第10話 王城へ






 日常が戻ってしばらく経ち、冬になった。

 ドルフォア村も、この街も、内陸にある上に平地に囲まれているので雪は滅多に降らない。シャイアドは鋭く晴れる空を見ながら、マーリアと豪雪地帯に行った時のことを思い出した。雪というのは、暖かい。それに、光を反射するので夜中でも日が出ていると錯覚するほど明るくなる。

 乾燥した冷たい風が吹きぬける、石造りのこの街は、木造家屋の多いドルフォア村より数段寒かった。室内であっても、石を通して冷気が伝わってくる。この街にやってきた当初はどの家の壁にもかけられているタペストリーが不思議だったが、何年か過ごした現在、寒さから隔絶してくれるものなのだと理解し、重宝していた。

 もちろん、サムドランの屋敷の中は暖かかった。流石に廊下は寒いが、普段使う部屋はどこも暖められている。マーリアの屋敷も、外から帰ってくると身も心も溶けほぐれるような暖かさだった。各部屋に備え付けられた暖炉で薪もなく燃え続ける炎、ぬくもりを部屋中に巡らせてくれるやわらかな風……。あの頃と何も変わらない。変わらないはずなのに、やはりここにマーリアはいないのだ。

 シャイアドはいつも通り、弟子用の研究室で黙々と課題をこなしていた。赤き呪いを治したあの一件以来、リャットと力をあわせることを学んだ。日々の課題でも、お互い得意な分野で助言を送り合うなどするようになり、二人の実力がこれまでの速度よりずっと速く成長していくのを実感している。今現在リャットは手詰まりになっていないらしく、少し離れた彼の机で本を広げている。と、不意に顔をあげたリャットと目があった。

「ねえシャイアド、今なら俺、あの魔法できるかもしれない」

 ”あの魔法”とは、ガラルを助けた報酬としてサムドランが教えてくれた力をずらす魔法だろう。呪文は簡単なのだが、それゆえに発現が難しく、リャットでも手こずっていたのだ。

 何を突然言い出すのかと思ったが、以前から何度かこういうことはあったのでシャイアドはおとなしく「それなら、やってみて」と応えた。

「うん。じゃあまず、俺を殴ってみて。軽くでいいから」

 シャイアドとリャットは立ち上がって向かい合う。シャイアドは言われた通りリャットの胸めがけて軽く拳を振った。幼児のような殴りだった。

 リャットがそれを見て小さく何かをつぶやいたかと思うと、シャイアドの拳は石鹸で滑るかのようにつるりとリャットの横へ流れていく。

「おー、すごいじゃん」

 シャイアドが感心して己の拳を見つめていると、「よし、もっとできるかもしれない! シャイアド、もっと強く殴っていいよ」とリャットは腕を広げてみせた。

 シャイアドは遠慮なく、素早くリャットの胸を殴る。

 呪文を口にするのが間に合わず、それなりの殴りがリャットを襲った。

「うっ……」

「大丈夫?」

「シャイアドって結構……いや、なんでもないや。というか、この魔法問題ありすぎない? 相手が殴りかかってくる間に呪文唱えるの、無理じゃない?」

「じゃあ、杖魔法にしたら?」

 シャイアドの提案に、リャットは「あー……」とつぶやきながら記憶を探る仕草をする。

「呪文じゃなくて、杖で発動できるんだっけ?」

「うん、それに木や金属、宝石でできてれば杖じゃなくてもいいんだよ。……まあ、火を起こす魔法とか、そういう範囲が細かい魔法だったら杖の方がいいんだけど。その魔法なら、大丈夫なんじゃない? 本当は杖にする物に全ての文字を掘って、魔法を使うときにその呪文を成立させる文字を選んで魔力を流さないといけないんだけど、一つの魔法専用のを作るなら、呪文だけ掘ればいいと思うよ」

 杖魔法は呪文などの基礎ができてないと行えないので、魔法学校などでも、教えられるのはずいぶんと後だ。マーリアは細かいことは気にしないのか、シャイアドが独学で杖魔法を使っていても特に何も言わなかった。

