第8話 家族
*
夏も終わりに近づいたある日の真夜中。ウトラは物音が聞こえたような気がして、目覚めた。夜更けまで雨が降っていたので、全身に湿気がまとわりついて不快だ。外でなんだか話し声が聞こえる。窓からそっと下の方を見てみると、なんとランギがそこにいた。向こうを向いていて、顔はよく見えない。そばには、まだ暑いというのに黒い外套を着た人間が立っている。二人の会話はよく聞こえないが、ウトラはなんだか嫌な予感がして、窓を開けた。驚くことに、外套の人間はウトラが見ていたことに気づいていたかのように顔を上げた。そしてまたランギに顔を向けると、何も言わずに踵を返す。去っていくのかと思って一瞬だけ安心したウトラだったが、その外套にランギも付いて行こうとしているのを見て、気がつくと身を乗り出していた。
「ま、待ってよランギ、こんな時間にどこに行くの?」
振り返ったランギはいつもと全く変わらない気さくな表情を浮かべ、夜中なのを考慮して囁くように応えた。
「急ぎの仕事なんだとよ。すぐ戻るから」
ウトラには、なぜだかそれが嘘だということが直感的に理解できて、ランギをなんとか引き止めなければという強い使命感が、ぽつりと胸に浮上してくる。
「嘘、違うんでしょ、仕事なんて嘘ついて、パパにも内緒でどこに行こうとしたの」
一瞬、ランギの顔から笑顔が消えた気がしたが、それはこの暗がりとまばたきのせいで見た幻覚なのか、そうでないのか、ウトラにはわからない。
ランギは少しだけウトラを見つめてから外套を振り返ると、その人が頷いて歩き去って行くのを見届けて、観念したように顔をウトラのほうに上げた。
「お嬢、大事な話がある。ちょっとだけ、降りてきてくれないか」
ウトラは頷いて、物音を立てないように努めながら急いで外へ出た。外はより湿気があって、なんだか水の中で溺れてしまうような嫌な空気だ。ランギは、何かを諦めたような目をして、明後日の方を見ながら考え事をしているようだった。初めてランギと出会った時を思い出すような顔だとウトラは思った。
「お嬢、俺、色々あってさ。本当の親父の、知り合いの家に行くことになったから」
わけがわからなくて、唐突のことすぎて、思わず苦笑してしまった。
「ランギの、お父さんの、知り合いの家に? ランギは、私のお兄ちゃんでしょ、パパとママの、息子でしょ?」
「ああ、これまではな」
ランギの静観したような顔と声色に、ウトラは恐ろしくなった。どうして、一体なんで? 昨日までは、寝る前までは、あんなにいつも通りだったじゃないか、そんなそぶりなんて見せなかったじゃないか。そんな悲しいこと、なんでもないような顔で、言わないでよ。
「ランギは、この家から離れるのが、そんなに嬉しいの?」
自分でもよく聞き取れないような声だった。しかし、ランギには届いたらしい。少しだけ、視線が揺れたのがわかる。
「……いいや」
「じゃあ、いいじゃん、この家にいなよ、ランギ! 私たちにはあなたが必要なんだよ、どこにも行って欲しくないの! 仕事だって、パパに腕を買われるくらいなのに、なんで、わざわざそんなこと……!」
ランギは冷静だった。
しがみついて離れようとしない妹の目を見据え、感情が落ち着くのを待ってから、諭すように、ゆっくりと口を開く。随分優しい声だった。それでも、頭の芯が冷え切ってしまうような、変な力がにじみ出ていた。
「あのな、お嬢。俺には、ふさわしい運命があった。俺が本当に生きるべき道は、鍛冶屋の”ランギ”じゃなくて、あっちだったんだ」
「何を、言ってるの」
「ウトラ、俺の本当の名前はランギじゃないんだ。俺の、本当の名前は──」
聞いてしまったら、ランギがいなくなってしまうと思った。ウトラが耳を塞いでうずくまると、ランギが苦笑したような気がした。
「……俺、ずっと、妹が欲しかったんだ。守るものが欲しかった。守るものがあれば、変われると思った。実際、俺はもうすぐで完全に変われるはずだった。”ランギ”に、なれるはずだったんだ。本当に、もうすぐだったんだけどな……」
”ランギ”が立ち去る足音が聞こえる。ウトラは受け入れられなくて、どうか夢であってほしいと願いながら、目から溢れる涙を必死に拭った。これは、悪夢だ。目が覚めれば、いつも通り、早起きのランギに「お嬢、おはよ」と挨拶されるのだ。
覚めろ、覚めろ、覚めろと何度も呟いた。しばらくずっと、そうしていた。
ベッドの上で目が覚めても、ランギがいなくなったあの出来事は、夢ではなかった。
父はいつかこうなることがわかっていたかのような反応だった。しかし、誰の目から見ても気落ちしているのがわかるほど、ランギの失踪はショックだったらしい。ため息ばかりついて、空になったランギの席を寂しそうに見つめるのだ。一方、母は凛とした表情でその事実を受け止めた。そんな予感がしていたのか、あるいは、キャラバンの娘で世界中を旅してきた彼女は、人との別れに際してどのような心で挑めばいいのか知っていたのか。もしかしたら、血が繋がってないとはとは言え、息子の巣立ちを感じ取っていたのかもしれない。しかし、エマは三日ほど寝込んだ。彼女にとっても、ランギは実の息子のようなものだったのだ。
