第3話 ウトラとランギ
暗闇の上に立っていた。
遠くに人が見えた。
本当に人なのかどうかは、わからない。
それでも、人のように見えた。
その“人”は、こちらの存在に気づくと、ほんの少しだけ、口角を上げる。
微笑みだろうか。そう思った刹那、いつの間にか目の前に迫っていたその人が手を伸ばしてきた。世界の隅の黒いどろどろしたものを固めて白い皮膚を貼り付けたようなその手が、目に入りそうだった。
ーー怖い、怖い怖い。
拒絶しようと体を動かす前に、目の前に夕焼け色がはじけた。…マーリアだった。
マーリアはその人の前に立ちふさがると、夕暮れ時の湖のような魔力を、とてつもない濃度で放出する。昔マーリアが見せてくれた、花火というものにもよく似ていた。
見ることが出来なくなるほど溢れたそれは、シャイアドの意識を波のようにいともたやすくさらっていく。光の向こうに立ちはだかるマーリアの後ろ姿が、ついに消えてしまった。
次に気がついた時、シャイアドは一人だった。足元に、何かが転がっていた。暖かい色をしているのに、冷たい。これはなんなんだろうとしゃがんだところで、胸をつんざくような痛みが駆け上った。
目が熱い。嗚咽が漏れる。頭の中を白と黒が混じり合うことなくちかちかとはじけて、何が何だか訳がわからなくて、シャイアドはしばらく衝動に身を委ねた。そうすると、ほんの少しだけ楽になった気がした。
いつもはそっと抱きしめてくれる温かい手が、今日はどこにも感じられない。
……泣き疲れたシャイアドは、顔を上げた。もはや全ての感情が億劫に思えた。最初からわかっていたのだ。
(……マーリアは、死んだ)
心は、初秋の曇り空がやってきたかと思うほど、静かで、冷たくて、重苦しかった。心の泉が枯れ果てたように思えた。
希望など、もうどこにもないのではないか。きっとあの雲の向こうにも、薄暗い世界が続いているに違いないのだ。太陽は落ちた。迫り来る闇を前に、自分は何が出来るだろう? 太陽に守られ、太陽によって育った自分が、暗闇しか見えない先で何を見つけられるだろうか?
マーリアは逃げろと言った。シャイアドに生きてて欲しいと、何よりも強く、何よりも先に願っただろう。
でも、それと同じくらい、マーリアにも生きてて欲しかった。
マーリアのいない世界で生きていく意味なんてない。けれども、マーリアに助けられた命をみすみす捨てる意味もまた、ない。その矛盾は、シャイアドのぼろきれのような心を嘲笑って踏みつけていった。生きたくもない、死にたくもない。ただどうしようもなく消えてしまいたかった。いっそ記憶なんて無くなってしまえばいい。マーリアとの思い出と一緒に、自分も無くなってしまえればどんなにいいか。
だが、こうして今、ここに立っている限り、見つけるしかないのだろう。暗闇を這ってでも。生きる意味か、死ぬ意味を。あるいは、両方でもいい。
抜け殻となってしまったようなこの体に、誰かが何かを満たしてくれることなどないことを、シャイアドは薄々感づいていた。それでも、虚構の上でも、立っているふりをしなければ、気が狂いそうなのだ。狂気に染まることだけは、マーリアの弟子としての誇りをかけて避けねばならなかった。
ああ、この先の、長い長い道の上で、自分は最後まで歩き続けられるだろうか。何もないことに絶望し、生きることも死ぬことも放棄することはないだろうか。
*
あれから、数日が過ぎ去った。未だ少女は深い眠りの中におり、ルーザス医師が「なんらかの精神的ショックで寝込んでいるのでしょう、かわいそうに」と診察した通り、彼女は深い何かに囚われているのだと、ウトラは自分と同じくらいの歳の少女に同情した。
そしてあるとき、突然彼女は目覚めた。
ぱっと目を開き、サムドラン氏の薬を飲ませていたウトラを視界に捉え、
「……あなたは、誰?」
