第2話 マーリア
マーリアは、シャイアドの師匠だった。
偉大なる師匠は長い間、ローバリ魔道共和国の東部、街を自然が囲み、その中にあるなだらかな丘の上、一軒だけ立つ大きな館に一人住んでいた。
シャイアドは生まれて間もない頃、マーリアに引き取られた。一体どういった経緯で親は己を捨て、逆にマーリアは引き取ったのか、シャイアドにはどうでもよかったが、ただ純粋に気になって聞いたことがある。マーリアはただ一言、「そうさね、運命ってやつかね」と答えた。そうなのか、とシャイアドは思った。
シャイアドは決して活発な少女とは言えなかったが、外に出て数多の自然と言葉無き言葉を交わすのを日課としていた。生い立ちゆえ街の子どもたちとは反りが合わないようで、共に野っ原を駆けずり回るようなことはしなかった。マーリアはそんなシャイアドを愛していたし、シャイアドも、師であり母であり姉であるマーリアを慕っていた。
シャイアドはぼんやりと、このまま自分はマーリアの元で育ち、いつか彼女とともにこの街のひとびとの力になって生きていくのだろうと、そう思っていた。
(でも、最近マーリアはなんだかおかしい)
十四歳の誕生日を過ぎてから、マーリアは遠くを見つめることが多くなった。薬草を煎じる手を止め、ふと窓の向こうの小鳥たちに目をやる。そうしてシャイアドを振り返ると、とても悲しげな眼差しを帯びたその目で見据えてくるのだ。シャイアドには、いつも気丈なマーリアの向けるその眼差しが、決して良いものではないということはわかっていた。
心の底に一抹の不安を抱えながら、一年を過ごした。マーリアの目から、憂いが消え、逆に深く深く大きな決意の色が見え始めた頃に、十五歳の誕生日を迎えた。
「シャイアド、十五回目の誕生日、おめでとう」
「ありがとう、マーリア」
お祝いの言葉とともに、マーリアはシャイアドを抱きしめる。体を離して大きく育ったシャイアドを見て、満足そうに頷いた。
「ローバリの民らしく、随分と背が伸びたじゃないか。十五歳なのにもうすぐであたしを追い越しそうさね」
そういえば、マーリアは街の女性と比べ少しだけ背が低かった。昔それを指摘すると、「失礼だね、あたしだって故郷では高い方だったよ」と憤慨された記憶がある。ローバリの民は、他の地域の人と比べ背が高いらしい。
マーリアはもう一度シャイアドを抱きしめると、「そうだ、プレゼントをやらないとね」と微笑む。それから首に下げていた新緑のペンダントを外すと、シャイアドの首につけようとした。シャイアドは思わずその手を掴み、
「これはマーリアの大切なものでしょ!」
と叫ぶ。
「そうだね、今まで生きてきた中で、ずっとあたしが付けてきた御守りさ」
まだ十五年しか生きていないシャイアドの、マーリアに関する記憶全てにこのペンダントは付いて回った。いつでもどんな時でもマーリアはこのペンダントを外そうとはせず、命と同じくらい大切なものなのだろうとシャイアドは思っていた。そんなペンダントを、マーリアは目の前でいとも簡単に外し、自分にやろうとしたのだ。
「シャイアド、よくお聞き。このペンダントはあたしがものすごくお世話になった師匠に作って貰ったやつだ。大した魔法の力はないけどね、師匠の……そしてあたしの気持ちが染み込んだペンダントだから、きっとあんたのことを守ってくれるよ」
「でも、いいの?」
渋るシャイアドに、マーリアは愉快そうに笑った。
「師匠から弟子へ、受け継がれてきたものを渡すんだよ。あんたにはこれがどういう意味かわからないのかい」
シャイアドはハッとしてマーリアを見た。琥珀色の、いつもは爛々と輝く目は、今日は飴のように柔らかく、優しい色を放っていた。