街中の人が、ランギがいなくなったことを嘆いた。しかし街は依然としていつも通り機能している。みんな悲しそうな顔はしたが、それでも変わらず世界は回った。
ウトラは初めて、シャイアドの悲しみの片鱗を味わった気がした。彼女は世界の中心を突然亡くし、その人の死の悲しみを分かち合うこともできない全く別の場所に、それまで生きてきた世界とは違う軸で回る世界に、一人で放り込まれた。それなのに彼女は懸命に生きている。
いろいろな感情に流されそうになった。押しつぶされてしまうかと思った。まだあの時の嫌な空気に溺れているのだ。
ランギの言葉が耳の中でこだまする。運命がなんだというのだろう。なんでそんなものに従わなければならないのだろう。どうして悲しいものに向かい合わなければならないのだろう……。
ウトラを心配してわざわざ訪ねてきてくれたシャイアドを見て、ついにウトラは泣き崩れた。
*
秋も深まったある日、リャットの元に家族からだという一通の手紙が届いた。このご時世、手紙の規制も厳しい上、数ヶ月に一度やってくる家族からの手紙はつい二週間ほど前に届いたばかりであったので、不思議そうな顔をした彼が開くと、みるみる顔色が悪くなる。
「どうした、リャット」
サムドランが珍しく気遣わしげに尋ねたところ、リャットは信じられないと言いたげな顔で首を振った。
「あ、兄貴が……兄が、倒れたって」
「あんたの家は確か、今はお兄さんが家をまとめてたな」
「はい、妹弟たちはまだ幼いし、母さんもそいつらの相手で忙しいし……」
リャットは言わなかったが、兄に全てを任せて家を出てきたことを悔いているようだった。落ち着かないように髪に手を伸ばし、手紙と床を交互に見ている。
サムドランはそんなリャットの顔を見て、何かを考える。懐から薬草を詰めたパイプを取り出すと、指先に灯った火で燃やし、くゆらせたので、あたりに甘い匂いが漂った。この匂いは気分を落ち着けて頭の中を明瞭にさせるものだ。きっと副流煙でリャットを落ち着けようとしているのだろう。
「よし、リャット。お前さんに一つ試験をやろうじゃないか。これをパスできりゃ、この間言ってた魔法を教えてやろう……なんだったかな、力の働く方向をずらす魔法だっけか」
リャットが不審がって顔を上げると、サムドランはリャットに対して挑戦的に笑った。
「明日から三週間、あんたのお兄さんの病を治してみせろ。ただそれだけだ」
あんまりにも無謀な試験内容に、リャットが顔を曇らせる。
「そんなこと、できるはずが……手紙にもありますけど、兄は不治の病に罹ったって……無理ですよ、それこそ師匠くらいにしか……」
「不治の病つったってな、リャット。農村部の言うソレは、たいてい王都にいるお偉い医者に診せりゃなんとかなるものだぞ」
リャットは、その身に秘めた能力は超一流だというのに、いまいち自信に欠けるところがあった。以前、サムドランが「あいつが自信たっぷりになれば、アーデラールに負けないのになぁ」と嘆いていたのを思い出す。なんとか自信をつけさせようと奮闘していたが、リャットの根幹部分になる何かがそうさせているのか、肝心なところでは物怖じしてしまう。
「なら師匠が治してくださいよ、その方が安全だし確実です!」
「私はこのことには関わらん。万が一お前さんが治せなくても、私は一切手出ししない」
「人の命を弄ぶなんて……!」
リャットが悔しそうに歯をくいしばると、一方のサムドランは小馬鹿にしたように笑った。
「弄んでいるのは魔法のほうだ。本来病は命があるべきところへ戻るためのきっかけにしか過ぎない。そうだと思えば、医療も魔法も、重大な冒涜になるとは思わないか?」
サムドランの主張にどこかひっかかるところを感じたシャイアドは、その違和感を手繰り寄せて、なんとか正体を掴む。そうか、あの本で読んだ一節だ。だとしたらサムドランはなんていじわるなことをするのだろう。シャイアドは思わず口を挟んでしまう。
「師匠、リャットをいじめないでください。その議論は五百年前に行われたものですよね、それに当時のアーデラール議長が、人が生を望むことは限りなく尊いことで、冒涜にはあたらないと結論を出したはずです」
おどけたように肩を竦ませたサムドランは、「シャイアドは怖いな」とつぶやく。さては最初からこの指摘を待っていたなと薄々勘付いたが、それをさらに指摘するのもなんだか癪なので黙っておいた。
「でも、まあ、私はリャットが必ずお兄さんを治せると踏んで誓ったんだ、なにも弄ぶ気なんてこれっぽっちもないよ。誰かがすでに水をやった花に、さらに水をやる必要はないだろう?」
「そんな……俺……」
一気に不安に駆られたリャットに呆れたのか、サムドランはソファーにどっかりと座り込む。そうしてからシャイアドに顔を向けた。
