第7話 溝
ヤームルの元を訪れたあの日から二年経った。リャットはどんどんその実力を伸ばしていき、一年後にはシャイアドに並び、二年後にはとうとう追い抜かしてしまった。
人間としてもよく出来ている上に、魔導師としても鬼才を発揮しているリャットに、シャイアドは一種の清々しさと同時に、虚しさも感じていた。妬みや嫉みは不思議と感じない。ただ、このまま先に進んで、そこに本当に望んだものが存在するのか、じわりじわりと疑問に感じてしまっていた。自分に本当にたどり着けるのか、わからないのだ。散々あがいて、惨めな思いをした先で、求めていたのが自分には到底たどり着けないところだと気づいてしまったら、何を恨んで何を嘆けばいいのだろう。
他に大きな出来事といえば、ウトラが家に帰ったことくらいだ。彼女は数年の修行で、見事鍛治や加工時に魔力を応用することに才能を開花させた。街ではすっかりウトラの作るお守りが人気になり、その噂はなんと街の外にまでも及んでいる。自信をつけてくれる効果や、血液の循環を良くする効果、リラックス効果など……商才にも輝きを見せるウトラは、シャイアドの自慢だった。
しかし、シャイアドはその分、何も成し遂げていない自分に焦りを感じていた。リャットは優秀な魔導師で、ウトラは大人気の装飾家だ。だが自分は、ただの普通の弟子である。成績も、落ちこぼれでもなければ抜きん出て良いわけではない。自分だけ、何者でもないのだ。
ウトラが弟子をやめたことにより、シャイアドは外出が難しくなった。なにせ、サムドランの公式の弟子はリャットとウトラの二人だけだったのだ。シャイアドは不法入国者なので、世間に発表するわけにはいかなかった。今まで、必要に迫られたときは、名目上ウトラとして深いフードを被り外で活動していた。ウトラとはそれなりに身長が違うものの、夕暮れの薄暗さに紛れればどうということはなかった。王宮からの使いを騙るにしても、多用はできない。現在は、リャットが屋敷の中にいるときにしか、外出できなかった。これが案外不便なのだ。
そこで、サムドランはシャイアドの存在をそろそろ公表しようと言い出した。国王には自分から上手く伝えておくので、今さっきローバリから特別にやって来た留学生としなさいと。シャイアドは、当然身構えた。ここ数年で、アズドルの人たちのローバリ国民に対する憎しみは増している。施しの剣が奪われてから十年以上経ち、養分の補給源が断たれたことによってついに土地も限界を迎え始めたのだ。市場を見ても、どうも作物の元気がないのだとリャットがこぼしていた。アズドル国王は施しの剣を奪った犯人をアーデラール議長だと断定しており、当然国民の間でもその説が支持されている。つまり、ローバリ人はアズドル国民から恵みを奪い、我が物にしている。ローバリ人にとって、アズドル人が野垂れ死のうが知っちゃこっちゃないらしい、自分たちだけ豊かであればそれでいいのだろうと囁かれている。まともに考えられればおかしいと気づくはずだが、おかしさに気づいたところでなんの解決もされない。
しかし、アーデラール議長が剣を奪ったという国王の憶測は、あながち間違いでもなかった。
あの剣は防御魔法によって守られていない。なぜなら、並大抵の人間では近寄れもしないからだ。特殊な魔法を己にかけることでしか、近寄れない。そして施しの剣の周囲には、警備用の魔法感知器がある。魔法をかけて剣に近づく不埒な輩をすぐに検出できる便利な魔道具だった。だというのに、十年前、施しの剣がなくなった時の記録では、その感知器が反応した様子はなかったのだそうだ。つまり、何者かがその魔法感知器に小細工を施したか、あるいは、魔法も使わずに近づいたか──。
この世に、生身であの剣に近寄れるのは一人しかいない。
アーデラール議長、その人である。
四百年前の史料によれば、当時施しの剣がローバリの領土内にあったころ、盗難騒ぎがあったらしい。施しの剣を盗もうとした賊が、無理に剣に近づいたばかりに、腐ったミルクのように溶けてしまった。剣の無事を確認しようとローバリのある魔導師が魔法の準備をしていると、アーデラール議長は一人でふらりと施しの剣の元へ行ってしまい、その魔導師が追いついた頃にはなんと剣に触れて調子を確認していたという。