とぽつりとつぶやいた彼女に、ウトラはどうすれば良いのかわからなかったが、とりあえず真摯に対応しようと思った。彼女が本当になんらかの精神的ショックで寝込んでいたとすれば、出来るだけ優しくしてあげたほうがいい。そしてウトラは、目覚めた少女の、嵐の前の静けさを湛えた眼差しに目を奪われていた。
「私はウトラ。鍛治職人の娘で、あなたが森で倒れてたのを見つけて介抱してたの」
少女はふと目をそらし、しばらく遠くを見つめていたが、やがて頭の混乱が治まってきたのか、目を閉じると「そっか」とつぶやいた。
「ありがとう…ウトラ」
「どういたしまして!」
名前を呼ばれて、ウトラは嬉しくて、でも少しだけ恥ずかしくて、こそばゆく感じた。
「あの、わたし……」
少女は身の上を語ろうとしたのか、言いにくそうに眉をひそめたので、ウトラは起き上がろうとする彼女の肩を抑えてまた横にする。なるべく優しく笑いかけて、不安にさせないように努めた。
「ずっと寝てたから体も辛いでしょ? もうしばらくそうしてるといいよ。それに、言いたくないことは無理して言わなくていいからね」
思えばランギもそうだった。家に来たばかりの頃は、気丈に振る舞ってこそいたが、彼もまた、一度に二人も親を亡くして心に傷を負った一人だったのだ。今は気持ちに整理がついたのか、たまに亡くなった両親のことを話してくれる。豪胆なお母さんと、兵士ながらも温和なお父さんだったようで、二人のことを話すランギはとても優しい顔をしていた。
この子も、いずれはランギのように、とても辛い出来事に囚われていても、失ってしまったものを優しい顔をして語ってくれるようになるのだろうか。
鉄は打てば打つほど強くなる。しかし、人間は果たしてそうだろうか? 確かに強い人間はたくさん打たれた人だろう。でも打たれる途中で折れてしまっても、誰にもそれを咎めることは出来ないのだ。
(この子はどちらだろう)
どちらでもいい、とウトラは思った。見ず知らずの少女だが、ただ少しでも笑って暮らせるようになってくれればそれでいい。
少女はしばらくウトラの顔を眺めていたが、口を結ぶとまた布団の中へと潜っていった。
父とランギに少女が目覚めたことを伝えると、二人とも安心したようだった。どこか緊張した面持ちになったことが気にかかったが、異人のあの子の処遇をどうするか、まだ考えていないのだろうとウトラは思った。
ルーザス医師を呼び、少女を診てもらうと、少し栄養失調気味だが、比較的健康状態は良好らしい。安心が、固まっていた神経をときほぐした。
その知らせと果物を持って、母の部屋へと向かったウトラは、幾分か良くなった母の顔色にさらに心が軽くなるのを感じた。
母はウトラを迎え入れると、果物を手際よく剥き、ウトラにも食べさせてくれた。
「ごめんね、ウトラ、心配かけちゃったわね」
「ううん、いいの。早く元気になってね」
母には少女のことを話していた。話している間、母は嫌な顔も驚いた顔も少しも見せず、ただ何か思い当たる節があるのか、考え込むそぶりを見せていた。むしろ、そんなことがあることを、知っていたようにさえ見えた。
(そういえば、ママは昔、世界中を回ってたんだっけ)
小規模な商人の娘だったらしく、世界中を売り歩いていた母が、ローバリ魔道共和国のことをよく知っていてもおかしくはない。何か、思い当たる原因でもあるのだろう。
「そういえばね、ママ、あの女の子、さっき目が覚めたんだよ」
「そう、よかったわ。大丈夫そうなら、まだしばらくは安静にしてもらいなさい。何かあればすぐ、ルーザスさんを呼ぶのよ」
「わかった」
果物をすっかり食べ切ったウトラが食器や皮を持って部屋を出て行くのを見送った後、ウトラの母は未だ心を温める過去に、遠く想いを馳せた。
(……マーリア、死んでしまったのね)
彼女は、サムドランが予見した内容を、既に二十年近くも前に知っていたのだった。
少女はしばらく口をきかなかった。軽い挨拶はしたが、それ以外のことにはあまり興味を示さず、生返事だけで済ませることが多かった。ただ一つ、シャイアドという名前を語ってくれたのは、とても嬉しい出来事だった。
