第6話 八番目の弟子


 八番目の弟子は、話に聞いているよりずっと若い、三十代くらいの青年だった。

 彼は鬱蒼と茂った森の一角で、日光のよく射すひらけた場所に居を構えており、到着したシャイアドとリャットを暖かく迎えてくれた。

 あまりにも若いのでリャットが困惑をそのまま顔に出したところ、彼──ヤームルは恥ずかしそうにはにかんだ。

「僕はどうやら王宮勤に向いてなかったみたいでね。七十年くらい前に師匠の元を卒業して、兄弟子たちのように国王お抱えの魔導師になったまではよかったんだけど……まあ、いろいろあってね、五十年前にはすっかり往生前の老人になってたんだ。で、どうせもうすぐ死ぬだろうということで王宮魔導師を解任されたんだけど、ここでこうやって好きに生きてるうちに若返っちゃって」

「国王様はこのことをご存知でないんですか?」

 リャットがそう尋ねると、ヤームルはふと笑ってリャットの口元に指を当てた。「くれぐれも内密にね。僕はもうあそこには戻りたくないよ」

「……本当にいろいろあったんですね」

「ああ、まあ、僕にとっては耐えられないことだったけど、他の兄弟弟子にとってはなんでもないようなことさ」

 そんな二人のやりとりを見ていたシャイアドだが、本題を思い出し、荷から目的のものを取り出した。そのままヤームルに歩み寄って手渡す。

「兄弟子ヤームル、師サムドランから預かってきた肥料です」

 ヤームルは「ああ、ありがとう」と微笑みながら受け取ったが、シャイアドの顔がフードの下から見えたのだろう。すぐにリャットの後ろに戻ろうとしたシャイアドの腕を掴んで、フードを丁寧に取って顔を確認した。

「君は、ローバリ東部の生まれだね?」

 シャイアドが戸惑い気味に「そうですけど……」と答えると、ヤームルは己の失態に気づいたのか、「あ、ごめんね」と言ってすぐに腕を離した。

「十年前に人の移動が禁じられたって聞いたから、ちょっと驚いちゃって」

「そいつはキャラバンの子どもで、アズドルに駐在してる時に移動が禁止されたから国に帰れなかったんです。特に珍しいこともないでしょう」

 リャットが出してくれた助け舟に救われ、シャイアドは心の中で彼に感謝の気持ちを述べた。元とはいえ王宮勤だった彼に、不法入国者だとバレてしまうのはできるだけ避けたい。

「そうかい、それもそうだね」

「じゃ、オレたちはこれで」

 リャットはフードを被りなおすシャイアドの背中を押してさっさと立ち去ろうとしたが、ヤームルはそんな二人を呼び止めた。

「ねえ小さな弟弟子くんたち、ちょっとお茶でもいかがかな。君たちともっと話がしたくなってしまった」

 リャットが身構えるのがわかった。どうやらリャットはヤームルを警戒しているらしい。サムドランの弟子なのだから、もう少し気を許しても大丈夫なような気がするのだが。というより、あの人懐こいリャットがこんな顔を見せたのが、意外だった。どうやらただ気楽な人間というわけではないようだ。

「サムドランさんにすぐ帰るって言ってあるんで」

「その心配はないよ。そもそも師に君たちにいろいろ教えるように言われてあるんだ」

 リャットが不服そうな顔をする。そんなすぐに感情を顔に出すのはよくないと、後で言っておこうとシャイアドは強く思った。

 一方のヤームルは、リャットのつんけんした態度になにかいろいろ察したらしく、どうしたものかといったふうに苦笑する。

「えーと、僕には選民思想も排他的思考もないよ、騎士くん。確かに国王はローバリ嫌いだったけれども、僕はそういった脳みそを変えない国王と、国王の脳みそを変えられない僕自身に嫌気がさして老いたんだ」

 シャイアドはヤームルの言葉に面食らった。選民思想、排他的思考……つまりリャットは、ローバリの人間であるシャイアドが、王宮魔導師だったヤームルに差別を受けるんじゃないかと、そう考えて庇っていたのだ。現在、というより十年ほど前まで、施しの剣はローバリとの国境付近とはいえアズドル国内にあったが、ローバリの議会は何度か剣の所有権は自分たちの国にあると主張している。そのために何度か小競り合いも起きており、アズドルの王族はローバリを毛嫌いしているきらいがあった。そんな王族に最も近いところにいたヤームルもまた、ローバリに対する偏見を持っているのだろうと、リャットは考えていたらしい。