 なるほど……とつぶやいたリャットは、シャイアドの腕のブレスレットに目を止める。

「それにも掘っていい?」

「……うん」

 リャットが自分のぶんまで作ってくれることに、シャイアドは少し驚いた。だが思えば、この魔法を一番必要としているのは自分なのだ。最近は人に絡まれる前にさっさと身隠しの魔法を唱えて家に帰っているので問題は起きていないが、それでも万が一の時に必要だ。それにこのブレスレットは最近ずっとつけているし、ヤナギの木で作られているようなので魔法の発現にも問題はない。

 ブレスレットをリャットに渡し、二人はそれぞれの席に戻った。リャットからブレスレットを返してもらったら、魔法の練習をしなきゃな、とシャイアドはぼんやりと思った。

 今日の食事当番はシャイアドなので、もうすぐ台所へ向かわなければいけない。きりのいいところで終わらせようとすり鉢の中身をかき集めていると、いつもはこんな時間に開かないはずなのに、研究室のドアが開いた。シャイアドとリャットが二人して顔をあげると、珍しいことにサムドランが立っていた。手に持った真っ白な手紙を見せ、シャイアドに語りかける。

「シャイアド、今国王から手紙が来てな。なんでも、お前の顔を見てみたいそうで、一週間後、城に来るように書かれているぞ」

 シャイアドは危うくすり鉢を机上にぶちまけるところだった。何も言えずにサムドランを凝視していたら、「建前上、お前はローバリからの留学生だからな。興味を持たれるのは当然だろう」と半目で笑った。

「それ、殺されたりしませんか?」

 アズドルの中枢部の人々は皆ローバリ嫌い、というようなことを、ヤームルが言っていた。わざわざ呼び出すなんて、シャイアドには何か裏があるようにしか思えない。

 自分では至極真面目に言ったはずだったのだが、サムドランは豪快に笑い飛ばす。

「この私の弟子をか? ないない、絶対に! 純粋に興味が湧いたんだろうよ、奴は法律が全てだと思っているやつだから、”ローバリ人は速やかに殺すべし”って条文がない限り人命を奪ったりせんわ。実際、アズドル国内に取り残されているローバリの商隊なんかはアズドルに取り込もうと動いてるしな」

 ならいいのだが、とシャイアドは煮え切らない気持ちだった。ヤームルのあんな顔を見た後では、どうも信じられない。

 それを察したのか、サムドランは笑うのをやめて、合点がいったように「ああ」と頷いた。

「ヤームルが勤めてたのは五十年も昔のことだぞ。五十年もすればたいていの人間は死ぬし、常識も変わる。奴の言ってたであろうことは先代の国王の時代のことだし、今の国王は比較的人間と国を切り離して考えられるまともな人間だから、安心しなさい」

 先代の国王に対して随分な言いようだが、大丈夫なのだろうか。しかしシャイアドはサムドランがこの国の建国に関わっているらしいことを思い出し、何も言わなかった。

 サムドランは、驚いたように横で話を聞いていたリャットのほうにも顔を向ける。

「リャットも来なさい。私の弟子として、挨拶させなくてはと思ってたんだよ。ああ丁度よかった」

「え、俺もですか……! ただの農民だった俺が、国王に謁見かぁ……」

「最低限の作法なんかはここ数年で叩き込んだから大丈夫だと思うが、くれぐれもバカなことを口走ったりするなよ」

「バカなことって例えばどんなことですか」

 リャットの真剣な顔に、サムドランは呆れたように首を横に振った。

「わかった、お前は極力喋るな」

 ショックを受けたリャットを尻目に、サムドランはまたこちらへ向き直る。

「では一週間後。詳しいことは昼食で話す。なに、万が一何か不測の事態があっても、この私がいるんだ、私のプライドにかけて、あんたには手出しをさせんよ」

 サムドランが時折見せるこういった優しさに、シャイアドはどう反応していいかわからなかった。ただ「ありがとうございます」とだけ伝えると、サムドランは特に気にした様子もなく頷いて去って行った。


