第5話 ルンの魔導師



 サムドランの弟子生活は、かつての日々のようにはいかなかった。

 まず、サムドランは忙しい。彼は国王の要請により、この街だけでなく、国中に薬を作っている。そのため、いつでも魔法を見てもらい師事を仰ぐということはできなかった。毎日課題中心なのは、仕方のないことなのだろうか。マーリアは小さな村の魔導師に過ぎなかったので、さして忙しそうなそぶりはなかった。そもそも、ローバリには魔導師が比較的多い。アズドルのように、一人で国中に流通させる薬を作らなければならない、ということはない。もっとも、サムドランの得意とする分野が、植物学と医学を応用させた魔法であることにも少なからず原因はあった。

 サムドランは夕方に弟子専用の研究室に現れ、各自の課題の進捗を確認する。アドバイスはさすが大魔導師といったところか、的のど真ん中を射るような的確さであった。

 魔法の実力は、当然だが、十五年生きてきた中でずっと磨き続けていたシャイアドが一番だった。リャットはまだまだ素人らしく、ウトラと大差ない。この歳でこんな実力なのに、なぜサムドランはリャットを弟子入りさせたのだろうか。聞くところ、サムドランのもとを卒業した弟子たちは皆一流の魔導師だという。なんせ、ほとんどが王宮勤だ。残り数人は放浪の旅に出たらしいが、それでもたまに皆から手紙が届くのだとリャットが手紙の封を見せてくれた。魔導師に恨みを抱くものたちは少なくないというのに、彼らは全くの無傷だという。そんな人たちが巣立っていくこの場で、なぜリャットが?

 その疑問が、魔法にでていたのか、あるいは読まれてしまったのか。課題である花の色をその場で何色にも変化させる魔法を見せた時、サムドランは静かに口を開いた。

「あんたは筋がいいね。……リャットは、まあ、おまえさんなら気付いてるだろうが、筋が無茶苦茶なんだ。何年経っても、私がどう教えても伸びる気配を見せない。……でも、私は、彼はとんでもない魔導師になると思っているよ。私を超える──それこそ、七百年前の”彼女”亡き今、全魔導師の頂点である大魔導師議長アーデラールのような」

 七百年前の奇跡──”施しの剣”によって世界の大戦を無血で終わらせただけでなく、荒廃すらも癒してしまったという伝説を生み出した大魔導師、サントーシャム……。彼女は奇跡を起こした後行方不明になり、経緯はよくわからないが死んでしまったらしい。そんな彼女に追随するアーデラール議長に並ぶとなれば、リャットはまさに幼い子どもでも知っているような偉人になるということだ。

「まるで、確信しているかのような物言いですが……」

「ああ。……まあ、いずれわかるさ。きみも、リャットのこと、よく観察してみるといい。面白いぞ、あいつは」

 サムドランが去って行ってしまいそうだったので、シャイアドは慌てて引き止めた。サムドランはシャイアドが何を聞きたがっているのかわかりきっているに違いないのだが、何も言わずに振り向いた。

「わたしは、どんな魔導師になれますか」

「さあな。おまえさんは何者になりたい?」

 挑戦的なサムドランの口ぶりに、シャイアドは咄嗟に言い返してやりたがったが、その前にあの時の鮮烈な思い出が蘇ってきた。マーリアの最後の言葉。

──あんたが何者でも、何者でもなくても、あたしの一番の弟子だ。

「……わかりません」

──私は、凡庸から抜け出せなかった。


 サムドランが去って行き、風呂の時間になった。風呂、というものはアズドルの文化には存在しないはずだったが、どうやらサムドランはアズドルの文化が生まれる前からこの世界を生きているようなので、関係ないらしい。

 今日はシャイアドが当番なので、魔法で火を付け、湯を沸かした。この豊富な水は地下の巨大なパイプを伝って遠くの湖から来ているそうで、この街を建設する際にサムドランが作ったと言っていた。だから、この街は私のおかげで水が使いたい放題だ、とも自慢していた。マーリアは、湖の近くに居を構えていたので、そこから己の魔法で水道を引いていたのを思い出した。やはり、兄弟弟子なだけはある。村には水源があったので、わざわざ引く必要もなかった。

