第9話 呼び戻し
*
リャットは、ずっと兄に憧れていた。
穏やかで、優しく、聡明で、父から絶大な信頼を寄せられていた兄が、何よりの自慢だったし、いつか自分もああなりたいと思っていた。
だからこそ、病に伏せ、床に縛り付けられている今の兄を見るのは辛かった。理想の兄と、現実の兄とのギャップは、理屈で埋められはしたが、どうしても感情は追いつかない。それに、兄の衰弱っぷりは、死の間際にいた父を思い起こさせる。視点が合わないような、そんな不快な恐怖が背に迫っていた。
久しぶりに再会した兄弟は、リャットがそうであるように、すっかり成長していた。どこかで、いつまでもあのままだと思っていた兄弟が、自分一人を残して遠くへ行ってしまったような気がして、リャットはほんの少しだけ寂しさを覚える。自分はこのままずっとサムドランの弟子を続けていくのだから、この隔たりは徐々に大きくなっていくだろう。兄も結婚するべき年頃だし、チルハももう少しすればいい人を見つけなければならない。
(それに──)
自分は魔導師だ。
それはいつか、決定的な差異を生む。
兄弟の死を、彼らの子の、孫の死を、見届けなければいけない日が来る。
リャットは、ぼんやりと、己の師匠を思い描いた。あの人は随分と気ままな人だが、肉親はどうなったのだろうか。七百年という膨大な年月に、思い出も、悲しみも、流されてしまったのだろうか。
一筋の光として、希望として、すがる形で成った魔導師だったが、それが何を意味するのか、もう少し深く考えておくべきだったな、と思った。
しかし以前にもシャイアドに言ったように、どんな経緯を辿ろうとも、サムドランが目の前に現れたあの時から、自分は魔導師の道を絶対に選んでいただろう。
サムドランは憧れだ。ガラルのことは兄として慕い、憧れているが、サムドランのそれは次元が違った。彼は息を吸って吐くように、自然にこの世界の中枢に触れる。そこから風を操るように、魔法という奇跡を舞い上がらせる。彼は、リャットにもできると言った。見上げて驚きに口を開けるしか出来ないわけではないのだ。リャットは、誰かの目を輝かせてみたいと強く、強く思った。森で、岩場で、草原で、兄が遊びを教えてくれる時のように、子ども心に残る、いつまでも見上げていた感覚を、この世界に呼び起こしたかった。
リャットは早く目が覚めてからずっと窓辺の植物を見つめていたが、やがて空がうっすらと白み始めたところで、死んだように眠っていたルーがもぞもぞと起き上がった。ルーは恐ろしく寝覚めがいい。目が覚めてから十も数えれば、すっかりいつもの調子になる。現に今も、身体を起こしてからベッドの淵に座る人影を確認し、それがリャットだとわかると「おはよう、リャット兄さん」と小声で挨拶をした。
「ああ、おはよ、よく眠れたか?」
昨日は、今もぐーすか寝ているガダとハーヤが騒ぎに騒いだ。久しぶりに戻ってきた二番目の兄に、彼らは思う存分甘えたのだ。とはいうものの、相手は四年前とは打って変わって力も体力も爆発的に伸びた少年たちだ。終わりの見えない二人の体力に、リャットは最終的に根を上げて早く寝るように懇願した。口を尖らせて不満を垂れるガダと、面白くなさそうな顔をするハーヤに、眠れるわけもなく喧騒をずっと横で見ていたルーが叱りつけてやっと二人は眠ったのだった。リャットもそんなルーにお礼を言ったのだが、その後の記憶がない。長旅で疲れていたのと、二人の相手で完全に参っていたのだ。
「僕はよく眠れたけど、兄さんはもっと早く起きたんでしょ? 大丈夫なの?」
リャットはルーと違い、朝に弱かった。起こされても寝起きは生返事程度しかできない。しかもまだまだ意識は眠っているので、何を言われても全く理解することができなかった。弟子になってから、サムドラン、シャイアド、ウトラに「農家の子は早起きじゃないのか」と呆れられたのを思い出す。そんなリャットがハキハキと喋ったのを見て、ルーはリャットがずっと前から起きていたことに気づいたのだろう。
「なんか、目が覚めちゃってさ」
「……そっか」
ルーはそれ以上何も言わなかった。夢の中にいるガダたちを叩き起こしてから着替え、自分と弟たちが脱いだ服をきっちりと畳んでから、朝の畑仕事に向かおうとしたので、リャットは慌てて手伝おうと寝間着姿のまま立ち上がった。
「いいよそんな、気を使わないで。魔導師さまに、こんなことさせられないよ」
ルーの言い方に皮肉は全く見られなかったが、言われたリャットはどきりとした。
「俺は、魔導師である以前に、お前たちの兄ちゃんだぞ」
勤めて平静を装って言うと、ルーはもっと冷静に「リャット兄さんの仕事は、ガラル兄さんを治すことでしょ」と言い退けた。リャットが言い返す言葉を見つけられないでいると、寝ぼけ眼をこする弟を連れ、部屋の外へ行ってしまった。すっかり広くなった部屋に、ぽつんとリャットだけが取り残された。
弟との埋められない何かを見せつけられたリャットは、そのまま力なくベッドに座り込み、口の周りに触れながら、呆然としていた。
やがて少し経って、部屋の扉を叩く音がしたかと思えば、控えめな声で「入っていい?」と聞こえる。シャイアドの声だ。リャットは心ここに在らずといった気分だったが、なんとか「どうぞ」と答えることができた。
シャイアドがまだ眠そうな顔で入ってくると、手には一冊の本が握られていた。治療に役立ちそうな文献を、館から何冊か、持ってきていたのだ。サムドランが選んだもので、「この中に答えは用意してある」らしいのだが、どれも膨大な量の文献をまとめたものである上、たくさんのフェイクが仕込まれているので、全て読んで答えを導き出すにはとても三週間では足りない。しかしシャイアドの様子からして、なにか見つけたようだった。
「あのね、昨日、寝る間際に思い出して、慌てて荷物をひっくり返して確認したんだけど……。この、五十年前に刷られた本、七百年前の文献をまとめてあるの。で、ここにね、読んでほしいところがあって」