 一週間後、しっかり着込んで街の門のところに立ち、三人で迎えの馬車を待っていたら、人だかりの中からウトラが飛び出して来た。シャイアドは人から見えないよう物陰に収まっていたので、ウトラが突然目の前に現れ、心臓が止まってしまうかと思った。

「シャイアド! 王様に会うんでしょ、これ付けてって!」

 息の上がるウトラの手には、果物の血のような赤い宝石がはまった髪留めが握られていた。

「こ、これ? わたしが?」

「そ」

 戸惑うシャイアドに後ろを向かせ、ウトラは手際よく髪留めをシャイアドの髪につけた。

「うん、やっぱり似合う! ……昔ね、この色の宝石、シャイアドの黒い髪に似合うねってランギと話してたの」

 ウトラの暖かいものを思い出すような声色を聞き、シャイアドは「この子は強いな」と思った。もう立ち直って、前を向いている。

「お代はサムドランさんに後で請求しときますね!」

 ウトラがさらりとそんなことを言ったので、横で見ていたサムドランは「職人になったと思ってたが、すっかり商人が板についてるな。私の負けだ」と両手を上げて降参する仕草をした。

 ウトラはお茶目に笑うと、またシャイアドの方を見た。そして満足げに頷く。

「やっぱり素敵だなぁ。シャイアド、もっと着飾ろうとは思わないの? 魔導師って、結構着飾ってるイメージがあるなぁ。昔本で見た人たちがみんなそんな感じだったから」

 確かに、今すぐそこに立っているサムドランも、指にシンプルだが高価そうな指輪をはめていたり、靴が明らかにいいものだったり、ベルトの装飾がさりげなく凝っていたりと、小洒落た身なりをしていた。きっと男性用の化粧もしているに違いない。魔導師の中では、男性の化粧も普通のことなのだ。

 マーリアも綺麗なドレスが好きだったし、そういったものを街中で見かけては、自宅で動きやすく改良したものを自作しては着ていた。毎朝歌いながら髪を編み、魔除けの効果のある品々で一人楽しく化粧をしていた。豪快で細かいことは気にしない人だったが、だからこそ自分で楽しくそういったことを行なっていたのだろう。もちろんシャイアドも何度も誘われたのだが、マーリアの輝きに圧され、自分には無理だと逃げていた。

「……その、キラキラしたものを見てるのが好きだから、普段から身につけてると、落ち着かないの」

「ふぅん」

 しかしウトラは少し考えると、にこりと笑った。「自分からは見えないだろうけど、シャイアド自身もキラキラしてるんだよ」

 シャイアドは顔が赤くなるのがわかった。すぐローブについているフードを被り、壁に顔を向ける。どうしてこの子はこういう恥ずかしいことを平気で言えるのだろうか。最近商売を頑張っているからだろうか。そうだ。そうに違いない。商人は口が上手いのだ。

 背後で、苦笑したリャットが「ウトラ、そろそろ馬車が来るらしいから、あんまりシャイアドの頭を真っ白にしないであげて」と割って入ってくれた。

 「事実なのになぁ……」とつぶやいたウトラは、「シャイアド、装飾類が欲しかったらいつでもウチに来てね。ついでにリャットも」としっかり売り込んでから、人混みに紛れていった。

「俺はついでかよ……」

 不満そうにつぶやいたリャットの言葉の直後に、門の外に大きな馬車が走って来るのが見えた。王家の旗を掲げ、周囲には何人もの護衛と思しき兵士が付き添っている。

「な、なんか、すごく厳重ですね……」

「お前たちにゃ自覚はないかもしれんが、私は国王の専任魔導師を何人も育てたすごい魔導師で、お前たちはその私の弟子なんだぞ」

 気圧されているリャットの背中をしっかりしろと言わんばかりに叩き、サムドランが馬車に近づくと、一番前で一行を引き連れていた特に身なりのいい兵士が馬から降りて挨拶をする。