「シャイアド、リャットと一緒に行ってあげなさい。物事を客観的に見れるあんたなら、暴走しがちなリャットを止められるだろう。ま、あんたは少々当事者意識が足りないところがあるけどな」
「ちょっと、一言多いですよ……。一緒に行くのはいいですけど、その、リャットの家族しかいないんですよね」
「私が援助していると言っても、税をなんとか収められる程度だからな。使用人を雇う余裕なんてないぞ」
「俺の家、全員で十人家族で、今家にいるのが俺と嫁いだ妹以外の八人だよ」
そこが、唯一の懸念材料だった。
「……ウトラの家は、なんていうか、特殊な状況だったから大丈夫だったんですけど……リャットとその血縁者九人に囲まれて過ごすのは……その、アウェイすぎるというか」
「そうか、シャイアドは自身の血縁者の存在すら知らないからな。血で繋がった家族、それも大人数に囲まれる上に自分だけ赤の他人というのは、確かに……キツいな」
サムドランもリャットの実家へ訪問した場合を想像したのか、口を曲げた。もともとサムドランも人付き合いが好きな方ではない。完全に「こちら側」だと思っていたのだが、しかし、淡い期待はあっけなく我らが師匠に踏みにじられた。
「だがこれは師匠命令だ、拒否権は認められん。さっさと腹くくって行ってくるんだな」
シャイアドが不満たっぷりに「鬼」とつぶやくと「ははは、言うようになったな」と軽くあしらわれる。どうやらまだこの魔導師には到底かなわないらしい。
「シャ、シャイアド、そんな顔すんなよ、俺の家族みんな愉快でいいやつばっかだからさ」
リャットの申し訳なさそうな顔を見て、シャイアドの方にも、こんなにわがままを目の前で言って申し訳ないという感情が湧いてきた。リャットに罪はない。悪いのはサムドランだ。
「……愛想がなさすぎて、気まずい空気にさせたらごめん」
「大丈夫だってばー。母さんなんか頼んでもないのにずっと喋ってるし、みんな本当に細かいことは気にしないからシャイアドもすぐ打ち解けるよ」
だといいのだが。
シャイアドは煮え切らない返事をして、支度をするために部屋に戻った。
シャイアドが服などをまとめていると、部屋の壁にかけてある食虫植物の絵が喋り出した。
「サムドラン様がお呼びですよ」
「書斎で?」と尋ねると「いえ、先ほどいらっしゃった広間の隣のお部屋です」と答えたので、一体何の用事だろうと指定された場所へ向かった。荷物をまとめるのはまた後にしよう。
「師匠、私です、入りますよ」
部屋のドアを叩いたら中から返事が聞こえたので開けると、さっき座り込んだソファーに未だ座っているサムドランが、何やら神妙な面持ちでお茶を飲んでいた。
座るように指示されたので、おとなしく目の前のソファーに座る。サムドランの表情は浮かないままだ。何か叱られるのだろうかと内心身構えていたが、「叱るつもりで呼んだわけじゃない」と心を読まれ、そのままお茶を勧められたので手をつけた。体が温まる効能のお茶だ。
お茶の香りと味を楽しみながらサムドランが喋り出すのを待っていたが、当の本人は真っ暗な窓の外を眺めており、口を開く気配がなかった。
「あの、師匠──」
荷物をさっさとまとめたいシャイアドが口を開いたところで、サムドランはやっと、手に持っていたカップをテーブルに置く。そして、遠くを見つめたままぽつりぽつりと語り出した。
「私の最初の弟子は、お前さんたちよりもっと幼い少女だった。彼女は今でも王宮に住んでいる。……彼女に聞いたんだ、なぜ魔導師学校ではなく、私に弟子入りしたのかと。そうしたら、『私は魔導師学校なんぞに収まる器ではないと思った』なんて言い出してな。正直なところ、彼女の本質はそこまで有能な魔導師ではなかったのだが……そのたゆまぬ努力と絶対的自信で、国王の専任魔導師にまで登りつめてしまった」
サムドランが何を言いたいのか、シャイアドは考えた。思い出話をするようなタチではないし、何かの教訓だろうか。おそらく、自信を持てと。十中八九それだな、とシャイアドは思った。
「私が思うに、自信とは全ての根幹に関わるものだ。才能がなくても、自信さえあれば人並み、いいや、それ以上の結果をもたらす。逆に言えば、自信がなければ、全てを持っていたって意味がないんだぞ」
「……さっき、私が離席した後にリャットと何か話したんですか?」
サムドランは頷く。
「お前たちはどうやら、お互いがお互いに劣等感を抱いているらしいということがわかってな」
思ってもみなかった言葉に、シャイアドは己の耳と脳みそを疑った。お互いが、お互いに、劣等感? そんな、まさか。リャットがシャイアドに劣等感を抱くなど考えられない。
「そら、その顔だ。お互い敬いあうのは大変結構なことだが、自分自身の位置をもう少し高く設定したほうがいい。お前さんらがいる場所は地獄だぞ。時空も歪んでる」
「あの、話が掴めないんですけど……」
リャットは一体サムドランに何を言ったのか。もしかしたらリャットは、自己肯定感が低すぎるあまり、手当たり次第他人を見上げているのだろうか?