 昔から国家への帰属意識などなかったシャイアドにとって、国民あるいは民族意識の違いなど本の中の出来事だと思っていたが、どうやらリャットやヤームルの中では、意識しなければいけない程度には、そういった経験があったようだ。シャイアドも、これからは今までのようには気楽でいられないかもしれないと、目の前の光景を冷静に見据えた。

「口ではなんとでも言えます」

「もしかして、さっきその子の腕を掴んだのがダメだったのかな。いや、本当にすまないね、さっきは十年前の勅令が口をついて出たけれども、本当は僕の故い友人が、その子と同じ出身だったから……懐かしかったんだ」

 確かに、さっきのヤームルは懐かしむような目をしていた。いいや、もしかしたら懐かしさ以上のものを抱いていた。慈しむような、宝物を見るような……。

 リャットはヤームルに対して半信半疑の様子だったが、少しの間考えると「何かあれば、すぐ帰ります」と承諾する。ヤームルも、リャットがやっと首を縦に振ったので、ほっと息をついた。そして小さな弟弟子たちを、家の中へ招いたのだった。


 元王国魔導師とは思えないほど質素な内装の屋内には、観葉植物としてなのか、実験体としてなのか、たくさんの緑が生い茂っていた。虫もあちこちに潜んでおり、ウトラが見れば飛び上がりそうな毛虫が足元にいたので、シャイアドは表情を硬くしつつもそっと避ける。客を通す空間には虫除けの魔法がされていたことが唯一の救いだった。リャットはもともと農民だからか、特に気にした様子はなく、ヤームルに視線を向けたまま案内されたソファーに座った。

 サムドランの淹れるお茶によく似た匂いの飲み物と、なんだか怪しい(この場合、虫を使っていそうな、という意味)焼き菓子をシャイアドたちに出したヤームルは、ひとまず二人の警戒を解こうと、昔の話を始める。

「故い友人といっても、実際にはまだ二十年ほど前の出来事だったのかな? かなり若返って体力とか好奇心とかを持て余していた僕は、こっそりローバリのドルフォア村に行ったんだ」

「ドルフォア村!」

 慣れ親しんだ名前が出てきたので、シャイアドは思わず叫んでしまった。二人がシャイアドの方に視線を向けたので、シャイアドは照れを隠しつつ、ドルフォア村と己の関係を説明する。

「ドルフォア村は、私が育ったところです」

「……本当かい? すごい偶然だね」

 ヤームルは一瞬、目を見開いた。ドルフォア村といえば、マーリアだ。きっと、マーリアとの関係性を勘ぐったのだろうが……マーリアの死も知っているようで、気を使ったのか、彼は疑問を口に出すことはなかった。

「二十年くらい前、そこにちょうどキャラバンが来ててね。普段は立ち寄らないらしいんだけど、なんかトラブルがあったらしくてさ。滞在させてほしいって申し出があったんだけど、村長さんはダメだーって。きっと村が混乱するのが嫌だったんだろうね。結局村の外で野営するのは認められて……そういうのもあって、同じよそ者の、しかもアズドル人である僕も村に入れてもらえなかったんだ。放り出された時にはもう夕方になってて、でもまあ、こればっかりは仕方ないことだから、帰ろうとしたら……君たちぐらいの歳の少女が『夜は危ないから、うちで休んでいってください』って言ってくれて。で、村には内緒でお邪魔したんだ。そこからたくさんお世話になって、恩を魔法でできるだけ返していくうちに、仲良くなってさ。だからシャイアドを見て、つい懐かしくなっちゃって……びっくりさせてしまっただろう、ごめんね」

「あ、いえ……」

 シャイアドはあまり気にしていなかったが、リャットの気持ちが嬉しくなかったわけでもなく、とりあえず曖昧に返事をして濁した。

「ドルフォア村には、シャイアドみたいな髪の色をした人がたくさんいるんですか?」

「ああ、そうだよ。ほとんどみんな黒い髪に高い背。ローバリ東部の人はだいたいそんな感じらしいけど、神秘的で綺麗だったなぁ」

 シャイアドはむしろ、村の外で出会う人たちの色鮮やかさに驚かされたものだ。どれもみんな美しかった。マーリアの夕焼けに染まった海のような髪の毛も、燃えるような瞳も、何度か自分もああだったらよかったのにと思った記憶がある。今は、この黒い髪の毛のせいで不自由はあるものの、皆が綺麗だと褒めてくれるので存外嫌でもない。ただ、マーリアのような髪の毛には、まだ憧れの気持ちは残っていた。色は無理なら、せめて、髪、伸ばしてみようかな。

「僕がここへ帰ってきて、少し経ったあとに手紙が来てねぇ。結婚したって言ってて、お祝いに行きたかったんだけど……ちょうどアーデラール議長があの村に来てたみたいで……やめときなさいって言われちゃった。それからちょっと用事が重なって、お祝いもできずに二十年……正直、シャイアドを見て思い出したよ」

「あのアーデラール議長が、二十年くらい前にドルフォア村に……」

 シャイアドには信じられなかった。あの、国王並みに存在の大きいアーデラール議長が、なんの変哲も無いドルフォア村に……。

 脳裏にマーリアの顔が浮かんだ。しかしシャイアドは、この可能性にはそれ以上踏み込んではいけないと思った。ヤームルの話に意識を集中させ、なんとか気をそらしてみる。

「僕も詳しくは聞いてないんだけど、確かに来てたみたいだよ、アーデラール議長」

 リャットはアズドルの農民だったがゆえに知らなかったらしく、「アーデラール議長って誰?」と口を挟んだ。そのあまりにも無防備な表情に、『あなたが将来並ぶことになるかもしれないとサムドランさんが言ってた人だよ』とは言わないでおこうとシャイアドは思った。

「アーデラール議長は、ローバリ魔道共和国の議会のトップで……七百年前のあの奇跡の時から生きてる人だよ。あの奇跡の後にローバリの前進国だったラバリナ王国の王政を打倒して、共和制を樹立したの」

「奇跡って……あの施しの剣のやつ?」

 シャイアドが頷くと、ヤームルがなにやら神妙な面持ちになる。

「一説によれば、アーデラール議長はかの伝説の魔導師サントーシャムの弟子だそうだ」

 だろうな、と思った。あそこまで有能な魔導師が、七百年前から生きている魔導師が、サントーシャムの弟子でないほうがおかしい。

「サントーシャムの伝説は、どこまでが真実なんですか?」

 シャイアドにとって、七百年にも及ぶ大昔の伝承は、にわかに信じられないことばかりだ。特に、荒れ果てた土地に命が吹き返すほどの魔力を含んだ施しの剣……あれはどこから来たのだろう?

「師匠が言うには、本当に戦争を終わらせて、施しの剣を地面に突き刺したそうだよ」

「えっ、師匠、七百年前から生きてるんですか!」

 リャットが思わず身を乗り出すと、ヤームルはばつが悪そうに頬をかいた。

「本人は断言しないんだけど、どう考えても七百年前から生きてるよ、あの人。そもそも、一番最初の弟子……僕らの長兄弟子にあたる人が五百年前の人だからね」

 リャットは頭を抱えた。シャイアドも途方もない歳月にめまいがする。自分たちはまだ十五年しか生きてないのだ。それの何十倍もの長い時を、サムドランたちは生きている。

──もしかしたら、マーリアも、それくらい昔から生きていたのだろうか。

 サムドランの師匠の末の弟子とはいえ、可能性はないとは言い切れない。その長い歴史が、あの時、あっけなく途切れてしまったのだろうか。どうして終わりは一瞬なのだろう。

「ヤームルさんは何歳なんですか」

「僕は、百五十歳くらいかな」

 ちょうど十倍だ。シャイアドは自分の感覚が麻痺してきた感じがした。いつか自分もそれだけの年を重ねるのだろうか。それとも、その前に全てが終わってくれるのだろうか。

 なんだかどちらでも良い気がした。具体性がなさすぎて、思考すらできない。

「さて、昔の人間の話はこれくらいにして、これから先に役立つことをしようじゃないか」

 リャットとシャイアドの気疲れした表情を見て、ヤームルは立ち上がって話を切り上げた。何をするのだろうと顔を上げると、部屋の奥にあった実験室のようなところを指し示す。

「僕が研究しているのはね、植物の生育を早めたり遅めたりする魔法なんだ。ロッペルっていう、やたら生命力の強い野菜があるから、君たちもやってみないかい?」

 シャイアドとリャットは顔を見合わせた。なんだか、面白そうである。

 二人して「お願いします」と席を立ち、鬱蒼と茂った虫だらけの実験室に足を踏み入れた。


 シャイアドは、サムドランが言っていたことの正しさをまざまざと思い知らされることになった。

 ヤームルが、元気がなくなってしおれてきた植物に水や栄養を与えて復活させるという、比較的簡単な魔法を見せて教えてくれた。最初、リャットは全くできず、シャイアドがぼちぼちとコツを掴んでいき、まあ修行の年数からいってこんなものだよな、と思っていたその時だった。

「うわあ!」

 真横で何かが弾ける音がしたかと思えば、リャットの目の前にあったまだ蕾もつくっていなかったしおれかけのロッペルが、ドレスの装飾のようにたくさんの赤い実をその体に身にまとっていた。

 これにはヤームルも面をくらい、信じられないといった顔で数秒間固まっていたのだが、やがて我を取り戻し、リャットに向かって「何をしたんだい」と問いただす。

「さっき教えてもらった魔法を、どうにかこうにかやってみただけなんですけど……」

 リャットも、自分自身何が起こったのか把握できていないようで、むしろ一番困ったような顔をしていた。

「こんな、生命、あるいは時間を操ったともとれるような、魔法……僕も使えないよ!」

「そんなこと言われても……」

 リャットは随分困り果てていた。なんだか哀れに思ったシャイアドだったが、かけるべき言葉も見当たらない。そもそも、シャイアド自身も表情に出している以上に驚いていた。

 これと似たような魔法を、マーリアが使ったのを見たことがある。その時彼女は驚いて言葉も出ないシャイアドに対して、いたずらっ子のような笑みを浮かべて言ったのだ。

『この魔法はね、すごく難しくて……あたしも習得にだいぶ苦労したもんさ。特にまあ兄弟子の一人はすぐにこの魔法を発現させたもんだから、ムキになっちゃって。そうさね、あんたならあと二百年も経てば使えるようになるかもしれないね』

──自分の二百年分の努力を、リャットは目の前で意図もせず掴んでしまった。

 なんだかあまりにも急で、あっけなくて、どうしようもなくて、惨めな気分になった。誰が悪いわけでもないというのに、心には黒い染みがついて落ちない。この感情はどこに行くのだろうと、シャイアドは他人事のようにぼんやりと思う。

「リャット、君はなんだか変わった子みたいだ。とんでもない才能を秘めているのかもしれない。ただ、その才能を引き出すのに苦労がいりそうだけれど……」

「ええ? 俺なんて、毎日師匠に怒られてるんですよ、そんな初歩的な魔法も使えないのかって! そんな俺にとんでもない才能なんてあるわけないじゃないですか……」

「師匠は、ダメな人間を弟子になんてしないよ。他の著名な魔導師は一度に何十人という単位で弟子をとって資金調達してるけれども、師匠は薬の調合と国王の援助で資金に困らないから、師事料は取ってないし、弟子も選りすぐってるんだ。ああ見えて、しょっちゅう弟子入りを志願されてるんだよ。でも自分が認めた人以外は弟子にしない。……まあ、僕が言うのもなんだけどね」

 シャイアドは、自分がズルをしたように思えた。自分は、マーリアの口添えで弟子にしてもらったに過ぎない。可愛い妹弟子の頼みだから、仕方なく迎え入れた……という可能性を、否定はできない。ここにいるのが恥ずかしく思えた。もしかしたら、自分はここにふさわしくない人間なのではないか? 自分一人で答えの出せない問いというのは、いつだって困りものだ。

 納得できないといった顔をしていたリャットに、シャイアドはいつもの調子でいるように努めて声をかけた。

「サムドランさんは、わざわざリャットの家族の援助を申し出てまであなたを弟子にしたんだよ。大なり小なり、それなりの理由があったはずでしょ」

リャットは、それでも眉根を寄せていた。どうやら本当に信じられないらしい。もしまぐれでこんな魔法が誰にでも使えたら、今頃世界はもっと発展している。しかるべき知識と、しかるべき才能の元でしか、魔法は発現しないのだ。どれだけ発現を願っても、手の届かない人間だってざらにいるのだ。その、手の届かない側の人間であるのは、おそらく自分であるのだろうと、シャイアドは気分が重りを付けて心の底へ沈んでいったのがわかった。可能性の具現であるようなリャットが、羨ましいと思った。

「でも……俺は、シャイアドみたいにうまく魔法なんて使えないし……シャイアドみたいに魔法の知識がたくさんあるわけでもないし……」

「わたしは十五年間ずっと修行してたからできるに決まってる! むしろできなきゃいけないんだよ!」

 リャットに侮辱された気がして、本当は彼にそんな意図がないことなどわかりきっていたはずなのに、シャイアドは衝動的に叫んでしまった。彼からすれば、なぜ怒ったのか理解できないだろう。突然怒鳴った兄弟弟子に対して戸惑っているリャットを見て、一歩引いた自分自身に「呆れた、本当に馬鹿だね」と囁かれた気がした。

「あ……ごめん、ごめんなさい、違くて……。リャットはまだ修行して数年しか経ってない。初歩的な魔法がうまく使えなくても仕方ないことなんだよ」

 もう一人の自分の刺さるような囁きに一気に頭が冷え、慌てて謝罪すると、黙って見ていたヤームルが何かを察したらしく、そっとシャイアドの肩に手をおいた。

「リャット、きみはこれから伸びればいいんだ。時間はたっぷりあるからね。そしてシャイアド、きみも本当にいろいろあって大変だったろう。でも焦らなくていいんだよ、僕もリャットも師匠も、急にどこかへいなくなったりしないから。きみのペースで成長しなさい。大丈夫、きみは筋がいいからね、本当に焦ることはないんだよ」

 やっぱり、この人はマーリアの死を知っているんだ。そして、自分が感じていた焦りも。シャイアドはヤームルのぬくもりに胸の中がくしゃくしゃになった。必死に広げて伸ばしても、シワはなかなか消えてくれない。もう隠すことなどできなかった。

「……わたしは、あの時まで、マーリアは、ずっと一緒だと、どこにもいかないと思ってました。でも本当に突然、一瞬で、いなくなりました。わたしには、守れないもの、だったんです」

 シャイアドの胸の内の告白に、ヤームルは優しく目を細め、諭すように言う。

「……きみにはわかってたはずだよ。目の前の生活の脆さが、儚さが」

 何も言い返せなかった。

 そうだ、その通りだ。ずっと一緒だと、どこにもいかないと思っていたのは、ただの願望なのだ。マーリアの思いつめたあの表情が、全てを語っていたじゃないか。結局自分は、暖かなゆりかごの中に潜って、マーリアが守ってくれることを望んでいたに過ぎないのだ。

「今のきみには、脆さと儚さを前にして、どうやって生きていけばいいのか、学ぶ力があるんだろう。だから、僕たちは急にいなくなったりしないと言い切れるんだよ。少なくとも、みんな一度に消えたりはしないさ。それに、きみは今現在立派に成長している途中だ。出来ないと最初から決めつけるのはまだ早いんじゃないかな。ねえ、リャット」

 完全に置いてけぼりを食らっていたリャットだったが、突然話をふられたにも関わらず問いの意味はなんとなく理解していたらしい。力強く、頷いた。

「ウトラも俺も、なんかあったら力になるからさ。だから、シャイアドも、俺たちに力を貸してよ。俺たちにないもの、あるもの、シャイアドにないもの、あるもの、きっと補えると思う。そうすれば、ずっと一緒に居られるよ」

「うん……ありがとうリャット。あと、ごめん。ヤームルさんも、ありがとうございました」

 シャイアドは、ウトラのときもそうだったが、マーリア以外の人に、それも複数人に、こんなに嬉しい言葉をかけてもらえるなんて思ってもみなかった。とても、素晴らしい出会いを授かったものだ。マーリアとの別れがきっかけでなかったら、手放しに喜べたのに。

 ヤームルは、時計草(特定の時間になると、花を咲かせる)の蕾が開いたのに気づくと、「そろそろ晩御飯をつくろうかな」と呟いた。「何が食べたい?」

「え、でも、俺たち、もう帰らないと、街の門が閉まるまで師匠の元に帰れません」

「泊まっていけばいいさ。あんな壁に囲まれた街の中にいるより、植物に囲まれたここにいるほうが子どもにはずっといいよ」

 リャットは最初よりずっと警戒心を解いたらしく、シャイアドに「まあ、いいか」と言いたげな視線を向けた。シャイアドもそれに応えて頷く。

「じゃあ、たくさん実ってることだし、ロッペルの炒め物でも作ろうか」

そうして、兄弟子ヤームルの元で一晩を過ごしたのだった。



 ヤームル宅からの帰り道、リャットはシャイアドの馬の横に己の馬を並べた。

「あのさ、昨日の夜……マーリアって人のこと、ちょっとだけヤームルさんから聞いたんだ」

 昨晩は、シャイアドがヤームルの部屋を借り、二人は別の場所にハンモックをひっかけて寝ていた。その時にヤームルから聞いたのだろう。

 黙っていることは耐えられなかったのか、正直に打ち明けたリャットに、嫌な気分はしなかった。

「昨日も言ったけど、いつでも俺を頼ってくれていいからね。俺、兄貴にも言われてたんだけど、鈍感なところがあるから、不快にさせることもあるだろうし、本当に力になれるかわかんない……実際、妹たちに何度も怒られてたし。でも、慰めてほしかったら全力で慰めるし、そばにいてほしかったらいつでもそばにいるよ」

 なんて出来た人間だろうと、シャイアドは苦しくなった。光にあてられた影の気分がわかった気がする。それでも、寒い日の夜に食べるシチューのように広がる胸のぬくもりが、答えを示してるようだった。この美しすぎる心に、応えようと思った。少しずつ歩み寄ってみようと思った。

「わたしのほうが、みんなにたくさん迷惑をかけると思う。あの出来事の悲しみはまだ癒えてないし、きっとこれからも完全に癒えることはない。でも、今あるこの命を、みんなの優しさを無駄にしたいとは思わない。一生懸命生きてみるから、見守っててほしい。不器用なりに、精一杯頑張ってみるから……」

 なんとか言葉を紡いでみると、その頑張りを見てリャットは嬉しそうに微笑んだ。

「うん。応援してるよ」


 昨晩の出来事を、リャットはぼんやりと思い返していた。もともと師匠からは「シャイアドはとても辛い出来事を経験している。多少、精神が不安定なところがあると思うが、支えてやりなさい」と言いつけられていた。リャット自身も、父を亡くしたばかりのころはとても辛くてしばらく笑うことができなかった。シャイアドの悲しみは推し量れないが、それでもあの子の下がっている視線を見れば、どれだけ苦しんでいるかなんとなく理解できた。ローバリ人でせっかく背が高いんだから、もっと上を見て広い視界を楽しめばいいのに。最近どんどん身長が伸びていたリャットは、そう思ったものだ。

 そしてつい昨日、リャットはシャイアドの悲しみの片鱗に触れた。ヤームルはまず、マーリアという、ドルフォア村の高名な魔導師が何者かによって殺されていたことを語った。おそらく、そのマーリアという魔導師はシャイアドの育ての親であり、魔法の師匠であっただろうことも。彼女の住んでいた屋敷は何か大きな力によって潰され、遺体は外で眠るように倒れていたという。この事件をサムドランと話した時、サムドランには犯人がわかっているような、そんな態度をとっていたと語っていた。

 ヤームルは、一度だけマーリアに会ったことがあるとも言っていた。百年ほど前の彼女はとても活発で、しかし面倒ごとを嫌い、一人で好き勝手に生きているような人だったようで、とても弟子をとるような、ましてや赤子を育てるような人には見えなかったらしい。

 そして彼女は、どう見繕ってもローバリ東部の人間には見えなかったそうだ。夕焼けのような赤い髪を持ち、その見た目は数百年前に絶えてしまったとされる西のほうの種族に酷似していた。お世辞にも、シャイアドと似ているとは言えず、親子という可能性は考えられない。

 ヤームルはハンモックに揺られながら、寝入る直前、愚痴るようにこうつぶやいた。

「マーリアさんとか、師匠とか、ものすごく優秀な魔導師は、ホントに何考えてるかわかんないんだよね」

 リャットは、サムドランの顔を思い浮かべて、力強く賛同した。

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