「ああ、レイナ、あんたか。前会った時は十歳くらいだった気がするのにもうそんな立派になって……」

「十歳って、サムドラン様、私は今年で三十二ですよ。何年前の話をされてらっしゃるんですか。というか、五年くらい前に会いませんでしたっけ?」

「お前なぁ、一方的に見かけるのは会うとは言わないと、二十何年も昔に教えただろう」

「あれ、そうでした?」

 笑いながら、レイナと呼ばれた人は馬車のドアを開けてサムドランたちに入るよう促した。

 車内はなぜだか暖かかった。さすが国王と言うべきか、長時間座っていても疲れなさそうな、ゆったりとしたソファーが向かい合って並べられている。シャイアドとリャットは御者側に並んで座った。レイナがまた馬に乗り、一行が出発するのを見ると、二人の向かいに座るサムドランは口を開いた。

「彼女はああ見えて国王直属の特別部隊”君の獣”の一人なんだ。国家機密だから、他の誰にも言うんじゃないぞ」

「国家機密をさらっと教えないでください」

 リャットが怒ったように言ったが、シャイアドには君の獣というのがいまいちわからなかった。

「”きみのけもの”ってなんですか」

「国王に服従し、その御身を護り、時には牙となる精鋭部隊さ。奴らはそれはそれは恐ろしいぞ、戦闘能力もさることながら、滅私が徹底している。感情が抜け落ちたようなやつらだよ」

 リャットは首を曲げて、先頭を走るレイナの後ろ姿へ視線を投げる。

「でも、さっきのレイナって人はニコニコして、優しそうな人でしたけど」

「滅私といっても何パターンかあってな。あの子は一見普通に見えて、任務となれば親だって殺せるような子だ。公私を完全に分けられる、いわゆるプロタイプだな。他には元から倫理観の欠如しているやつとか、魔法なしに動く人形みたいなやつもいるよ」

「……敵に回したら怖そうですね」

 珍しく眉間にしわを寄せたリャットに、サムドランは皮肉交じりに笑った。

「お前は私より君の獣が怖いんだな」


 王都に着いた時、あの街よりは活気に溢れる街を馬車で通り過ぎながら、リャットは目を輝かせた。

「冬なのにこんなに人が多いんだな!」

 シャイアドの目には、王都にしては活気が足りないように見えた。しかし、行き来が激しく制限されている現在、仕方のないことなのだろう。

 国王の居城は分厚く高い壁で覆われていた。ローバリの中心とも言える議会はアーデラール議長の張った特殊な不可視の魔力防壁で囲まれているので、こういった視覚的にも圧迫感を与える城はなんだかドキドキする。

 馬車を降りて城内に入ると、早速国王の元へと連れて行かれた。体を強張らせるシャイアドとリャットを尻目に、サムドランはずかずかと進んでいく。

「な、なあ、不敬罪とかで殺されたりしないよね」

 リャットが心配そうにこそこそと訪ねてきた。シャイアドはさすがに国王との謁見は初めてなので頷けない。

「……な、何かあれば師匠に丸投げしよう。たぶんなんとかしてくれるよ」

 謁見の間に通されたが、国王はいなかった。なぜだろうと周囲を見回していると、横の通路から一人の女性が出てくるのが見える。派手ではないがしっかりとしたドレスで、手には王杖を思わせる大きく豪華な杖が握られていた。

「お師匠、わざわざご足労ありがとうございます。お久しぶりですね」

「ああ、メリタリヤか。相変わらずだな」

 リャットが「誰?」と聞いてきたので、脇腹を肘で突いてから小声で「ばか、サムドランさんの一番最初の弟子……つまりわたしたちの姉弟子!」と教える。今のが本人に聞こえてないかヒヤヒヤした。

 聞こえていなかったのか、それとも無視したのか、メリタリヤはサムドランと二言三言交わしてから、シャイアドたちに微笑みかけた。腹の底の知れない、したたかな人のする笑顔だ。

