第5話
1学期の中間テストが無事に終わった。
特に赤点も無いし、むしろ勉強時間が増えたのでそれなりに順位は上がった。御法川先輩の方も無事に全科目赤点回避したらしい。多くの部活は勉強時間に食われて目減りした練習を取り戻すかのように再開した。野外で練習しているトランペットの音も普段より心なしか大きいように感じた。俺はそれを聞きながらスーパーで晩飯のおかずは何しようかなどと所帯じみたことを考えながら靴を履き替え、校門へと出たときだった。
「あ」
外を走ろうとしていた陸上部員達と目が合った。気まずいな。
だがその中の一人の、角刈りのがっしりした体格の男が元気よく俺に手を振った。
「おう、井上! 元気そうだな!」
陸上部の部長、平川先輩だった。温和な人で、俺にも気さくに声をかけてくれる。
「おかげさまで」
「そうか、まあたまには遊びに来い」
「はい、そうします」
この人は天然で言っているので悪気とか一切ない。そのうちお言葉に甘えて顔を出して、他の部員に嫌味の一つでも言ってやろう。もっとも天然であるがゆえに、他人の感情や悪意に無関心だ。俺と高田の件についても俺が高田を怪我させるまで気付かず、気付いたときも「そうか、それは大変だったな」で流した。まあ鈍感な方が世の中生きていきやすいのかもしれないし、この人の悪意のなさはそこまで嫌いではなかった。後輩が言うことを聞かずお飾りの部長になっていても、気にせずサボリもせず自分なりのスタイルを崩さないのはちょっと凄いと思う。
「あの、平川先輩、そろそろ練習に行かないと……」
「ん? ああ、そうだな」
と、俺と同じ学年の男が部長を促す。ええと、名前なんだっけな。
思い出そうと頭を捻っていたあたりで、別の部員が三々五々やってくる。恐らく着替えて校門に集まり、学校周辺を走るという流れなのだろう。
「邪魔すんなよ」
誰かからすれ違いざまに嫌味を言われた。
あっ、これは軽くムカついたな。
「じゃあ平川先輩! また部室に顔出して遊びに行きますから!」
「おお、いつでも来い!」
手を振って平川先輩に挨拶をすると他の連中が嫌そうな顔をする。
さーて、それじゃ帰るか。
「こら、勝手に帰るな」
「ぐえっ」
後ろから手を回されて首が極められる、ちょっと待って、いいところに決まって苦しい。あとおっぱい背中にあたってます。
「挨拶くらいしろ」
「う、うっす」
突然現れて俺の首を締めたのは御法川先輩だった。陸上部用のジャージを着ている姿は久しぶりに見る。
「じゃあ、頑張って練習してください。先輩のこと応援してます」
「そうか、ありがとうな」
こればかりは偽りのない本心だ。
俺の言葉を聞いた先輩が、俺の背中を肘で小突いた。
そのときに周囲から受ける、他の部員たちからの冷ややかな目線。先輩と俺はそれを受けることを重々承知した上でイチャついていた。まるで共に陰謀を図る共犯者のような親しみを先輩に感じた。復讐心や嗜虐心が満たされるのを感じた。平川先輩だけは空気を読まず「仲良きことは素晴らしきかな」などと言っている。大物だなこの人。
だが、疑問もあった。俺はなんだかんだで恨みがあるが、御法川先輩は俺の恨みに付き合うほどの何かはあるのだろうか。付き合いを始める時は確かに「俺の味方になる」と言ってくれた。しかし味方になるということは俺のようなはぐれ者になるということに等しい。その疑問の正体を掴むことを恐れつつも、御法川先輩に惹かれていく自分自身を感じていた。この仮の彼氏彼女の関係がずっと続くならば楽しいだろうなと思った。
***
俺と御法川先輩が付き合いを初めて既に一か月ほどが経ち、俺と先輩が一緒にお昼を食べる光景も新鮮味が薄れてきた。陸上部の女子部員も表立ってあれこれ言ってこない。しかし御法川先輩が一人のときなどは沖のようなおせっかいが来て「流石にあれはない」とか「駄目な男に構うと自分の人生を損なう」とか言ってくるらしい。それはそれは慧眼で恐れ入る。御法川先輩は間違いなくダメンズに引っ掛かる資質を持っていると思う。
「まあ沖達の言うこともわかります。悪い男に引っ掛かっちゃあダメですよ」
「キミが言うんじゃない!」
いつものように俺のバイト先の喫茶店に現れた御法川先輩と雑談してたところ、いきなり怒られた。
「まったく……私じゃなくてキミがバカにされてるんだぞ」