もっとも、これは伝承でしかない。アーデラール議長の熱心な信奉者が生み出した空想だという可能性もある。サムドランにも直接聞いてみたが、「実際に見たことがないのでなんとも言えないな」と言われてしまった。ただ彼はその後、うわごとのように「まあ、アーデラールともなれば、そりゃあ触れると思うが」とつぶやいていた。
話の不確実性がさらに議論を過熱させ、アーデラール議長のまとめるローバリ魔道共和国は、いつの間にかアズドル人の中で悪役となっている。そんな中でローバリ人としてやっていくのには、かなりの勇気が必要だった。
「あんたの気持ちも痛いほどわかる。だが物事を停滞させることが一番よくないことだ。それにこれ以上屋敷に引きこもっていても良いことなんてない、もしかすればひょんなことからバレるかもしれないしな。数年後、もっと酷い世論の中で見つかるよりはマシだと思うぞ」
サムドランは書斎の椅子に浅く座ってそう言いのける。口調は他人事のようだったが、どことなく本気でそう考えているかのような態度だった。今日は、そらの日だ。今朝、雲読みで何かを見たのだろうか。
「師匠の威信にも、リャットの信用にも……もしかしたらウトラにも、きっと泥を塗ることになります」
「なに、私は慣れっこだよ、そんなのは。威信なんて落とせる時に落とすものだ。リャットとウトラも、その程度のことで孤立するようなやつらじゃないことは、あんたがよく知っているだろう」
シャイアドは口をつぐんだ。自分はリャットとウトラの人間関係を偉そうに心配できる立場ではない。彼らは自分より何十倍もうまくやれるのだ。
「あんたをスパイだとかなんとか言い出すやつもいると思うがな、まあ、そういったやつは頭がいかれちまってるのさ。まさかまともな人間に国王と私のお墨付きの可愛い弟子に疑いをかけるやつなんていないだろうよ」
冗談めかして空気を和らげようとしていたサムドランだったが、シャイアドはあえて、一つの可能性を指し示してみることにした。
「そもそもの疑問なんですが、わたしがアズドルにとどまり続ける必要はあるのでしょうか」
この質問がいつか来ると予想していたのか──サムドランは顔色ひとつ変えず、ただ片眉を上げて皮肉を含ませながら笑う。
「あんたは私の師事じゃ満足できないかね?」
「師匠、ふざけないでください。……わたしは、”なにか”から逃げてこの街、いえ、国へやって来ました。でも、この国でも色々な困難があります。迷惑もかけてしまっている。なら、わたしは海の向こうにでも行ってしまえばいいのではないかと、何度も思いました。海の向こうで修行を積んで、それから師匠にわたしの知りたかったものを教えていただく。それで、いいんじゃないかって……」
考えを素直に打ち明けると、サムドランは「はあやれやれ」と言いたげに半目になって口を鼻のほうに寄せたではないか。
「実に面白くないことをいう」
シャイアドはこのキテレツな師匠に慣れたつもりでいたが、どうやらそうではなかったようだ。思わず聞き返すと、サムドランは椅子に深く座り、腹の上で手を組んでからどことなくいじけた様子で語り出す。
「いいか、まず。どこにでも困難は存在するんだから、どこにいたって同じようなものだ。いや、それでは語弊があるか……まあとにかく、あんたの場合は『どこへ行ったって無駄』ってことだよ」
「わたしの場合は?」
訝しげに復唱すると、サムドランは頷いて肯定した。
「うむ。あんたには運命がからみついていてな。抜け出すことなどできん。私が現状を安定させてやっているのもあって、もしあんたが遠い場所へ行ってしまいでもすれば、すぐに”お迎え”が来てしまうだろうな」
シャイアドが心底嫌そうな顔をしたのを見て、サムドランは哀れみをこめた調子で、鼻で笑った。
「そんな顔をするんじゃない。素晴らしいことじゃないか、やるべきことがあるんだぞ」
「運命だとか、そんなの、わたしが決めたことじゃありません」
叱られる覚悟で言ったつもりのシャイアドだったが、当のサムドランは突然表情を引き締め、眼光の鋭さを磨いた。予想だにしない挙動に、シャイアドは自身の背骨がまっすぐに伸びたことに気がつく。