「初めまして。確か、十一番目の弟子くんと、十二番目だか十三番目だかの弟子ちゃんだったかしら」

「初めまして、メリタリヤ様。わ、わたし、シャイアドといいます。それで、こっちが」

 シャイアドがリャットの方を向くと、リャットは慌てて「リャットです!」と礼をした。

「よろしく。私はサムドランお師匠様の一番目の弟子、メリタリヤ。アズドル国王の専任魔導師をしています」

「別にとって食うような真似はしないからそんなビクつくんじゃない、私が恥ずかしいだろうが。というか、シャイアド、メリタリヤには”様”付けで、私には”さん”なのか? 何かおかしくないか? ん?」

 こんな時に軽口を叩くな、とシャイアドは内心サムドランを思いっきり睨みつけたくなったが、なんとか耐えて苦し紛れに「あはは」と笑っておいた。絶対にぎこちなくなってしまった。

 しかしメリタリヤは微笑ましそうに口元を緩めたかと思えば、また引き締まった顔になって「では、私はこれで。もうすぐ国王のお目見えです」と一礼し、優雅に去って行った。

「あの子の魔法は呪文じゃなく杖で発動するものが多いんだが、実は杖魔法を確立したのは400年前のあの子なんだよ。もともと天才的魔導師には使えたんだが、一般魔導師でも使えるように改良を施したんだ」

 サムドランの補足にシャイアドは肌が粟立つのを感じた。杖魔法といえば、魔法の”あり方”の一つである。サムドランは以前、メリタリヤはさほど才能に恵まれた人ではないと評していた。しかし彼女なりの想像も絶するほどの努力で、成功を重ねてきたのだろう。実際、彼女の見た目も三十代ほどだった。底知れぬ野心の現れだろう。

「ま、アーデラールみたいにこの城丸ごと魔力の防壁で覆うような魔法を使うことは叶わないみたいだがな。いや、私も四六時中張っていられるかと聞かれれば怪しいんだが」

「師匠って本当に余計なこと言うのが好きですよね」

 先ほどの恨みを込めてそう言うと、サムドランは「歳をとるとスリルが欲しくなるんだ」とわけのわからない言い訳をする。

「ちょっと二人とも、これから王様が来るんですからもっとこう、ちゃんとしてください……!」

 そういえばそうだとシャイアドは気を取り直し、玉座を見上げた。ずっと気づかなかったが、先ほど一行を率いていたレイナと思しき人物とその他数人が、顔を隠し目立たない格好で部屋の各方々に佇んでいる。彼らが”君の獣”だろう。

 奥のカーテンが開かれ、国王らがゆっくりと歩いて部屋に入ってきた。サムドランに皮肉を飛ばしていた空気が一転し、厳かな雰囲気が一帯を包む。これが、国王の威厳……自然と背筋が伸びたのがわかった。

 国王と思しき人は中心の椅子に座り、身なりからして絶対に従者ではないであろう三人がそれぞれ横に立つ。三十歳頃の男性、二十半ば頃の女性、まだ若い、少年と青年の間にある男性……王子と王女だろうか。

 部屋が一瞬の沈黙に包まれる。シャイアドは国王に凝視されていることに気づいていたが、どうも恐ろしくて顔を上げることができなかった。やがて国王がゆっくりと口を開く。

「サムドラン殿、手間取らせて申し訳なかった」

「久しぶりだなヴルナ王よ。こちらとしてもそろそろ挨拶に伺おうと思っていたところだったので丁度よかった。それに気にかかっていたこともあるしな」

 サムドランはちらりとある方向を見た。シャイアドもこっそりその視線を追うと、ひとりの君の獣が目に入る。その人物はフードを被っていて顔が見えないが、おそらくサムドランの知人なのだろう。