「俺をバカにしてるというより俺をダシにして先輩を褒めてるんですよ。言うなれば尊敬の裏返しであって悪意から湧き出るものじゃないと思います。私達の尊敬する人は私達が認めるくらい良い男性があてがわれるべきだ、みたいな。だから学校イチのイケメンとか有名大学に通ってるとか、そういうわかりやすい属性を持ってないと誰が相手でも何かしら言われてると思いますよ」
「……キミの話を聞いてると人間不信になりそうだな」
先輩は頭を抱えながら盛大なため息をついた。
「そこはまあ、話半分に聞いといてください」
とはいえ、陸上部の女子部員が御法川先輩を尊敬しているのは本当だと思う。そして御法川先輩はそれを重荷に感じて、距離を置こうとしている。
「……ところで、高田が陸上部に復帰したいらしい」
「はぁ」
「気のない返事だな」
「ていうか高田って部を休んでたんですか」
「武田先生から謹慎を受けた。知らなかったのか」
「そのへんの処理やら処分やらは先生に丸投げしてたんで……。あ、じゃあ怪我も治ったわけですね」
「みたいだな。……お前は良いのか」
「構いません、というか退部や除籍じゃなくて謹慎ってことは、いずれ復帰する前提の話なんじゃないですか? 先生が異存無いなら俺に言うことは無いですよ」
「あのなぁ、その先生からお前の意志を確かめろと言われてるんだ」
「大変ですね、そんな仕事まで」
と言うと、御法川先輩は頬杖をついて俺の方を馬鹿にしくさったジト目で見つめてくる。
「あのな、高田が元気に復帰してお前が退部したままということは、高田が正しかったと周囲は捉えるぞ」
「別に構いませんよ」
「私が構うんだ。お前をかばってやると言っただろう」
……やだこの人かっこいい。
「いや、それは嬉しいんですけどね。でも男子部員はどうなんです?」
「まだ知らせていない。が、復帰したいという話が部内に出回るのも時間の問題じゃないか?」
まあ高田が黙ってる筋合いもないだろうしな。
「ここで俺が嫌だって言ったら俺が悪者になる流れじゃありません? あいつけっこう脚も速かったし、今の二年男子は他に速い奴居ないし」
「……そうかもしれん」
「どっち引いても貧乏くじならどっちでも良いですよ。先生の判断に任せます」
「……そうか、わかった」
先輩は頷き、そしてぶはあっと先程よりも更に盛大なため息を吐いた。
「……本当に、練習以外のことってストレス溜めてるんですね」
「なんだ、前にも言っただろう。私は走りたいんであって部の運営だの雑務だのは本当はやりたくはないんだよ。他にできる人が居れば任せてる」
「できなくても任せるしかなくないですか。夏の大会が終われば引退するんだし」
「そうしたいのは山々なんだがね……」
御法川先輩は背もたれに体重を預けて脱力している。
我が陸上部の人間関係は確かにあまり良くない。部内で反目してる奴はいるわ、いじめ紛いのことをして部を抜けた高田のような奴はいるわ、俺のようにいじめられて退部した奴はいるわ、厄介事だらけだ。今は平穏に運営できているとのことだが、それはちょっと凄いことだと思う。部が瓦解してインターハイに出場できませんでした、という事態も考えようによってはありえるだろう。それを避けるために皆、練習に必死になって部内の厄介事に目を背けているのかもしれない。
となると、派閥として担がれている御法川先輩が雑務を引き受けたり後輩の面倒を見たりと、人間同士を繋ぎ止める役割を果たしているのはやむを得ないことなのだろう。まさしく人間関係の潤滑油だ。だが潤滑油そのものはやがて劣化する運命にある。
「先輩はなんで陸上やってるんですか」
「藪から棒になんだい」
「いや、なんとなく」
御法川先輩はうろんげな目で俺を見たまま口を閉ざしていた。
「まあ言いにくいなら良いですよ。あ、店長。チーズケーキ二つ良いですか」
カウンターであくびをしている店長に声をかける。
まったく一応客が居るというのに。俺と先輩の二人だけだが。
「バイト代から引いとくぞ」
店長の言葉を聞いて先輩が慌てふためいた。
「あ、いや、払うよ、悪いじゃないか」
「別に良いっすよこのくらい」
「あ、蓮、コーヒーは自分で淹れろよ」
「俺シフト上がったんじゃないんすか」
「彼女に淹れるくらい横着するな」
「うっす」
店長であり叔父貴殿にそう言われてはかなわん。