しかし、どういうわけかサムドランはまた心底呆れたような顔をする。
「重症だこれは。ああ、どうしてこうなってしまったんだか。よし、次に発表する論文の題が決まったぞ、『相対的価値観の形成に起因する若者の自己肯定感の著しい低下』だ」
「なんだかものすごく馬鹿にされた気がするんですが」
サムドランがしたり顔で「そりゃ馬鹿にしたからなぁ」と認めたので、シャイアドは一度目を閉じ、精神を落ち着かせた。この老人にいちいち怒っていたらキリがないと、最近理解してきたじゃないか。
「まあ、とにかく……今回の試験は、シャイアド、あんたの今後にも深く関わってくるだろうよ。リャットに自信を持たせつつ、自分自身も、リャットの家族の中で絶対的価値観を学んで来なさい」
絶対的価値観。
今のシャイアドにはなんのことかイマイチ理解できなかったが、この試験で、理解できるようになるのだろうか。
とりあえず、明日は早い。さっさと支度を済ませて、早く寝てしまおう。
リャットの実家はサムドランのいる街とは真逆の方角に存在していた。完全な内陸部であるあの街とは違い、リャットの実家は比較的海に近い村にあった。海に近いと言っても、歩いて海にたどり着くには嫌になる程距離があり、いくつか森も挟まって来るので塩害などによる支障はない。また村自体もとてつもなく広く、国の最奥部でかつ沿岸は到底船が寄り付けないために、あの街の何処か冷たい雰囲気とは違いのどかで平和な空気に満たされていた。ちらほらと見かけた村人も、税の強化や不作に悩まされ疲れた顔をしていたものの、他人への思いやりを忘れた様子はない。里帰りをするリャットに暖かい言葉をかけ、シャイアドの髪を見ても、物珍しげな顔はするものの、ローバリとアズドルの諍いを知らないのか、あるいはローバリ東部の人間を知らないのか、何も言わなかった。
そして、リャットの家族は、とにかく愉快だった。
まずリャットの実家に着くと、家族全員で迎えてくれた。下の子数人がリャットに抱きついたりシャイアドの手を引っ張ったりして、シャイアドは大いに困惑する。そういえば、小さい子と接したことがあまりなかったことを思い出した。
「あなたがシャイアドちゃんかい。話はサムドランさんから聞いてるよ。いつもリャットが世話になってるね、私はこの子の母親、カルラだよ」
笑った時にできる小じわが可愛らしい女性が、女の子を抱えながらシャイアドを抱きしめた。包容力のある腕だ。子どもたちはみんな、このお母さんのことが好きなんだろうなと思った。
それから子どもたちがいっぺんに名乗ったので、シャイアドは頭がパンクしそうになったが、リャットがお兄さんらしく叱って一人ずつ手で示しながら紹介してくれた。
「えーと、上からルー、チルハ、ガダ、ハーヤ、カエン、モナ。やんちゃざかりだし、遠慮なく叱っていいからな」
ルーは控えめだが聡明そうな十四歳くらいの男の子、チルハは可愛らしいおませさんな十一歳くらいの女の子、ガダはいたずらが好きというのが顔から溢れ出ている九歳くらいの男の子、ハーヤは明るい笑顔の似合う元気な八歳くらいの男の子、カエンは照れ屋で甘えん坊の六歳くらいの女の子、モナはカルラに抱えられている四歳くらいの小さな女の子だ。
「リャット兄ちゃん、帰って来てくれたのか!」
ガダがリャットの体によじ登りながら喜び、リャットも久しぶりの家族に抱き上げて応えた。
「おう、四年ぶりか? でかくなったな、ガダ」
久しぶりの兄に各々が嬉しさをぶつけていると、カルラがモナを下ろしてリャットの前に進ませた。
「ほら、モナ、リャットお兄ちゃんだよ」
「……かあさん、このひと、おにいちゃんなの?」
これには流石のリャットも深く傷ついたようだ。斬りつけられたかのようなうめき声を出し、少しふらついたが、なんとかこらえてしゃがみ、モナと目線を合わせる。
「モナ、おまえは覚えてないだろうけど、俺はモナのこと覚えてるよ。大きくなったね、前はあんなに小さかったのに」
事情がよくわからないシャイアドに、カルラが「リャットが出てったのがこの子がまだ生まれたばっかりの頃でね。覚えてないのも当然だよ」と耳打ちした。
急に不安に駆られたリャットは妹と弟全員に確認を取る。随分と必死な顔をしているのだなと思った。妹や弟に覚えられてないのはそんなにショックのことなのだろうか。
「みんな俺のこと覚えてるよな? 特にカエン、おまえはまだ二歳だったし……」
カエンはシャイアドの手をずっと握っていたが、リャットに尋ねられてシャイアドの影に隠れつつもこくんと首を振って頷いた。
「うん……なんとなく覚えてるよ。リャット兄ちゃんが食べさせてくれた花の蜜、カエン大好きだもん」
なんとなく、という言葉に素直に喜べない様子のリャットだったが、チルハとガダに猛烈な歓迎を受けていたので寂しさも薄れ始めた。
「リャット兄のばか! もう帰ってこないと思ってたのに!」
チルハの拳を体で受け止めつつ、「ごめ、ごめんて、痛!」と悲鳴をあげて、リャットはガダを背負ったまま逃げ出した。カエンとはまた逆のシャイアドの手を掴んでいたハーヤが面白がってそれを追いかける。
そんなリャットたちを不思議そうな顔で見ていたシャイアドに、一人だけ静かに横で見守っていたルーが声をかけた。
「どうされましたか?」
「ああ、いや、その……リャットにも家族がいるんだなって思って」
ルーが「そりゃいますよ」と笑って、そうなのかとシャイアドは思った。言われてみれば、人は二人の人間の元に生まれる。そして、一人では生きられない。