「ああ、その件に関しては心配はいりません。万事滞りなく。迷惑をおかけしましたな」

「そうかい、それならよかった。……ああ、挨拶が遅れたな、こっちが十一番目の弟子、リャットで、こっちがローバリの留学生、シャイアド」

「どちらも話は聞いておる。……ふむ、将来が楽しみですな」

 威厳を込めたまま国王は笑った。言葉にも笑みにも裏は感じられず、本当にただの好奇心から呼んだのだとシャイアドにはわかった。

 それからヴルナ王はサムドランと個人的に話がしたいと言いだし、シャイアドとリャットは君の獣たちに部屋に案内されることとなった。

 先ほどのフードと、他数人に城内を導かれていると、背後から誰かが駆け寄ってくる。

「ちょっと待ってくれ!」

 振り返ると、先ほどヴルナ王の後ろに立っていた、一番若い男性が息を整えていた。その顔を見て、君の獣は姿勢を正す。

「トレム王子、お一人で駆けてこられたのですか」

「そうだ、今さっき父に解放されて……いや、そんなことはいい。私はその者と話がしたい」

 トレム王子と呼ばれた人と目が合い、シャイアドはどきりとした。一体なぜ、アズドルの王子が、ローバリ人の自分と会話をしたがるのだろう。

 君の獣は逡巡したが、一人の護衛をつけることを条件に許可を出す。

「トレム王子、あなたはまもなく成人の儀を迎えます」

「わかっている、いつまでもこんなわがままが通ると思うな、だろう。私のことはいいから、さっさとその客人をお部屋まで案内して差し上げろ」

 「は」と君の獣は敬礼し、リャットを連れて消えて行った。

 残ったのは、先ほどのフードと、トレム王子、そしてシャイアドだけ。トレム王子は「見苦しいところを見せたな。ひとまず、あの部屋に入ろう」と指差した部屋へと歩いて行った。

 フードが部屋のドアを開け、それに続いてトレムとシャイアドが中に入る。厳かなサムドランの屋敷とは違い、王城は随分と飾り立てられていた。ふかふかのソファーに案内すると、トレム王子は息をついて自己紹介を始める。

「私はアズドルの第三王子、トレム。急に引き止めて、すまなかった」

「わたしは、シャイアドと申します……。あの、王子、なぜわたしを引き止めたのですか?」

 トレムは、つっと視線を下げた。

「君をローバリとアズドル両国に所属した優秀な魔導師として……そして大人たちとは違う人だと見込んで話したい。……父は、ローバリが施しの剣を盗んだと断定している。だが、私は、どうも引っかかるんだ」

 シャイアドは手が震えるのがわかった。この人はきっと、自分と同じ違和感を抱えている。確証はなかったが、なぜだかそう思った。

「なぜ、ローバリは施しの剣を盗まねばならなかったのか……盗んだとして、なぜそれが”今”なのか。

 父は、消去法からアーデラール議長を犯人だと推測した。もともと、剣に近づけるのは議長だけだ。それにこの十年、国中をくまなく探したというのに、剣は見つからなかった。私もその結論は納得するんだが、ではなぜ、さっき言った通り、議長はあの日盗まねばならなかったのか……。盗めば、父がしたように、すぐに犯人が特定されてしまう。それに、ここ百年ほどアズドルとローバリの国境では、小競り合いは起きても大きな戦は起きていない。歴史から見れば友好関係にあるというのに、争いを嫌うローバリがわざわざそれを崩すことをするだろうか? もともと施しの剣の恩恵は、アズドルのみならず、ローバリにだって過不足なく及んでいた。それらから考えても、メリットがない。

 だから、私はローバリに住んでいた魔導師だというそなたに、意見を聞きたかったんだ」

 サムドランはよほど信頼されているらしい。自分がローバリのスパイだという可能性は全面的に否定している。そこまで思って、シャイアドはふと昔を思い出した。

 ローバリ人だとか、アズドル人だとか、シャイアドは気にしていなかったはずだ。だがこうしてアズドルで暮らし、皆からローバリ人だと言われ続けて、自分がローバリ人なのだという自己意識が形成されてしまった。煩わしい、とシャイアドは思った。

 だがトレムの言い方は、シャイアドを個人として認識している。ローバリやアズドルという概念から、離れたところにある。王子としては危ういのだろうが、それでも今でのシャイアドには心地よかった。

「……王子は、赤き呪いをご存知ですか?」

「赤き呪い……ああ、つい先日サムドラン殿から報告があった。それが、どうかしたのか」

 シャイアドは、頭の片隅で警鐘がなったのに気づいた。赤き呪いや、暗黒期は、魔導師の領域だ。こうやって軽率に、政を行う人々に教えていいのだろうか。サムドランも、もしかしたら国王に教えてないのかもしれない。