そして、彼女が目覚めてもエマには何も言わなかった。やはりエマの拡散力と、物静かなシャイアドとの正反対な気質は良くないだろうと父が言ったのだ。ランギも、少し思い当たる節でもあるのか、その方がいいと苦笑しながら同意していた。
ある日、買いだめしていたサムドランの薬が切れたので、調達してくると、思いがけないことに、シャイアドは生き返ったかのように食いついてきた。サムドランという名前を聞いたシャイアドのあまりの変貌っぷりに、ウトラは大いに戸惑った。
「この街に、サムドランがいるの?」
「う、うん……。街の魔導師だよ、城壁の入り口から一番遠いところに住んでるの。何百年も生きててとってもすごい人らしいけど、ほかの魔導師のことよく知らないから、詳しいことはわかんないや」
「わたしも詳しいことは知らない。でも、わたしは、そのサムドランって魔導師に会わなくちゃならないんだ、何がなんでも…」
これまでの生気の無さが嘘みたいだった。何か大切なものを取り戻したような顔をしていた。サムドランに合わせれば、この子ももっと喋ってくれるようになるだろうか。
ドアの向こうからノックが聞こえて来て、二人はそちらを見た。「俺だ」というランギの声が聞こえたので入らせると、彼は粥を持っていた。シャイアドの夕食だった。
「飯持ってきたら聞こえちまったんだ、悪く思わないでくれよ」と前置きをした後に、「サムドランは今この街にはいないぞ」と言い切る。押し黙ったシャイアドに変わって、ウトラが「どうして?」と尋ねた。
「さっきエマさんが言ってたんだが、どうも、隣国……ローバリ魔道共和国のトップが十年前の事件の犯人なんじゃないかって我らが国王が言い出したらしくてな。そいつと関係があるらしいサムドランが、尋問されてんだろうよ」
「いつ、戻ってきそう?」
「さあな、一週間、一ヶ月……長くて半年か? ま、もともとサムドランは国王に厚く信頼されてるみたいだしな、帰ってこねーってのはないだろ」
しかめっ面をしたシャイアドを安心させるように、いつものように笑いかけたランギは、「会いたいってなら、帰ってくる前にアポ取っといた方がいいぜ。やっこさんは進んで人と関わるようなやつじゃねーからな」と付け足した。
*
シャイアドは、マーリアの死と向き合って行く中で、大きな疑問を抱いていた。
ただ大きな絶望と悲しみに打ちのめされて気がつく余裕などなかったが、体内の水を全て出し切ってしまったのではないかと思うほど泣いたあと、残された場所でふと思ったのだ。
(なぜ、マーリアは死んだのだろう。誰が、マーリアを殺したのだろう)
だから、サムドラン、という名が出てきた途端、暗闇しか存在しなかった目の前に、わずかな光が見えた気がした。
ーーサムドランという魔導師を訪ねるんだ。
なにかが迫り来る中のマーリアは、そう言っていた。そこに、マーリアの死の真相への鍵があるのだろうか。
とにかく、残された道はそれしかない。
胸の中に、深く深く、その目的は刻み込まれた。もう誰にも潰すことのできないものだ。
(マーリアの死の真相を探す)
あのマーリアでさえ死んでしまうほどのことだ。きっと自分には手に負えない話なのかもしれない。人間が誰しも腹を減らし、眠くなることと同じで、絶対に逆らえない何かが存在するのかもしれない。それでも、今のシャイアドが生きていくには十分すぎる目標だった。
頭の芯が絞られるような目眩がして、いくつかの瞬きのあとに、やっと世界に色が戻った。顔を上げると、頭の中に極彩色が雪崩れ込んできた。ウトラの、森の泉の底から汲んできた水のような目の色の美しさ、ランギの、深いところを見透かしてしまうような赤茶色の目の神秘さ。シャイアドは、長らく色を忘れていたのもあって、久しぶりに「綺麗だ」と思った。まだ自分には、美しいものに感動できるだけのまともな感性が残っている。とても、嬉しいことに思えた。同時に、重いものを背負ってしまった自覚もあった。それでも、目の前で輝く二人の目の美しさを前にして感動できることに、痛いくらいの喜びを感じていた。