シャイアドは妙な気分になりながら、はしゃいでいるリャットたちを遠目に眺めていたところ、カエンが「ねえ、お姉ちゃんも魔法を使えるの?」と小さな声で尋ねて来た。
「うん、ちょっとだけ」
「じゃあ、ガラル兄ちゃんを助けてくれるよね……?」
不安を目にためてすがるように見上げてくるカエンに、シャイアドはしゃがんで目線をあわせ、できるだけ自然に微笑みかけた。
「一番上のお兄ちゃんのことだね? 大丈夫、ガラル兄ちゃんの病気は、とってもすごいリャット兄ちゃんが治してくれるよ」
「本当の本当に、治してくれる?」
シャイアドは一瞬だけ躊躇したが、すぐに思い直し、カエンの頭をぎこちなくもそっと撫でて断言する。
「治せるよ。だって私も、リャット兄ちゃんも、魔導師……魔法使いだもん」
そうは言ったものの、ガラルの病状を見た時、シャイアドは言葉を失ってしまった。
「ああ、リャット、久しぶりだな。元気にやってたか? そっちはシャイアドちゃんだね、俺はガラルだ。……こんな姿ですまないね」
本人は気丈に振る舞っているが、全身の皮膚がところどころ血のように赤くなっていて、手をあげるのにも激痛が伴う様子だった。赤くなってはいるものの、腫れているわけではなく、アザのように見えた。出血は一切ないが、血にまみれているようだ。
シャイアドはこの病気を見たことがある。七年、いや八年前、ドルフォア村の少女がまさにこの病を患っていた。あの時はマーリアがすぐに治してしまったものの、まさかもう一度目にすることになるとは思わなかった。サムドランが出発前に言っていたように、これは伝染病ではない。今でも鮮明に思い出せる。少女は発症して一日もたたずに痛みに泣き叫ぶようになり、マーリアが駆けつけた頃には死んでいるのではないかと背筋が凍るほどぐったりとしていたのだ。
確かこれは、全身の魔力が抜け落ちてしまう病気だ。
人間は誰しも魔力を持っている。しかしそれを扱えるものは限られており、その素質を持っている者だけが魔導師になれるのだ。魔力はすなわち生命力で、それがなくなってしまえば人は枯れてしまう。この病気は、なんらかの原因によって世界と身体を隔てる栓がなくなって、体内の魔力がとめどなく外に流れていく。魔導師の不老と仕組みは同じだが、訓練を重ねた魔導師はとめどなく大地から魔力の供給を受けるため、死なないのだ。
ごく稀に、それこそ五十年に一度起きる程度の病気なのだが、実は各地でこの病気が多発した前例が一度だけあった。
──七百年前、救世主サントーシャムが現れるまでの、暗黒期である。
既に背後に何かが迫っている気がして、シャイアドは震えてしまった。まさかまた、あの地獄と例えられる時代がやってきてしまうのだろうか。サントーシャムの遺産、施しの剣が、この病気の発生を抑えていたのだろうか。
すっかり弱り果てている兄を見てショックが深いリャットは、それでも「自分なら助けられるかもしれない」という些細な希望を頼りに、励ますように笑って見せた。
「兄貴、俺が救ってみせるから、絶対に諦めるなよ」
頼もしくなった弟の成長を感じた様子のガラルは、「俺の命、お前に預けるよ」と儚げに笑う。
「師匠のとこからたくさん薬草を持ってきたんだ、とりあえずまずは体力をつけよう。粥なら食べられるか?」
「ああ、なんとか……」
頷いたガラルを見て、リャットが意気込んで台所へ向かったので、シャイアドも何か手伝おうと付いて行こうとしたら、なぜかガラルに呼び止められた。振り返ると、「少し話し相手になってほしい」と言うので、「そうしてやってあげてよ」と笑ったリャットに任せ、しぶしぶその場に残る。
「シャイアドちゃん、いつもリャットが世話になってるね」
「いえ、私のほうがリャットに世話になってます……その、リャットはすごく他人思いで、とっても優しくて……とてもいい兄弟弟子に恵まれたなと。私、兄弟がいなかったので、新鮮で楽しいんです」
ガラルは少し目を伏せた。穏やかに息をして、首だけを少し動かして満足そうに頷く。
「兄である俺が言うのもなんだけどさ、あいつは、自慢の弟だよ。十二、三で父親を亡くしたっていうのに、下の兄弟のために必死に頑張って……。今となっちゃあんなにたくましくなって。きっと優秀な魔導師なんだろうな、見ればわかるよ。……ああ、君もいることだし、もう俺がいなくても、あいつは立派にやっていけるんだろうなあ……」
シャイアドはガラルの諦観とも取れる柔和な雰囲気に、ふとマーリアの目を思い出してしまった。人の瞳の奥でゆらめく炎は、満足や諦観によって静まっていく。シャイアドはその目が好きではなかった。きっとこの人は、死を受け入れているんだ。いや、本来この病は死の病で、受け入れるのが自然なことでもあるのは、わかっている。それでもシャイアドは、リャットなら奇跡を起こせると確信していたので、もどかしかった。なんとか説得しようと、ガラルのアザのない手にそっとふれる。
「ガラルさん、リャットは確かに、あなたが亡くなっても、いつかは立ち直ることのできる人です。でも、それでも、とても大切な人が死んでしまうのは、辛いことです。あなたもお父さんを亡くして理解しているのでしょう、なのになぜ、まだまだ若いリャットにまた同じ苦しみを味わわせるんですか。リャットはとても優秀な魔導師なので、あなたを救うことだってできます。ですが、患者であるあなた自身が諦めてしまえば、リャットはあなたを救えない。大切な人を救えなかったという、一生胸に刺さって消えない棘を、リャットに遺したいんですか」
真剣に、なんとかこの気持ちが届くようにと伝えていたら、少し感情的になってしまった。ガラルは驚いたように目を見張り、おかしそうに口元を歪ませる。