二人分だけだからまた手回しのミルで挽こうと思い、カウンターの中に入る。
御法川先輩は頬杖を付きながら俺がコーヒーを挽く姿を見ている。
「面白いですか、コーヒー淹れるの」
「ああ、面白いね」
これで三、四回は見てるはずだと思うんだが、まだ飽きてはいないらしい。
コーヒー豆の粒が砕かれ、鮮烈な香りが鼻孔をくすぐる。やはりこの瞬間の香りを味わってこそのコーヒーだと思う。自分の手応えと香りが噛み合ったときの快感は電動では味わえない。もっともコーヒーそのものの味そのものはそんなに変わらないのだが。
「なんか不思議だな。年下の人間がこうして立派に働いてるのを見ると」
「俺が覚えた程度のことは先輩なら一週間あればできますよ」
「そうかな」
「それに、部活が性に合ってるなら部活に一生懸命取り組んだ方が良いと思いますよ。バイトはいつでもできますし」
「キミは辞めておいてそんなことを言うかい」
「辞めたから言うんですよ。インターハイなんか高校在学中にしか出れないわけですし。俺は大会とか興味ないですけど」
砕いた豆を淹れたドリッパーに湯を注ぎ、コーヒーサーバにコーヒーを淹れていく。店長に仕込まれてなんとか形にはなってきたが、まだまだ店長ほど美味い味は出せない。だがそれでも近づけることはできる。現実現状はともかく、そう思うことが大事だ。人に出すものなのだから。
カップにコーヒーを注ぎ、ケーキと共に先輩の元へと出した。先輩は神妙な顔をして頂きますと呟いた。
「そんなかしこまらなくても」
「気を使ってくれたんだろう」
「俺も小腹が空いてたんで」
御法川先輩は健啖家であり、ケーキもちまちまとは食べない。美味そうに大きく食べる。
見てて心地が良いのだが、じろじろ見るなと怒られた。確かにこれは失敬だった。
「……小学生くらいの頃は体が弱くてな。脚も遅かった」
「へえ」
「そのとき友達が陸上をやってて、身体を鍛えるなら陸上が良いと誘ってくれたんだ」
「まあ友達と一緒に部活やるってのはよくありますよね。俺も誰か誘ったりしてましたし」
「……ただ、スポーツというのは残酷だな。気付けば誰かより速くなったり、誰かより遅くなったり。気付いていたら追い抜いていたり」
憂いを帯びた顔で御法川先輩はコーヒーを飲む。
「……友達よりも速くなっちゃったんですか」
それは気まずいよな。後から始めた人間に追い抜かれると、その関係も今まで通りとは難しい。だが陸上でもなんでも、同じ競技に取り組んでいる人間同士、同じステージで競い合う人間同士で必ず実力の差は現れる。俺も小学校の頃は負け無しだったが、中学校、高校と進学するにつれて追い抜かされていった。中学では伸び悩んでいるという程度だったが、高校に上がってからは練習不足も相まってますます置いて行かれた。それを他人のせいにするつもりもないしそれを理由に当たり散らしたりもしない。ただ、部活という枠組みの中で競い合うための最低限の練習や努力ができない以上、枠組みの中で安住する術はない。
「お前は勝負に勝って嬉しいか」
「……難しいところですね。勝ったときは嬉しいというより……ホッとします」
「ホッとするか」
「ちゃんと練習した結果が出たんだなぁとか、間違ったことはしなかったなぁとか。勝つってのはこれまでの経緯が正しかったんだってそういう保障がある気がします」
「じゃあ負けたときは今までが間違ってた?」
「そうでも思わないと自分が勝った理由に説明付かないんですよね。ただまあ……そういうの止めました」
「なぜ?」
「勝ったときに得られる安心よりも、常日頃感じてる不安の方が大きくなったから……ですかね」
「負けて間違ってたって思うことは辛いかもしれんが、それはどんな勝負事でも同じだろう」
「いや、そうじゃないんです」
「じゃあなんだ?」
「……不安っていうのは将来的な不安ですね。ウチは色々あって金が無いんで大学に行くなら奨学金を借りざるをえないですし。中学や高校一年の頃は走ってたら不安は紛れたんですよ。走るのは嫌いじゃないしそれなりに努力してるって実感があるから」
少なくとも高田に絡まれるまでは、部に行くのが楽しかったのは事実だ。
部と家事とバイトと勉強をこなしても体力が続いた。