「そう、おめでとう、シャイアド。少し早いけど、あんたはもう一人前だ」
シャイアドは、いまいち喜べなかった。柔らかく優しげな目が、諦観の果てのものに見えたから。それにまだ、一人前と呼ばれるには未熟すぎる。
(マーリアは、何かを諦めたんだ)
ぎらぎらと輝く彼女の圧さえ感じる負けず嫌いな目が、シャイアドは好きだった。
そんな、幼い少女の想いを知ってか知らずか、マーリアはどこかへ出かけていった。
館に一人になったシャイアドは、気晴らしに外へ出て、草原に寝転がって空を見上げた。魔導師は皆雲を読み、世界の魔力の流れを常に観察する。どこかの偉大な魔導師は、雲の流れで未来をも予見出来るという。
この雲読みをシャイアドは苦手としていたが、空をただ見上げる行為は好きだった。
あまり読めないが、見ているだけで世界の循環を感じた。
だが、今日の雲の流れは、なにかがおかしい。
ついに朝が来た。しかしマーリアは戻ってこなかった。
「心配せずとも、マーリア様はすぐに帰って来るさ」
物好きな少年が、館に差し入れを持ってきたときにそう笑ってみせる。
「ばあちゃんも言ってたよ、ずっと昔から、マーリア様はこの村を守ってくださっている。何も言わずに帰ってこないことなんてないさ」
そして少年は、シャイアドに小さなクッキーの包みをくれた。
「それ、やるよ。俺のオヤツだけど。そうそう、マーリア様は、今までに何度か、数週間家を空けることもあったそうだよ。だから大丈夫だって」
「でも、マーリアは黙ってどっか行ったことなんて、無かった」
少年は、シャイアドを少し怪訝な顔で見つめた。
「まあ、いずれ帰って来ると思うけどな。俺はそろそろ行くよ」
また誰もいなくなってしまった館には、村の人々がマーリアに向けた感謝の品々だけが残った。パン、野菜、チーズ……重すぎて、食料庫に運べない。あの少年はどうやって持ってきたのだろうと思ったが、恐らく数人がかりで持ってきたに違いない。そして玄関に立つのを辞退し、あの少年を除いて全員帰ったのだろう。マーリアがどれだけ心優しい魔導師だろうと、魔導師に畏怖の念を抱くこの国の人々は、距離を置きたがる。
シャイアドは目の前に積まれる荷物をじっくりと見つめたあと、もらったクッキーをいくらか口に放り込んで、小分けにして少しずつ運んで行った。
重すぎる荷物を運ぶ魔法は、まだ習っていない。
マーリアが出かけていって三日が経った頃、やっと彼女は帰ってきた。
「ごめんね、ちょっと、昔の仲間に会ってたんだ」
生気が薄れ、どことなく老け込んだ様子のマーリアを、シャイアドは見ていられなかった。外に出かけ、あるいは雲を見上げる気にもなれず、彼女の書斎にこもり、毎日を過ごした。
(何かがある)
そう確信していても、今が壊れてしまいそうで、決して振り向いてはいけない気がした。
そうして、三ヶ月を過ごした。度々マーリアは、出かけてはさらに疲れ果てた様子で帰ってくる。若々しかった彼女の後ろ姿は、今では老婆のように見えた。それでもなお冬の枯れ枝のように威厳があったのは、シャイアドにとって数少ない喜ばしいことだった。
村の人々も、マーリアの異変に気付いてはいたが、何も言わなかった。何も言えなかった。
徐々に、人々の足は遠ざかって行った。
その日も、マーリアは帰ってきた。真昼の空を書斎から見上げ、雲の形を観察していたとき、外の転移用魔法陣が光ったのが見えたのだ。しかしその形相はいつもと違い恐ろしかった。細い眉はつり上がり、目は見開かれ、夕焼けような髪は燻んで乱れていた。
マーリアはドアを乱暴に開けるや否や家の中に転がり込むように入ってくると、驚くシャイアドを目にした途端「よかった、よかった!」と叫んで抱きしめる。火事場から救い出された幼子を抱きしめる母のようだと思った。