「そんな風に言われたら、兄として、死ねないな。結構ずるいことを言うんだね、シャイアドちゃんも」
「私はリャットを信じてるんです。彼がどれだけ修行を頑張ってきたのか、あなたに知ってもらいたい。そして私自身、あなたを、死なせたくないんです」
「そうかい、でもね、死が必ずしも悪ではないということを、覚えておいてほしい。人は皆いつか死んでしまうからね。……まあ、魔導師はそうではないんだろうけど。でもだからこそ、自分自身がなぜこの人を死なせたくないのか、見失ってはいけないよ。今回、俺は君にそう言ってもらえてとても嬉しかったけど、時には君自身を傷つける結果になってしまうかもしれない」
随分と聡明なひとだと思った。普通、学者か何かでない限りここまで思考を練る必要はない。きっと、物事を深く考える癖のあるひとなのだろう。魔導師の素質はリャットの方にあるが、この人は学者か何かの才能がある。農民のままにしておくのは惜しいなと思った。おそらく世の中には、この人のように見出されないまま消えていく才能など山ほど存在しているのだろう。生まれ、機会、金銭……それらの奇跡、あるいは偶然の先端に人は立っているが、だからこそ、サントーシャムやアーデラールのような超人の存在にめまいがする。
そして、己の死に対する認識がずっとあやふやなものだと気付いた。善や悪を意識したことはなかったが、ガラルには、そのように聞こえたと言うことだろう。
「……わたしにとって死は、悪だろうが善だろうが、知ったことではないです。ただわかっていることは、それを前にした時、どうしようもなく悲しいということだけ……成長すればいつか、他人の死を、自分の死を、受け入れられるんでしょうか」
ガラルは痛むはずの手を動かして、シャイアドの手の上に重ねた。
「それは、君が決めるといい。君の人生だからね。ずっと、追い続けることになるだろうけど。今は、どうなりたいって思ってるんだい?」
「……わたしは──」
答えようとしたところで部屋のドアが乱雑に開けられ、そちらに意識が向いてしまう。立っていたのは大きく頬を膨らませた、チルハだった。
「ねえ、いつになったらガラル兄の病気を治せるわけ!」
しびれを切らしているようだが、まだ一時間も経っていないのに急かされるとは思っていなかった。シャイアドもリャットも、修行年数は二人合わせても二十年程度なのだ、もう少し待ってほしい。
後ろから慌てて追いついてきたハーヤが「チルハ姉ちゃん、ダメだよ、今治してもらってるところなんだから!」と腕を引っ張って連れ戻そうと奮闘するも、チルハは頑として柱にしがみつき、シャイアドに対して明確な敵がい心を向けてきた。この子にだけは歓迎されていないということに今更気付いたシャイアドは、とにかく戸惑った。
「ばか、ばか! リャット兄だけじゃなくてガラル兄まであたしから奪ってったら、承知しないんだから、この泥棒猫!」
「ど、泥棒猫?」
なんのことだかさっぱりわからなかったが、ガラルが愉快そうに噴き出し、その反動で痛がりつつも笑いを抑えられないといったふうに震える。
そこでやっとルーが駆けつけてきて、「チルハ! 聞こえたぞ、シャイアドさんになんてこと言うんだ、謝りなさい!」と叱ったが、チルハは意に介さないぞという意思表示として思いっきり顔を背けた。
もしかしてとんでもない勘違いをされているのでは、と気付いたシャイアドは、どうやったらこの誤解が解けるのか、かつてない速さで思考する。
「チルハちゃん、あの、誤解だよ。リャットとはただの兄弟弟子。チルハちゃんがリャットを大好きなように、私もリャットのことは兄弟として大好きなんだよ。だから、えーと、恋人とか、そういうのじゃないから、安心して」
「証拠を出しなさいよ、証拠を!」
「チルハ!」
ルーが怒鳴るも、チルハは引かなかった。ガラルはまだ笑っている。笑ってないで助けてくれと心の中で恨み言をごねるが、どうやら助けてはくれないようだ。
いっそのことこの場でリャットの好きな子をバラしてしまおうかという考えが頭を過ぎったが、自分の知らないところで家族にとんでもないことを暴露されるのはさすがにかわいそうだ。これは自分だけの秘密にしておこうとシャイアドは思った。
いやはや困った、この小さなお姫様を満足させられる答えを出す術がない。
あたふたとしていたシャイアドに、やっと震えを収めたガラルが口を開いた。
「チルハ、もうシャイアドちゃんを困らせるのはやめなさい。リャットがいなくなって寂しいのはわかるけど、お兄ちゃんの言うこと、聞いてほしいな」
優しい声色に、チルハは一気に勢いをなくしてしょげたように口を尖らせた。
「……ガラル兄が、なでなでしてくれたら、いいよ」
腕を持ち上げるのすら激痛が伴うだろうに、ガラルは嫌な顔一つせず快諾すると、ベッド脇へ歩み寄ってきたチルハの頭に手を乗せた。
「ごめんな、リャットが治してくれたら好きなだけ遊ぼうか」
満足そうに頷いたチルハは、顔を赤くして走り去ってしまった。小さな女の子はわからないなと思ってしまう。
走り去ったチルハを見届けたハーヤは、まばゆく輝く目をシャイアドのほうに向けてにこにこと何かを期待したように立っている。何かを待っているのはわかるが、何が正解なのかわからなかった。ルーのほうを盗み見ると、ルーは手を水平に振って見せ、それから頷く。撫でろ、ということなのだろうか。
ハーヤの頭に恐る恐る手を乗せたら、ハーヤは喜びがこぼれんばかりに笑みを咲かせた。シャイアドには不思議でならなかった。見ず知らずの他人に頭を撫でられることが、この家の子達にとっては嬉しいことなのだろうか?
