大森1
そこは、智美の旅館でもなければ、人里離れた森林でもない。無論外国等であろうはずもない。
どころか、果たして自分は本当に夢に入ったのだろうかと錯覚しかけたほど見覚えのある場所。
そう、ここは学校の屋上だった。
近年は生徒の自殺者も増加傾向にあり、中学校における屋上は普段絶対閉鎖されているところも多いが、サクラコの学校は例外的に生徒に開放されていた。その代わり、比較的高さのある頑丈な鉄網が張り巡らされているため、意図的によじ登りでもしない限りまず落ちることもない。
これは歴史ある私立校というプライドが、絶対にうちの生徒は誤った行動などしないという主張を駆り立ててしまったゆえんであろう。
屋上では、見栄えの良い植物達が育てられており、また、いくつかのベンチがあった。青空が広がる昼休み等はここでくつろぐこともできる。
サクラコ自身、気候が穏やかな季節では、しばしばここを訪れては読書に耽っていた。
もとより、優秀な生徒ばかりが集うこの私立において、屋上で危険な行為をする生徒などいるはずもなかった。そう生徒も教師も保護者も相互認識していた。
そんな屋上。
そこに、サクラコの眼前、丁度学校のグラウンドが見える方角の深緑色の鉄網の前で、大森と思しき人物が立っていた。辺りは風が強く吹き、彼の少し伸びた髪が靡いていた。
大森が美少年であるならばまた事情も違ったのだろうが、サクラコは大森の顔のつくりさえ良く憶えていなかったため、どちらかというと大森自身よりは風が肌に当たる時の感触が、現実と錯覚させられるぐらいにリアルで、その質感にサクラコのほぼ90%以上の興味関心が注がれていた。
しかし、のっしりとフェンス越しに直立したまま、少し視線を高めに、おそらくは空をぼんやり眺めているであろう大森の後姿を見て、サクラコは次第にそのシチュエーションに、嫌な予感を感じざるを得なくなってきた。
依然としてヒューと吹き続けるリアルな風の中、なんと大森がとった次の行動は、自分の上履きを脱ぎ始める、であった。
そして彼は自分の隣に上履きを揃えて置くと、意を決したかのように高く張り巡らされている鉄網に手をかけ、足をかけ、それを登り始めた。
「え、ウソ」
この全国でも有数の進学校において、あるいは将来は自国を担うトップエリート集団となるであろう生徒達が屋上の利用を誤ろうはずもない。
教師の目が届きにくい場所とはいえ、ここでいじめがあったり、はたまた自殺を図る輩が居るなんて万が一にもありえない。
ありえない。そのはずなのに。
サクラコは自身が持つ通念と目の前の大森の行為が結びつかず、目の前の事象を受け入れられないでいた。
しかしそうこうしているうちに、大森はすでに深緑色の柵をロッククライミングでも嗜んでいるかのようにガシガシと登っている。
そして開いた口が塞がらないサクラコをそっちのけで、彼はとうとうてっぺんまで登り終えた。
更にそこから、柵をよっこらせと跨いだかと思うと、今度は格子の向こう側へと降り始めた。
「だ、だめよ……」
大森が降りるその先には、それでもわずかに安全スペースと思しきコンクリートのスペースが確保されていた。が、彼を守る鉄網はもう無い。そこから先に広がるのは無の空間。そして眼下には硬い硬いグラウンド、である。
サクラコが狼狽しているのを他所に、彼は、ガシャンガシャンと音を立て、遂に柵を降り終えてしまった。
大森は鉄網背を預けつつも、首を曲げ、グラウンド側へと眼差しを向けている。
飛ぶ気だ。
サクラコは、明らかに大森が危険な状態に陥っているのを目の前にしてなお、まだ思考が追い付いていなかった。
「どうしよう……、私、どうしたら良いの……」
大声で叫んだところで彼には届かない。
そういう謎めいたルールが他人の夢に介入した時は発生する。
あるいは助けを呼びに行ったところで……いや、そもそも、助けなんて来るのか? ほかの人間は果たしてこの夢の中にいるのか?
