序章(サクラコの過去断片)

智美

 他人の夢へ意図的に介入することが出来る。


 それが、組織ボタニカルに所属する、夢園師と名付けられたメンバー達が有する能力。そして、その能力を利用して様々な案件を解決するのが組織ボタニカルである。

 特にここ十数年、精神に不調を来す人は緩やかにではあるが確実な実数を持って増加している。失業、離婚、不登校。犯罪自殺。爆発的に拡大するなら国家的プロジェクトの1つや2つ、あるいは対策機関の一つや二つ立ち上がることだろうが、現時点ではその兆しは薄い。しかし非営利を謳う営利目的の胡散臭いボランティア団体、宗教団体、NB等は母数を拡張、ネット界隈では数千数万に上る不確かで曖昧で疑心暗鬼的で右も左も上も下も斜めさえもわからなくなるような噂が出回り、人々はそれを時に助長させている。

 その背景には既に2030年代に突入しているというのに、あまりに科学の進歩が遅いという実情もあった。

 人は自己の死を100年以内に想定することを変えられず、難病は難病のまま。画期的なコンピューターAIは誕生の度に暴走し頓挫。果ては車の自動運転さえ相次ぐ事件事故により取り止めとなる始末。試行錯誤の網はいつになればディスカバリーを得るのか。

 人々は夢を。朧気に抱くことさえ億劫になり始めていた。あるいは漠然と。とてつもないシンギュラリティが巻き起こり自分の家族は、世界はすくわれると。宇宙には希望があると。妄想の最中へと突き進むのかであった。と、そんな世間の最中、夢園師の存在はきな臭いネットの一幕を飾るに過ぎない存在だった。

 しかし彼らはおよその現代科学者が目の玉を飛び出させかねない、他人の夢へ入り込む、操る、そしてその精神をリフレッシュするという、未来科学に到達しうる超次元的能力を有し、確実に依頼と実績を裏社会で獲得。次第にアンダーグラウンド界隈では影響力を有しつつあった。しかし同時にその能力の性質や本質、正体は一切が謎に包まれ、またボタニカルという組織の機密性はその夢能力そのものの精神操作によって手堅く伏せられていた。


 さて。


 サクラコがこの特異な能力に目覚めたのは中学校2年生の時であった。

 とある日の午後の授業中、当時友人だった智美がいつものように机に突っ伏して寝ていたのをサクラコはぼんやりと眺めていた。授業を受け持っていた国語科の初老で物静かな天草先生は、その智美を叩き起こすなどということはまず有り得なかった。

 そもそもサクラコが在籍していた中学校は、地元でもトップクラスの私立進学校である故に、生徒は全体的に授業への意識が高かった。そんな中、智美が眠りについていたのは、決して彼女が不真面目な生徒だからというわけではなく、彼女の実家が地元でも有名な旅館であることに関係していた。通学時間片道1時間半をかけ毎日学校へ通う。そして帰宅すれば旅館の手伝いをしなければならない。それが終わったかと思うと、学校から出される山のような宿題を片付ける日々。

 そんな智美が午後になると微睡んでしまうのも無理はない話であった。加えて智美は、国語科においては向かうところ敵なしの、全国レベルで優秀な成績を保持していた。天草先生はそんな智美の家庭事情もよく知っていたし、いくらか自分の授業を聞き逃したところで、智美の成績に悪影響がないこともわかっていた。だからだろう、智美は暗黙の了解で、午後の天草先生の授業で居眠りすることを赦されていた。

 サクラコはそれを特別ズルいと感じていたわけではなかったが、しかし智美の気持ちよさそうに眠る様を見て、自分だって智美に劣らない成績を有しているし、家庭事情も智美より遥かに複雑なのにと思わない訳でもなかった。

 「良いなぁ」とそんな軽い羨望を向けつつ、その日はふとこんなことを思った。

「智美は今どんな夢を見ているのでしょう」

 そうただ何気なく思っただけ。それだけのつもりだったはずが、突如、正面からとてつもない勢いの突風を受けたかのようにブワッと身体が後方に吹き飛ばされた。

「うっ……」

 否、正確には吹き飛ばされた「ように感じた」。

 本当に飛ばされたのだとすれば、サクラコの身体は教室後方の壁に叩き付けられることだろう。

 実際、そうはならなかった。

 そしてその正面からの衝撃が終わったかと思うと、今度は、まるで無重力空間に投げ出されたかのような、地に足がつかない浮遊感がぐわんとやってきた。

 立っているでもない、座っているでもない、歩いているでも走っているでもない。

 右に行っているのかも左に行っているのかも、斜めに動いているのかもわからない。

 自分の身体なのに、その状況がまるで掴めず、コントロールが効かない妙な感覚。

 まるで宇宙に投げ出されたようなその感覚はしかし最初の内だけで、不思議と慣れるのは早く、徐々に五感は戻ってきた。

 だがそれは、机に着座している感覚ではなく、直立している感覚だった。 

 サクラコは瞑っていた目を恐る恐る開けた。

 すると、予想通り、辺り一面は教室では無くなっていた。

 さながら瞬間移動のように、サクラコは先ほどまで居たはずの教室とは全く異なった場所に立っていた。


 しかし不思議と恐怖心はなかった。ぱっと見てサクラコはこの場所には見覚えがあったからだ。

「ここは……、智美の家……」

 そう、何度も訪れたことのある智美の実家、すなわち、旅館、その玄関口だった。

 なぜ、いきなりこんな場所まで。

 そう考える間もなく、サクラコの眼前には智美の姿が映った。

 否、智美のはずだといった方が正しい。

 先ほどまで机に突っ伏して居眠りをしていたセーラー服姿の女子生徒が、突然女将姿の成人女性に姿を変えていたとしても、サクラコは卓越した洞察力によって瞬間的に眼前の人物が智美だと断定していた。しかしそのあまりの変貌ぶり、いやむしろ、丁度今から十年ほど智美が成長すれば、こんな感じになるのだろうと思われるような出で立ち。