目を閉じて何か美味しいものを味わうかのように頷いたサムドランは、なんとも嬉しそうに、なんとも面白そうに口角を上げた。
「ああ、ああ、その通りだ、若者よ。だからこそマーリアは願ったんだ、自由を。きみの選択を。成長したじゃないか、彼女に怒られずにすみそうだ」
久しぶりにサムドランの口からマーリアという名前が出たのと、「成長した」という言葉に、シャイアドはここぞとばかりに思わず身を乗り出してしまう。書斎の机に手を置くと、乗っていた植木鉢の先に垂れる新緑が揺れた。
「わたしが望んだこと、全てお話しいただけるんですか」
詰め寄ったシャイアドを手で払う仕草をしたサムドランは「そういった意味合いではない」と否定する。なんとも悔しい気持ちはあるが、サムドランが簡単に押し流せるような人物でないことはここ数年で身に染みてわかっていた。おとなしく身を引くと、サムドランはあごを撫でながら何かを見極めるように目を細めた。
「まだ早い、早いわ。焦るんじゃないぞシャイアド、これはものすごく慎重に扱わねばならん問題だ。あんたにはこの真実にたどり着く前に知るべきことがまだまだある。そりゃ、私だって痛いほど教えてやりたいさ、この目で見届けたいから。だが情報とは、真実とは、時に握る者を傷つける刃でもあるのだよ」
「今のわたしが知れば、傷を負うような真実なんですか」
「まあ、そうなるわな」
馬鹿げた世の中だ、とシャイアドは思った。
公表は、案外あっさり終わった。シャイアドがサムドランから出された課題をこなしていたら、王宮からふらりと帰って来たサムドランが「許可、もらって来たぞ。街の者にも言っておいた」とドアから顔を覗かせて言った。シャイアドは、「そうですか、ありがとうございました」と答えた。それだけだった。あとはいつもと何も変わらない。当番の家事と、課題に向き合うだけの日だった。
しかしその日、買い出しから帰って来たリャットが、少し気疲れした様子でソファーにうつ伏せになってなだれ込んだ。しばらく死んだように動かなかったが、耳をすませてみると「なんでみんな、楽しく暮らせないのかなぁ」とつぶやく声が聞こえる。シャイアドはすぐに思い当たって、なんだか申し訳なくなり、「ごめん」と小さく謝った。リャットは顔を上げ、「きみは何も悪くないんだよ、シャイアド!」と憤慨したかと思えば、体を回して仰向けになる。
「きみはこんなにも誠実だし、俺が知らない文字や言葉だって親切に教えてくれるのに、ローバリ人だからって人格を決め付けられるんだ。いいや、そもそも、ローバリに住んでいるってだけで、決まった人格が形成されるわけないよな。ドルフォア村なんてローバリの首都よりアズドルの方が近いのに、なんで国の違いだけで人格が変わるんだ? 信仰や政治形態が違うから? そんなの理由じゃない。人格がひとつに偏る理由にはならない。それに、俺はまだシャイアド以外のローバリ人に会ったことないけど、彼らの人格だってアズドルと同じで様々なはずだろ。違いがあるとすれば、一般常識とか、そういう社会形成の途上で出来上がる共通認識の部分だけど、そういうことは国内ですら一致することが難しい、ってまあ、これは師匠の受け売りなんだけど。……国って、国民ってなんなんだろうな」
「リャットは、よく考えてるんだね」
リャットは視線だけこちらによこした。それからため息をつくように目を閉じる。
「俺は、ただ、どうやったらみんなが楽しく暮らせるのかっていうのを、知りたいだけだよ」
「立派なことだよ」
独り言のようにつぶやいた。
「シャイアド、一緒に買い出しに行こう」
リャットが意を決したような顔で、図書室にいたシャイアドに声をかけた。手には財布が提げられている。
不安の表情をよぎらせたシャイアドの手を、リャットはしっかりと握る。
「大丈夫、俺がいるから。一人じゃないよ。万が一何かあれば師匠にちくればいい。あの人、ここらの領主だからな」
「サムドランさん、領主だったの?」
「ああ、この街も、外からはサムドランって呼ばれてるらしいよ。……じゃ、行こう」
シャイアドは、廊下を歩くリャットの広くなった背中を眺めながら、思考を巡らせてついていった。