サムドランが帰って来る間、シャイアドは家の中で隠れて過ごした。ここアズドル王国の保守的な政治は前々から本や商人の話で知っていたので特に異は唱えなかったが、この家の中で過ごすというのが意外と大変だった。外には出られず、家の中でもエマというおばさんに見つかると厄介だと念を押され、皆が仕事に出払っている間は特に細心の注意を払った。ウトラの母がエマの注意を引きつけてくれていたが、それでも突然部屋へ掃除にやってくるときがあり、常に神経を尖らせなくてはならず、体は動かしていないのに疲労感がとてつもない。広い丘陵に一人寝転がって、寄って来た小鳥の歌を聴くあの生活は終わってしまったのだ。そういえば、今もまだ、あの丘陵では、小鳥は歌っているのだろうか。
そして、予想した通り、シャイアドは魔法の勘が鈍っていた。マーリアの死がそれほどショックだったのか、ただ単に修行を怠ったからか。昔は発現できてマーリアに褒められた身隠しの魔法がうまく使えなくなったのは、少なからずショックだった。
ウトラとその家族は、シャイアドがいわゆる“魔法使いの弟子”であったことに最初は驚いていたが、態度を変えることなく--腫れ物を扱うような、よそよそしい様子など見せず、暖かく受け入れてくれた。ウトラに至っては目を輝かせて見せて欲しいとせがんできた。ランギも、ウトラの父も、とても興味深そうに魔法の発現を見守っていた。ウトラの母が、とても懐かしそうな、寂しそうな顔をしていたのは、きっと昔魔導師の知り合いがいたからなのだろう。
魔導師は人々の心に残る。マーリアの口癖だった。だから、日頃から己を律し続けるんだよ。そうも言っていた。きっと、ウトラの母の心にもまた、魔導師が残っているのだろう。
今日はエマが休みの日で、シャイアドは久しぶりに家の中を自由に歩きまわれた。これまでの鬱憤を晴らすように、マーリアの館ほどではないが、一般人の家としてはそこそこ大きな家をしらみつぶしに歩いた。勝手にドアを開けてどんな部屋があるのか見て回ると、途中で寄ったダイニングの窓際に、ウトラの母が座っているのに気づく。
ウトラの母は、体こそ弱いが、内に秘めたるものは力強い人だった。眼差しの落ち着き加減は、どことなくマーリアを思い出して、シャイアドはいつも心がきゅっと縮まるように思えた。
「あら、シャイアド、どうしたの?」
「……やることが、ないので……」
掃除や洗濯はすでに申し出てやっていたが、エマに怪しまれない程度にという制約がついていたので満足にやれなかった。マーリアの館にいた頃は、埃一つ残さないよう常に綺麗に掃除していたし、洗濯もシミ一つ残さず洗った。といっても、マーリアは勝手に掃除用具が自ら掃除を始める高度な魔法が使え、それがなんだか掃除用具に負けた気がして癪だったので、仕上げをムキになってやっていただけなのだが。洗濯は、自分で調合した薬を試せる機会だったので、もはや趣味となっていた。
「ずっと家の中にいたらさすがに暇よね。私と同じだわ。あなたはきっと、広い草原も、深い森も、果てなき空も知っているのでしょう? そんな子に鳥かごは狭すぎるわ」
「あなたも、知ってるんですか」
「ええ。あの子が--ウトラが産まれるまでは、キャラバンに乗って世界中を旅して回っていたもの。ローバリの緑がアズドルより美しいことは、今でもよく覚えているわよ」
もしかしたら、と思った。でも、シャイアドは何も言わなかった。
ウトラの母は、そんなシャイアドに慈愛を込めて微笑みかける。
「身隠しの魔法、使えなくなってしまったと言っていたけど、早く使えるようになるといいわね」
シャイアドは、素直に頷いておいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます