ガーベラ
サクラコのその日の目覚めは早く、六時には起床した。昨日とは打って変わり、まだ九時の出社には大分余裕があった。
アズサに対する奇妙な違和感、シャクヤクの出現、そしてここ最近の体調不良。
これらのことが頭の中で混濁しており、サクラコは気分転換に散歩へ出ることを決め、さっそくいつもの紫色ジャージに着替えた。
外。冬の寒さが身にしみる十二月に突入し、辺りはまだ薄暗かった。
だが、サクラコが目指す先は明るくて暖かい場所ではなく、しばしば訪れている近所の公園であった。
園内は、この界隈でもそこそこの面積を誇り、池もあれば、十分なウォーキングコースもあった。
まだ六時で吐く息も白い気温であるというのに、お年寄りやランニングをしている人、犬の散歩をしている人など、程々の賑わいようである。
サクラコは改めて、その人間の逞しさに感じるものがあった。
さて、そのようなサクラコが、人のみならず生い茂る樹木にも冬の厳しさを乗り越えんとするエネルギーのようなものを感じつつ、心が洗われながらも歩いていると、少し先のベンチで、明らかに心が洗われていないようなカジノディーラー服の細身の女を見かけた。水分など一欠片もなさそうな色素が抜け落ちた白髪のショートヘア。鳶色の瞳。
「……」
サクラコはその顔を見て刹那のうちに、赤の他人のフリをすることを固く心に決めた。
大丈夫だ、外はまだ薄暗い。横切っても顔の判別はできないだろう。
素知らぬ顔で、サクラコは彼女が座るベンチの前を通り過ぎようとした。
「はぁ……………」
だが、女はいかにもわざとらしい、大きな溜息を吐いてきた。
構うな、騙されるな、歩みを止めるな。
サクラコは懸命に邪念を振り払い、足を踏み出した。
「あああああああああああああああああああああ、もう死のうかなぁ、もう私死のうかなぁ」
だが、まるでそれに対抗するかのように、話しかけて欲しいとでも言わんばかりのわざとらしげな大声で、どうせありもしない自殺願望を述べる女。
構うな、行け。
サクラコは今一度意識を高めて、右足を宙へ。
「ああああああああああああああああああああああああ、胸が大きいって良いなぁ。胸のない私はもう生きる価値ないよぉ」
「……今度はどうしたの、ガーベラ」
向けることを断念して、結局はお人好しにも声をかけてしまうのだった。
「わっ、サクラコ。こんな時間に会うなんて奇遇だね……」
本当に奇遇なのかどうか勘ぐってしまうサクラコ。
六時に起床したことも公園に行こうと決めたことも確かに自分の筈。であるのに、この女に限って偶然なんてあるだろうか。何か上手いように先導されたのではないだろうかと邪推してしまう。
「ともかく、今日はなんなの? それにしても、酷い顔よ」
「え? ブスで醜い? 死んだ方が良い?」
「そこまで言ってないじゃない……。それにあなたはきっと美人の部類だと思うわ。ただ、目のクマも肌の色も普段にもましてすごく悪いように見える」
「だって、昨日からずっと寝ないで落ち込んでたんだよ……」
「何があったの?」
「六千万負けたの……」
「は……?」
サクラコはその一言でたちどころに憤慨した。
「あなた、『もうギャンブルはしない!』ってこの前アベリアとアズサに吊し上げられて観念したじゃない!」
「あれはあくまで『(他人のお金では)ギャンブルしない』って意味だったんだよー」
「意味だったんだよ-、じゃないでしょ!」
「いやいや、今度は勝算があったんだよ……!」
「負けてるじゃない」
「そう返されるとぐうの音も出ないけど……」
「あなた凄く頭が良くて悪知恵も働くのに、運が絡むギャンブルだけは滅法弱いって自他ともに認められていることじゃない。なぜ判りきった過ちを繰り返すの」
「よくぞ聞いてくれたワトソン君」
「私は助手じゃないわ……」
オホン、とわざとらしい咳払いをして、ガーベラは述べた。
「私だって伊達に世界的に有名なあの大学を主席で卒業したわけじゃない。色んなこと一生懸命計算して計算してやってるの。フィフティーフィフティーのときも沢山あるの。それでもね、私は勝てないの。だからこそ、ハマっちゃうのだ!」
「ハマっちゃうのだ!、じゃないでしょ。まぁ、何となくわかるわ。あなたは確かに凄く賢いから、運が絡まないゲーム、例えばチェスや将棋だとべらぼうに強い。だけれど、運の要素が絡むとなぜか途端に勝てなくなる。そこに不満を持っているのね」
「まあ、そんなところかな。不満っていうか、不思議だよね。私は別に勝てなきゃおかしいって驕ってるわけじゃないんだ。ただなんでこんなにも勝てないんだろうってさ。単純な好奇心なのよ」