 そして、その、成長したと思しき智美の隣には、とても背が高く顔立ちの整った男が居た。

 居たというのは表現がやや手遅れかもしれない。

 正確には、智美とその男はもう暫く前からそこに二人で居て、そこに遅れてサクラコがノコノコとやってきた。そう述べた方が正しいだろう。

 そう。居るんじゃない。しているのだ。

 そう断言するに難くなく、目の前の智美とその男は、サクラコが刹那の内に顔を赤色に染めてしまうようなディープな抱擁と口づけ等を愉しまれていた。智美のその淡い水色に染まった着物は乱れ、その美しい肩のラインが見え隠れしている。

 その光景をまじまじと見つめることしかできず、立ち尽くすサクラコ。

 しかし、サクラコの目など全く気にもかけないといった調子で情事はお構いなく展開される。次々と。熱く、激しく。

「あぁぁ! 智美! なんて破廉恥な!」

 あまりの動揺からから、思わずサクラコは叫び声をあげてしまった。ハッと、両手で口を覆う。 

 しかし、智美とその男は、叫び声など全く耳に届いていないという風だった。

 二人の行為はさらに激しさを増していく。まるでサクラコどころか、この家には誰も居ないことが明らかであるかのように、完全に二人だけの世界が、映画のラブシーンのように遠慮無く展開されていた。

「う、嘘だわ! ちょっと!」

 最早サクラコは自分の身を隠すという考えさえ消失しており次々に狼狽した叫びが飛び出すが、しかし智美と男のお二方は相変わらず気づく様子がまるでない。


 サクラコは当時より頭脳明晰な方であったが、所詮は中学生。しかもこの手の営みに対してまったく免疫がないということも相まって、尋常でないほど慌てふためき、状況を精査する余裕がなかった。

 どころは彼女は潔癖なたちで、このような情事に智美が身をゆだねていることはふしだらな行為であり正さねばならないとさえ思っていた。

 だからであろうか、サクラコは、その智美の隣にいる長身の男性が智美の衣服を脱がそうとする段階で、「だめえええええええええええええええええ」と甲高い声を吐きながら彼等に向かって飛び込んでしまった。


 すると、それを許さないかの如く、瞬く間にサクラコの視界は真っ白となった。


 と、同時、サクラコはビクリと自分の両肩が跳ね上がるのを感じる。


 すると、当然のように彼女はいつもの教室に戻ってきていた。


「……は?」


 サクラコはクリアになった視界で思わず辺りをキョロキョロと見回す。

 いつもの授業風景。

 クラスの教室。

 午後の国語。

 当然である。何がおかしいことがあろう。


 思わず正面、壁の上に掛けられているアナログ時計に目を移すと、15分程、時が経過していた。


「……夢?」

 ――そう。夢だったのね。


 恐らく智美を羨むあまり、微睡んでしまったのだろう。

 間もなく授業も終わる時刻だ。


 天草先生はこちらへは見向きもせず、淡々と授業を進めている。どうやらサクラコは居眠りを咎められずに済んだらしい。

 しかしサクラコは天草先生が実は教室の端から端まで、生徒一人一人をしっかり見届けていることを知っていた。

 サクラコは普段から品行方正であったため、今回限りは見逃してくれたのだろう。


 だがそもそも彼女は気質として、居眠りを先生にバレなかったからといって、シメシメと思うタイプではなかった。


 ――なんと、はしたない。まさか授業中に居眠りをしてしまうなんて。

 むしろそんな強い罪悪感を抱いていた。


 授業後すぐ謝りに行こうと決心しつつ、しかしどうにも腑に落ちない点があることにサクラコは気が付いた。


 未だに手の震えや、冷や汗が額に滲むベトリとしたいやな感覚がする。

 何より心臓は、冬場に行う持久走を走り終えた後のようにドクドクと脈打っていた。


 ――夢にしては、リアル過ぎたような……。まさか、馬鹿げてる……。


 そう思いつつも、なぜかサクラコの両手には、成人していた智美と長身の男性に僅かだが触れた感触が残っている気もするのだった。

 それにあの、夢が始まる前の突風に吹き飛ばされ、宇宙空間に放り出されたかのような強烈な感覚は何だったのだろう。

 サクラコがそう逡巡していると、あっさりとチャイムは鳴り渡った。

 授業終了だ。


 結局サクラコはロクに授業内容を憶えていなかった。

 こんなことは初めてだった。


 日直が号令を終えると、天草先生は軽く一礼だけして、さらりと戸を開けて教室を出て行く。


 呆気なく。何事も、何事もなかったかのように。

 いや、あるいはすべてを知っているかのように。


 ――ともかく、謝りに行かなくては。


 サクラコは彼の背中を追いかけるために、腰を上げる。


 と。

 ふと何気なく気になって、それとなく智美の席の方方を振り向いた。


 すると、当の智美は、顔面を夕焼けの太陽のように紅に染め、目を丸々とさせ、まるで亡霊でも見るかのような調子でサクラコを凝視していた。


 その智美の明らかにおかしい様子に、サクラコは、先ほどの夢で成人した智美に触れた感触を想起しないわけにはいかなかった。

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