――そういえば、夢を見ている本人と、それに付随するストーリー上の人物以外を視認した記憶がない……。それに、夢の中で誰かが死んだりしたこともなかった……。そもそも落ちようが何しようがこれは本人が見ている夢なのだから問題ないのでは……。
サクラコは色々な推測をして、何とかこの重苦しい雰囲気を、所詮夢だという理由で茶化そうと試みたが、無駄だった。
先ほどから妙にリアルに感じる風の感覚がサクラコの第六感をビシビシと刺激していた。
汗が額から滲んでいるのが手に取るようにわかる。夢にしては五感が確か過ぎる。
「本当に夢なの、これ……。夢で片づけてしまって良いのかしら……」
もとい、最初から、確かなことなんて何一つわからない現象。
正解なんて永遠にたどり着けないかもしれない。
わからないで片づけてしまっていいのかもしれない。
サクラコが責任を負う必要などどこにあるというのか。
しかし、サクラコの心臓は早鐘を打ち続けていた。彼女は真面目だった。
どちらかといえばマイナスの方向に針が振り切れている予感を強く懸念していた。
なぜ。なぜこんなにも自分はこの状況に何かを感じているのか。
智美の夢。あるいは他の人々の夢では感じたことのない悪寒。
今と今までの決定的な違いは何か。
そしてサクラコは気付いた。
――あぁ。「死」だ。死への恐怖を今までは全く感じなかったのだ。
今は違う。
目の前の大森から。眼前の光景から「死」が感じられる。
このままではいけないという本能的な直感が物凄い物量で自身の脳と心臓を支配している。
「待って。待って!」
いや、しかしだが、それは当たり前じゃないか。
何せ、目の前のクラスメイトは飛び降り自殺をしようというのだから。
死が感じられて当たり前じゃないか。
「違う、違うの! そういうことじゃないの!」
サクラコの声は勿論大森には届かない。
彼はもう、フェンスに背中を預けることを辞めたようだ。
風は強く吹いている。ともすれば大森はその風に煽られて意図しようがしなかろうが落ちてしまいそうなほどだ。
「待って! お願い待って!」
違和感があった。
忘れていたわけではなかったが、夢には共通点があったことをサクラコは改めて思い出してみた。
夢の共通項。
普段自分が見る夢よりも、妙な現実感があること。
いやそれはわかってる。
夢の中では自分の声はおろか、物を叩いたり鳴らしてもみたりしても決して相手には届かないこと。
いやそれもわかってる。
まだあったはずだ。
それなのに、サクラコは尋常ではない動揺からか、まるで小学生で習った簡単な漢字の部首をド忘れしてしまった時のように、あと一つ何か忘却していた。全身から汗が吹き出し、唇がわなわなと震えて全く気持ちを落ち着けることが出来ない。
「待って…… あ!」
しかし聡明なサクラコはそのような中でもようやく答えに辿り着いた。
だが既に遅かった。
サクラコが何かを察知した時には、既に大森は、そのわずかな安全スペースの先端まで来ており、もうそこから先に彼の地面などなかった。
大森が先ほど脱いで脇に添えられている上履き。
サクラコはそこに注目した。
その上履きの先端部分は赤色で縁取られていた。
赤色とはすなわち、サクラコが今身につけている上履きと同様の色であった。
つまり彼、大森はこの夢の中でなお、サクラコと同年齢同学年ということだ。
それはおかしい。
今までの共通項と異なる。
なぜなら、サクラコが他人の夢へ介入する際は、必ずと言って良いほど当事者が数年ほどあるいは十数年ほど成長した姿で現れるから。
そう、まるでその上履きの赤い縁は。
彼の人生は今ここで終了し、数年ほど成長する未来は無いとでも言わんばかりだった。
「大園君!」
言うが早いか、サクラコは全力で彼の元へ疾走した。だが、それではどうやら遅いようだった。
彼の片足はもう空へ向かっていた。
「大林君!」
――もうだめだ、間に合わない、どれだけ走ったところであの柵を登っている暇なんてないのだから。秒コンマの次元なのだから。
しかしそれでもサクラコは懸命に走った。
この当時からすでに中々に成長していた乳房を揺らしながらも懸命に走った。
そして彼の黒い学生服姿が、ついに眼前から消失するのを観測すると同時にサクラコは強く願った。
自分がこの夢を見た責任として、彼を助けたいと、自分自身でも信じられないほどに深く願った。
そうして気が付くと、サクラコは大森を両腕で抱えていた。
「は……?」
サクラコはあまりの事態に脳がついていかず、呆けて見せた。
だが、すぐに自分が校舎のその先、眼下にグラウンドがある空中上で、なんと大森を抱えている状況に気が付いた。
「えええええええええ。落ちる! 落ちるーーーーーー」
だが落ちなかった。
身体がふわりとしていた。どうやら自分は浮遊しているようだった。そして男子である大森を抱えているにもかかわらず全く彼の重みを感じなかった。
ファサ、ファサ、とすぐ耳元でまるで鳥の羽ばたきのような音が規則的に聞こえる。
何だろうか、でも助かったのだろうか。
サクラコは何がなんだかわからないでいたが、そうこうしている内に大森が「うぅ……」という呻き声とともにゴソゴソと起き上がった。そして、自分を見つめてきて口を開き、ぼそりとつぶやいた。
「うっ、あぁ……、天使様だぁ」
ビクン、と肩が跳ね上がった。
黒板前では天草先生が国語の教科書を閉じ始めていた。
そしてすぐに予鈴が鳴った。天草先生は何も言わず、日直が終了の挨拶をすると同時に、スッと頭を少し下げた後、まるで始めからいなかったかのように音もなく教室から出て行った。
サクラコの心臓は未だにバクバクと鳴り止んでいなかったが、しかしようやく夢から戻ってきたようであると少し安堵した。
学校で他人の夢を見るのは智美以来の二度目だった。そのいずれもが、公共の電車やバスで見る他人の夢よりもかなり印象強いように感じた。もしかしたら自分と親しい人物であるほど、この能力は強くなるのだろうか。わからないことだらけだったが、とにかく、サクラコは先ほどの大森の夢から解放されて、ホッと一息、豊満な胸を撫で下ろした。
そして、チラリと大森の方を見やると、さもありなんといった調子で、またも智美の時と同じように、大森がサクラコの事をまるでUFOでも発見したとでも言わんばかりの、驚愕の表情で凝視していた。
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