6-7 あいかちゃんといっしょ!

 皆、数えきれないくらい吐きかけ、幾度となく心が折れ、三人のうちの誰かが性欲を垣間見せたが、脱落者ゼロで死線を乗り越えたのだ。

 愛佳と富士彦が調理場に別れを告げたのは十時ぴったりだった。下駄箱を抜けた愛佳は半開きの目で、とうとう二日ぶりのお天道様を拝んだ。

 どこにでも植えてある樹木の存在に有難みを感じ、本来なら凍える北風も気持ちが良かった。道中、富士彦とは一切の言葉を生み出さないまま駅に到着した。ちょうどやってきた快速列車の車内は、がらんとしていた。

 椅子に深く座る愛佳は、ミルクに長時間浸されたコーンフレークのように、なよなよとしていた。暖房も二日ぶりである、気を抜いたら眠りに落ちてしまう。発展した浮世は、愛佳たちには優しすぎたのだ。

「なんとか終わったねえ」

「平然と家に帰る自分が嫌だな」

「罪悪感はやることやってからだよ」

 富士彦へかけてやる言葉は、自分への慰めでもあった。

「そうだな。あと愛佳、忘れてるかもしれないけどジャージ穿きっぱなしだぞ」

「ちょっと! もっと早く言ってよ!」

 三十分のうち半分は船を漕いでいたが、下車駅がアナウンスされると目は冴えた。同じ駅で降りた富士彦とは、駅前で別れた。


 帰宅がてら、愛佳は家から最寄の漁港を散歩し、『粉』を撒くと、自宅のマンションへと戻った。「ただいま」の瞬間から、母親の小言をもらったが、苦笑いで回避すると風呂に駆け込んだ。

 髪を二度洗い、体を洗い、湯船に全身を浮かべる。いくらもしないうちに温まった体を浴槽から出し、鏡に映った己の裸体を目に入れた。

 自宅の温もりを感じてしまった愛佳は、前触れもなく吐き気を催し、ありったけ戻してしまった。今まで食べ物を粗末にしていた過去を鑑みながら、風呂場でひとしきり泣いた。

 思えば、誰に教わったわけでもなく、小さい頃から嫌いな物もしっかり食べた。

 頭の隅にあるのは、どうも見覚えのある町だった。美食会という名称も、物心がついた時には頭の片隅に存在していた。一体どこで拾ってきたのだろうか? 考えられるとすれば煙幕が張られた町である。

 ドライヤーをかける前に、パソコンをいじる母親に近寄り、操作を覗き込んだ。

「ねえ。わたし満喫町に行ったことある?」

「はい? あんたの学校があるとこでしょ」

 愛佳の質問に、母は首を動かさずに答えた。

「いや、そうじゃなくて。それより以前に」

 さらに踏み込んだところで、マウスを動かす手がぴたりと止まった。モニターのどこを見ているのか、散漫な視線である。そのうち愛佳の母親は、ちらちら動かしていた視線を愛佳に持ってきた。

「そうね。お父さんの実家があそこだったから。一時期、あんたと歳の近い知り合いの子が居て、何度か家に遊びに行ったわ。でも覚えてないなら良いの、そんな昔話」

「つまりお父さんは、こっちに移り住んだの? じゃあお父さんの実家に反対されたんじゃない? やっぱり《五大の罪》なんてモンが怖かったの?」

「ちょっと……。お願いだから変なことに首突っ込まないで。無事に卒業したら、もうあの町は良いでしょ? 侵食される前に戻ってきなさい」

 忠言に謎を含ませながら愛佳の母はキッチンに立ってしまった。これ以上の問答はしないつもりのようだ。愛佳も同様だ。信じてくれている母親に、数時間前の出来事など一生かかっても――

 煮えきらない腹のまま髪を乾かし、くたくたの体をベッドに沈めた。眠れるのはせいぜい二時間、パーティと称した美食会が憎かった。

「疲れた」


 ベッドと一体化し、一分弱で眠りに落ちた。当然、夢を見た。内容は過去を窺わせるもので、一緒に遊んでいるのは女児と男児だった。場所は見覚えのある、黒い塀に囲まれた、立派な門構えの大きな旧家だった。

 次のシーンで目に入ったのは床の間と掛け軸、額に入った賞状の数々と、可愛らしい姉弟がじゃれ合う様である。

『あいかちゃん、びしょく会ってしってる?』

 愛佳は女児に答えた、知らないと。美味しそうな名前だったので、美味しいのかどうか聞き返した。

『そう、おいしいんだ。この町にあるの』

 美味しいのは好きである。美味しいなら、あんちゃんも一緒に食べようなんて話した。

『うん。あいかちゃんといっしょ!』

 叫ぶように飛び起きた愛佳には、明快な答えが出ていた。

 実在する満喫町の安藤家と、愛佳が夢で見た旧家は一致するのだと。額に手を当てて絶え絶えの呼吸をしながら、状況を整理した。

 安藤杏、安藤歩蕪が存在している夢だった。経緯は知らないが、愛佳の母が言った『知り合い』というのは――

 旧家との交わりをやめ、町自体を避けた理由なんて安易に理解できる。両親が満喫町の学校への進学を反対し続けた理由をようやく理解し、心が痛くなった。

 杏に抱いていた既視感の正体は、過去と現在をつなぐ美食という呪文だったようだ。

「……杏ちゃん」

 言い知れぬパワーで、腹の中から悪夢を見せてきたのであれば、反骨精神を働かせるだけである。愛佳は心で叫び続けた。しょせん己の恐怖が生み出した、滑稽なまやかしだと。


 以降、睡眠と冒険は同義語になった。布団にくるまりじっとし、来たる時を待った。数分置きに本棚の隙間や部屋の角、ベッドの下やカーテンの隙間など、あらゆる場所に目を配る、ぱっと見は目玉をぎょろつかせている恍惚の人だ。

 外に出れば、鮎川愛佳に戻れる。

 時間が来ると、質量以上に重く感じる体をベッドから下ろし、珍妙な匂いの残る制服を再び着衣し家を出た。母親には『同好会』ではなく『大事な用』と告げて。

 学校までの道のりは無心を貫いた。

 いつもの校門前、二人は既に待っていた。一時のリフレッシュを経たためか、少年少女の形はだいぶ綺麗になっていた。落ち合うなり、状況を説明し合った。

「こっちは大丈夫。お爺ちゃんに言って、『どうしても燃やしたい物がある。深くは聞かないでほしい』って言ったから。証拠隠滅はばっちり」

 頼りになる低めの発声。

 未来の祖父は孫に甘いか裏を悟ったか、その二択に尽きる。焼き物を作るふりをし、窯を使わせてくれたという。

「俺もやったよ。絶対に見つからない」

 富士彦は愛佳と同じで、撒餌のごとく粉を海に捨てたという。皆が納得したところで校舎に入った。

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