6-5 Futureだから
友人に依存し正常を保っている愛佳は、満喫町に来る以前の自分を思い起こしていた。日常生活で多量の食べ物を無駄にし、当然のように生きてきた。毎日ロスが出る浮世を引き合いに出したとしても、過食症が許されるわけではない。愛佳がしているのは、狡猾な責任逃れだ。
もし全世界に、満喫町に倣った罪や掟が取り入れられたら、先進国は破綻するだろう。そのうち罪の重さも曖昧になり、政界の飽食によって取り締まりが激化し、食の範囲に留まらず人が法で裁かれ、調理台の上でも捌かれる。
例えば、同級生を苛めて自殺に追いやった学生が調理台に寝かされたり、公道でスピード違反をした運転手のアクセルとクラッチを踏む足が切り落とされたり、部下を理不尽に恫喝した上司の口が削ぎ落されたり――いずれも、皆に食材を提供するための『罪』とかこつけられたら、まさに法もへったくれもなくなる。
ここが町だからこそ秩序が保てるのだ。たまに狂った時代や地域が存在するのは、世界平和のためでもある。こうした妄想トラベルが、現況を忘れるのに最も有効な手段だった。
食物が腐敗するかのごとく、次第に精神が脆弱化していった。友人たちはポケットから取り出した端末をいじり、現実から目を逸らしてしまう。
釣られるように愛佳は、携帯電話を開き、友人にメールを送ろうしたが、本文を一行打ったあたりで、受信する相手がすぐ隣に居るのに気づき、ポケットにしまった。
現代人はバッテリーが続く限り、独り遊びを続けられる。恨めしくもあり羨ましくもある。スマートフォンをいじる人間は何を考えているのだろう。何も考えていないのだろうか。こういう時、三人称で皆の気持ちがわかれば安易な時間を過ごせるというのに。
時に。昨日の今頃、どこで何をしていただろうか? 脳のリハビリのようにひたすら思い起こしてみると、気分が悪くなった。
一日以上を三人で過ごし、それぞれのポテンシャルが判明してきた昨今、富士彦と未来を見比べた。狂ったように食事する友人(女子)は、胃が拡張されてもいないというのに、食うわ食うわのきりきり舞だ。
愛佳が見とれるくらい食事を口に運んでおり、呆れ、嫉妬、心配を抜きにしても、その食いっぷりに言及せずにはいられなかった。
「みぃちゃん、よく食べるね。隠れた大食いファイター?」
「さすがフィーチャーさんだな」
「Futureだから。というか、このままじゃ本当に未来がなくなる。そうならないためにも必死に食べないといけないの、わかる?」
未来が詰め寄ろうとしてきたので、友人(男子)に目を向けた。彼は、未来が作った料理を半笑いで喫していた。意思を持たない人形が、意味も理解せずに食事を食べているようだった。彼は染まりきる寸前である。だから、まだ染まりきっていない。
人が人ではなくなる境界線が見え隠れし、鳥肌を覚えた。
十五時のおやつは憎々しい肉だった。休憩を挟んでいるとはいえ、フルタイムで食い続けており、吐き気を催していた。
見かねた未来が、一切を口にしない一時間のインターバルを設けてくれた。時間の使い方は自由だったが、皆は喜んでいなかった。
洗面所へ行ったり、腹ごなしの運動をしたり、思い思いの六十分を過ごそうと努力してみるが、一挙一動が重かったのだ。
しばらく横になっていた愛佳は、床と触れ合う髪のべとつきが気になった。パスタをフォークで巻き取るかのように、肩甲骨にかかる茶髪を人指し指に絡め、ぐるぐると指先を回した。風呂に入れず、メンタルダメージが加算される。都会っ子が抱く、生きる上での障害である。
「お風呂入りたいなあ」
「もう少しの辛抱だ」
「今なら良いダシ出そう」
外では、町を食いつくそうとする茜が、ちらりと悪い顔を見せている頃だ。
あの色は人を不安にさせる。もし部屋にあの色が入ってきたら、非日常と日常が融合し、たちまち正気では居られなくなる。調理場での生活が始まって以来の大きな弊害が生じてしまうのだ。
「休憩終わりだね。さあ立って立って」
「おっしゃ。気張ってこ」
「やだ、部活みたい」
日が暮れたあとは、浮世は胃の中と同じ色に染まってしまう。
あの色は、人を丸呑みする恐ろしさを兼ねている。もし部屋にあの色が入り込んだら、皆が暗視スコープをつけて食事し、友人同士で眉を読めなくなってしまう。高校生活が始まって以来の軋轢が生まれてしまうのだ。
やがて二度目の夜がやってくると、何週間も調理場に住み続けている錯覚を覚えていた。他の二人も同様で、「富士彦が初めて肉食べたのっていつ?」とか、「安藤さんと最後に話したのっていつだっけ?」とか、発言をもって人間の脆さを露呈していた。
変わらないのは休まない手と、終わらない嚥下。変わったのは、取り憑かれたように肉と格闘している表情だ。友人を見据えながら、愛佳は吐き出したいものが弱音であると感じ取った。
寒さが増すと、何枚も着込み、身動きが取りにくくなってゆく。
引き出しに収納されていたフードプロセッサーに興味を示した富士彦は、ハンバーグを作ってくれた。ファミリーレストラン程度の美味しさがあり、賛美に値した。