 また、サムドランの口癖は、『楽をしたければしてみせなさい。魔法で、楽を、追求しなさい。楽は世界を広げる。時間の幅をも広げてしまう』であり、当番の仕事を魔法で楽に早く終わらせることを熱烈に奨励していた。掃除や料理、洗濯など……マーリアも、同じようなことを言っていた。もしかしたら、この人とマーリアはそっくりなのかもしれない、とシャイアドは嬉しくも複雑な心境になった。あの風変わりなおじさんと、一緒にしてほしくない。

 ウトラの当番は、限りなく少なかった。あるとすれば、買い出しくらいだろうか。それも、ウトラが行けば何かしらおまけをもらって来るからサムドランが味をしめたと言ってもいい。最初はウトラの顔が広いのかと思ったが、あの子は意外としたたかなところがあるらしく、商売上手なのだ、とウトラについていったリャットが分析していた。

 サムドランは、深夜に風呂に入る。自分で湯を沸かし直すのでそれまで起きている必要はなかった。なので、シャイアドは一番風呂に入った。当番の者が最初に入って良い決まりだ。

 湯船には、サムドランが調合したらしい薬の葉が浮かんでいた。香りは新緑の森を思い出す、みずみずしい匂いだ。

 風呂から上がると、キッチンにウトラが立っていた。シャイアドの気配に気づくと、ウトラは何か悪巧みをするような顔で手招きをする。首を傾げて近づくと、暖かいコップを渡された。中を覗くと、やわらかな湯気が頰と鼻腔を撫でた。ホットミルクだ。

「リャットの分は無しだから、内緒ね」

 どうやら今日の買い出しで多めにもらったミルクを温めていたらしい。シャイアドは哀れなリャットに上辺だけの謝罪を述べながら、ミルクを飲む。

「あのね、明日から、サムドランさんが持ってる炉の部屋を貸してくれるんだって。そこで、魔法を使った鉄や宝石の加工の練習をしなさいって」

 シャイアドが見る限り、ウトラの魔法の才能は初心者ながらなかなかのものだった。これで魔導師を目指していたら、と内心少し残念に思っていたが、本人はあくまでも職人になりたいらしい。

「なんか、専門の技師って感じでこっちまでわくわくしてきたね」

「あ、やっぱりそう思う? 世界でも、もう魔法と鍛治を両立できる人はいないんだってさ。って言っても、魔導師は汗をかきたがらないだけで、やろうと思えば誰でもできることなんだろうけど」

「できてもやらないならできないのと一緒だよ。でもウトラはやるんだから、世界で唯一の存在になるんだね」

「……シャイアド、応援してくれる?」

 不意に不安そうな目の色をしたウトラに、シャイアドは驚いた。ウトラは怖いもの知らずなのかと思っていたが、実はそうではないらしい。自分で考え、不安を飲み下せる力を持っているようだ。今回は、知らないことだらけで不安が飲み込みきれなかったのだろう。

「あのね、ウトラ。魔法って、奇跡だとか、夢みたいに見えるけど、本当は違うんだ。物を燃やせば炎が生まれるのと同じだよ。この世界ではごくごく当たり前のことで、怯えることはない。魔法を使えない人は、火を起こす道具を持っていないだけ。ウトラは、もう持ってるから、あとはただ火が起こることを信じて動かすだけなんだよ」

 幼い頃、マーリアから言い聞かされた言葉だった。魔法だけが奇跡なのではない。この世の全てが”奇跡”で、それが”当たり前”なのだ。だが、決してそれを軽んじてはいけない。人は、自然には逆らえないのだ。魔導師の長寿も、自然を受け入れ、体内の循環を自然とリンクさせているためなのだそう。不死だなんて、自然の摂理から逆らっているように見えるが、実際は真逆だ。

 ウトラと別れた後、シャイアドが己の部屋に向かう途中で、リャットが図書室へ入っていくのが見えたので、特にやることもないシャイアドは後を追った。頭の中に、今日のサムドランの言葉を思い浮かべながら。

 特に重い扉を開けて図書室へ入ると、中で本に手をかけていたリャットがこちらを向いて目を丸くする。

「……ああ、そうか、俺は一人じゃないんだよな」

 どうやら扉が勝手に開いたことに驚いていたようで、まだ、人がいる生活に慣れてないらしい。

「リャットは人が多いのは嫌い?」

 ここ数日で、リャットの人の良さのおかげですぐに打ち解けることはできたのだが、それでもおしゃべりとは言えないシャイアドは、あまりリャットと会話したことはなかった。突然やってきた無口な兄弟弟子にリャットは困惑しているだろうが、そんなことを気にしていられるほど、サムドランの言葉は軽くなかった。

