星の丘4
アロエの眼前に立つギボウシはどこか余裕ありげな表情を浮かべていた。
どちらかと言えばアロエの方が酷く疲れ切ったような表情をして余裕がなさそうだった。
「おい、どけ、チビ」
アロエは歯に布を着せるでもなく直球でギボウシの心情を逆撫でするような事を言った。
だがアロエは特に彼を傷つけようとする悪意を持っている訳ではなかった。
ただ単に彼にとっては会話というというものが億劫なだけだった。
ギボウシは肩をすくめた。
「はぁ。本当に君は知性の片鱗が見えないんだね。その実本当に強姦魔なのだから救いがない。おっとこのまま罵詈雑言を突き詰めれば僕も君と同じレベルまで落ちてしまうね。失敬失敬。じゃあ、どうしようかな。取り敢えず君、ここで死んでくれるかい?」
ギボウシは言い終えると、残っていた二本の注射器をそれぞれの手に一本ずつ得意げに構えた。
そこにはカモミールやハスに打った睡眠剤のような物ではなく、致死性の猛毒が注入されていたに違いなかった。
珍しくアロエは頭をかき、少し戸惑ったような様子で言った。
「ったく。お前ら揃いも揃ってめでたい連中だな。そこの金髪女がどんな奴かも知らないで。とにかく黙ってそこをどけ。俺はそいつに用がある」
「ほう? 用とは何かな? これだけ豪快に衣服を引き裂き、髪の毛までむしり取っておいてまだ性欲が収まらないのかな? もう良いよ。君のような吹き溜まりはあの世で反省してくれ」
そう淡々とした口調でギボウシは述べ終えると、即座にアロエへ向かって一本の注射器を投擲した。だが、すんでのところでアロエはそれをかわす。
「おい、チビ……」
口こそまさに最低最悪。
だが、アロエを追うのを止め、二人の様子を観察していたサクラコは彼の様子を変に思っていた。
アロエはまるで格闘する意志がないようだ。どころか普段より何か冴えない調子だった。
無論、フリージアに乱暴して疲弊していただけかも知れないし、元々尊大でそっけない態度をとりがちな男であるため見分けをつけることは非常に難儀であったが、もしかしたら今ここにいる夢園師のメンバーから強姦魔だと揶揄されて気落ちしているのかもしれなかった。あるいは、すぐ近くで放心状態になっているアロエの姉、アベリアのあの状態に心を痛めているのかも知れなかった。
しかしそんなアロエの様というのを観察した結果、先程までアロエに対し異常な怒りを覚えていたサクラコは、自身の心情が少しずつ変化していくことに気付いた。
心に何か引っかかりが生じ始めている。
アロエ本人がフリージアを襲ったにしては、アロエの態度が噛み合わない。
これはもしかして本当に。フリージアを襲ったのはアロエではない?
だがサクラコは未だに肩が激しく上下するほど全身の血が沸騰してしまっていたし、また、先程豪快にすっ転んだせいで鼻先がビキビキと痛み、上手く頭が働かない調子だった。
身体能力という点ならば、チームAでも随一であるアロエがギボウシに対して遅れをとることは考えづらかったが、戦闘意志を持たないアロエと、平静さを装って実は最も怒りが頂点に達しているであろうギボウシでは、どちらに軍配が上がるかわからなかった。
サクラコがおどおどしている内にギボウシは攻撃を仕掛け始める。
取り敢えずは避けることを第一とするアロエに対し、ギボウシは手にした注射器を容赦なく突き立て続ける。
無論、一度や二度で命中させられるなどギボウシも想定していないだろう。だが、このやり取りを延々と繰り返し続ければどうだろうか。あるいは何かアロエが集中を切らすことがあるとすればどうだろうか。
と。サクラコはふと視界で何かが動くのを見た。
それは、まるで蜂のように注射器を翳すギボウシでも、仕方なくそれをかわしつづけるアロエでもない。
まったく別の何かが視界で揺らめいている。
そう、それはなんと、先程から仰向けに寝ているはずのフリージアだった。ギボウシのすぐ後方に横たわっていたはずのフリージアはまるで、誰にも気付れたくないとでもいうかのように、地を這う蛇の如くひっそりと、少しずつ着実に挙動していた。