「マーリア?」
戸惑ったシャイアドが声をかけると、マーリアはやっと我に帰ったように、シャイアドの肩を強く握りしめて向き直る。ぎらぎらと輝くその目は、しかしシャイアドの望んだものではなかった。焦りと決意と喜び、そしてほんの少しだけ悲しみの入り混じった目のように見えた。
「シャイアド、ここから逃げなさい。アズドル王国の、サムドランという魔導師を訪ねるんだ」
アズドル王国といえば、ここから東へ向かった保守的な国だ。ひとびとの行き来を禁じ、商人の行き来も厳しく監視されている。
「でも、なんで急に?」
「いいから、行くんだよ!」
マーリアは手にしていたローブをシャイアドに着せると、ぶつぶつと呪文を唱えた。シャイアドにはなんの呪文かよくわからなかったが、呪文の一節に身隠しのフレーズが入っていたことで、だいたいを察した。
(ここに何かが来るんだ)
途端恐ろしくなり、体の芯まで冷え切るのがわかった。夜の雪原に独り取り残されたような、言い得ぬ浮遊感と孤独を感じた。得体の知れないものが背後まで迫っている。それはきっと、ここ一年、マーリアを苦心させていたものに違いなかった。雪に足を取られたように動けなくなってしまったシャイアドの心を戻したのは、追い詰められた様子のマーリアの、最後の抱擁だった。雪が溶けた、と思った。春はきっと幻のように消えてしまうのだろうけど。
「ごめんね。シャイアド、愛しているよ。あんたが何者でも、何者でなくても、あたしの一番の弟子だ、何があってもそれは変わらない。前を向いて、自分の好きな道を生きなさい」
力強いその言葉に背中を押され、シャイアドはよくわからないまま独りで裏口を出て、ひたすら走った。走って走って、森の中に身を投げ入れたところで、後方から何かとんでもなく嫌な音が聞こえたような気がしたが、にじむ視界を振り切って、決して振り返らずに走った。
ひたすらに、走った。何日も何日も、後ろを見ずに走った。暦の上では春といえど、寒かったのか、はたまた別の理由なのか、体がひたすら震えていた。震えを抱き込んで木の虚で眠った時も、転んだ傷跡を魔法で治し、生を突きつけられていると感じる時も、手はペンダントを握りしめていたことに気づいた。それでも走った。
何度夜が過ぎたかはわからない。それでもまた夕闇が迫ってきそうなとき、シャイアドはついに崩れ落ちた。
*
その日はいつものように、父の仕事を手伝い、市場で買い物をしたり、病弱な母のために魔導師サムドランの館から卸される薬を買ったりと、普段と同じような日だった。
異変の始まりは、街を囲む城壁の向こうに太陽が消え、森や己の影が伸びて消えそうな頃。
ウトラは父の弟子であるランギを伴い、城壁の外に住む農家に農具を届けた帰りだった。
明日の仕事や今日の夕飯など、他愛もない話をしながら森のそばを流れる川沿いに歩いていた二人だったが、ふとウトラは何かに呼ばれた気がした。
声が聞こえたわけでもないが、確かに何かを感じた。立ち止まり周囲を見渡すウトラを、ランギが訝しげに振り返る。
「お嬢、急にどうした?」
「なんだろう、私にもよくわからないけど……ねえ、ランギ。先に帰ってて、なんだか嫌な予感がする」
しかしランギに親方の愛娘一人置いて帰れる訳もなく。それに、彼女の突拍子のなさには普段から振り回されていたので、呆れかえってはいたものの、あーだこーだと文句を垂れる様子はなかった。
「もうすぐ門が閉まる。早いところ終わらせてくれよ」
「ありがとう、ランギ」
ランギは、ウトラの父の友人の子だった。しかし二年ほど前に両親は事故で亡くなり、身寄りがなくなったところを父が弟子として家に迎え入れた。