「ありがと、お姉ちゃん」
それだけ言って去って行ったハーヤを撫でた手を引っ込めずにいたら、ルーが「ルナ──僕らの姉なんですが、ルナが嫁いでから、みんな姉ロスなんです。それに兄たちにも色々あって、寂しがってると思うので……可能な範囲でいいので、構ってやってください」と頭を下げ、丁寧にドアを閉めてその場を去った。
あまりの行儀の良さに、シャイアドは己を振り返って反省した。
「すごくいい子ですね」
「ああ、俺がルーぐらいの頃はただただ畑仕事してただけでよかったんだけどな。でもまあ、助かってるよ」
シャイアドがガラルを見つめると、ガラルは小首を傾げる。
「なにか?」
「ここに来るまでにリャットから聞いたんですが、あなたはまだ十九歳ほどですよね。その……なんだか、お父さんみたいだな、って思って……」
ガラルは少しだけ困ったように笑った。
「そりゃ、この家で一番年上の男は俺だからね。それに、妹弟たちはまだ小さくて、母さんか俺を頼るしかないだろ? 俺がしっかりしなきゃ、あいつらの明日の食い扶持すら危うくなっちゃうんだ」
「尊敬します……本当に。あなたも、リャットも、この家の人たちみんな」
「俺はずーっと魔導師の修行を積んできたシャイアドちゃんも、すごいって思うよ。きっとたくさん努力をしてきたんだね。頑張ったね」
お世辞ではなく本心だとわかったシャイアドは、顔が熱くなるのを感じた。どうやらガラルは褒め上手らしい。照れ臭くて、思わず視線を下げる。ガラルはそのまま懐かしむような声色で続けた。
「父さんが生前言ってたんだ、『続けることに意味がある』って。野菜の栽培とか、とても簡単なことじゃないから、試行錯誤を重ねて、重ねて、重ねて……それでもやっぱり自然を相手にする仕事だから、いつも思った通りの結果になるわけじゃない。だからこそ、なぜダメだったのか、データを集めて、次に生かす。美味しいものができなくたって、それでいい。いつかとんでもないものができるといいなぁって、そういう気持ちでいればこそ、ちょっとしたことで報われた気持ちになるんだって、言ってたなぁ……。でも、だからこそ、続けることって大変なんだよね。向上心と折り合いをつけられないと、現状に疑問を持っちゃう。すぐに答えが出るものではないし、取り返しのつかないところまで行ってしまったらどうしようって怖くなる。そうだっていうのに、生きていくには何かを続けていくしかない……。
正直さ、畑仕事じゃないけど、ずっと、俺はこのままでいいのかって思ってた。家族を養い続けられるのか? リャットみたいにどこかへ行かせた方が、ずっと未来は明るくて自分で人生を選べるんじゃないか? なんて風にね。そんなときにこの病気にかかって、どこか安心した自分がいたことに気付いて、情けなくなったんだ。この葛藤から解放される理由ができたんだな……って。
でもさ、シャイアドちゃんに怒られて、気持ちが変わったよ。もう少しこの生活を続けてもいいかなって思った。愛おしい家族が、俺の心を慰め続けてくれる限り」
「家族がいるから苦しむのに、家族がいるから頑張れるんですか」
ガラルはおどけながら「贅沢な悩みだろう」と肩をすくませる。
「なんか変なこと喋っちゃったね。言うまでもないだろうけど、今話したこと全部、あいつらには内緒だよ。もちろん、リャットにも」
シャイアドは、この二年間も肌身離さずつけていたペンダントを服の上から握った。自分自身も、なんだか似た境遇だと思った。マーリアによって苦しんでいるのに、マーリアを生きる理由にしてきたから。
「ガラルさん、その、応援してます。でも、病気が治ったら、自分の趣味も見つけてください。家族の皆さんも、ガラルさんが自分たちのためだけに生きてるって知ったら、悲しむと思うので……」
「そう、そうだね。じゃあまずは、病気を治そうか」
ガラルが視線をドアに向けると、丁度リャットが暖かい粥を木の器に盛って入ってきた。入室早々兄と目があったリャットは、「なんで入って来るってわかったんだ?」と不思議そうな顔をする。
「弟のことはなんでもお見通しなのさ」
ガラルの軽口に少し安心したように微笑んだリャットは、粥を差し出しながら「一人で食えるか?」と尋ねる。ガラルは一瞬迷ったが、「まあ、食事くらいは自分でやらないとダメになりそうで怖いから、自分で食うよ」と答えた。この様子だとチルハにでも食べさせてもらってたんだろうなとシャイアドは思ったが、何も言わなかった。
ガラルが粥を食べている間、リャットはシャイアドと病気について話した。シャイアドがこの病気の治療を見たことがあると述べると、案の定食いついてきたのだが、実のところ詳しいことはよく覚えていなかった。もやのかかった記憶を一つ一つ丁寧に、泥の中から砂利を取り出す時のように思い出そうと奮闘する。
