星の丘2

 サクラコの放った氷のように冷たい一言に誰もが背筋を凍り付かせた。

 サクラコが普段からアロエに対してややきつめの言動をするのは別段珍しいことではなかった。

 ただそれはアロエへの好意の裏返しではないかという論が通説であったし、第一に本気でサクラコが他人を貶めたり危害を加えたりするタイプの人柄であるはずもないであろうことは自明だった。


 だが今この時、フリージアの頭を地面にそっと寝かせ、むくりと立ち上がったサクラコの表情を見た面々は只ならぬ狂気を感じた。仮にもしメンバーの想像通り、アロエがフリージアをありていにいえば強姦するような真似をしていたとすれば、サクラコの怒りがあまりに正し過ぎ、そしてそれがゆえに今からサクラコがどのような行動に出るのかまるで想像もつかなかった。


 このままでは不味いと即座に動いたのはアズサだった。

「落ち着け、サクラコ!」

 だが、アズサの身体は一瞬の内に、まるで紙吹雪のように宙に舞ったかと思うと、そのまま落下し地面に叩き付けられた。

「くはっ……」

 アベリアがそんなアズサの抵抗などまるで視野に入らない調子で突如その場にへたり込んだ。

「なんで……。アロエ……。あんた、何やってんのよ……」

 アベリアはあまりのショックからなのか、半ば放心状態で目が虚ろになりかけている。

 恐らくメンバーきっての常識人であり、皆を諫める役を担っていたサクラコが、いの一番にアロエへ敵意を向けたことがアベリアの心を急速にぐらつかせたに違いなかった。


「皆、落ち着くんだ! アロエからまず話を……ぐ……」

 カモミールのその冷静な一言はギボウシによってすぐさまかき消される。

 カモミールは力を失い地面へ俯せに倒れた。

「まさか女性に手を掛けるなんて……。元々ロクな輩じゃないとは思っていたけど……。本当に救いようのない屑だったとはね」

 ギボウシはカモミールの首に突き刺した注射器のようなものを抜くと、地面へ放り投げた。

 そしてさらにもう一本、身に着けていたカバンから新しい注射器を取り出す。

 ラナンとナノハはその間、まるで殺人現場を目撃した一般人であるかのように、お互いに肩を寄せ合って震えているだけだった。

「ラナン、逃げよう……」

「オー……しかし、これは……」

 そんなラナンとナノハと同様に、夜分遅くなり数は減少していたものの、辺りに居た観光客達が只ならぬ様子に騒ぎ始めた。

「不味いな、このままではとんでもないことに……」

 ハスはゴクリと唾を飲むと、サクラコが平静さを喪失しカモミールまで倒れた以上、自分がこの場を収める他ないと腹をくくった。

「ギボウシ。非常に悪いとは思うが、どうやら私はまず君の動きを封じなければならないようだ……。少々手荒な真似をしてしまうことを許してほしい」

 ハスは一礼すると、ギボウシと相対した。ハスとギボウシ、その身長差はかなりのもので、一般人から見ればとてもギボウシに勝ち目があるようには見えなかっただろうが、ハスの表情は非常に重かった。

「相変わらず頭が固いね。事態を読み込めば僕がサクラコに加勢すると決めたことの方が正しいとわかるはずだろう? そこの赤髪の軽薄な男は、もうれっきとした犯罪者だよ。だけど、ボタニカルはこれら全て結局隠匿しようとするだろうね。そして結局アロエは何の刑事罰を受けることもなく何食わぬ顔で生き続けることだろう。またフリージアはなぜか適当な理由で『前の誰かさん』と同じように除隊になるかもしれない。そういうオチが目に見えているんだよ。ハス。君もわかっているだろう?」

 ギボウシは注射器を手の中でくるくると回しながらハスを睨む。

 だが、ハスは額に汗を滲ませながらも、決して動じる様子を見せることなく強い口調で反論した。

「果たしてそうかな? むしろ真逆の事態となるかもしれない。とにかく。今我々は冷静さを欠いている。特にサクラコは非常にまずい状態だ。したがってサクラコを止めるとともに、直ちにフリージアを安静な場所に連れて行き、アロエからは事情を聴取し、真相を突き止めるべきだ。それが先決だ。違うかな?」