「いいや、好きだよ。人が多いって、楽しいだろ」

 羨ましい考えだ、とシャイアドは思った。

 青空のもと、洗濯物を広げて干したような清々しいまでの明快さ。それが、リャットの持ち味だった。雲行きが怪しくなることはあれど、放っておいたらいつの間にか晴れている。人を心から憎く思う前に、洗い流せてしまえるようだ。

「シャイアドは何しに来たんだ?」

 無邪気に問われて、シャイアドは、困った。リャットと話をしに来たとは言えない。咄嗟に、「今日出された課題、結構難しかったから」と答える。

 「ふうん」と返事をしたリャットは、手にしていた本を開いた。そうして、ぽつりと言葉をこぼす。「師匠さ、君にものすごく期待を向けてるみたいだよ」

 思わぬ言葉に、ごまかし半分に本棚に伸ばした手が止まってしまった。

「君も気づいてるだろ? 師匠、一週間前よりはるかに若返ってる。面会の希望が来た時だって、シャイアドって子が来るって話を知らせたら、楽しそうに笑ってたよ」

 リャットは、少し面白くなさそうな、羨ましそうな声色のまま、視線を本に投げ戻した。

 魔導師は、気力によって老いたり若返ったりする。明日への希望、やる気、そんなものに満ち溢れていれば、魔導師は若返る。逆に、過度な心労、絶望、諦観などといったものによって、老け込んでいく。

 確かに、サムドランは若返っていた。出会った頃は初老の男性だったが、今日は中年男性の風貌だった。

──しかし。

「あれって、本当にわたしという”弟子”に対する期待なのかな」

 どうも、シャイアドにはそうは思えなかった。

「どうして?」

「うまく言えないんだけどさ……。あの人、わたしという人間を試すような言動をするの」

 今日のアレとて、そうだ。

「そりゃ試すだろ、弟子なんだから」

「違うよ、そうじゃなくて、もっとこう……」そこまで言って、掴もうとしていたものがずっとあやふやなものであったことに気づく。「──ううん、やっぱいいや。なんでもない。忘れて」

 無理やり話題を切ったシャイアドに、リャットは呆れたような声を出しつつも、それ以上詮索してはこなかった。

 場と気を紛らわすために適当な本を手にとって開いたが、胸に、夕闇色の喧騒が残る。この違和感は、なんなのだろう?

 埃とインクの香りが満ちる図書室に、真っ暗な静寂が広がった。


 数日後、サムドランに呼び出されたシャイアドとリャットは彼の書斎へとやって来ていた。

 サムドランの書斎は、植物の汁のような青臭い匂いで満ちている。そもそも、サムドランはいつもなんらかの植物の匂いを漂わせていた。最近知ったのだが、彼は様々な人からルンの魔導師と呼ばれているらしい。ルンとは、この世の全ての植物のことを指す。どんな毒を持った植物でも、サムドランの手にかかれば薬になってしまうのだそうだ。

「リャット、シャイアド。そろそろ課題にも飽きて来ただろう、そこで、一つ頼まれごとをしてくれないか」

 机の引き出しから一本の瓶を取り出してそう言った。中には、どんな植物を使えばこんなファンシーな青を出せるんだ、と思うような色をした液体が入っている。嫌にとろみがついており、傾けるたびに中の液体がなめらかに揺れた。

「師匠、なんですか、これ」

 リャットが訝しげに瓶の中身を睨み付けると、サムドランは鼻で笑う。

「舐めてみるか?」

 リャットは即座に辞退した。明らかに人が飲んでいいものの色をしていない。このミルクに青色の染料を混ぜたようなものの正体は、肥料だった。

「五十年前に王宮専任魔導師を退職した八番目の弟子が、リマナスラという難しい植物の栽培をしているらしくてな、まあ、リマナスラは私にも花を咲かせるのは難しい……泣きついて来たんだよ、全く世話がやける」

 それでも、巣立っていった弟子に頼られるのは嬉しいのだろう。サムドランは、いつもの眼光を緩めて、かつての思い出を瓶の中に見ているかのように口元を緩めた。

「これをそいつに届けて欲しいんだ。……ああ、いつだって、弟子にも、弟妹弟子にも、頼られるのは嬉しいものだな」

 シャイアドは、無意識に胸元のペンダントを握っていた。


 街から出る時、シャイアドは久しぶりに日が高い外を歩いた。サムドランに渡された、本当に金で装飾がされているのではないかと錯覚するような刺繍入りの、夕闇に溶け込む色をしたローブは、フードがとても深い。髪の毛はもとより、顔すらも隠れてしまうほどだ。これを来ていれば、大切な仕事の途中だと思われて人に話しかけられることはないし、門を出る際にも引き止められることはないのだそう。