彼はしなやかな顔つきと柔らかな日差しのような笑顔で、街の少女になかなかの人気がある。以前、どこかの情熱的なご令嬢に執心され、身ごと買い取られそうになったという騒ぎは、未だ彼の周囲ではからかいのネタになっている。人気があるというのも考えものだ。
そんな彼だが色恋沙汰にはさして興味がないらしく、たまに客や酒場の女性を口説く以外にはそういった噂はほとんど聞かない。まあ、あの顔と性格だ、焦って自ら動かずとも、女性はいつでも寄って来るのだろう。
森の木々の間を縫い、どんどん奥に進んでいく。流石に奥まったところへ来すぎたのか、ランギに腕を掴まれ「これ以上はダメだ」と止められてしまった。
薄暗い中、何かに駆られたウトラは「それでも」と腕を丁寧に振りほどくと、また歩いていく。
「おいおいおい、狼とか、熊とか、やべーの出てきたらどうするよ」
「おやおやおや、あなたの腰のその剣は飾りなのかな?」
「そうだよ、飾り!」
眉をひそめ不服そうな顔でついてきた彼は、突然ウトラが立ち止まったのでぶつかってしまった。どうしたのかと彼女の目線を辿ると、彼も硬直する。
「……人だね」
「……そ…そうだな」
ローブを身にまとった人らしき影が綺麗にうつ伏せになって倒れていた。その手には緑色の結晶がくっついたペンダントが握られている。春只中で土を蹴破って出てきた新芽たちは、その人影に押しつぶされても、負けるものかと踏ん張っていた。
「……かすかに魔法の気配を感じる。おそらく、このペンダントで救難信号でも出して、それをたまたまお嬢が拾ったんだろうな。にしても、なんでこんなとこに人が……。しかも見慣れねえ黒い髪だ」
「冷静に分析してる場合じゃないでしょ、ほら、背負って!」
「おい待てそれ生きてんのか?」
「生きてるってば!」
人影を抱き上げたウトラは驚愕した。思っていたよりするりと持ち上がったそれは、自分と同じ年頃の少女だったからだ。
ランギもそれは想定外だったらしく、息はあるが死人のようにぐったりとする漆黒の髪の少女をおとなしく背負うと、急いで街へと戻った。
家へ戻る際、誰かに見つからぬよう細心の注意を払った。もとより人の少ない時間帯だっただめ、門番に「農民の一人が倒れた」と言ってやり過ごせば、あとは簡単だった。それもこれも、十年前に国王が一般人の街の往来を禁止して以来、商人や学生以外は遠出出来なくなったので、街の人がこの見知らぬ髪の色の少女を見ると、ちょっとした騒ぎになってしまうと考えたからだ。
家に帰って扉を開けると、父がちょうど帰ってきて居間の椅子に座ろうとしているところだった。乱暴に開けられたドアに面食らった父は、ランギの背に人影があることに気づいて表情を引き締める。
「どうした、ウトラ、ランギ。友人が倒れたのか?」
しかし負ぶわれた少女がかぶるフードからこぼれた髪の毛を見て、父は言葉を失ったようだった。
「パパ、この子森で倒れてたの、どうしよう」
「どうしようだって? とにかくエマが来る前に隠しなさい!」
エマはきさくなおばさんで、ウトラの家の家政婦だった。今も、夕飯の支度をしているのか、向こうから野菜を煮出した匂いが漂ってくる。彼女は穏やかで細かいことはあまり気にしない性格だが、声が大きくおしゃべりなので彼女に秘密を知られると瞬く間に街中に知れ渡る。ランギがご令嬢に気に入られたあの騒動も、エマによって広められたのだ。
ウトラたちは慌てて奥へ向かった。ウトラの部屋に入り、そこのベッドにランギが少女を寝かす。その際に泥だらけのローブと靴は脱いでもらった。
ローブの下から現れた深い海のような服は、ここアズドル王国特有の筒状のものを縫い込んだものではなく、一枚の布に穴を開け、そこに頭を通して帯を腰に巻きつけて固定させた不思議な形をしていた。