「あの時、確か……マーリアは、地面に……女の子を置いて……えーっと」
自分では鮮明に覚えているつもりだったのだが、あの時は女の子の病状に怯えてあまり詳しく見ていなかったらしく、力になれない自分に嫌気がさした。シャイアドのしかめっ面を見たリャットが気を使って「慌てなくていいよ」と言ったものの、曇った表情を前に「うんわかった」と言えるはずもない。
しかしどうやったって思い出せず、結局夜になってしまった。時間はまだあるんだから今日は休みなさいとカルラに言われ、シャイアドとリャットはおとなしく食卓へつく。カルラの豪快な料理は、家族の団欒による味付けでさらに美味しいものへと変わっていった。
「そんでさ、師匠、深夜に風呂に入ってる時、たまに変な歌を歌うんだよ。ものすごく変な感じの歌だから、多分何百年も昔のやつかな。それが俺の部屋まで響いてきて眠れなくて! でもその歌がまためちゃくちゃ上手いから、怒るにも怒れなくてさ、つい聞き入っちゃうんだよなぁ」
「へえ、屋敷全体に響くのかい? シャイアドちゃんも聞こえる?」
「ええ、はい。でも、わたしの部屋は風呂とは真逆の方にあるので、微かに聞こえる程度です」
ハーヤがルーに「”ふろ”ってなに?」と尋ねると、ルーは「確か、リャット兄さんが最初に送った手紙に書いてあったね。体を綺麗にするんだとかなんとか……。かめに水を貯めて、それを火であっためてそこに入るんだって」と丁寧に返答する。最初の手紙はおそらく四年前だろうに、よく覚えていたなと感心した。
「えー、鍋じゃん! 兄ちゃん、ゆでられてんの?」
ガダが面白半分、心配半分で言うと、リャットは苦笑した。
「んなわけあるか。冬場に浴びるようなあったかいお湯だよ、気持ちいいぞ」
「へー」
「あたしも入りたい!」
チルハが食卓に身を乗り出したのでカルラが叱った。リャットは「俺が魔導師として成功して、師匠並みの大金持ちになったら毎日でも入らせてやるよ」と冗談めかす。
シャイアドは幼い頃の日々を思い出していた。ローバリでは風呂は比較的一般的なものだが、庶民は公共の浴場へ行くしか方法はない。しかし小さなドルフォア村にはそんなものは存在しなかった。その代わりマーリアの屋敷には広い浴場があったので、半月に一度程度、村の人々が入りにやってきていたものだ。マーリア亡き今、村の人々はどうしているのだろうか。シャイアドは少し、あの村に戻ってみたいと思った。悲しい記憶の現場でもあるが、それ以上に大切な思い出が息づく場所でもあるのだ。
随分と楽しげなリャットを見ながら、いつか帰ってみようと密かに決意する。あの出来事を鮮明に思い出して、悲しみに打ちひしがれてしまうかもしれない。それでも、今の自分には、悲しみと、脆さと儚さと向き合っていくだけの力があった。自分の世界を壊されて泣いていただけのあの頃とは違うのだ。今ならきっと、マーリアの気持ちと向き合える。とても悲しい思いをするかもしれないけれど、大切な大切なマーリアが何を思って何を願ったのか、知りたいのだ。多分それは残された者の務めでもあるのだと思う。
食事が終わった後、シャイアドはチルハ、カエン、モナと同じ部屋に案内された。一つだけ空いていたベッドがあり、それを使いなさいとカルラが言った。おそらく、隣の家に嫁いだというルナのベッドなのだろう。カルラはガラルのいる部屋で寝ているらしい。稀に夜中に発作を起こすことがあるらしく、すぐ対処できるようにしているようだ。
隣は男子部屋で、リャット、ルー、ガダ、ハーヤがいるのだが、土と石の壁も虚しく、開け放たれた窓から何やら騒がしい音が聞こえて来る。チルハはませた様子で「ガダもハーヤもまだまだ子どもなんだから」と呆れていた。
シャイアドがベッドの縁に座りながら髪を梳かして隣の部屋の喧騒に耳を傾けていると、不意にモナが目の前に歩いてきた。
「おねえちゃん、どうして髪が黒いの?」
この辺りの人は皆髪が明るい色で、闇に紛れそうな色のシャイアドの髪は珍しいのだろう。もしかしたら、初めて違う色を見たのかもしれない。
「世界にはね、いろんな色の人がいるんだよ。それが、普通のことなの」
モナは目を輝かせた。
「青い髪の人も? 赤い髪の人も? ピンクも、オレンジも、緑も、茶色もいるの?」
シャイアドが頷くと、モナはうっとりとした顔で、様々な色の人々を思い描く。
「どの色もステキ。おねえちゃんの黒も、格好良くて、でもかわいくて、わたし好きよ」
「ありがとう」
そう言ってくれる人がいるおかげで、シャイアドは自分の異質さを受け入れられた。
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