 シャイアドは、無闇にサムドランの元を離れるのは気が引けたのだが、やはり彼はマーリアが何からシャイアドを逃がしたのかを知っているようで、ただ「心配しなくても良い」とだけ言った。今朝もサムドランは雲を読んでいたが、それでも問題はなかったようで、こうしてリャットとともに外へ出ることができた。

 今までの苦労が嘘のように、人にも兵にも止められることなく楽に門の外へと出られた。敬礼をする兵たちを尻目にあたりを見渡すと、門の脇の詰所のようなところの側に、サムドランが手配した馬が二頭、男に連れられて立っており、男はシャイアドたちに馬の手綱を渡すと、何も言わずに去っていってしまった。

「あーあ、俺たちも師匠みたいに魔法でちゃちゃっと移動できたらいいのに」

「八番目のお弟子さんがいらっしゃるところには移動用の魔法陣がないらしいし、そもそも今のわたしたちの実力じゃまだ転移魔法なんて夢のまた夢だよ」

 大魔導師たちが乱用している転移魔法だが、実際は習得には百年はかかるという。しかも、才能がない者が無理やり使おうとすれば、どこか虚空へ消えてしまうらしい。これまで何百もの魔導師が消えてしまったと記録にあった。

 リャットは不服そうな顔で「わかってるけどさあ」と文句を垂れて、馬にまたがるとゆっくり走らせる。「今頃ウトラは師匠とステーキ食ってるんだろうなあ」

「……あの、貶める意図はないんだけど、リャットはどうして魔導師になろうと思ったの?」

 シャイアドはあまり馬に乗ったことはなかったのでちゃんと一人で操れるか心配だったが、この馬は頭が非常に良いらしく、シャイアドの拙い操縦でも思い通りに動いてくれた。

 馬の扱いがやけに手慣れているリャットは、前方を走りながら振り返ると、物思いにふけるように目線を下げる。

「──家族のためだよ」

 普段明朗快活なリャットが静かな口調で語り出したギャップに、シャイアドは手綱を離さないでいるのがやっとだった。

「俺、ローバリとの国境付近であるここらへんとは真逆の方にある、地方の農民だったんだ。兄弟が、俺を除いて九人いるんだけど……あ、俺は上から二番目ね。父さんは数年前病気で死んで……それ以来兄さんと俺で父さん分の仕事を回してたんだけど、役人から土地の借用権に関して色々言われてさ。農耕地が一気に半分以下! 幼い兄弟はどんどん食べ盛りになっていくし、縫い物で稼いでくれてた妹も隣の家に嫁に行っちゃうし、”施しの剣”が失くなって以来、どんどん土地は痩せていくし、極め付けは税の強化だろ。もう本当にダメかと思ったんだ。でもそんな時、師匠が俺の目の前に不意に現れた。突然、俺が弟子になるなら、家族に援助しようとか言い出して……まあ、断る理由なんてないよな」

 魔導師になる者は、皆魔導師に憧れてなるのだと思っていた。だがそれは、シャイアドの見識の狭さを物語っていただけだった。今までマーリアのおかげで腹を空かせることはなかったし、暖かいベッドで寝ることができていたから、明日の食い扶持を求めて魔導師にならざるを得なかったという事情に、考えが及ばなかった。

 シャイアドは、なぜ自分が魔導師になりたかったのか、自問した。

 マーリアがいたからだ。自分は、マーリアのようになりたかった。そのマーリアが、魔導師だった。ただそれだけだ。きっと彼女が鍛治職人だったら、自分も鍛治職人になりたがっていただろう。そもそも、物心着く前から、マーリアはシャイアドに魔法の手ほどきを授けていた。だから、魔導師となることは必然だったのだ。

