6-6 会長さん、あなたは美食会に刻まれました

 草木も眠る丑三つ時。

 仮眠から目覚めた愛佳は、『寂々じゃくじゃく』プラス『静々しずしず』で成り立った部屋で、己との戦いを再開しようとしたが、手が動かなかった。口も動かす気になれず、右手に持った箸をただ見つめていた。

 そもそも、食事は生きるために必要な行為であり、ひとつのイベントでもある。食事を選ぶうわつき、調理する楽しみ、料理の見た目、味を堪能する喜び。決して他人に強要されるものではない。ましてや自身を脅迫し追い詰める行為でもないのだ。

 ここで何をしている? 愛佳は自問した。

 ノルマは果たしてゆくたびに気悦を覚えるが、ノルマを口にするたびに摂取したくない心持が顔に表れる。根本的な思考の砂時計に、エンジョイというワードは含まれていなかった。

『太ったら怒られる! これ以上食べてはいけない! 早く吐き出さないと! なにをしている鮎川愛佳、今すぐトイレに行け!』

 気張っていても、たまに出しゃばってくる過食症の性を受け流すのが一苦労だった。胃の中身が食道をのぼってくるのは必至ひっしである。常に意識を、『食事』から『抑制』に切り替えなくてはならない。

 愛佳にも自尊心はある。嘔吐を押し隠したいのではなく、過食症を患っていると気取られたくなかったのだ。

 ――ふいと一周、調理場の様子を窺った。

 富士彦は、壁に向かってぶつぶつと念仏を唱えている。彼はもう限界だろうか。

 沈んだ様子で未来は、皿の上に舌を這わせていた。何度も何度も、もう白い面が見ているというのに、ぴちゃぴちゃと舌の動きを止めなかった。彼女こそ限界が近い気がした。

 愛佳はふいと、ここが自宅だと錯覚してきた。小さい頃、鉤にぶら下がって遊んだような、業務用冷蔵庫に閉じ込められて九死に一生を得たような――あれは幾つの時だったろう。

 母親とシチューを作ろうとした際、不意にトイレに立った母親を驚かそうと業務用冷蔵庫に隠れた。ところが、内側からは扉が開かなかった。まるで生き埋めにされた恐怖、早すぎる埋葬が執り行われた絶望、最も恐ろしい死に方をするのだと、業務用冷蔵庫に突っ込まれた肉に塩味をつけていった。

 忽然と姿を消した愛佳を心配した母親が警察に連絡し、数時間後に凍えた愛佳が発見され、泣くまでお尻を叩かれるという折檻をされたような――

「されてないな」


 余計なコミュニケーションも尽きた頃、愛佳はふと素朴な疑問を浮かべた。聞かずにはいられず「ねえね」と二人の注目を集めた。

「あのさ、食べ物を粗末にするってどういうことを差すのかなあ?」

「難しいな。神仏へ供える食べ物は、結局は人の口に入らないしな」

「それには『意味』があるから良いの。満喫町だって、食の神にお供え物はしてるし。逆に満喫町には、恵方巻を無意味に廃棄しまくる店はないけど」

 食品ロスが出ない町、満喫町。見習う部分は多いが、見習ってはいけない部分も多すぎる。未来の思考は、やはり愛佳や富士彦とは異なっていた。

「例えば、女の子が素足で踏みつけた食べ物を喜んで食べる変態も居るわけで。その変態が美味しくいただけば無駄じゃないし、その工程を『調理』とも呼べる。そうだ富士彦? あたしが今から両足使って『調理』してあげようか」

「やめてください」

 未来の性格ならば、富士彦が否定を表さなければ、躊躇なく行動に移していただろう。おそらく、この中で最も肉感的に生きている人物だ。愛佳は溜息をつき、「それじゃあさあ」とクッションを挟んだ。

「みぃちゃんは、『無益』を『粗末』としての意味で捉えてるの?」

「それも難しいね。今の例えで申しわけないんだけど、食べ物が踏みつけられてるだけの映像に興奮してお金を払う人間も世の中には居るんだよ」

「つまり無駄じゃないってことか? どうせ撮影後に捨てられるんだろ」

「もちろん。でもお金が動く以上、利益は生まれてる。粗末にしても無駄ではない」

 富士彦は納得いかなそうに「なんだかな」とつぶやいた。 

 未来の言葉を鵜呑みにし、愛佳が自身で嘔吐している映像を撮り、動画共有サービスにアップロードすれば、フェティシズムに誘われて利益が生まれるわけで――

「って、馬鹿かわたしは……」

 どういう世界があるにせよ、最終的には『個々の意識』という曖昧な答えに落ち着いてしまうのだ。世界の事情に理解を示しながらも、自分たちだけは粗末にしないようにしているのが満喫町である。