「この服……変わってんな」
「うん、やっぱり外から来た人なんだろうね。アズドルの人だったら、街や村から出られないだろうし」
少女は随分と静かに眠っていた。死んでいるんじゃないかと何度も思ったが、触って確認するたび頬の暖かさが緊張をほぐす。
「さて、どうする? 医者を呼ぶか、このまま様子を見るか」
「明日、ママの診察をしにルーザスさんが来るから、ひとまずこのままにしよう」
ルーザスとは病気がちな母のかかりつけ医で、街で一人しかいない医者だ。愛らしい丸顔とまるっとした体、そして持ち前の人の良さで一定の人気がある。
「でも、そうだね……随分と汚れてるから、着替えさせたいなぁ……」
「そりゃ構わねーけど、一人で出来んのか? 寝てる人間を着替えさせるってなかなかの労働だぜ」
「ランギ、手伝って」
「本気で言ってんのか」
「だってここにはあんたしかいないじゃん」
「はあ?」
結局ちょっとした喧嘩になり、言い争いの結果ランギが折れ、目隠しをして少女を支えることになった。
「この子が起きても黙ってたほうが良さそうだな」
「聞かれたら上手く誤魔化そうか。私がなんとかかんとか頑張ったってことにしよ」
手際よく少女を着替えさせていたウトラだが、少女の体格が思っていたより良く、己の服では少々キツそうだと判断し、ランギに一言断ってから彼のお古を持ってきた。男物だが、案外似合っている。
「よし、もういいよ、ランギ」
あー疲れたと言いながらランギは目隠しを外し、少女を丁寧に元の位置に戻してから立ち上がった。
ウトラは少女に目をやったまま、脱がした服を籠にまとめた。案外体格の良かった少女は、相変わらず死んだように眠りこけている。目が開いてないのであまり特徴はつかめないが、アズドル人とは違い、すっきりとした顔立ちをしていた。死んでいるようにも見える表情は、どことなく苦悶に満ちているようで、ウトラは、悪夢なら早く覚めることを願う。
「ねえ、この子、何歳くらいだと思う?」
ウトラが呟くと、ランギは「うーん」と思考する。
「そうだな、十…六、くらいか。顔の作りが少し違うから、よくわかんねーけど、前やってきた商人に似たような顔のやつがいたな。確か……ローバリ魔道共和国……?」
「西の、魔導師が治めてるっていう?」
ローバリ魔道共和国は背の高い人々が住む国で、ここアズドルの隣の国だ。背が高いのも納得できる。魔道共和国というのは、七百年前のあの奇跡が起きた大戦後、当時の王政を倒した魔導師が始めたもので、共和国と言っても、実際は現在でもその王政を打倒した魔導師が実権を握っている。もっとも、ひとびとが議会で決めたことを可決するか否かを決めるのが主な仕事らしいので、共和制というのも名ばかりではない。
十年前にこの地に残された本で仕入れただけの知識だったが、もし隣国の政情が変わっていれば流石に耳に入ってくるだろう。
「とにかくお前と同じくらいだし、アズドルにローバリ人独りじゃ心細いだろうから、目が覚めても仲良くしてやれよ」
「私、同じ年頃の女の子とあんまり接したことがないから、なんか、心配になってきた……」
「異人だとか同じ年頃だとか女の子だとか考えないで、ふつうに接すればいいんだよ」
諭すようにウトラの頭に手を置いたランギは、何かに気づいたようにハッとすると、少女に閃光の如き速さで毛布をかける。
それと同時にドアが開き、恰幅の良い女性--エマが現れた。
「あら、ここにいたんですか! ウトラちゃん、ランギさん、ご飯が出来ましたよ!」