寝起きのシャイアドは、なんだか年相応に見える。少しだけ呂律の怪しい声で、シャイアドは本の一節を指し示した。
『”赤き呪い”と呼ばれた病は、ホルドラの木の根を煎じたものによってのみ回復の兆候を示したようだ』
「赤き呪い……」
「わたし、この病気を一回だけ見たことがあるって言ったよね。その時、マーリアが赤き呪いって呼んでたのを、夢と現実の狭間でふっと思い出して。で、ここにくる途中の宿でパラ読みしたこの本にそんなのが書かれてたような気がしたから、確認したら本当にあったんだ」
リャットはまず決定的な手がかりをつかんだシャイアドにお礼を述べてから、「でも、ホルドラの木の根は猛毒だよね?」と問うた。シャイアドは頷いたが、その質問が来ることを想定していたような顔をしていた。ホルドラの木の根は、触れただけで肌がひどく荒れる猛毒だ。口にすれば、激しい熱と呼吸器の機能不全を起こし、数時間で死んでしまう。
「師匠、言ってたじゃない。毒も時には薬になるって」
リャットは、「しかし毒であることには変わりはない」と師匠の言葉を付け足した。
「……この一行だけじゃ、治療に踏み切るには危険すぎる。他の文献に、赤き呪い……いや、ホルドラの木の根について書かれたものがないか、確認しよう」
自分でも、気分が高ぶっているのがわかった。兄を、本当に救えるかもしれない。死に、抗えるかもしれないのだ。
シャイアドは頷き、残りの本をまとめてある部屋へと急いだ。
それからが、長かった。五日間、二人は本を読んでホルドラの木の根についてそれらしい文献を選んでは読んだのだが、どの本も「ホルドラの木の根は猛毒です」ということしか書かれていなかった。しかも、多くは古代文字が使われていて、解読するのにもこれまた気力と時間を浪費してしまった。
連日の作業ですっかり憔悴しきった二人に、カルラは真っ赤にとろけるジャムを乗せたパンを持ってきてくれた。
「あんたらも倒れたら笑えないよ。たっぷり食べて、たっぷり寝なさい」
「あんがと、母ちゃん」
リャットは母からパンを受け取り、それを口に入れようとしたところで、あれ、と手を止めた。何かが引っかかる。シャイアドはパンを受け取り、見慣れないものなのか、上のジャムをまじまじと見つめた。
「これ、なんのジャムですか?」
「それかい? ソソの実だよ、この間チルハたちが森から採ってきてね。ここらでは秋になるとたくさん採れるのさ。そのままだとすっぱいけど、煮詰めるとさっぱりしたジャムができるんだよ」
リャットとシャイアドは、顔を見合わせた。ホルドラと、ソソ。その名前に、二人には思い当たる節があった。
「「神話だ!」」
二人は急いで、アズドルの地に伝わる神話について書かれた本を取り出す。サムドランの雑なフェイクだと思っていた本が役立つなど思いもしなかった。幸運なことに本は現代文字で書かれており、すぐに目当てのページを見つけることができた。
「なんか、見つけたのかい?」
カルラがお茶をテーブルに置き、尋ねてきた。顔には希望の色が浮かんでいる。
「ちょっと待ってね、母ちゃん、今読んでるから」
ページには、こう書かれていた。
『ホルドラとソソは、もともとは同じ身体を有していた。彼らは同じ神だったのだ。しかし、ある時断絶の神の怒りを買ってしまった。彼らは二つに切り分けられ、一生交わることがないよう、別々の木に姿を変えられ、地上に落とされた。
現代でも、ホルドラの木の根とソソの実を混ぜると、断絶の神の怒りを買い、自身と世界との繋がりを隔てられてしまう。ソソの実はホルドラの木の根の毒性を無力化できるが、魔導師はこの二つを混ぜたものを決して口にしてはいけない。もし口にすれば、寿命が定まり、魔力との縁も切られてしまうだろう』
「……こんなの、知らなかったんだけど」
リャットがつぶやくと、シャイアドも頷いた。
「もしかしたら、昔反魔導師組織がこの事実を知って、魔導師に盛ったのかもしれない。だから歴史の闇に葬り去られたとか……ほら、もう二度と繰り返されないように」
「だとしたら師匠、とんでもない本を俺らに託したんだな……」
シャイアドが曖昧な返事をしたので、リャットは「どうかした?」と尋ねる。シャイアドは「大したことじゃないんだけど」と前置きをしてから、こう続けた。
「あの病気は、身体中の魔力が世界そのものに抜け落ちてしまって、世界や身体からの魔力の供給が追いつかなくなるから発症するの。で、治療法はここに書かれてるような、身体と世界の繋がりを断つという栓をして、魔力を体内にため続けるというもの……。その、赤き呪いは、絶えず世界から魔力を得られる魔導師には発症しないのかなって」
リャットにはイマイチ理解できなかった。浮かない顔をしていると、シャイアドはわかりやすく説明してくれる。
「魔導師の長寿は、世界と身体の隔たりをなくして、魔力を自分の力で血みたいに循環させるから実現できることでしょ? 一方、赤き呪いは、勝手に世界と身体の隔たりがなくなっちゃった非魔導師が、自分の力で魔力を循環出来ないがために罹る……。だから、もともと世界と身体とに隔たりがない魔導師は、罹りようがないよね、ってこと」
「ああ、確かに」
しかしリャットは、今はそんなこと関係ないような気がした。優先すべきは兄の治療である。リャットの言いたいことを理解したのか、シャイアドは少し下を向いて「ごめん」とつぶやく。
「いや、いいんだよ。帰ったら、師匠に話そう。その話は今の俺たちには手に負えないからさ」
頷いたシャイアドは、気を取り直して「とりあえず、ソソの実はたくさんあるみたいだから、ホルドラの木を探そう」と提案した。リャットはそれに素直に賛同する。
「母ちゃん、この近くの森にホルドラの木、あったよな?」
二人のパンを勝手に食べていたカルラは、顔を上げた。
「ああ、あるよ。あれ、でも最近は数を減らしてるねえ、見つけるのはちと辛いかもしれないよ。あんたら魔導師さまだろ、魔法でちゃっちゃと見つけられないのかい? それかここに生やすとかさ」
リャットは苦笑すると、ゆっくりとかぶりを振った。
「見つけられはするけど、流石にまだここに生やすのは無理だよ」
「なんだ、見つけられるのかい。それなら是非あたしに見せておくれ」
「……見られると緊張するけど……まあ、しょうがない、いいよ」
リャットとシャイアドは、ホルドラの木を探す魔法の準備を始めた。
シャイアドが懐から一粒のまんまるいヒュール石を取り出すと、机の上に置いた。カルラはその真っ黒い宝石をまじまじと見つめる。
「なんだい、こんな黒い石、存在したんだね。なにか特別な石なのかい?」
無視すればいいのに、シャイアドは親切に答えた。
「はい、この石は別名『嗅覚石』と呼ばれていて、探し物に便利な石なんです。魔法をかけないと探し物は出来ないんですが、最近は研究が進んでて、王都なんかでは一般人も使用できるヒュール石が出回っているようですよ」
その話に食いついたカルラの相手をシャイアドがせねばならなくなり、リャットは無自覚にしつこい母に呆れつつも、代わりにヒュール石に魔法をかけた。
『やあ、ヒュール、番人よ、向こう側の鼻良き者よ、あなたは私の恋人を見つけるだろう、どうか私がもう一度あの人と共にあれますように』
呪文は成功したらしい。石はわずかに揺れたかと思えば、机の上から飛び出し、まるで坂道を転がり落ちていくかのような動きで部屋の外に出た。リャットは慌てて後を追い、石に先行して扉を開けるなどして障害物を退けた。もう少し速さを遅くすればよかったなと、畑を走り回る石を走って追いかけながら少しだけ後悔した。
かなり走った。石は森へ藪へと突っ込んでいったので追いかけるのに骨が折れる。やがて息が完全に切れそうになった時、やっと石は止まった。リャットは安心して気が緩んだのか、盛大に根っこに足を引っ掛けて転んでしまった。すぐに起き上がって周りを見る。よかった、誰も見てない。
リャットは藪の手前に転がっていたヒュール石をじとっと睨みつけて拾ってから、顔を上げた。そこには片手で折れそうな細い幹と本数の少ない枝、天辺にだけ生えた葉──ホルドラの木があった。先の神話を読んでからこの木を見ると、なんだか干からびた人のように見えなくもない。元が神さまであったというあの神話を生み出した先祖たちの気持ちがわかるような気がする。
さて、根っこを掘り出したいのだが、先にも述べたようにホルドラの木の根は猛毒だ。素手ではもちろん、手袋をはめても触れることすらできないほど毒性は強い。もちろん採取用の魔法もあるのだが、これにも道具は必要で、手ぶらで走ってきたリャットは何も持っていなかった。
十分くらい休憩してから、「一度戻って道具を用意してくるか」とため息混じりに立ち上がって道を戻ろうとすると、遠くからシャイアドが「リャットー?」と呼ぶ声が聞こえた。リャットも現在地を叫んで伝えると、数分経ってシャイアドが姿を表した。──手に小さな水瓶を持って。
リャットはシャイアドにヒュール石を返すと、手に持っている水瓶を指差して、笑みを隠し切れないまま「それってもしかして」と尋ねる。シャイアドは苦笑して頷き、さらにポケットからひと組の手袋とスコップも取り出した。
「塩水と、手袋と、スコップ。ホルドラの木の根っこ採集セット。急いでたから手袋はひと組だけなんだけど……わたしが持ってきたから、リャット、やってくれる?」
「ああ、もちろん。それにホルドラの木の根っこって掘り返すのに結構な力いるしな。俺が適任だろうし……あ、でももちろん帰らないでよ、万が一魔法が切れたとき、すぐ処置できるのはシャイアドだけなんだから」
シャイアドはおかしそうに笑った。
「帰らないよ」
「うん、そうしてくれると助かる」
早速リャットは作業に取り掛かった。
『果てなき天と底のない海を渡る偉大なる神々。今我が手は、海の寵愛を受ける』
呪文を唱えながら、塩水をホルドラの木のてっぺんにふりかける。それから手袋にも塩水を浸し、手と手袋に息を吹きかけてから地面を掘り返した。
「あー、塩水のせいで手が痒くなってきた」
リャットがつぶやくと、「真水も持ってこようか?」とシャイアドが応えた。しかしリャットは応急処置要員がいなくなるのが怖くて首を横に振る。
それから五分くらい掘っていくと、根っこが顔を出した。リャットはスコップを突き立て、手で強く引っ張って、やっとホルドラの根の採取に成功した。汗を拭おうにもまじないをかけていない顔にホルドラの木の根を近づけるのは恐ろしい。肩で汗をぬぐい、シャイアドが後片付けを終えるのを待ってから、二人で帰った。ここら一帯はリャットの庭のようなもので、迷うことはない。すぐに家にたどり着き、子ども達の手に届かないようなところで厳重に天日干しにした。
「これ、干して煎じるまでもあのまじないをかけなきゃいけなかったりする?」
リャットがシャイアドに尋ねると、シャイアドは植物図鑑を開いて答える。
「いや、水分を抜いたら多少毒気は消えるみたいだよ。触ったら痛痒い湿疹が出る程度だって」
それはそれで嫌だ。おとなしく、まじないにすがっておこう。シャイアドは植物図鑑から目をそらさずに続けた。
「5年くらい乾かしても毒性は完全には消えないらしいけど、まあ、その毒性をチャラにする実を使うわけだから、乾燥を助ける魔法を込みで……そうだね、三日くらいでいいと思う」
三日か、とリャットはつぶやいた。
三日で、兄が治るのだ。
二日目の晩、ガラルが大きな発作を起こした。あの穏やかな兄が、声にならない苦痛の悲鳴を上げ脂汗をかいて悶える姿は、どうしても受け入れがたい。リャットはまともな思考ができなくなり、母とシャイアドが対応しているのを唖然として見つめているしかなかった。
幸い、シャイアドがガラルに魔力の動きをコントロールできる呼吸法を教えたことによって、発作は和らぎ、なんとかことなきを得た。丹田を意識するこの呼吸法は普段の症状を和らげはしないが、発作は抑えてくれるらしい。兄は、声も出ない様子でシャイアドにもたれかかっていたが、やがて疲れ切ったのか気を失うようにして眠りについた。このまま治せずにいたら、もう長くはないだろうと、その場にいた皆が身に染みて理解した。
翌朝二人は日が昇る前にホルドラの木の根を回収し、煎じてソソの実と混ぜた。作っている途中、息が詰まりそうなガスが発生し、死ぬ思いをしたが、兄のためだと自分に何度も言い聞かせて乗り切った。たとえこれで寿命が定まってしまっても、それでいい気がした。もとある形に戻るだけなのだから。
人の行いは、足掻きの先にいつか必ず途切れてこそ許される。途切れた後に残ったものを、次の世代が受け継ぎ、そうやって世界を回していく。リャットはそう思っていた。だが、魔導師になれば本来自分が見れるはずのなかったこの世界の未来を見れるかもしれないと知った時、心の隅に、「許されなくてもいいから、どうか見れなかったものを見届けたい」という願望が、水に投げ入れた木片のように突然浮上した。
今では魔導師になるため日々努力し、長寿を得ようとしている。それに一抹の罪悪感を感じていたリャットは、運命に任せることにした。ここで何かあれば、潔く魔導師になるのをやめるか、あるいは本来の寿命を受け入れよう。
しかし、ホルドラとソソの薬が出来上がったとき、リャットの身体は異変を訴えるどころか、興奮に震えるほど生き生きとしていた。
それに、シャイアドに使えなかった魔法を、リャットは使えてしまった。
この二つの植物を使った薬を作る時は、魔法をかけながらかき回す。これがまた魔力の量や渦の具合を調整しながら行わないといけないので、シャイアドには難しかったらしい。
だがリャットには、昔から、目に見えない何かを、自身の周りに存在する何かを掴むことができるような感覚があった。その感覚が”魔法”の根源であると知ったのは、ヤームルの家で変な魔法を偶発してしまったときだ。あれ以来、自分にはどんな魔法も、大抵は感覚的に行える。座学はからきしで、その分野はシャイアドの方がずっと得意ではあるが、魔法の実技は、リャットの得意分野だった。とにかく、自分と魔法とが、どうも全く別のところにあるものだとは思えないのだ。
あっさりと出来上がってしまった薬を見下げ、ああ、そうか、と苦笑を浮かべながら、リャットはそれをシャイアドに渡した。
「兄貴に、飲ませてやって」
それだけ告げると、リャットはくるりと背を向け一目散に川へと走った。薬を受け取った時のシャイアドの、変な顔が脳裏に浮かぶ。俺は何をしているんだろう、と、リャットは心の中でつぶやいた。今はとにかく、頭を冷やしたい。沢へとおどり出ると、そのまま倒れ込んで川へと飛び込む。秋の、枯葉に抱かれる山に流れる川の水は、身体の芯が縮むような冷たさだった。
(師匠にあんなこと言ったけど、俺、バカみたいだなぁ)
あの時、まるで兄に生きる価値がないと言われたみたいで言い返してしまった。だがいざこうして冷たい世界に包まれていると、頭の様々な思考が波を引くように静かになっていく。
魔法が生命の冒涜になるとは思わない。それでも、魔法と禁忌とは、常に隣り合わせにあるような気がした。昔、シャイアドがローバリの魔法観を教えてくれたが、まさにその気持ちだった。畏れ──まったくよく言い表した言葉だ。この、うなじから背骨を抜き取られてしまいそうな、抑えようのない恐怖を呼ぶ名前を知らなければ、どうにかなってしまいそうな気がした。
今は、魔法を使うことは正しいだとか、そうでないのだとか、そういうのはわからない。いや、きっと答えなんてこの自然界には用意されていないのかもしれない。
それでも、このぐちゃぐちゃとした何かを抱えて生きていった先で、何かが見える気がした。畏れを、何かに昇華できる気がした。
どうしようもなく、見てみたい。リャットは、天辺に登った太陽の光を水面越しに眺めながら、俺は、どんなに拒絶しようとも魔導師なんだな、と、ぼんやり思った。
薬によってガラルは確かに回復の兆しを見せたが、しかし完治したわけではなかった。
「……そういえば、本にも”回復の兆候”って書いてあったけど、完治とは一言も書いてなかったね」
シャイアドの言葉に、リャットはここ数日と比べ随分と楽に呼吸をしているガラルを見つめた。ガラルは、窓の外で元気に遊んでいる弟と妹たちを眺めていた。その目にはもう諦観は見えず、明日への意欲が見て取れる。
「やっぱシャイアドが最初に言ってたみたいに、何かの儀式が必要なのかなぁ……」
そう思って昨晩は本を読み漁ったのだが、それらしい儀式は載っていない。本に載っていなければ、リャットには何も思い浮かばなかった。
しかし、リャットが手詰まりの時、いつもシャイアドは思わぬ打開策を見つけてくる。
「……絶縁の儀式」
シャイアドのつぶやきにリャットが振り返ると、シャイアドは一瞬だけ顔をあげたが、目があうとまた考え込むようなそぶりを見せて続ける。
「絶縁の儀式っていうのは、普通、恋仲だとか、そういう”縁”を切るものなんだけど、今のこんなに回復したガラルさんにやれば、もしかしたら……」
「呪いと兄貴との縁を切るって?」
「いや、病や呪いは体の一部も同然だから、下手に切ろうとすると死んじゃうの。でも、世界とガラルさんとの縁を切れば……。ううん、ダメかもしれない、世界と切り離すなんてスケールが大きすぎるし……」
「俺そのものと世界ではなくて、俺の体と世界に流れる魔力を切れたりしないのかい?」
いつの間にか聞いていたらしいガラルが割り込んできた。どうやら、シャイアドが話した呪いについての知識を覚えているらしい。兄貴は小難しい話が好きだからな、とリャットは昔を思い出す。父から頭の痛くなるような変な話を、兄貴はよく聞いていた。
「確かにいい案だと思いますけど……絶縁の儀式は、対象が小さく、なおかつ分類がしやすいものほど成功率が高くなります。例えば、家族の縁だとか。だから、ガラルさんの体と世界に流れる魔力という複雑すぎる縁を切るのは……難しすぎるかもしれません」
シャイアドは柔らかく言っているが、つまりはサムドランほどの人物でもない限り死んでしまうのだろう。
だがガラルはすっと目を細めてリャットを見据え、「リャット、お前ならできるだろ?」と言った。
「お、俺? いや、俺、そんな難しい魔法、使ったことないし……」
危険な賭けに出て、兄貴を殺してしまうだなんてごめんだ、とリャットは心の中でつぶやいた。
ガラルの言動を見て、何やら意を決したような顔をしたシャイアドが、尻込みするリャットの腕を逃げられないように取る。
「ヤームルさんの家でリャットが使ったあの魔法。あれ、百五十年生きてるヤームルさんでさえ使えないやつだったでしょ。……いい加減認めなよ、”俺は素晴らしい魔導師だ”って」
「違う、違うんだよ!」
リャットは思わず叫んでしまった。外で遊ぶ子どもたちの楽しげな笑い声だけが、冷たい部屋に響く。シャイアドとガラルは何も言わなかった。リャットはこの際だと、自分の気持ちを素直に告げることにした。
「自分で言うのもなんだけど、確かに、俺に未知数の力があるのはわかる。でもさ、いつでもそれを引き出せるわけではないんだよ。それにいつもみんな俺じゃない何かを見てて、俺自身に目を向けてないだろ、こんなに不安定なのにさ! 何度も何度もお前にはできるって言われてきたけど、できないことだらけじゃないか! ……この間の試験だって、シャイアドはすぐに合格したけど、俺は三回も受け直した。そんな俺に期待を向けないでくれよ、買いかぶりすぎなんだよ、みんな。こんな俺のどこが素晴らしい魔導師だって言うのさ!」
リャットはまたどこかへ走りさろうと思ってシャイアドの手を振りほどこうとしたが、痛いほど硬く握られたシャイアドの手は離れず、どこにも行かせてくれなかった。
いつもより数段磨かれたシャイアドの目の鋭さに、騒がしかったリャットの頭の中は一気に冷たくなる。まるで、目の裏を押さえつけられているかのような眼差しだと思った。
「そんなに言うなら、今ここで出来ないことを証明して見せてよ!」
数えるほどしか聞いたことのない、シャイアドの大声。リャットは口を開けたが、喉が詰まって何も言葉が出てこない。
「ずっと……四年もの間、ずっとリャットを見てきたけど、あなたは間違いなく素晴らしい魔導師だ! それを否定したいなら、今、わたしの目の前で失敗して見せてよ! そのかわりこの儀式が成功したら、自分は素晴らしい魔導師なんだって、そうは思えなくても、間違いなく素晴らしい魔導師の卵なんだって、認めて」
むちゃくちゃだ、と思って、助けを求めるようにガラルの方を見たら、ガラルはふっと笑った。
「リャット、やれ。言ったよな、俺の命、お前に預けるって。失敗したって構いやしないさ、誰も、もちろん俺もお前を恨んだりしないよ。俺がただ一つお前に望むのは、諦めないことだ。魔導師であることを、失敗程度で諦めるな。素晴らしい魔導師である事実を、失敗なんぞで覆い隠すな」
「素晴らしい魔導師なのに、失敗してもいいのか」
ガラルは迷うことなく、「ああ」と頷いた。
「人は、凡そ万能ではない。……って、父さんから聞いた言葉、お前にもやるよ。神様じゃないんだから、どんな素晴らしい人だって失敗するんだ。……まあ、俺は、お前が儀式を成功させるって、わかってるけど」
リャットは、心のなかでつぶやいた。
(人は、凡そ万能ではない──)
……サムドランが言っていた。素晴らしい人間とは、失敗をしない人間ではなく、前に歩み続けられる人間だと。
ああ、残酷だ。
だが、同時に救いでもあった。
「……わかった。俺、やってみるよ」
随分長いこと考え込んでいたが、ようやくそう言葉にすると、二人は安堵の色を顔に浮かべた。
少し照れ臭かったが、シャイアドに向かって微笑むと、シャイアドも微笑み返す。彼女がいてくれれば、なんだってできそうな気がした。
シャイアドが提示した本に、絶縁の儀式について書かれていた。地面に魔法陣を書き、その上に対象者(あるいは対象物)を寝かせ、呪文を唱えながら”縁”に見立てた人形や模型を槌で叩き壊すのだそう。
家の床にリャットがソソの実とホルドラの木の根を混ぜたもので魔法陣を描くと、シャイアドが綴りの間違いを直してくれた。リャットは未だ他言語が苦手なので、いくつかの言語を話せるというシャイアドの存在はありがたい。それを伝えたら、「別に、小さい頃からいろんなところを巡ってたから、話したり書けたりするようになるのは普通だよ」と謙遜した。リャットは自信を持って、「いや、全然普通じゃないよ。むしろ滅茶苦茶にすごいよ」と断言した。ガラルもそれに乗っかってきて、二人してシャイアドを褒めちぎったのだが、顔を真っ赤にしたシャイアドはしばらくどこかへ行って、魔法陣が完成した直後に居心地悪そうにして戻ってきた。
「シャイアドちゃんは、褒められるのに慣れてないの?」
ガラルがそう尋ねると、シャイアドは先ほどのやりとりを思い出したのか、またなんとなく顔を赤らめた。そしていくつか深呼吸をしてから応える。
「マーリアには、それはまあやたらと褒めてもらって育ちましたけど、他の人には……」
「ウトラは? あの子も結構褒めるタイプだろ」
シャイアドは、今度ははっきりと顔を赤くした。
「ウトラ、ウトラね。最初は、ただ魔法が珍しいだけなんだろうなって思ってたんだけど、だんだんそうじゃないって気づいて……、最近、ウトラに対しては、マーリアと同じで、褒めてもらえるとすごく嬉しくなる、かな」
「リャット、お前も負けてらんないぞ」
ガラルがリャットの脇を小突いた。
「ああ、うん、俺もウトラを見習わなきゃな……」
顎に手を当ててつぶやくと、話題を変えたかったのか、シャイアドがすっかり乾いた地面を指差した。
「それより、ほら、儀式」
リャットは笑いながら、「そうだな」と応じた。