試しにと、ごそごそと皺だらけのディーラー服のズボンポケットから安価なコインを取り出す浮浪者のようなガーベラ。
「さぁて、ココニィ、一枚のコイィンがありまぁす!」
「なんで訛ってるの」
「いーからいーから! さぁて、気を取り直して―。今からこのコイィンの表裏当てぇクイズをシマァす!」
「早くして頂戴」
「もう、わかってるよ! 人が現実逃避してるんだからさぁ。大目に見てよ……。オホン。さぁてぇ、回数は十回! どっちが当てる回数が多いか勝負だぁ!」
結果は、ガーベラの惨敗だった。
「ほらあああああああああああ。サクラコおおおおおおおおおおお。ああぁ、やっぱり私は生まれつきたまたま成績が良かっただけの能無しなんだぁ、あぁ、死にたい死にたい」
「はぁ……」
サクラコはなんでこんな話に付き合わされているのだろうと辟易した。
せっかく気持ちの良い散歩に興じていたというのに。
ただ、このままだと途方もない愚痴を延々と聞かされる羽目になる気がしたため、サクラコは提案した。
「一つ推論があるわよ」
「おっ、なんだね助手よ」
ガーベラはゾンビのように血色の悪い顔ながら、期待の眼差しをサクラコへ向ける。
「その助手って言うの次に行ったらアズサに相談するわ」
「ごめんなさい、これを永久に禁ずることを約束致します、お願いします、サクラコ様」
サクラコは、はぁと一息ついてから言った。
「そうね。あなたは非常にIQが高いと聞いているわ。というか事実でしょうね。だから、もしかしたら、あなた自身が何らかの手心を無意識化で加えてしまってるんじゃないかしら」
「手心?」
「そう。さっきのコインにせよ、何らかのカジノゲームにしろ、実はあなたは無意識のうちに常人では計り知れない計算を脳で行えているのではないかしら。例えばコインの角度とか、ボールの動きなど。あなた物理数学も得意なのでしょう? そうやって無意識に出した脳の結論と、丁度逆の方に賭けているんじゃないかしら」
ガーベラはサクラコの論を聞くと、顎をさすって考えるしぐさを見せた。
そして、しばらくしてその薄紫色の唇を開けた。
「えー、それって要するに私がわざと負けてるってこと―?」
「平たく言うとそうかもしれない。まぁあくまで私の一つの仮説よ」
そこまでをサクラコが言うと、ガーベラはんー、とか、むー、とか唸るのみで、いまいち釈然としないようだった。
ともかく、結論がどうであろうと、サクラコは言うべきことを言った。
「どちらにせよ、辞めるべきね。理由はどうあれ。あなた最早ただの中毒者よ。その昼夜、一張羅でディーラー服を着続けるのも辞めなさいよ。するにしても定期的にクリーニングには出すこと」
「えー、気に入ってるのにぃ……」
はぁ。早朝から何度目かという溜め息とともにサクラコは言った。
「反省と自分探しの旅を兼ねて海外旅行に行って来ます、がこのザマとはね」
「うぅ……。やっぱり私は死ぬべきなんだ、もうやめられない止まらないんだよぉ……」
「ご家族が富豪の家系でなければ、既に身売りされて、ガーベラという名の女の子は、この世に存命していないと思うわ」
「サクラコ、ひどっ、そこまで言うことないじゃない。あれだよ、たばこもさ、禁煙促進のお薬とかあるじゃない。私もそういうギャンブルに手を出さなくなるの飲んだ方が良いかな」
「あなたが、薬にまで手を出し始めたら、色々と末期だという気がしてくるから止めなさい。まずは真面目にアイバナ建設で業務して、例の件に集中しましょう」
そして、サクラコは付け足した。
「リナリアのこと、このままにしておくあなたじゃないでしょう?」
ガーベラは途端、ぴくっと、青白い顔の上、その細めの眉を微動させた。
いつもは、その白髪でボサボサの髪はしなびたようにかろうじて生えているだけなのに、この時だけは頭の動きとともに、あるいは女の子らしく、しゃらんと凛々しく揺れた。
ダラダラとやり取りをしたせいで、既に日は完全に昇り始めていた。
しばらくはまたアイバナ建設での業務が始まる。
サクラコは散歩を切り上げ、公園を後にした。
それにしても、と。
「少し落ち着いてから私もビル戻るね」と、一旦別れたガーベラのことをサクラコは想起した。
今のやり取りのどこまで、デビルブレインとまで呼ばれた彼女、ガーベラの計算通りの茶番だったのだろうかと。
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