第2話

 週末、俺は白いワイシャツに黒いエプロンを身に着けて、喫茶店の流しで皿洗いに専念していた。時間は午後二時。お昼時のラッシュが終わって客足もまばらになり、店員としてはようやく人心地ついたところだ。とはいえ喫茶店という性質上、コーヒー一杯でねばる客やデザートをつつきながら談笑する客なども居るので、完全な中休みというものは存在しない。更に言えばここはチェーン店ではなく店長自身が経営する個人店舗であるため、勤務形態も勤務内容も店長の裁量次第だ。俺の仕事は本来はホールスタッフがメインなのだが、皿洗いもするしコーヒーも淹れる。調理補助なども増えてきてフライパンを振る日も近そうだ。なんでもできるということはなんでもやらねばならないということであって、ランチタイムはとんでもない忙しさとなる。ただし暇な時は客の見えないところで勉強をしても良いし、店長の手が空いてるときは料理を教えてもらえることもある。こういうファジイな部分でチェーン店よりも融通が効くのだ。そんなわけで、新たな客が来る様子もなく俺か店長のどちらかが居れば大丈夫そうだなという気配が漂ったあたりで、


「蓮、どうする。そろそろ上がるか」


 と、店長が提案してきた。

 この人は髭面で背も高く一見して怖い風貌なのだが、表情も口調も朗らかでお得意さんからは慕われている。俺も見習いたいところではあるし頑張ってはいるつもりだが、店長ほどのパッと明るい雰囲気を出すのは中々難しい。だが顔つきはどことなく似ている。実を言うとこの店長は俺の親戚であり、叔父にあたる人であった。


「あー、店長こそ奥で休んでて構いませんよ。ランチも終わりましたし」

「お前もそろそろテストだろ」

「あんまり頭痛いこと言わないでください。それに部活も辞めましたし時間はできそうです」

「……そうか」

「なんで多少ならシフト増やせますよ。平日夜とかも問題ないです」

「おいおい、俺が兄貴に怒られちまうよ……まあ忙しいときは頼むわ」

「うっす。あ、それとこないだもらった燻製すごい美味しかったです。こんど作り方教えてください」

「おう、楽しいぞ燻製は」


 そしてついでに言うならば、このバイトは縁故採用だった。この喫茶店で土日に働いていたバイトさんが大学卒業を期に去り人手不足に陥ったタイミングと、家の都合で俺がバイトを探す羽目になったタイミングが丁度一致していたために即採用となった。俺が昔から何度もこの店に顔を出していたことや叔父貴とは仲が良いこともあって、叔父貴の指示や教育はすんなり受け入れられたし仕事もすぐに覚えられた。まあここに慣れてしまったら他のバイト先で変な上司にあたったときに苦労しそうだなとは思うものの、コーヒーの淹れ方や簡単な料理、ホールスタッフとしての立ち回り方などは身についただろう。と、思いたい。

 と、店長が奥へ下がろうとしたタイミングで、喫茶店の扉に据え付けたベルが鳴る。新たな客が入ってきた。


「いらっしゃいませ」


 と俺と店長は穏やかな表情と声を作って客を出迎えた。

 客は、店長ではなく俺の方を見てにっきこりと微笑む。


「来ちゃった」

「来ちゃったんですか」


 御法川先輩だった。

 爽やかなアイボリーのジャケット、すらりとした黒のパンツルックの姿は御法川先輩によく似合っていて、高校生的な子供っぽさが無い。見ようによっては大学生くらいに見える。この人の私服姿は新鮮だ、というか初めてではなかろうか。


「なんだよ、お前の彼女か」


 店長がにやついた顔で訪ねてくるが、御法川先輩は照れるどころか挨拶するような気軽さで、


「そうです、彼女です」


 と言ってのけた。この悪戯好きの性格には正直今後も苦労しそうだ。

 店長は御法川先輩の言葉を聞いて目を丸くする。


「本当か、蓮」

「まあ、はい、一応」

「まあってなんだよ、まあって……。いらっしゃいませ。カウンターへどうぞ」

「ありがとうございます」


 先輩はカウンターに座る。わざわざ店員の目の前に座らなくとも、と思ったが、仕方ない。俺はメニューとお冷を用意する。


「じゃあ蓮、休憩してくるから頼んだ」

「あ、ちょ……!」

「忙しくなったら言えよ。忙しくなったら、な」


 俺が何かを言う前に店長は奥へと引っ込んでいく……迂闊にバイト先を先輩に教えるんじゃなかったな、せめて親父達には言わないよう口止めをお願いしなければ。


「良いお店じゃないか。店長も良い人そうだし、趣味も良い」

「まあちょっと雑然としてますけどね」


 店長は趣味人で新し物好きだ。何か流行の料理があればすぐにチャレンジするし、茶器や食器も好きなものを適当に買ってきてしまう。おかげで何の料理にどんな食器を使うかを合わせるのが大変で、同じバイトの黒田先輩共々、整理整頓や掃除には苦労している。その甲斐があったなら幸いだ。今は店長は和風のものに凝っているらしく花も刺さないのに花入れや和風の絵皿を買ったりするので、和柄のコーヒーセットと揃えるなどして統一感を出して妙な雰囲気にならないよう頑張ったつもりだ。だがまた店長の気まぐれが発生して南国風になったり英国風になったりする可能性があるので、俺と黒田先輩は常々店長の心変わりを警戒している。


「私は好きだぞ、こういう店」

「そりゃどーも」

「なんだキミ、さっきまでは丁寧だったのに態度が悪いな。ここの店は教育がなってないんじゃないか」


 御法川先輩は揶揄するように肩をすくめる。しばらく一対一で話し合ってわかったのだが、この人はけっこう毒を吐くし皮肉も好きだ。陸上部に居た頃は気付かなかった。


「それは大変失礼致しました、お客様」

「……ぶっきらぼうな態度からいきなり営業スマイルにされるとなんだかイラっとするな」

「ならそんな皮肉言わないでくださいよ。それに仕事中だし他のお客さんも居るんですから」


 客はテーブル席の方に居るからこちらの会話は聞こえないだろうが、バイトとして友達と話し合っていると悪印象を持たれかねない。店長はあまり気にせずにお得意さんと仲良くなる方だが、それでも一線というものがあって上手に立ち回っている。俺はまだまだ未熟でその領域には至っていないのだ。

 などと思った矢先に既に居た客達が食べ終わり、会計を告げてきた。レジに立って精算し、ありがとうございましたと言って、客達が店から出ていくのを見送る。


「これで他のお客さんもいなくなったようだが?」


 御法川先輩はにやにやしながら尋ねる。どうも敵わないな、この人には。


「……そうですね。そういえば部活の練習は終わったんですか?」

「ああ、いつも通りだ」

「おつかれさまでした。何か頼みます?」

「キミのお勧めのものを」

「はぁ……せめて好みくらい教えてくれません? 苦いの大丈夫ですか?」

「あててごらん」

「……俺には良いですけど、普通の店員にはこういうのやらないでくださいね」


 困ったことにこういうこと言う客って意外と居るんだよな。しかたない、俺の好みで豆を選ぶか。


「失敬だな。私は外面が良いんだぞ」

「十分わかってますとも」


 今、俺は、御法川先輩と付き合っている。


 友達付き合いとかではない、彼氏彼女の関係だ。


 だが「好きだ」とか、「愛している」とか、そんな歯の浮くような告白をされたわけではないし俺が告白したわけでもない。むしろ「付き合わないか」と言われて理由を尋ねたら、「キミに異性としての魅力は感じない」と全否定された。じゃあなぜと聞けば、どうやら言い寄ってくる男避けのために彼氏が欲しいということだった。よりにもよって見損なったとか軽蔑したとか罵声を食らわせて来た男に白羽の矢が立てなくてもと思うのだが、そこが先輩がお気に召したポイントだった。元より好意がある男性を彼氏にして本気にされても困る、ということらしい。部活や勉学に悪影響の出ない範囲の、ある程度距離を置いた『彼氏役』がほしい、そんな都合の良い人材を求めていたというわけだ。その御法川先輩の本音を聞いたときは断るつもりだったが、先輩は交渉が上手かった。


「しかし、実際俺の悪評は酷いんですか」

「別に酷いってわけじゃないが、高田と同じ高校だった人や友達は多いみたいだな。だから高田の素行を心配する人が多いように思える」

「そうですか」


 カツアゲしてきた人間に同情するという気持ちがよくわからんと思いながら、コーヒーミルで豆を挽く。客が多い時やランチタイムは基本的に電動のミルを使うが、一人分や二人分のコーヒーならば手回しで豆を挽くことも少なくない。今回も手回しである。別に手動のほうが電動より凄く美味しくなる、ということは全然無いのだが、敢えて言うこともない。演出も大事だ。実際、先輩は俺がコーヒーを淹れる姿を興味深そうに見ていた。


「というか井上、キミに友達が少ないからキミの方の情報が回らないんだよ。部内の付き合いも悪かっただろう。こういうとき庇ってくれる友達は大事だよ」

「……ご忠告ありがとうございます」


 御法川先輩は、俺が更なるトラブルに見舞われないように俺の味方になる、ということを約束してくれた。というか彼氏彼女の関係になるとしたら俺の悪評はそのまま先輩の不利益となる。その言葉に説得力はあったし、お互いに利益のある関係を目指すという現実的な話は魅力的だった。そのかわりこちらが約束したこともある。


「しかし先輩も律儀ですね。実を言うとちゃんと守ってもらえるって思ってませんでした」

「井上はたまにとんでもなく無礼だな……そっちが守る限りは私だって守る」


 約束の内容は簡単だ。

 『御法川先輩に肉体を要求しないこと』、

 ただそれだけだった。


「そんなケダモノじゃあるまいし……いきなりそんな要求する奴っているんですか」

「いるものだよ世の中には。いきなりウチに泊まっていけとか、そんなへったくそなナンパする奴とか」

「毎日何食えばそういう思考になるんですかね」

「男がわからないものを女の私に言われても困る」


 俺も男として同じクラスの女子や同じ陸上部員を見てよからぬ妄想をすることもあるし童貞を後生大事にしたいとは思わないが、だからといって好きだのなんだのを囁く間柄でもない人間にどろどろした性衝動をぶつけようとは思わない。というか何かを入れたり出したりするほど深い間柄の人間関係を作る余裕が俺にはない。今日と明日を生きていくので精いっぱいだ。だからバイトで忙しく一緒に行動する時間もそこまで割けないことを先輩に伝えたら、先輩自身もそこまで時間を割くつもりはないとのことだった。それ故に、仮初の彼氏彼女の関係を構築する上での困難はほぼ無いと言って良い。

 まあその話の流れでバイト先の店名まで口が滑ってしまい、こうして先輩から不意打ちの訪問を食らってしまっているのだが。


「しかし学校の制服よりもバイトの制服のほうが似合ってるな。それ、カフェエプロンとかバーテンダーエプロンって言うんだっけ?」

「ありがとうございます、先輩も綺麗ですよ」

「……っ! なんだい、いきなり」

「いや付き合ってるなら普通に言うでしょうこのくらい……。さ、どうぞ」


 俺は先輩にコーヒーと、付け合わせ程度の生チョコを載せた小皿を出す。コーヒー豆はウチのブレンドだが、強めにローストしているため酸味よりも苦味がやや勝る。学校やコンビニで出るようなコーヒーは大体酸味が強いからこれは意外に感じるはずだ。苦いのが苦手であれば言っているだろうし。

 先輩はコーヒーカップを手に取ると、砂糖もミルクも入れずに口につけた。


「……なんだ、こないだの店のコーヒーより美味しいじゃないか。ここに案内してくれよ」


 先輩の声には驚きの色があった。お気に召したようでなによりだ。

 口に入れた瞬間に客の表情に湧き出る純粋な賛辞というのは、やはり飲食業の醍醐味だと思う。


「バイト先を安々と教えたくないですよ」

「そうかい? みんな気軽に教えあってるけどね」

「ちょっとわからない世界ですね。知人や友達程度の人間に押しかけられたくないです」

「友達がいないだろうキミは」

「その友達いない男があなたの彼氏なんですがね」

「違いない」


 俺の皮肉交じりの返答に御法川先輩は楽しげに笑う。

 そしてしばらく談笑するうちに客がまた増えてきたあたりで先輩はコーヒーを飲み干して去っていった。掴みどころのない、気まぐれな猫のような人だと感じた。

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