 シャイアドが言い淀んだのを見て、トレムは言いたいことを察したようだった。

「大丈夫。私は半人前でね、兄にも姉にも、当然父にも、意見を聞いてもらえないんだ。そなたが心配しているようなことにはならない。誰にも口外しないと約束するよ。……私は私なりに、納得がしたいだけなんだ」

 確かに、狡猾な人はこんな馬鹿正直とも言える手段を取ることはないだろう。

 トレムは傍らに立っていたフードの君の獣にも顔を向ける。

「おまえも、他言するなよ」

 フードは頷き、跪いたかと思えば己の胸の前で何かを切るように指を動かした。不思議そうに見ていたシャイアドに、トレムは説明する。

「これは約束の誓いと言って、この印を切った君の獣は絶対に約束を破らない。こいつは私の君の獣だから、心配することはないんだがな」

 それからしばらく考え、意を決し、シャイアドは暗黒期と赤き呪い、施しの剣との関係について話した。全てを聞いたトレムは深く考え、「……ローバリが、暗黒期を再来させようとしている可能性はないのか?」と慎重に尋ねる。

「それはないと思います。我が師サムドランは暗黒期を何よりも恐れていました。つまり、七百年前から生きている魔導師であれば、暗黒期の再来などこれ以上愚かなことはないと理解しているはずで、アーデラール議長がそんなことをするはずがないし、賊にもさせるはずがありません。それにアーデラール議長も、築かれた平和を台無しにするような人であれば、七百年間もローバリを導けるはずがない……」

「随分と議長を信頼しているんだな」

「いえ、信頼というより、”そういうもの”なんです。魔導師でない方にはおかしく感じるかもしれませんが、長く生きるというのは、それほど真っ直ぐな心を持っているということ」

「……そうなのか」

 また八方塞がりになったトレムは黙って考え込んでしまった。

「……やはり、一番考えられるのは賊の仕業でしょうか」

「そんな実力を持った賊がいれば、お目にかかりたいものだ」

 トレム王子はそうつぶやいてから、「もしかしたら」とつぶやく。

「剣は自然に消えてしまったのだろうか」

 側から聞けば突拍子も無い言葉に失笑するはずだが、シャイアドはどきりとした。自分の予測と同じようなことをこの人は言いだした。それに顔は大真面目だ。

「……何か、思い当たる節があるんですか」

 シャイアドが焦りを慎重に隠して尋ねると、トレム王子は深刻そうな顔になる。

「十年前、私はまだ幼子だったのでよく知らないのだが、剣が盗まれる前から……作物の収穫量や漁獲量が年々低下する傾向にあったと、メリタリヤの報告を兄から聞いた。本当にわずかで、それに歴史的によく見られる傾向だと、皆は気にとめていなかったが……」

 部屋の空気が重くなった。聞きたくなかった事実だった。シャイアドは説を否定したかったが、自分にはできない。サムドランは何かを知っているはずだ。今すぐ走って聞きにいきたかった。どうせ、教えてもらえないのだろうが。どうしようもなく悔しかった。自分がもっと利口だったら、あるいはもっと大人だったら、教えてもらえたのだろうか。サムドランが自分を守るために黙っていることはわかっていたが、それでも悔しいことは悔しかった。

「……七百年もこの世にあったんだから、ずっとこの先もあり続けるだろうと私含め全ての人が思っているが、どうやら逆に”七百年という月日で限界が来た”ということも視野に入れなければならないようだな」

「王子は、もしそれが本当で、施しの剣なしで生きていけと言われたら、どうしますか」

 トレムはシャイアドを見つめた後、笑ってみせた。

「いつまでも、過去の偉人の遺物に、なくなってしまったものに縋り続けていては前に進めない。私たちには這ってでも生きねばならぬ未来がある。生かさねばならぬ民がいる。そして私たちがいなくなった先にも、誰かが生きる未来はある。何か新しい道を見つけるしか、ないのだろうな。それは途方も無いことだ。なるべくそうならないことを願うが、もしそうなるとすれば……私は、王族として、できる限りのことをしたいと思っている。そなたにも、期待しているぞ」