気を取り直して、ガラルに横になってもらい、人体を模した泥人形を置き、リャットは大きく息を吸って、ゆっくり吐いた。そして、自分に言い聞かせる。
「大丈夫、できる、俺にはできる」
兄を見ると、笑顔で頷いた。
できる、と思った。
『すべてを切るもの。すべての縁をつかさどるもの。今、我が兄ガラルの肉体と、世界に流れ、巡り、生み出す魔力が、あなたがたの御技によって、分断されますように』
すると、ガラルの周囲に張りつめるような魔力が流れた。冬の静電気のようなその嫌な雰囲気の中で、ガラルは心臓を抑え、体を丸めて悶絶し始める。
何か、間違えたとでもいうのだろうか。それとも──
リャットがあっけにとられ、立ち尽くしていると、横にいたシャイアドがリャットの槌を握るほうの手を取り、「大丈夫」と、一言、告げる。
考える暇などなかった。
リャットはただ『断絶よ、高き壁よ!』と叫んで、槌を振りかざし、泥人形を粉々に砕く。
どうか、どうか成功してくれ。
何度も何度も心の中で願った。
いや、成功するんだ。させてみせる。
頭の後ろの空間にあるような自分の魔力を絞り出すと、部屋中に稲妻が光った気がした。あたりが真っ暗だったような気がする。よく覚えていない。
リャットが正気を取り戻した時、部屋は静まり返っていた。槌は握ったままだ。
同じように放心していたらしいシャイアドが、我に帰ると慎重にガラルに近寄る。リャットもそれに続いた。
リャットは、体を丸めたまま動かないガラルの肩にそっと触れる。
「……ねえ、息」
シャイアドがつぶやいたので、リャットはすぐに兄の胸部を頭の方から覗き込んだ。苦悶の表情に歪むガラルの胸は、動いていない。
「そん、な、兄貴!」
リャットがガラルの肩を掴み、強引に体を起こすと、息をしていなかったガラルは一度ぴくりと痙攣して、激しく咳き込み始める。
「がはっ、げほっ、げほ、ごほ……」
「あ、兄貴、大丈夫か、兄貴!」
何度も咳き込んで、苦しそうにしていたガラルだったが、徐々に落ち着いてくると懸命に息を整えようとする。リャットは背中をさすった。
「ごほ、ごほっ……、あー……」
ガラルは少し意識が朦朧として、しばらくあちこちに目を泳がせている様子だったが、リャットの顔を見ると、徐々にその顔に生気が戻り始めた。
「リャット……俺、生きてるのか?」
リャットは、しばらく答えられなかったが、なんとか、「うん」と頷いた。それ以上何も言えなかった。ただただ何度も頷く。喉が熱くなって、目の前が滲んで、なんだかよくわからないが、兄が生きていることだけははっきりと理解できた。
よかった。よかった!
魔法は、成功したのだ!
「で、認めてくれるの?」
リャットが畑の作物の様子を見ていたら、シャイアドが後ろから声をかけてきた。振り向くと、あたりを見渡しながらこちらへ歩み寄り、隣に来たかと思えば一緒にかがんで畑に視線を投げる。
「ああ、素晴らしい魔導師だって?」
シャイアドは何も言わなかったが、そのことだということはわかった。手慰めに葉っぱを裏返したりする兄弟弟子の横顔を見ていたら、なんだか微笑ましい気持ちになってくる。
「約束は約束だからな。認めるよ、俺は素晴らしい魔導師……かもしれない」
「かもしれない……って」
腑に落ちない様子だったので、リャットは立ち上がり、清々しい秋晴れを見上げながら補足する。
「でも、これは確信してるんだよ。俺と、シャイアド、二人なら間違いなく素晴らしい魔導師だ。どっちが欠けてもよくない。シャイアドは座学が得意で、俺は実技が得意。ただそれだけのことだったんだよ、俺たち」
シャイアドは照れ臭そうに顔を歪めた。素直に喜べばいいのに、とおかしくなって笑ってしまう。
「何かができなくたってさ、お互い頼り合えばいいんだ。俺たち、結構いいコンビだと思うんだけど」
シャイアドは小さな声で、「……そうかもね」とつぶやいた。
「おおい、二人とも、母さんがソソの実でタルトを焼いたらしいぞ」
家のほうで、柵に体重を預けつつも自立しているガラルが手を振っている。恐ろしく回復が早いガラルに、二人は驚いていた。
「抜け落ちてった魔力は回復しないのかと思ってたけど、そうでもないんだな」
兄に手を振りながらリャットがつぶやくと、シャイアドは頷く。
「もともと、魔力ってのは体の中でエネルギーに変換されるものだからね。魔導師じゃなくても、日々魔力は体内で生み出されているし、消費もされてるんだよ」
「やっぱりシャイアドは物知りだなぁー」
シャイアドはまた「普通だよ」と言いそうになったのか、一度口を開きかけ、動きを止めた。しかし何か考えるそぶりを見せると、照れながら言った。
「ありがとう」
*
「やだやだやだ! リャット兄行かないで、やだぁ!」
三週間が経ち、サムドランの寄越す迎えが来る日になった。チルハが駄々をこねて、リャットの足に巻きついている。ガダもハーヤも混じってリャットのもう片方の足にしがみついている。
「行くなよ、リャット兄ちゃん!」
「行かないでぇー!」
それを見て、ルーが「こら、リャット兄さん困ってるだろ」と注意するも、あまり厳しい声色をしていないので全く効果がない。
リャットは嬉しそうな、それでいて困ったような、なんとも言えない顔をしていた。ガラルは苦笑して見守っている。
シャイアドが微笑ましげにその光景を見つめていたら、不意に手を引っ張られた気がしたのでそちらを見ると、カエンがもじもじと落ち着かない様子でこちらを見上げていた。
「どうしたの?」
「あのね……これ、チルハ姉と一緒に作ったの」
小さな手に乗っていたのは、木のビーズが連なったブレスレットだった。どうやら手作りしたらしい。ところどころ大きさが違っているが、それもまた味が出ている。
「わたしに、くれるの?」
カエンは、こくんと頷いてシャイアドの手に押し付けると、さっとガラルの後ろに逃げ隠れてしまった。
ガラルは意外そうにチルハのほうを見る。
「シャイアドちゃんのこと、なんだかんだ言って気に入ってたんだ?」
チルハは顔を瞬時に膨らませ、「勘違いしないで! ”ダメダメ”から”マシ”になっただけ!」と顔をそらす。
ガラルは笑いながら、「どうやらものすごく気に入られたみたいだから、また機会があったらおいで」とシャイアドに耳打ちした。シャイアドはぷりぷりと怒るチルハを見ながら、こくん、と頷き、そっと手にブレスレットをはめる。
すると、家の中から大きな包みとモナを持ったカルラが慌てて出てきた。
「ああよかった、まだ迎えは来てないんだね。はい、これ。あんたの好きなチーズに、ウチで焼いたケーキが入ってるから。道中二人で食べなさい」
「そんな、いいのに」
「子どもが親に遠慮してるんじゃないよ!」
カルラがリャットに押し付けると、モナが「あのね、にいちゃん、そのケーキ、あたしも焼いたの」と口を開いた。ずっと妹に兄だと思われてないんじゃないかと心配していたらしいリャットは、嬉しそうに「モナぁ」とこぼしながら小さな妹を抱きしめた。
「あ、ずるい!」
ガダがそこに加わり、ハーヤ、チルハと続く。カルラがルーとカエンを引っ張り込み、みんなでぎゅうぎゅう詰めになっている。ガラルが、横で見ていたシャイアドに手招いた。
「おいで、シャイアドちゃんも」
「え、でも……」
「もう、いちいちうるさいのよ!」
チルハがシャイアドの手を引っ張り、シャイアドは輪の中に半ば強引に入れられた。こんなにたくさんの人と密着するのは始めてだ。でもなんだか、嫌な感じはしなかった。
「リャット、シャイアドちゃんも、辛くなったらいつでも帰って来なさい」
シャイアドは、目の奥がじんと熱くなった。
この暖かさは、マーリアに似ている。
家族、というものを、シャイアドは理解した気がした。
屋敷に帰ってくると、サムドランは広間で一人、お茶を飲んでいた。二人がドアを開けるのと同時に、持っていたカップを机の上に置き、足を組んでこちらのほうへ顔をあげる。
「……お、随分といい顔をするようになったじゃないか」
「論文は書きあがりましたか?」
シャイアドが挑発的に言うと、サムドランは鼻で笑った。
「なに、もう必要ないからな、もっと有意義なものを書くことにするよ」
リャットはそんな二人のやりとりに少し苦虫を噛んだような顔をしていたが、気持ちを改めると一歩前へ出て深く頭を下げた。
「師匠、俺は、自分の手で兄を救うことができました。信じてくださって、送り出してくださって、ありがとうございました。口答えして、すみませんでした」
サムドランは居心地悪そうに、自分のよく手入れされた髪を撫で付けた。
「そう素直になられると反応に困るな」
シャイアドは、リャットは少しくらいサムドランの意地の悪いやり方に怒ってもいいんじゃないかと思った。サムドラン本人にもその自覚があるようなのだし。
しかし、すぐ、もっと話さねばならないことの存在を思い出す。
「そうだ、師匠、お話があります。赤き呪いの件なんですが……」
「ああ……まあ、座りなさい。赤き呪いのことは、十年ほど前にも、マーリアから聞いていた。こんなにも短いスパンで、発症が確認されたとなると……」
事情を知らないリャットは、眉根を寄せ「何かまずいことでもあるんですか?」と尋ねる。
「七百年前……多くの人が赤き呪いで死んだ。暗黒期といえば、赤き呪いなんだ」
”暗黒期の再来の可能性”というニュアンスを感じ取ったのか、リャットは目を見張る。シャイアドはサムドランから色々聞き出そうと身を乗り出した。
「なぜ、治療法が一般に広まってないんですか」
「……そりゃ、より多くの人が死んだからさ」
理解できなかったシャイアドが顔をしかめると、サムドランは自嘲気味に苦笑した。
「ホルドラとソソの薬の発見と、その薬と絶縁の儀式による赤き呪いの治療法を確立したのは、我が師匠なんだがな……。
赤き呪いっていうのは、世界の魔力バランスが乱れない限り、大量発生はしない。だが逆を言うと、赤き呪いが多発したということは、世界の魔力バランスが乱れたということになる。つまり、七百年前、世界は赤き呪いだけではなく、同時に異常気象や怪奇現象にさらされていた……人々の不安、不満が溜まりに溜まっていたんだな。そんなとき、師匠が現状に心を痛め、赤き呪いの治療法を見つけ、世間に広めた。……それが間違いだったとは思わないが、結果起きたのは、死者の急速な減少による深刻な食糧不足。
人間ってのはバカなもんで、せっかくお師匠に助けていただいた命を、争いに使っちまうようになったのさ。ま、戦わなくとも餓死が待ってるってのもあったんだろうが……。とにかく、やたらめったら人が死んでった。施しの剣によって全面戦争だけじゃなく全ての問題は解決されたが、残された我々魔導師は……赤き呪いの治療法を、隠すことにしたんだ。いつかまたあの地獄がやってきたとき、世界の魔力バランスの問題を先に解決しなければ、いたずらに人を救っても戦争の火種になるだけだと。今となっちゃ、治療法を知ってるのは、七百年前の当時を知るごくわずかな魔導師だけだ」
「……マーリアも」
サムドランは、鋭い眼光を緩め、その目に優しさを見せる。
「ああ、あの子も、七百年前から生きていた魔導師だから、治療法を知っていただろう」
マーリアからあの呪いの仕組みを聞いていなければ、今回の治療は絶対に行えなかった。シャイアドは胸が絞られる思いだった。ありがとう、その一言すら伝えることができない。ましてやごめんなさいなんて、持ち続けるには厄介な言葉だ。
「赤き呪いは、人々の持つ魔力を世界が呼び戻す作用とも言えてな……師匠は、赤き呪いなんかじゃなく、”呼び戻し”と呼んでいたよ」
横でリャットが、そういえば、とつぶやいた。
「魔導師は、発症しないんですか?」
サムドランは眉を上げ、「なんだリャット、お前いいところをつくな」と驚いたが、「いや、大方シャイアドの考察を聞いたんだろうな」とすぐに看破した。隠すつもりはなかった様子のリャットは、サムドランの言い方に口を曲げる。そんなリャットの顔なんて知らぬふりをしたまま、サムドランは続けた。