「でもそのうち部活やってることが逃げに思えてきて、正直練習に行くのが憂鬱でした。だから、勝ったから正しいとか、逃げなかったから正しいとか、そういうの辞めようと思います。面倒から逃げることも部活辞めることも間違ってるかもしれないけど、なりふり構ってる暇があんまり無いんですよね。だから誰に負けようと開き直ってようって、今は思ってます」
これが俺の偽らざる本音だった。
同じ中学出身の人間がいない高校を選び、そこでも友達らしい友達もできず、失うものもほとんどない。高田に殴られていたときはまだ未練があったが今はもう吹っ切れた。好き放題嫌な奴になってやろうとさえ思っている。もっとも根が小心者なので先輩に罵声を言った次の日には後悔していたわけだが。
「そうか……」
「先輩はどうですか。走ったり勝ったりは楽しいですか」
「そりゃ楽しいさ!」
「おお、流石」
御法川先輩は快活を絵に描いたような笑顔で言ってのけた。眩しすぎる。
「と言いたいところなんだが……最近は純粋に楽しめない」
「あれ?」
さっきの笑顔は演技だったようだ。だが、言葉には実感がこもっていた。
勝つのが楽しいというのが完全な嘘というわけでもないだろう。俺だってまったく楽しくないと言ったら嘘になる。
「なあ、速い人間って、偉いか?」
「少なくとも陸上では偉いっすね」
「そう……気付けば人を速い順や強い順の序列で見てる。誰かに勝ったとき、私は誰かより上だって優越感に浸ってしまう。逆に負けたときは強気ではいられない。今までは疑問に思わなかったんだ、改めて考えると……凄く、あさましいのに」
「スポーツマンとしては別に良いじゃないですか」
俺がそう言うとに、御法川先輩はむっとした顔をした。
「どこがだ。スポーツマンらしい爽やかさなんてないだろう」
「スポーツに打ち込める人間ってのは大体そうですよ。そういう負けず嫌いなところが無い人っていつか脱落します」
俺みたいに、と付け加えるのは自制した。これを言っても先輩の罪悪感をつつくだけだろう。
「というか勝った負けたで優劣決めるなんて当たり前のことじゃないですか。世の中そんなもんでしょう」
「それをお前が言うな」
「なんでですか」
「……お前が言ったんだろう。私の事を軽蔑するって」
え。なんで高田との件を今ここで出すの。
確かに言いましたけどあれは俺の八つ当たりみたいなものだったし。
「いやいや、ありゃ暴力だからダメだって話ですよ。そんな考えすぎなくてもいいじゃないですか」
「だが私は、お前が高田をぶちのめしたのを見て正しいことをしたと褒めた。だがお前から見たら……そういうことだろう。だから思ったんだ……勝った人に正しかったって褒めるということが、いずれ、正しいから勝ったってことにすり替わってしまうんじゃないかって」
「まさか。先輩に限ってそんなことはないですよ」
と、思う。勝利の美酒というものは現実の酒と同じく基本的にろくでもないもので、俺はそれに抗えなかった。先輩のように律することはできなかった。走って勝ったときも、高田を蹴り飛ばして諸々の話し合いで平和を勝ち取ったことも、やはり嬉しかった。嬉しさを感じる自分の卑しさには遅れて気付いた。その場で気付けば良いものを。だから先輩から頭を撫でられて、つい当たり散らしてしまったのだ。自分の中の負けん気や暴力衝動、誰もが心の中に飼っている獣を「正しい」と言われるということは即ち、「お前は獣なのだ」と言われることと等価だからだ。獣を飼いならせない俺にとっては、間違いなく。
「……ただ俺は、俺がそうなることが、凄く怖いですね」
「……私は正しい人間が勝つのを見て楽しいと思った。当事者がどういう風に苦しんでるかなんて考えもしなかったよ。お前と同じだ」
参ったな。俺が言った言葉は御法川先輩に大きな影響を与えてしまっていた。
解決したと思っていた俺が浅はかだった。
「……言っておきますけど俺の考え方は弱い人間の考え方ですよ。弱い人が弱いなりに世の中と折り合いをつけて生きていくためのやり方であって、先輩みたいな人がこういう考えをしたら弱くなるだけです」
「先輩みたいな人ってなんだ」
「そりゃ……」
あなたみたいに強くて綺麗な人ですよ、と言おうと思ったところで、机がだん!と揺れた。
先輩の拳が強く握られていた。
「他人の気持ちなんてわからない人間だとでも言いたいのか!」
「な、何でそうなるんですか……違いますよ」
なんだよもう、どうしてそこで怒るのかまったくわからない。今良いこと言おうとしたのに。