未来はスマートフォンで調べた、『十分で完成! 手作りソーセージ!』という料理を作ってくれたが、見た目も味もつくねに似ていた。やはり腸は捨てるべきではなかったか。
愛佳も負けじと、肉ともやしを炒め、青ネギを散らしてポン酢をぶっかけた簡易料理を振る舞ったが、『相変わらず雑』とか、『つまみに良さそう』とか、手放しでは褒めてもらえなかった。
味覚、及び満腹感がぶっ壊れ始めていると自覚した二十二時。
異様に水を欲しシンクへ向かおうとすると、未来に羽交い絞めにされた。要約すると、『余計な物で腹を膨らますな』という苦言だった。
そのうち愛佳の両目からは、涙が溢れてきた。未来に叱られたからではない。理解は追いつかず、愛佳は自身の感情の在り方にただ困惑した。
意識せず両親の顔や、自宅での夕飯の風景や、小さな遊園地へピクニックに行った幼少の記憶が蘇る。楽しい過去は、情け容赦なく愛佳を苛んだ。
『信頼』の二文字は、鉛のように重い『不安』の二文字に押し潰され、居たたまれなくなった愛佳は個室に逃げ込み、熱すぎて飲めない茶を冷ますかのような心持で、しばらく落ち込んだ。
見たくもない調理場へ戻り、凝り固まった体をほぐすため、上体をのけ反らせた。次第に眼前が、黒や赤や黄が混じった紗で覆われた。天井の端っこを向いたまま、うっすら見える調理場がぐるぐる回っている。
正常な色が戻ってくると、終わらない食事風景に目を向けようとした。矢先、視界の隅で黒い影が動いたのだ。
目の錯覚かと思ったが、見間違いにしては、はっきりと女性の輪郭を象っており、表情は憎悪に満ちた怨霊のような影だった。
人間を頭部から丸呑みしてしまいそうな大きな口を開け、ひたすら吐息のような、甘い喘息を上げ続けていたのだ。
「い、今その隅っこに人の顔が見えた!」
愛佳の発狂に、友人たちはたちまち『煩わしい』と顔で表した。
「常識的に考えて幽霊なんて居ないだろ」
「なんか富士彦の心変わりがムカつく」
返ってきたのは、二つセットのご丁寧な反応だった。異常者扱いを受ける羽目になった愛佳は、羞恥を食事で紛らわした。かぶりついた肉を飲み込み、富士彦に目をやる。昨日とは打って変わって、いやに落ち着いている。
「てかフジさん、なんでお化け平気になってんの」
「霊より怖い人間が側に二人も居るからな」
「黙れ小童」
未来の罵詈とともに、富士彦に浴びせられたデコピンは快音だった。その隙間を縫うように、愛佳はどうしても未来に質しておきたい疑念を、頭で組み立てた。
「わたしさ、今までメディアで見る心霊特集はぞっとしてたけど、側に霊感がある人が現れた瞬間、霊に対する恐怖が消えた。というか冷めちゃったの。でさ、本当に会長さん家に弟の霊って居たの?」
未来を法螺吹き呼ばわりするつもりはなかったが、透明人間に会ったとか、漂う空気を見たとか、愛佳に伝わっていた情報はその程度の曖昧さだったのだ。
「さあね。わかってるのは杏が弟を食い殺し、生きてると錯覚してたってこと」
「そっちの方がよっぽど怖いんだって」
つまるところ、未来自身に霊感があるかどうか、定かではなくなっているようだ。愛佳は思いついたまま、「もうひとつ良いかな」と、未来の受け入れも無視しながら質疑を続けた。
「どうして町の秘密を話してくれる気になったの? ほら先日のコーヒーショップで。結果的に会長さんに呼び出されたわけだけど」
「そういや未来さん、急に態度変えたよな」
「あ、ああ。あれか……二人が話してた内容覚えてる? 杏は人を食う性格――って言ったでしょ」
愛佳は少年と目を合わせ、一緒に首肯した。
「あれ、あたしが……誤認しただけ。『人を食う』って、人を小馬鹿にする意味とは知らなくて、そのまま捉えてさ……」
衝撃の告白にしんとする。かけてあげる言葉を失い、
「みぃちゃん、まさか馬鹿なの?」
考え抜いた挙句、愛佳はとびきりの励ましを口にした、つもりだった。
「えっと、愛佳さん? 言い方……」
「あ、あとから気づいたの! てか勘違いは誰にでもあるし!」
一通り叫び、未来は片手で顔を仰いだ。絹豆腐に一味唐辛子を降りかけたような、コントラストの強い表情になっている。普段は見られない仕草に影響された愛佳は、満足げに目の奥を光らせ、体を縮こまらせながら愉悦を疼かせた。
「ふふっ、はにかむみぃちゃんマジ良いわ」
吐息ひとつ、未来の視線は下がった。てっきり、富士彦に八つ当たりのデコピンを食らわせるのかと思ったが、意外に意気消沈している様を前面に押し出していた。
「みぃちゃん大丈夫だよ」とか「未来さんお茶目」とか、モチベーション向上の儀式を行い、未来のバイタリティが元に戻ったのは二十三時前だった。
そのうち日付が変わり、間食の時間がやってきた。
食休み中の富士彦は、矢庭に声を上げた未来に襲われ、強引に肉を食べさせられていた。愛佳はたった一日で見慣れてしまい、止めようとはしなかった。
諦観のように受け入れている少年と、業務のように虐げる少女。到底、コミュニケーションには見えなかった。愛佳の正気直な気持ちは、どんな形だろうと触れ合っている二人が羨ましかった。
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