ウトラは心臓が早打ちするのを感じ、冷や汗を隠しながら心の中でランギに賞賛を送った。毛布をかけて隠していなければ、今頃見つかっていた。そうして瞬く間に街中にこの少女の存在が知られ、よくわからないうちに騒ぎになっていただろう。
「あ、ありがとう、エマさん。今行くね」
今日はウトラちゃんの大好きなお肉と香菜の包み焼きですよ、と得意げに話しながら食卓に向かうエマに続いて、眠る少女を尻目に二人は部屋を出た。
水面下で張り詰めた空気をしていた食事が終わり、エマが一日の仕事を終えて帰って行った後。ランギが淹れたお茶を飲みながら、ウトラの父は「それで」と真剣な面持ちで話を切り出す。
「あの者はどうなったんだ」
叱られることを覚悟したランギが、ウトラを庇ってか、おずおずと答えた。
「今、お嬢の部屋で寝かせてます。随分と深く眠っているので、いつ目覚めるかはわかりかねますが……明日、奥さんの診察に来るルーザス医師に診てもらおうかと」
「くれぐれも、エマには知られるなよ。ルーザス医師にもあまり喋らないよう釘をさすように」
面を食らったウトラは思わず声を漏らし顔を上げた。
「パパ、あの子を家に置いてていいの?」
父は保守的なところがあるので、てっきり異人に対して手厳しい扱いをするかと思っていた。しかし父はしっかりと頷く。
「異人である前に、病人だ。病人には優しくしなさい」
普段の厳しい顔を緩め、父親らしくそう告げた父に、ランギとウトラは顔を見合わせて笑う。
「じゃあ、私様子を見てくるね!」
嬉しそうに立ち上がり部屋に向かったウトラの背中を穏やかな顔で見送った父親は、しかし一転して厳しい顔でランギに目をやる。ランギも只ならぬことを察し、眉根を寄せて心の準備をした。
「ランギ。あの子に言うつもりはないが、おそらくあの娘は……」
ランギは言い淀んだ彼に不審な目を向ける。
「師匠は、何かご存知で?」
「数日前、サムドラン氏が不意に工房に現れて言い残して行った。“かの日の切なる願いが、いま再び大地に芽吹くだろう。黒き少女は破滅に見初められ、果てし営みに大いなる変革をもたらす。”……いずれ日常が壊れるぞ。あの娘の来訪が彼の予言を証明した」
サムドランとはこの街の魔導師で、齢は何百歳を越えるという。見た目は初老でまだまだ元気そうなおじさんといった風だが、最近は館にこもりっぱなしなのか、あまり顔を見なかった。弟子は歴代で十一人おり、そのうちの七人は国王お抱えの魔導師となった。三人は、まだひとびとの移動が禁じられていなかったので、色々なものを見るために世界へと旅立っていったそうだ。残りの一人は現在修行中の身で、数年前に弟子入りした少年らしい。
サムドランは病を癒す薬を中心に、その魔法で人々の役に立っているが、時折、大きな変革がやってくる際、それも予言してみせる。十年前のあの事件も、三日前に予言したらしい。しかしそれを国王に進言することはなかった。
「……それでも、あの子をここに置くんですね」
「これはきっと、誰が悪いだとか、そういうことではないのだろうよ。第一、あの子から距離を置いたって、出会ってしまったことは変えられん」
「確かにそうかもしれませんが……お嬢には、言わないんですか」
ウトラの父は、半ば諦めたような、憂いを帯びた顔でため息を吐く。
「あの子には、普通の、予言だとか運命だとかいう束縛もない幸せな人生を歩んでもらいたかった。しかし動き出してしまったものは、どうしようもないんだよ、ランギ。だからせめて、何も知らずにいさせてやりたいのさ」
ランギは頷いたが、そんな想いも、あの子の前には無意味だろう、とひっそり思った。
あの子は柔軟だ。そして真っ直ぐだ。自分自身、羨ましくなるほどに。
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