 ははは、と小さい背中を躍らせながらギボウシは笑った。

「オーケーオーケー。模範的な回答だ。もう良いよ。そういえば、君達チームBは聞くところによると何やら妙な案件に関わっているらしいじゃないか。その辺も含めて君に色々と自白してもらおうかな」

 ギボウシは更にバッグからサイズの異なる数本の注射器のようなものを取り出す。

 一縷の容赦もしないことを暗にハスへと告げていた。

 ハスはごくりともう一度唾を飲み、自身が為すべきことを脳内で唱え直した。

 だが、小柄な男と大柄な男。その内、大柄な男の身体はひどく震えていた。



 サクラコは最早、赦せる赦せないという物差しを自身の中で喪失させており、彼女の中にあるのは憎しみの火炎だった。

 この遣る瀬無い思いを、最終的に極論も極論によって相殺することを深く望んでいた。

 即ち、自身の手でアロエを殺めてしまえば、自分の心はゼロになることができるという見解。

 それだけが彼女の脳内に溢れ返る無数の雑念を消し炭にできるただ一つの方法であるような気さえした。

 だがそんな沸騰しきった感情をあぶらせていると、突如脳がバチバチとスパークを繰り返し、見たことも聞いたこともない人物達の様々な身勝手な声が聞こえてきた。

――「サっクラコー! ねぇねぇ。今度うちの旅館泊まってってよ。大丈夫、全部タダタダ! 丁度この時期全然お客さん来ないからさぁ。井田と一緒にさ」

――「やぁ、サクラコちゃん。こんにちは。さっそくだけど頼めるかい?」

――「祈ってみたんだ僕は! もう祈りつくしたんだ。それでももう、どうにもならない。過去には戻れないんだから。だから全部お前の性なんだよサクラコ! お前が罪を償えよ!」


 違う。これは私の記憶じゃない!

 サクラコはそう思った。

 喜怒哀楽いずれかの感情をあまりに高ぶらせてしまうと、殆ど幻聴のような何かが無数のように脳内で反響してくる。

 これはボタニカルに所属してからずっとだった。即ち、サクラコの記憶が現存している範囲からずっとだった。


 まるで『昔の私の記憶です!』とばかりにグイグイと彼らの声は自分勝手に聞こえてくるのだった。


 だが、サクラコハ、ゼッタイテキナイシヲモッテ、ソレヲヒテイシタ。


「くっ。くっ。アロエ。アロエっ!」

 ズキズキと脳髄に幾十もの裁縫針が駆け巡るかのような頭痛に、サクラコは気が狂いそうになる。

 サクラコは自分の精神も身体も不安定であることを自覚していた。

 そもそも、サクラコはやはり聡明だった。

 自分がどこかおかしいことなど百も承知だった。

 こんなあからさまに奇妙な組織に所属する日常が異常であることなどわかっていた。


 だけれど、サクラコは幸せだった。このボタニカルでの日々は。

 貴方達は。とても私にとって大切だった。


 なのに。お前は。


 アロエ。



 サクラコはここまで感情の針が振り切ってしまうと、もうきっとボスに何とかしてもらいでもしなければ、元に戻れないことを確信していた。いやそんなボスに魔法のような治癒術があるのかさえ定かではない。

 だがサクラコはもう抑えるつもりなどなかった。つもりつもった、アロエへの恋慕なのか憤怒なのかわからない感情の切っ先。その答えは今憤怒に振り切ってしまった。

 サクラコは目の前に立ち塞がったリナリアをも一瞬の内に気絶させてから、フリージアと同じく優しく地面に寝かせる。

 残る障害はガーベラぐらいなもので、それを越えればサクラコはアロエを殺すことが出来た。


 サクラコは最早殺したかった。

 殺人を脳が、あるいは手が足が、認可していた。


 眼前にいるアロエを殺すことが可能だったのだ。

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