 今という時は奇跡の連続でできている。そして、それは当たり前なのだ。どんな奇跡が起こったか、それがかけがえないだけだ。

「でも、今の修行生活だって気に入ってるんだぜ。魔導師って楽しいから悪くないしな。前までは寂しかったけど、君らが来て賑やかになったしね」

「リャットは、生活に困ってなかったら、サムドランさんの勧誘は受け入れてなかったの?」

 背筋を伸ばしたまま、行先をじっと見据えたリャットは、ゆっくりとかぶりを振った。

「なんだかんだ言って、受け入れてたと思うよ」

 案外、そんなものか。

「シャイアドは? 魔導師になりたくてなったの?」

「わたしは、生まれた時から魔導師になることが決まってたから……」

 リャットに「え、どうして? 親が魔導師だったの」と問われ、先ほどの自問を声に出して繰り返そうとして、シャイアドは初めて、自分の進んで来た道に疑問を抱いた。

 そういえば、そうだ。

 だまし絵のように、今まで見えなかったものが見えてしまうと、それ以外の視点が失われてしまった。心に、世界に、何かがこびりついた。擦れど擦れど、取れそうにない頑固なものが、シャイアドの視界を支配した瞬間だった。

(わたしが魔導師の道を進んだのは、マーリアに育てられたからだ。それは、間違いない。


 でも、わたしはマーリアの実の娘じゃない。


 マーリアは、今まで一人も弟子を取らなかったと言っていた。単身でひっそりと、街の魔導師の養成所へ赴くわけでもなく、ただただ村の手助けをして生きて来たらしい。幼い頃に親に捨てられ死にかけたところをマーリアに助けられて、遠い街の教会へ預けられ、そこで魔導師となったという人が、館にお礼を言いに来たことだってある。そんなマーリアが、なぜ、赤ん坊のわたしを引き取り、弟子にしたんだろう? 友人の子、とかだったのかな)

 否、それだったら親の形見くらい、なにか残っているはずだ。マーリアの館には、たくさんの人々の贈り物が置いてあり、マーリアは全て誰にいつ贈られたものか、覚えていた。でも、シャイアドの両親のことは、語られることはなかった。彼女があえて語らなかった可能性もあるが、ではなぜ語らなかったのか? 何か、シャイアドに隠していたのではないか?

──たとえ両親のことでなくとも、マーリアはシャイアドに何かを隠していた。それはあまりにも鮮烈に目を焼く事実だった。彼女は、一番大切な何かを、隠していた。だから、今、こんな感情に、全てを支配されているのだ。


 昔、引き取った理由を聞いたことがあった。

 ”運命”だと、確かにそう言っていた。


 一体、どんな運命だと言うのだろう。もし、今までの悲しみ全てが筋書き通りの運命なら、なんて報われないのだろう。そしてマーリアの言っていた”奇跡”が、マーリア自身によって否定されたような、矛盾という足場の先端に立たされたような気分だった。いいや、もともと、生まれ育った場所さえ矛盾に塗り固められていたことに、今やっと気づいただけなのかもしれない。あるいは彼女は、運命さえも奇跡と呼ぶまばゆい人だったのか。

 運命も奇跡も、シャイアドにとってはどっちでもよかった。何も知らされていないのなら、決められていないのと同じだ。だがきっと、これからは己の意思に関係なく、どちらかが暗い世界の先に立ちふさがってくるのだろう。そんな予感がした。

 リャットは、黙り込んだシャイアドに並々ではない事情を察したのか、あるいは慣れてしまったのか、少しだけ困ったように笑って前を向き、それ以上何も言わなかった。

 何も詮索してこないリャットは、一緒にいて楽だ。人間くさい性格も、かえって親しみが持てる。

 シャイアドは、久しぶりに天頂から降り注ぐ太陽と、大地にそよぐ嗅ぎ慣れぬ風を全身に浴びて、やけに静かな気持ちで地平を見据えた。

 今更、何も語らなかったマーリアを憎む気になどなれない。どうして何も言ってくれなかったんだと泣いて喚いて、どんな真実があろうともどこにも行かないでくれと懇願こそすれ、明日へ進む理由を憎んでしまったら、自分は本当の意味で何者にもなれなくなる。それに、どんなに疑問を抱いたって、憎く思ったって、マーリアを愛する気持ちが少しでも揺れ動くことはないのだ。

(ああ、いっそ、この世に存在するものを真っ直ぐに恨めたら、あるいは愛せたら、どんなに楽か)

 悲しみの原因も、その理由も、今はまだ知り得ない。真実を知った時、それを心から憎むことができるだろうか。マーリアへの真っ直ぐな憧憬も、この胸に出来てしまった虚ろに、再び収まってくれるだろうか。

 目尻に何かが濡れた。雫は馬の進んでいく速さに負け、ずっと遠くへ飛ばされていった。

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