アロエの選択3
適正への誘い。適格への軌道。細く舗装の甘い雪交じりの不安定な地面を蹴りながらフリージアは息を切らし走っていた。素足。皮膚は霜焼けを起こし感覚の喪失と疼痛がそれぞれの神経を通して同時的に段階的に断続的に起こっている。それでもなお、彼女の足は歯車のような回転を継続し、その幻のような艶やかな金髪は舞っていた。彼女を陵辱してきた男達の手による次の高値をつけるため道具としてある程度恣意的に整えられた髪。されどその髪は本質を見失うことは決してなかった。究極的な精神の恥辱や身体的困憊といったあるいは精液や麻薬の類にさえ侵されることなく、確かに彼女の美しさを牽引していた。間もなく導かれしゴールが見えてきた。逃走の果て。安寧の場所が開け始めていた。まるでそれは春の訪れ。かの有名なJSバッハのカンタータが幻想の内に耳へと、心臓へと優しく溶け込んでくるかのようだ。
――しかし。
その果てはただの暗闇だった。
主も人も動物も、あるいは植物さえも。
誰も視認することの出来ない暗黒。
果たしてそのようであるとき。
そのようであったとき。
いったい誰を賛美せよというのだろう。
いったい誰に感謝すればよいのだろう。
フリージアに代替案は思い浮かばなかった。
ただ彼女は悟った。
この星にはそれがないと。
遠くかなた、地球の先。
宇宙のあちらならばそれがあるかもしれないと。
そちらならば。
兄にもまた会えると。
サクラコはかの三号車で揺られていたであろう一つの高級な天体望遠鏡をその白い安物のランニングシューズの下で踏んでいた。否、正確にはその骸を踏んでいた。非常に残念なことにサクラコは望遠鏡については素人であったため、それが一体幾らほどの値打ちがするのかは判然としなかった。されど、フリージアが愛していたことは心得ていたはずだった。なぜこのようなところに唐突に破壊され無残な姿となった天体望遠鏡が突然出現したのか。サクラコは意図を図りかねたが、フリージアの精神がマイナスの方へ錯綜するのを感じざるを得なかった。
間もなくして。ツタに依る巨大なブヨブヨの球体はその花を開いた。
ギボウシは起爆すると言ったが、全くの虚言あるいは見込み違い。
開かれた球体の内部より現れたのはまさしく化物魑魅魍魎と呼ぶに相応しい。人の腐乱した生首がいくつか不格好に無秩序に突き刺さり、およそ数十にも及ぶ血走った眼は幾重にも全身に張り巡らされている。辛うじて人型を保っていると言えるその身体手足は深緑に染まるツタに依って形成されていた。もはや奇天烈だった。グラジオラスの面影など跡形もない。しかしその生首はあるいはサクラコはどこか面影がある気もした。何たるか。あるいはフリージアの家族だったかもしれない。
さて。我々動植物のウィークポイントは種によりそれぞれ異なるだろう。
しかしわざわざ一個体ごとに武具をこさえていては枚挙にいとまがない。ならば普遍的な弱点は何か。それは即ち火器だ。
火炎。
燃やしてぶっ殺せばよい。気にくわない者などその生命の鼓動ごと焼ききってしまえば良い。地獄の悪魔などを呼び覚ます召喚魔術も降霊術も必要でない。人は火を手にし、それを生活に使用することも、はたまた軍用的に扱うことにも長けたのである。
しかしサクラコの目前の異形は火を嘲笑うかのように燃え盛っていた。
元々皮膚に耐熱を持っているか検討する事さえ馬鹿馬鹿しい狂気に満ちた形相であるが、確かなことはその生物と思しき存在に火は効きそうにないということだった。ということは、あちらで棒立ちしているアロエの頬を引っ叩いて、戦闘に寄越したところで水泡に帰すということをサクラコは察した。
4~5mはあろうかという化物は相変わらずグニュギュシュと気色の悪い濁音と、身体全体で燃え続ける火のジュワっという不快音を交差させながら、サクラコ目掛けて歩を進めてくる。あれだけ周囲が燃え盛っているというのに、その幾点かの生首はこちらを直視し、全身に付着する夥しい量の目玉は潤いなど必要としないのかはっきりとギョロギョロヒクヒクとサクラコを視認している。
サクラコは天体望遠鏡を名残惜しく感じながらも仕方なくその残骸の隙間を縫って飛び越え、アロエの元へ向かった。
「ちょっと、お兄さん。貴方こんな一大事に何突っ立ってるの!」
しかし彼の眼は近づいてよくよく眺めるとまるでシャクヤクのように生気が抜け落ちていた。魂ごと奪い去られ、肉体だけがこの場に残留していると形容できかねない有様。それでもシャクヤクならいつもの状態といえたが、アロエがこのようになっているのは異常に他ならなかった。
「もしかして、ここに入り込むのに失敗したのかしら。間違えて身体だけが迷い込んでしまったとか……」
わからない。確かにアロエのことをメンバーやグラジオラス誰一人として視認しているようではなかった。しかしサクラコにはアロエが今もこうして視えるのだった。
――
サクラコは突然背筋がゾワリとした。
――しまった!
このシャクヤクの夢と思しき空間では音の距離感がおかしくなっている。それは存じ上げていたはず。今更取り上げるほどでもない常識。だがサクラコは多少油断してしまった。最初にこの怪物が歩みを始めた際、殊の外鈍足であり、アロエに話しかける余裕ぐらいあるかと甘い甘い見積もりをしてしまった。
既にかの怪物はサクラコの前へ侵攻していた。
サクラコは呆気なく火炎に呑まれた。
ただ単純にその異形はサクラコへと抱き付いてきた。そうするだけで普通の人間なら絶することは明白だったからである。
サクラコには火炎による絶望的な激痛だけではなく、万にも及びかねないけたたましくノイジーで気がふれてしまうほどの叫換や罵声や罵りの語が脳に直接やってくる。いっそジェット機エンジンの間近で枕を置いた方が遥かにマシといえるほどだ。
聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたない――
サクラコは熱さと騒音で理性を維持することが不可能といえるほどの凄絶を享受する。まるで一瞬の内にフリージアの人生の全ての負が、いやそれだけではなく、彼女の家族や果てはその国の嘆きが全て降りかかってくるかのようだ。ああ。ああ。ああ。舌を噛み千切って今すぐ自害したい。この痛みや苦しみから解放されるならば。そう切に願うほど炎に闇に頭がぶち壊されていく。ほだされていく。ぶつ切りに細切れに滅茶苦茶にされていく。アぁ……。
と、サクラコが果てそうになった際、わざとらしいぐらい絶妙に、新しい感覚がようやく訪れた。首元が急に苦しくなり、酷い圧迫感で嗚咽を漏らしそうになる。だがそれも間もなく、まるで首から先を引き千切られるかのようにぐいぐいっと、乱暴にサクラコは怪物から場外へ弾き飛ばされた。
「っつ!」
クレーターができ軟度が増している地面に幾度かバウンドしながらサクラコの身体は回転を繰り返しやがて静止した。
その皮膚は。当たり前のように燃えていない、いつもの肌色だった。
「あぁ。面倒だ。一切合切」
地面に突っ伏すサクラコの視線の先。
赤髪の粗暴で上背のある筋肉質な男はかの異形と対峙していた。しかしサクラコはその構図に全くと言っていいほど安心できず叫んだ。
「駄目よアロエ! なぜ貴方が突然息を吹き返したのかもわからないし第一助けてもらっておいて言うのもおこがましいけれど、勝てないわよ、貴方」
「じゃーじゃーうるせえんだよ牛乳。やるかしかねえときはやるしかねえんだ」
「私は牛乳じゃありません!」
アロエはサクラコを無視してぐっと右手に力を込めた。筋肉の軋みとともに、その腕はかの異形の全身と同様に程なくして発火した。球体よりいでし怪物はその突き刺さり崩れた粉の塊のような大量の頭部をグリグリと、あるいは模様のように付着しているおどろおどろしい眼をアロエの右手へと向けていた。
「ちっ。悪ぃが俺は金髪に興味はねえぞ。ここで殺すことになる」
「キザな台詞に横やりして申し訳ないけど返り討ちに合うわよ」
「うるせえ。気が散る。黙ってろ」
「……。ギボウシが何かわかっているのかもしれない。貴方がすべきことは時間稼ぎよ」
「いや、わりぃが手加減は忘れた。こいつが死ぬのが今回の落としどころなんだろう」
「無実の命を殺めることを私は良しとしないわ」
「ああ? 因果応報だろ。こいつはもう取り返しがつかないぐらい狂ってる。復讐と称して何人殺ったか数え切れねえだろうさ。どうしようもねえんだよこういう場合は。終らしてやるしかねえんだ」
「議論になりえないわ。仲間でしょう……? フリージアと私達は」
「イカレ野郎共の集まりだろ。ロクなもんじゃねえんだ、俺達はな」
サクラコが口を滑らせているうちにアロエはかかさずその右手の炎を限界までヒートアップさせていた。されどその右腕の一切は焼け付くことなく、健全を維持している。まるで火とシンクロしているかのように鮮やかだった。
そしてサクラコが次なる何か時間稼ぎの台詞を用意する間もなく、アロエは駆けていた。ただ真っ直ぐに。何も考えないように。そのままその右拳を怪物の中央部に叩き込んだ。
ドシン!
「ッッツ! ぐ……」
しかしその右拳は威勢よく確実に入ったは良いが、そのままぐいぐいとめりこみ続けるだけで、まったく手ごたえはない。どころか逆に怪物の腹部にそのまま吸引され身体ごともっていかれるかのよう。間もなくアロエにも負の感情たる跫音がひたひたと近づいてきた。
「ぐっ……」
サクラコが先程味わった幾千の呪怨が彼にも届いた。しかしアロエはぐっと奥歯を噛み締めて、それを堪える。加えて耐え忍ぶだけではなく彼は更に馬力を発揮することが求められていた。だがその困難もアロエにとっては厄介事の一つに過ぎなかった。何よりサクラコと違って、彼の耳に聞こえてきた全ては、とある一人の女のか細い泣き声だとわかっていた。
「ぁぁぁああああ!」
無理矢理に意識を暴発させ、アロエは盛り猛った。彼に四の五のはない。興味があるのは零か一かだけ。あらん限りの力みを見せてアロエは右腕に情熱を込める。そうして彼は自分のスイッチをオンにする準備を整える。
「嘘、貴方なんでそんな力。駄目よアロエ! フリージアは!」
「うるせえええええ。っ、ぁぁあああああああああああああああ」
アロエは脳の血管がプツリと切れかねない程全身の筋肉を強張らせ、右腕に全身全霊を注ぐ。そうするともう、彼の攻撃には塩梅など存在しえない。相手が絶命するだけである。精神を取り戻すこともなく、ただそれは自殺と同様にその魂が焼け焦げ、堕ちるだけだ。
「アロエ! 待って!」
「終わりだ」
そのスイッチは起動した。
ジヒューーーーンと規定通りの炸裂音が鳴った。同時に異形の怪物は見る見るうちにその身体を膨張させる。当然ながらそれは怪物が意図したものではなかった。まるで風船のように腹部を基点として膨れ上がり、膨れ上がり、そして。
バアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアン。
と、サクラコが思わず耳を塞ぐほどの轟音が響き渡ったかと思うと、その生物は破裂し肉片はあっけからんと、紙吹雪のように、あるいは舞い散る桜花弁の如く飛散した。
夢園師 YGIN @YGIN
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