 三人の目の色は、もはや水槽に浮かんだ金魚と同等だった。互いを意識できないまま、誰が言い出したかなんて覚えていない、うわ言のしりとりが始まった。

 ルールは、一人の持ち時間五秒で、食材、飲食物、料理名、調理器具など、料理に関する言葉はすべてNGワードに含まれる地獄のしりとりだった。

 単語に詰まったり、NGワードを発したり、語尾に『ん』がついたりした者は、しゃもじで尻を思いきり叩かれ、追加の肉を食べなくてはならない。

 しりとりの『り』から始まった穏やかな内容だったが、開始三分で愛佳の発した『カエル』が食材認定されたことを皮切りに、生き物すべてがNGワードになってしまった。

 開始から二十分もすると、三人はとても椅子に座れる状態ではなくなっていた。またペース配分を失い、一斉に顔色を変え、込み上げる物と必死に戦った。

「うぇ、吐きそう……」

「やばい、俺も……」

「あ、あたしが……二人の、粗相の始末をするから……」

 意識が切れかけた四時前、スズメのさえずりがかすかに聞こえた。反して、カラスの声はやけに大きい。当たり前のようで、普段気に留めない日常が鼓膜の奥をかき回してくる。よく、ここまで来たものだ。もう肉は、ほとんど残っていなかった。重さにして大体二キロ弱。あとは気合いで乗りきるしかない。罪を免れるための歪んだ気合いである。

 愛佳は今、人よりも上に立った気分だった。男との色恋沙汰を端末でつぶやく同級生、人を見下す校内の秀才、声だけでかい数学教師、それらとは比べものにならないくらい優れていると。しかし、どれだけ嫌な奴らでも町の人間、食だけは大事にしているのだ。でなければ生きていられないから。


 四時半。

「はあ」

 朝方の白い息だけで会話が可能になれば、咀嚼の音は官能的になり、異性を誘う音色になるのだ。その口に飛び込み、卑猥な心ごと噛み砕かれてしまいたい。

 不純物だらけの人間を丸々飲み込めば、お腹を壊す。まさに究極のSMプレイなのではないだろうか。

 調理器具が曲線に触れる冷たさに心を躍らせながら、枯渇するまで血を抜かれ、愛でるように腹を掻っ捌かれ、蒐集のように臓器を取り出され、彫刻のように関節から部位として切り落とされ、清めのごとく熱湯に浸され毛を抜かれる。

 あヽまさに、食べ物として姿を変えるのだ! 自分を食してくれる人と一体になり、その人の一部として吸収されるのだ! なんて幸せな最期なのだろう!

 死者のビジョンが体に入り込んできたなんて抜かせば神経衰弱した二人には無視される! 一方、ネグレクトも一種の快感に変わるのだ!


 最後の朝。あと十二時間。

 皿を掲げて、「ラスト!」と発破をかける未来の声に合わせ、皆が残った肉の処理に取りかかった。いよいよ終わりが見え、会話も自然と戻ってきた。ピーク時の支離滅裂具合を考えると、内容は存外まともだった。

「パーティ開始の十七時には間に合いそうかねえ?」

「間に合ったあとが問題だな」

「運を天に任せるしかない」

 肉が痛み始めた頃ではあるが、ようやっと食せる部分を片づけた。

 地獄が終わっても、道徳に背いた自分へ弁解する暇はなかった。仕上げとして、歯と骨をミキサーで地道に砕く作業、調理場を徹底的に綺麗にする作業が残っていたからだ。

 この山を越えれば、日の目を肉眼に焼きつけられるとあって、三人の行動も敏速に、かつ料理場との決別を告げるかのように、必要以上に力んでいた。


 八時三十分。

 未来は食材の残骸と遺留品を、愛佳と富士彦は粉末と化した歯と骨を袋に詰め、証拠を隠滅する手筈を整えた。

「まだ動けない?」

「早い方が良いと思うけどな」

「電車組は人が居ない時間を狙うべき。でも、あたしは先に家に帰って、証拠を隠滅しないといけないし。まとまって出るより、バラバラに出た方が良いから」

 未来の言葉どおり、愛佳たちはすぐに動かず、ラッシュアワーを避け、しばらくここで鳴りを潜める計画を立てた。

「じゃあ、みぃちゃんとは一旦お別れね」

「グッドラックだな」

「また数時間後。無事で会おう」

 挨拶を終え未来を見送ったあと、愛佳は杏が使用していたスマートフォンを釣戸棚の中に、そっと並べた。

「会長さん、あなたは美食会に刻まれました。さようなら」

 富士彦はどんな面持ちで愛佳を見ていたのだろう。

 同郷なのに、戦友なのに、あれが胃に入っている同士なのに――しばらくは顔を見られそうにはなかった。

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