それは酷い負傷をしている人間にしては奇妙な動きだった。いや酷い負傷をしているからこそ、そんなぎこちない動作をしていると言われればその通りではあった。加えて暗がりで大まかにしか動きが掴めないことを考えればサクラコは一概には判断しかねた。だが彼女の動きはどこか緻密で計画的な臭いがした。サクラコは自分の中でようやくパズルのピースが埋まるような気がした。
と、突如フリージアは物凄い勢いで大地を蹴った。
それはまるで獲物を捕捉した蛇のように鋭敏で狡猾な動きだった。その動きを見せた際のフリージアの表情はサクラコが今までに見たこともない想像を絶する歪んだ表情だった。そう、彼女は嗤っていた。
競り合いを続けるギボウシとアロエ。
そんな彼等の足元に突如として生じる一匹の蛇。
即ちフリージアは、アロエの足元目掛けて飛び付いた。
アロエは瞬く間に身体のバランスを崩し、地面へと崩れる。
その隙を逃すはずもなく、ギボウシはアロエに飛びかかった。
そして小柄なギボウシはアロエの上へ馬乗りになると、注射器を天高く掲げた。
まさしく今容赦ない一撃をアロエに対して打ち込もうとする。
その手に躊躇は無い。
突然加勢してきたフリージアの行動の不自然ささえ頭の内に入っていない。
「ギボウシ! 待ちなさい!」
鼻を痛めている場合ではない。サクラコは走る。
だがしかし、ギボウシの振り下ろす腕は止まらない。
サクラコの声など、聞こえていない。
ダメだ、間に合わない。
間に合うはずがない。
どんなに早く地面を蹴ったところで、彼とアロエは十数歩は先に居る。
対し、ギボウシが腕を振り下ろすのはわずか数コンマで完了するのだから。
そう。この世には時間という絶対的で不可逆の概念がある。
万人がそれに逆らうことはできず、目の前の現実は絶対に都合よく一時停止などしない。
例えそれがどんな悲劇だろうと。どんな悲痛な未来を生むとしても。
目撃した際に既に手遅れならば悲劇はまず実行される。
ただの目撃者。
目撃者如きは、何もできはしない。
ただ、事実を事後的に解決する足掛かりになることしかできない。
事実に。
追い付けなければ。
その瞬間内に何かをなし得る人間でなければ。
間に合う人間でなければ。
全ては後の祭り。
死んだ命は。もう帰らない。
だが、サクラコは本能でわかっていた。
自分はきっと『間に合わない側』の人間だということが。
彼女は確かに常人よりは遥かに優れた頭脳を持ち、清らかで真っ直ぐな心を持ち、状況把握力にも優れていた。
しかし彼女はいつも遅かった。
あと一歩がいつも足りなかった。
わかっていた。
追いつきたくとも追いつけない現実が幾重も自分の心を傷つけてきたであろうことはわかっていた。
成人する前、自分がどれだけそれによって精神をボロボロにしてしまったかわかっていた。
だけれど、サクラコは追い付きたかった。
今この時、彼女はアロエの元に追い付きたかった。
自分がそういう性分だとしても、間違いだとしても間に合いたかった。
彼のことを熟知している訳でもなく、むしろ憎悪してさえいた。
今しがた殺してやろうとさえ決意したほどだ。
だがやはりサクラコは彼が気になっていた。
アベリアや皆にからかわれるくらいには、アロエのことが気になっていた。
ギボウシの腕は間もなく、アロエの心臓へと近づいていた。
その注射器の針は実に簡素な金属だったものの、どこまでも禍々しかった。
その容器に宿す液体は、容易く殺人できるほどの致死性の猛毒であることは、メンバーの誰もが知るところだった。
今この時、私は間に合わないといけない!
サクラコはそう急いた。
私はもう……。
二度と……。
失いたくなんて……ない!
そう、強く自分の鼓動を締め付けるぐらい強く念じた。
すると懐かしい感覚が舞い降りてきた。
何をもってして懐かしさを感じているのかは全く理解できない。
だが、サクラコなぜか心地良い気持ちになった。
目の前の事物が当たり前のように全て突如として静止した。
そしてそうかと思うと、まるで体が上に上に、即ち星の駆け巡る夜空の方へ、ぶわりと飛び上がるかのような、まるで魔法使いにでもなってしまったかのような強い浮遊感がやってくる。
それを感じたと思った矢先、サクラコは予期していた通り、目の前が真っ白になった。
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