 同じくらいの年頃だというのに、この人はずっと高潔な意志と、役目が与えられているのだとシャイアドは思った。

 トレムは不意に部屋の隅に置いてある時計を目にし、「……ああ、すっかり話し込んでしまったようだな」と立ち上がった。

 君の獣に部屋まで案内させようとトレムが言って、フードに連れられ、シャイアドはトレムを残し部屋を後にした。


 部屋を出て少し歩いたところで、王子との会話で得たことを後でサムドランに問い詰めようと思いつつ、シャイアドは目の前のフードの後ろ姿を見つめていた。

 先ほどは真剣な話をしていて気にならなかったのだが、なんだか、この君の獣、引っかかる。

 謁見の間で、他の君の獣は常に視線を周囲に向けていたのに、この君の獣はたまにひっそりとシャイアドたちを見ていた。特に──勘違いでなければ、シャイアドの髪飾りを。それにサムドランもこの人を気にかけていた。あのサムドランが、だ。

 この違和感に、シャイアドには、ひとつだけ心当たりがあった。

 確かめるのは、無粋なことだろうか。

 でも、確かめなければならないと思った。脳裏には、大好きなあの子の泣き顔が浮かぶ。決心はすぐについた。

「わっ……」

 わざとつまずき、体制を崩すと、目の前の君の獣はすぐ振り返ってシャイアドを受け止める。シャイアドを立たせるとすぐに離れようとした君の獣の腕を、シャイアドは強く握った。君の獣はぴくりと動いて、すぐ取ろうとシャイアドの腕を掴み返す。

 最初は緩く掴んでいたが、シャイアドが手を離すつもりでないことに気づくと、徐々に握力を込めてきた。

 聞くなら、今しかない。

「ねえ、あなた……ランギでしょ?」

 君の獣の──ランギの動きが止まった。

「やっぱり、ランギだったんだね」

 彼はずっと動かないでいたが、やがて諦めたように力を抜いたので、シャイアドも慎重に手を離した。ため息をついたランギがフードを外し、顔につけていた布も外すと、数年前は毎日見ていた顔が現れる。ただし、目にはあの頃の情熱はもうなくなっていた。静かで、冷たい目だ。シャイアドは鏡越しにこの目を何度も何度も見ている。

「……気は済んだか」

 抑揚のない声だった。サムドランの街に住む人々が今の彼を見たら、「よく似た別人だろう」と判断するだろうが、シャイアドにはどうしてか、「彼らしい」と思えてしまった。今まで感じていた違和感を、都合よく説明できる答えだったから。

「それがあなたの本当の姿だった……ということは、ずっと、あの街の人たちを騙してたの? 何かの潜入捜査だったの?」

 ランギは、答えるつもりがないようだった。黙って、顔に布を付け直している。

「答えてよ、ランギ! ウトラの家族との絆は、ごっこだったの?」

「俺はもうランギじゃない」

 苦しそうにランギは唸った。

「俺の本当の名は、ヴェーテルだ。もう二度とその名前で呼ぶな」

 どうやらフードはシャイアドたちに気づかれないためにつけていたものだったらしく、ランギは──ヴェーテルはフードを外したまま、つかつかと歩き始めた。

 その様子を見て、シャイアドは確信した。

 ごっこでは、なかったのだ。本当にヴェーテルは、あの一家の長男ランギとして、ウトラたち家族を愛していた。

 事情はわからなかったが、ただその事実を知れただけでもよかったと思った。

 しばらくヴェーテルはシャイアドの前を歩いていたが、やがて一度立ち止まると、静かにつぶやく。

「──あの人たちには、特にウトラには、黙っててほしい」

「……わかった」

 シャイアドは素直に頷いた。こうするしかなかった。

 きっとこれには複雑な事情が絡んでいる。大きな力や、抗いようもないものに……ヴェーテルは晒されているのだろう。

 シャイアドも、ヴェーテルも、自分にはどうしようもないのだ。

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