たくさんの人がいるところを歩くのは、何年ぶりだろう。そもそも、リャットはどこに買い出しに行くつもりなのだろうか。食べものは、つい昨日買って来たはずだ。
外に出るのはなんだか恐ろしかった。買い出しから帰って来た昨日のリャットの反応を思い返すと、やはりあまり歓迎はされていないようなのだから。一人じゃなくてよかったと思った。一人で外に出る勇気などないし、進んで出ようとも思わなかったから、外に連れ出そうとしてくれるリャットの気遣いはありがたい。遅かれ早かれ、絶対にいつか外に出ることにはなるのだから、早いうちに慣れておいたほうがいい。遅くなればなるほど、噂が膨らんでいく可能性だってある。そう自分に言い聞かせて、なんとか気を落ち着かせようとした。
玄関にたどり着いて、リャットは一度立ち止まった。そして何か考えてから、脇にかけてあったローブに手を伸ばし、シャイアドに渡した。
「フードだけとって、着ればいいよ」
「うん」
このローブは、サムドランの庇護下にあるという印になる。リャットはそう考えたのだろう。
シャイアドがローブを羽織ると、リャットは頷いて、玄関のドアを開けた。眩しい日光が網膜を焼く。外って、こんなに明るかったっけ。
草の匂いがしないことを、シャイアドは寂しく思った。ドルフォア村にいたころは、外は草の香りに包まれていた。しかしこの街は、石や人の生活する匂いしか、漂ってこない。
道を歩いていると、案の定、人々の視線を感じた。遠巻きに見つめられ、何か話し込む声に、言いようのない恐怖が血に乗って全身に回っていく。誰かを傷つける力は、街の人々より魔導師であるシャイアドの方が格段に上だ。だが大衆に、数の力に、気圧されてしまいそうになる。手につかめそうもない大きな概念に、押しつぶされていくようなイメージが体と思考を支配しそうだった。シャイアドは初めて、人々をカテゴライズする理由を理解できた気がした。得体の知れないものを相手にするのは、きっと勇者にしかできないのだ。
「さて、ついたよ」
リャットがそう言って立ち止まったので、シャイアドは顔を上げて場所を確認する。そこがどこか理解した時、思わずリャットのほうを振り返っていた。
「そ、ウトラんとこの工房。師匠に頼まれたんだ、効果を研究してみたいからウトラの作った装飾品を一つ買ってこいって」
リャットが優しく笑い、シャイアドは泣きそうになった。サムドランも、リャットも、優しすぎるんじゃないのか。本当に自分は、ここまでしてもらって大丈夫なのだろうか。この幸せが、惨たらしく壊されてしまうときがくるのではないだろうか。マーリアが聞けば、「馬鹿だねえ、大人しく楽しめばいいんだよ」と笑い飛ばしそうな弱音だけれど。
「あ、リャットに、シャイアド! サムドランさんから聞いてるよ」
工房の中から、ウトラが出て来た。ウトラは弟子をやめた今でも、たまにサムドランの屋敷に遊びに来てくれている。一週間に一回はやってくるので、懐かしさは感じなかった。仕事中らしく、長い髪を高く結っており、服も作業着だ。
「師匠が注文してたやつ、もう出来てるか?」
「うん、ちょうど昨日終わったの。中に入って」
ウトラに勧められて中に入ると、数人の少女がいるのが目に入った。彼女らはウトラに憧れて弟子入りしてきた子らしい。数ヶ月前に照れながら語っていたのを覚えている。まだ二十歳にもなっていないのに、彼女はもう弟子を持っているのだと、シャイアドは実感した。
ウトラが棚を漁っているのを横目に、シャイアドは少女らに目をやる。皆ものすごく集中していて、シャイアドに目もくれない。その光景に、なんだか救われた気がした。
「なあお嬢、また弟子入り希望のやつが来たんだけどどうする」
「また来たの⁉︎ 懲りないねー、みんなも」
隣の鍛冶場からランギが入って来た。シャイアドはサムドランに弟子入りして以来、ランギの顔を見ることはなかったので思わぬ再会に驚いた。彼が数年前よりずっと魅力的な人間になっていたことには、あまり驚かなかったが。
ランギは工房に立っていたシャイアドに気づいて、目を丸くする。
「なんだ、シャイアドじゃねえか。何年ぶりだ? 随分大人っぽくなったな、もともと大人っぽかったけど」