「その通り、魔導師は発症しない。だからかね、当時魔導師といったら金持ちの才能あるやつだけがなれるものだったんだ。私は金なんぞになびかない師匠のおかげで今こうして立派に魔導師をやっているわけだが……。とにかくだ、あのあたりからだな、”魔導師はみんな金に汚い”とか、”赤き呪いは魔導師の陰謀だ”とか言ってまとまってる反魔導師組織が出てきたのは。全くバカバカしいったらない」
色々苦労してきたのだろう、サムドランの口調はとげとげしかった。
「でも、魔導師は子を成しませんよね? 家名を守るのに必死な貴族や富豪が、たくさん魔導師になるとは思えませんけど」
シャイアドが突っ込むと、サムドランは少し寂しそうな顔をした。
「あの頃は家名だとかなんとか、言ってる場合じゃなかったからな。みんな生き残りたかったのさ。かく言う私も、人のことが言える立場であったかと聞かれると痛いが」
シャイアドとサムドランは静かな気分で口を閉じていたが、リャットだけは驚いたようにあちこち目線を泳がせていた。サムドランが「どうした」と聞くと、リャットは「あ、いえ、その」と少し迷ったのち、小さな声で呟いた。
「魔導師が子を成さないって」
「……魔導師は不老と引き換えに生殖機能を失う。と、あの村から連れてくる時にちゃんと断った気がするんだが?」
サムドランは明らかに呆れていた。
「う、すみません、はしゃぎすぎて聞いてなかったかもしれないです……え、でも、俺、将来子ども欲しいんですけど、無理なんですか」
サムドランとシャイアドは顔を見合わせ、やがてサムドランが大きなため息をつくと、首を振った。
「見習いの今なら間に合うぞ。魔導師、やめるか?」
「俺がやめられないってわかってて言うんですか!」
いつも講義を聞かないリャットらしい、とシャイアドは冷めた目で見ていた。
「というか、師匠は思ったことないんですか、結婚したいって、子ども欲しいなぁって!」
「あのな、リャット、魔導師はどういうわけか……というか、繁殖の必要性がなくなったと体や思考が判断するのか、結婚したいとも、子どもが欲しいとも、思わなくなるんだぞ」
「じゃあ、師匠は、人が……人が人を愛する気持ちは繁殖の必要性から来るっていうんですか……」
ショックを受けているリャットにサムドランは眉間を抑え、「お前は本当に……」と苦しげに呟いた。
「愛と繁殖を軽率に結びつけるな、馬鹿者が。全人類に謝れ。お前の中では子を成すことだけが愛なのか?」
途端、何かを悟った様子のリャットは何か考え込むそぶりを見せた。
「お前はまだ若いからなぁ、そのうちいろんな愛を抱くだろうよ。魔導師は、その中で”身体的に繋がりたい”という感情を抱かなくなるってだけだ」
サムドランが愛を語るのは少し意外だった。きっと彼にもたくさんの経験があるのだろうな、とシャイアドはぼんやりと思った。そして未だ考え込んでるリャットに、シャイアドは一つアドバイスを授ける。
「子どもというか、誰かを育てたいなら、将来的に弟子を取ればいいんじゃないの」
「あ、そっか……いや、そういう問題でも……うーん……。だけどまあ、確かに、そうするしかないんだろうなぁ」
「魔導師、続ける気になった?」と問うと、「まあ、どちらにせよやめられないし、今回の件で、自分にできることがわかったしな」とリャットははにかんだ。シャイアドも、満足げに笑った。
「そんなことより」
咳払いを一つしたサムドランは眼光をいっそう鋭くし、リャットを見据える。リャットは天敵に睨まれた獲物のように縮み上がった。
「全然座学が身についてないようだな、リャット! ちょっとこっちに来い、二人きりでみっちり特別講義をしようじゃないか」
ひい! とすくみ上るリャットを引きずって、サムドランはどこかへ行ってしまった。リャットの悲鳴が耳の奥に残っている。
物音の消えた部屋に一人残されたシャイアドは気を取り直して、少し前の話題に思考を戻した。
(暗黒期の再来の可能性があるとしたら……やっぱり、施しの剣がなくなったせいだよな……)
しかし、頭の片隅で何かがちらっと光った。シャイアドはそれがどこにも行かないように急いで飛びつくと、頭の中で言語化する。
(いや、果たして本当に、施しの剣がなくなっただけで暗黒期は再来するんだろうか? 施しの剣はどこか人知れない場所の地面に刺さっているというけど、七百年も大地と繋がり続けた剣が、引き抜かれた程度でこんなに世界に影響を与えるだろうか)
物や人の縁というものは、侮れないものだ。施しの剣の構造はさっぱりわからないが、それでも、宙に浮いていない限り世界に恩恵は与え続けられるだろう。
(……もしかしたら、施しの剣は、壊された……?)
シャイアドは首を横に振った。そんなことがあっていいはずがない。この仮説が正しかったら、今世界はどうしようもない危機に陥っていることになる。それにそんな危機的状況であったら、アーデラール議長や、サムドランがとっくに動いているはずだ。今のところ、そのそぶりは見えない。アーデラール議長に至っては、施しの剣の持ち主であるサントーシャムの弟子というのだし、きっとなんとかしてくれるはずだ。
しかし、シャイアドは、自分のした慰め程度の思考で、何か見てはいけないような物を見てしまった気がして、背筋が凍った。
動いた結果が、今だとしたら?
いや、違う、違う。そんなはずはない。
きっと、どこかの悪党が、金儲けのために剣を盗み、自分には想像もつかない方法でわざと恩恵を弱らせ、不足分を売りつけて儲けているのだろう。
今回の赤き呪いの事件がサムドラン経由でローバリに伝われば、ローバリもやっと重たい腰を上げて剣の捜索に乗り出すはずだ。
そうに違いない、とシャイアドは自分に言い聞かせた。
サムドランが先ほどの考えを聞いたら、”お前は考えすぎだ”と笑うのだろう。
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