俺は御法川先輩をフォローしようと知恵をひねっただけなのに。
「何か傷ついた言葉を言っちゃったなら謝ります、だから」
「そうやってすぐ意見を撤回するな。私とコミュニケーションしろ」
なんだよそれ。俺がまるでコミュニケーションできない人間みたいな口ぶりじゃないか。
「……俺は彼氏役であって彼氏じゃないし、あなた彼女役であって彼女じゃないでしょう。こういう喧嘩とか生々しいやり取りを避けたいから俺と先輩は付き合ってるんじゃないんですか」
「相手とどういう付き合いだろうと関係ない。そうやって拒絶するから味方ができないんじゃないか」
「そうですね、俺も友達や味方をたくさん作って多数派になって、絶対に攻撃されない高い場所から人を見下したり憐れんだりしたかったですよ。これからはもっと人を見習おうと思います」
しまった。言い過ぎた。
そう思ったと同時に、がたんという音と共に先輩が立ち上がり、俺を見つめる。上から見ているのにその目には涙が浮かんでいた。
「……そっか、見下ろしてるか」
そしてくるりと背中を向け、店から去ろうとする。
「ま、待ってくださいよ……!」
「ちょっと頭を冷やす。悪い、今日はここまでにしよう。店長さん、お会計お願いします。お釣りは良いです」
「いや、話を……!」
だが御法川先輩は俺の言葉に何の反応も見せずに千円札をレジの現金受けに叩きつけ、店から出ていった。からんからんとドアに付いたベルが乾いた音を立てる。
致命的なことを言ってしまった。相手に負けたくない、ぶちのめしたいという気持ちを嫌悪していると考えていたそのときでさえ、それを抑えることができなかった。最悪だ。
「蓮、お前なぁ」
店長がしかめっ面をしている。いや、店長というより、叔父貴としての顔だった。
「……いや、言わないで下さい。俺が悪いのは重々わかってます」
「そうじゃない」
「へ?」
いや誰がどう見ても俺の失言と思うのだけど。
「話もあんまり聞こえなかったからな。聞いちゃ悪いと思って音楽聞いてたし」
「じゃあ何を言いたいんですか」
店長はやおら立ち上がって俺の座るテーブルまで来る。
さっきまで先輩が座っていた椅子にどかりと座った。木の椅子がぎいっと軋む。
「……ひとつ言っておくと、お前は別に悪い子じゃない。バイトもちゃんとやる、家事も手伝って親の面倒を見てる。俺が高校の頃はなんにも考えてなかったよ。モテたいとか童貞捨てたいとか漫画読みたいとか、まあそんなもんだ」
「俺も童貞は捨てたいんですが」
「お願いしてみろ」
「嫌ですよ」
「そこだよ」
何を言ってるんだこのおっさん。
「蓮。お前は自分の欲を我慢して不幸を耐えれば自分や他人を幸せにできるって思い込んでて、実際にみんなの役に立ってくれている。でもそれはな、お前のことを好きな人間にとっては悲しいことなんだぞ」
店長は、言い聞かせるように俺の目を見つめる。
「それは……でも」
「それに、何かに耐え忍んでるってことがお前自身を荒ませてるってことはわかるだろう」
その言葉に、反論の余地はなかった。
「どうせならやりたいことのために何かを我慢したり努力してほしいって、お前の両親はお前に対してそう思ってる。あのお嬢ちゃんも、似たようなものなんじゃないか」
「……そんなに不幸オーラ滲み出てますかね」
「出てるよ。だからお前の親父さんもおふくろさんも、お前には俺みたいな気楽な高校生活を送ってほしいって思ってたはずだ」
「家だと母さんも父さんも『あいつアホだからそんなに尊敬すること無いぞ』って俺に言ってますよ」
「うっせーバカって伝えておいてくれ。ともかく……店長命令だ。あの子と仲直りしなきゃバイト首にするぞ」
「え、ちょ、横暴じゃないですかぁ!?」
「個人事業主ってのは基本的に横暴なんだよ。あと別にあのお嬢ちゃんにエロいこと要求しろって話じゃないぞ」
「んなこたぁわかってますよ!」
俺をなんだと考えてるんだ。男が全員自分と同じすけべ県のすけべ村民だと思わないでほしい。
……でも、叔父貴と同じような前向きさで人生を生きていけるならすけべ村民も悪くないのかもしれない。卑屈にもならず、ニヒリズムにも流されず、誰かを労ってやれるのであれば。
そのためにはまず、先輩と話そう。
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