頭を乱雑に、しかし髪が崩れないような絶妙な手つきで撫でたランギに、これが兄なのだろうかとシャイアドは思った。いや、どちらかというと親戚のお兄ちゃんというやつかもしれない。
「そっちは確か、リャットつったっけ? 二年前にアポ取ったときに会ってるよな。お嬢から色々話は聞いてるぜ」
話しかけられて、工房の道具や材料、並べられた完成品に夢中になっていたリャットは振り返った。いきなりの格好いい年上の登場で一瞬ひるんだ彼だったが、なんとか体制を立て直す。
「えーと、お久しぶりです、ランギさん。確かウトラのお兄さんなんでしたっけ」
「おー、まあそんなとこ」
注文品を取り出したウトラが、シャイアドの耳元で「弟子入り志願の女の子はね、九割がランギ目当てなの」とささやいた。「今この工房にいる子たちは、本気で職人になりたがってる子なんだけどさ」
どうやらウトラも色々と苦労しているらしい。ただただ売れっ子であるというわけではないようだ。
注文品とお金を交換し、弟子入り希望という子の面接に向かうウトラに別れを告げてから、ランギと話し込んでいるリャットを引っ張って外に出た。
「もうちょっとランギと話させてくれよぉ」
「その様子だとすっかりランギの虜ってわけ?」
「あいつめっちゃ面白いんだよ、いろいろ教えてくれるし。鉄って熱しまくると溶けるんだって!」
シャイアドは、ランギという人間が末恐ろしく感じた。昔から思っていたが、彼は人の気を惹くのが得意だ。それが無意識なのか、意識的にやっていることなのか、シャイアドにはわからない。
ため息をついたとき、目の前に一人の男が現れたのが目に入った。その男の目を見て、シャイアドは嫌な予感を察知する。
案の定、男は憎しみを込めた目を向けて、街の門があるところを指差した。
「出て行け、ローバリ女」
シャイアドは何も言わなかった。リャットが掴みかかりそうになったのを制し、無視して屋敷へと歩く。
しかし男の横を通り抜けようとしたところで、肩を掴まれた。
「無視するんじゃねえ、剣を奪っといてよく平気でこの街に来れたな、おい!」
なんだか、哀れに思えた。この男はきっと、剣を奪われて以来、災難続きだったのだろう。ほんの少しだけ同情したが、かといって剣の盗難などシャイアドにはこれっぽっちも関係ないことだ。剣を盗んだと推定される人間が治める土地で生まれ育っただけだ。
シャイアドがただ男を見つめ返すと、たじろいだようだった。そして何かしてやらねばと焦ったらしい。掴んでいた肩を思いっきり突き飛ばし、シャイアドは倒れそうになったが、リャットがなんとか受け止める。
「何すんだ、この子が剣を奪ったわけじゃないだろ!」
「奪った剣で楽に暮らしてたやつは同罪だ! お前がそのローバリ女にたぶらかされてるってなら、俺が一発ぶん殴って目を覚まさせてやるよ!」
男は完全に興奮して正気を失っていた。リャットに向かって大振りに殴りかかってくる。リャットは生まれてこのかた殴り合いなどしたことがないだろうから、避けられるはずがない。しかしシャイアドは止める手立てが思い浮かばなかった。魔法を使おうにも、どれもこの男を傷つけ、あるいは殺してしまうようなものだ。動きを止めたり、軌道をそらすような高位の魔法は身につけていない。
それでも、痛みくらいは代わりに受け止められる。
シャイアドは咄嗟のことでよく頭が回らなかったが、無我夢中でリャットと男の前に飛び込んだ。
目の前の光景がスローモーションのように思えた。しかし自分の体の動きも同じくらい重く、腕を掴んで攻撃を横に流すような芸当はできない。
目を思いっきり閉じて、衝撃に備えた、そのときだった。
急に、何かが飛んで来たような音がして、鈍い音がしたかと思えば、男のうめき声が聞こえた。何事かとそっと目を開けると、男は目の前でしゃがみこんでいた。苦しそうに、振りかぶっていた右腕を抑えている。どうやら折れているらしい。変な方向に曲がっていたが、一体なにがあったのかと周りを見回すと、金槌が足元に転がっていた。
「喧嘩の方法も知らねえようなガキに手ぇ出すんじゃねえよ」
ランギだ。ランギが、金槌を投げ、男を止めたらしい。
