことですか……」

「どうしたもこうしたも。アーデラールが動き出した。私はここまでということさ。ヤームル、私は逃げるつもりなんてないぞ。というか、きっと私は長く生きすぎたんだ。我が師匠に出会えた、それだけでこの人生は世界で一番豊かだった。それだというのに、私は、シャイアド、お前さんという新しい時代に繋がる子に出会ってしまった。……もう欲張るのをやめにして、後に残る人々に託そうと思う」

 そしてサムドランは、そっとリャットとシャイアドの背中を押した。

「ほら、早く行きなさい。君の獣は手強いぞ、身隠しの魔法を破られないとは限らない」

 リャットもシャイアドも動きたくなかった。だがサムドランの意志を汲んだヤームルが、魔法でうんと強くした腕力を用いてリャットとシャイアドを引っ張る。なんとか抵抗しても、今のシャイアドたちには少しの間この場にとどまれるくらいの力しかない。

「どうしてですか師匠、なんで逃げないんですか!」

「……リャット、あんたの成長した姿が見られないのは残念だったよ。お前は間違いなく、とんでもない魔導師になるだろうからな」

 サムドランは恐ろしいほど静かな佇まいをしていた。シャイアドの、一番嫌いな顔だ。全て受け入れて、別れを決めた、大切な人の顔──。

 届くことはないとわかっていても、シャイアドは必死に手を伸ばした。

「嫌だ、嫌だ、サムドランさん! どうして、わたし、あなたがいないと……!」

 窓の方を向いてシャイアドたちに背中を見せたサムドランは、懐かしそうに、つぶやくように語る。

「シャイアド、お前さんは昔、”自分はどんな魔導師になるか”と問うてきたな。私はあのとき答えなかったが、あれは実を言うと答えられなかったんだ。

 なぜなら、あんたはあんただ。何に例えようもない。何かになる必要も、ないのだから」

 サムドランが指を動かすと、柱をつかんでいたシャイアドとリャットの腕から一気に力が抜けた。




 師が、遠ざかっていく。

 また自分は、師を置いて逃げてしまうのか。

 また、何もできないのか。

 確かに自分は、生きたいと願った。

 でもそこに、あの人がいないと意味がない。







 アーデラールは、マーリアが最期に遺した言葉を思い返していた。

『アーデラール。あなたは哀れな人だ……最後まで一緒にいてあげられなくて、ごめんなさい』

 随分と綺麗な死に様だった。建物は後から詮索が入らないよう大破させてしまったが、彼女自身は、眠るように、苦しまずに死んでいった。……自分がそう殺しただけなのだが。

 そして今、自分は兄弟子を、サムドランを、策謀に嵌めて殺した。

 伝令係から、隣国でサムドランが捕まり、処刑されたと報告を受けずとも、兄弟弟子の死などその場で感じ取れる。

「それにしても、魔導師会から通報のあった”シャイアド”という子はどんな子なんですか?」

 何も知らない議員が、サムドランを嵌めた策略について先輩の議員に尋ねた。アーデラールはいつものように椅子に深く座ったまま、議会が始まるのを待つ。

「ああ、数年前、ドルフォア村にいたマーリアという魔導師が反魔導師組織に襲われたのは知っているだろう。シャイアドとは、彼女の弟子だ。実は組織に襲われる直前に、その子がどこかへ消えてしまったとマーリアから通報があってね。転移魔法を勝手に使ったんだろうと思っていたが、まさかアズドルまで誘拐されていたとはって、みんな驚いていたよ」

「あのサムドランが犯人だったなんて、さらに驚きですよねぇ」

「ローバリの魔導師と違って、アズドルの魔導師は野蛮だというからな。そうですよね、アーデラール議長」

 話を振られたので、アーデラールは目を閉じて、興味がないといった風に応じる。

「アズドルの魔導師は、魔法に畏敬の念を抱かないからな」

「恐れ敬わなければ、魔法に心を食い潰されるといいますからね」

「へえ……初めて知りました。あれ? でも、シャイアドという子は保護されてないって資料に書いてありますよ」

「ああ、よくわからんが、サムドランが逃がしたとか、弟子が連れ去ったとか、いろいろ言われてるよ」

「災難ですね、シャイアドって子も」

 今日も何も知らないのだ、人は。

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