シャイアドとリャットが唖然としていると、彼は近寄って来て、心配そうに「大丈夫か?」と声をかけた。
「なんか口論が聞こえたから、まさかと思って店の外を見たら、これだよ。近くに金槌があってよかった」
「なん、だよ、お前もローバリ女の肩を持つってのか!」
まだまだ元気な男が腕を抑えてランギに食ってかかったが、ランギは恐ろしく冷めた顔で男を見下ろす。
「知るかよ。つーか、この子のどこらへんが、狡猾で傲慢なローバリ人なんだ?」
「髪が黒いし、背だって高い! どっからどう見ても、ローバリ人だ!」
ランギは、金槌を拾ってから、男の言っていることに心底呆れたような顔をした。
「話の筋が通ってない。そもそもだな、ローバリ人は髪が黒くて背が高いって思い込んでんのはこの街の人間くらいだぜ。ローバリは多民族国家だからな。この子みたいなのがローバリの民って呼ばれてるのは、もともとローバリ東部が国の始まりで、七百年前はあそこの地名がローバリつったからなんだよ。つまり何が言いたいかっていうと、お前が噂だけで仕入れたローバリ人像は、何もかも、偽物だってことだよ。みぃんな黒い髪で背が高くて、そんで狡猾で傲慢ってのは、誰かに都合よく形成された虚像なの」
シャイアドはこんな時だが違和感を覚えた。なぜランギは、こんなにローバリに詳しいのだろうか。現在、アズドル国内でローバリに関する本は禁書扱いのはずだ。
「馬鹿言うな、お前みたいなのに何がわかるって言うんだよ! どうせローバリのお嬢様にいいようにしてもらっただけなんだろ、顔だけ男!」
いよいよ怒ったのか、これ以上話すのは無駄だと判断したのか、ランギは男の顔を蹴り上げると黙らせてしまった。なんのためらいもなかった。この人は、守るために、傷つけることができる人なのだ。
「怖いよなぁ、人間って。まあ、逆にここまでまっすぐだと、ある意味感心させられるけどな」
シャイアドはまた呆然としていたが、ランギに笑いかけられて我を取り戻す。
「あ、あの、ランギ、ありがとう、助けてくれて」
「いいんだよ別に。殴られずに済んでよかった」
また頭をぽんぽんと撫でられる。さっきまで無慈悲な暴力を行なっていた人だとは思えなかった。シャイアドは、自分の中の数年前からの違和感が、ここに繋がったような気がした。そして、何かがすとんと胸に落ちて来た感覚がして、何故だかランギという人間を理解できた気がした。
「なあ、ランギ、お前って何者だ?」
リャットが、驚きを引きずったままそう呟いた。しがない鍛冶屋の弟子であるはずの彼がこんなにも戦える人だとは思わなかったのだろう。
ランギは少しだけ躊躇したような顔をしたが、それでもリャットを見据え、しっかりと答えた。
「俺は、ランギだよ。それ以上でも、それ以下でもない」
「なんだそれ……」
リャットが困惑気味に笑うと、ランギも笑い返した。そして、こう尋ねる。
「なあ、俺のこと、どう思った?」
「……カッコいいって、思ったよ。暴力はよくないとは思う、だけど、さっき俺は何もできなかった。守りたいものを守れるって、すごく、羨ましい」
ランギは、曖昧に笑う。
「果たしてこれが守るって言葉の意味なのか、俺には疑問だけどな。もしそうだったら、人殺しと同じジャンルだ」
リャットは何も答えなかった。それでも、ランギを見る目から尊敬と憧れが消えることはなかったのを、シャイアドはこの目で見た。
「じゃ、俺はこいつを兵士に突き出してくるから、お前らは気をつけて帰れよ」
伸びた男を拾うと、ランギは兵の詰所へと立ち去っていく。シャイアドとリャットは、その後ろ姿が見えなくなるまで見つめていた。
曲がり角の向こうに消えるのを見届けて、リャットは安心したように、大きなため息をついた。
「もう少し穏便な方法で解決する魔法、師匠に教えてもらった方がいいみたいだな」
「……そうかもね」
本当は、ローバリ人に対する偏見がなくせれば、全て解決できるのだが。いいや、施しの剣が戻ってくれば、こんなことは起こらない。シャイアドは、どことなくやるせなさを感じていた。
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