6-4 愛佳、一気にいって

 まだ日は昇っていない、二度目の起床は六時十分前で、とにかく体が痛かった。胃がもたれるような感じはしたが、これといって朝食に支障が出るほどではなく、すぐに食事を胃に収めたい衝動に駆られた。

 愛佳の起床に合わせ、富士彦が体を起こした。寝起きが悪いと噂の未来は放置し、背伸びを行いシンクで顔を洗った。足先は冷たいが、体の調子は悪くない。

「おはよフジさん。お腹空かない?」

 愛佳は愛妻家アピールを露骨に行ったが、受け手は目を合わせてくれなかった。彼は終始、首を横に振ってばかりである。

「そう。じゃあ、わたし先に食べちゃうね」

 愛佳はシュシュを左手首につけたまま、冷蔵庫から取り出した肉をスライスし、少量の野菜と一緒にフライパンで炒め、しょうゆ、みりん、テンメンジャンで味つけした。完成した野菜炒めを眺めながら――料理下手を痛感する。

 適度な朝食を終え、凍えるような洗い物を始めたところ、富士彦が側に寄ってきた。何事かと尋ねてみると、低音でそれとない返事をするばかりで、しみじみ加熱調理器の有様を見つめていた。中には昨晩の汁物が入っている。

「どうしたの? 食べてみる?」

「……いや、確かに腹は減ってるけど」

 彼は不完全ではあるが肯定の意を見せ始めていた。証拠隠滅を手伝わせる野望を抱き、愛佳は説得にかかった。

「昨日からなにも食べてないよね? 体に悪いよ? それにさ、ここに居るだけじゃなんも始まらないと思わないかな。ねえ、試しに一口だけでも食べてみない?」

 愛佳は鍋を火にかけ、「すぐ温まるからねえ」と、間を持たせるために積極的な会話を心がけた。彼は拒否も行わず、いやに大人しく待っていた。さじを口元へ近づければ、なるようになりそうだ。

 昨日こそ、富士彦には自分と同じ行為にいたって欲しくないと切願していた愛佳だったが、肉の量に圧倒され、物の捉え方もシビアになっていた。

 ――三人目の力添えがなくては絶対に豚箱行きである。

 愛佳はのけ反りながら思った、こここそが大きな胃袋なのだと。であれば、いつまでも停滞なんてできない。憚りによって閉鎖された血生臭くも消毒液臭いスペースでは、一朝にして理性が溶かされる。また明日には変わり果てた姿で外に排出される。

 いっそ心どころか、数センチ先を羨む目も、存在を感じるための鼻も、人を動かすための口も、一人を感じるための耳も、すべて溶かしてしまえば良いのである。

 いつしか無言になった愛佳が妄想から戻ってきたのは、未来が目を開けた時だった。鍋が温まった、八時を回ろうとした頃合いだ。

 自負していたとおり寝起きは悪いようで、愛佳が「おはよ」と挨拶しても「うん」という相槌が返ってくるだけだった。辺りをきょろきょろ見渡し、部屋の配置を思い出した途端、更に機嫌を悪くしていた。

「富士彦? あれからなにも食べてない?」

 ぼさぼさのウェーブヘアを縦横無尽に振り回し、掻き上げながらぴたっと止まった未来の頭部、目線の先には少年が居た。手を下ろすと、前髪が再び未来のおでこを隠した。

「ごめん……まだ。力になりたいとは思うんだけど」

 富士彦は未来の発言の意図を悟っていたようだ。体調の心配ではなく、まだ一度も貢献していない引け目だろう。

「なに、そんなに食べたくないわけ? 女子が二人で食べてるのに富士彦は今までなにしてたの? 洗い物くらいしてくれても良いんじゃない? ヒモなの?」

 起きて一分もせず、食いかかりそうな距離にまで詰め寄る未来の姿は、もはや不逞の輩だった。前日までは好意を抱き、そして身を呈して庇っていた異性に向かって晒す醜態とは思えない。

「ちょっと、みぃちゃん? 彼は一番の被害者なんだよ」

「一番の被害者は杏でしょうが!」

 挙句、自分で殺害した相手を憐れんでいた。精神はもう、ぐにゃぐにゃにねじれている。

「いや、ちがくて……警察に駆け込むなんて簡単なのに、それもせずに、わたしたちのために動いてくれてるんだよ?」

「そうだけど、もう後戻りできないの……わかる?」

 富士彦は、異常者の威圧だったり、友人としての抑止だったりが働いているから動くに動けないだけだろう。瞭然たる事実を知りつつ、愛佳は富士彦を味方につけようとしていた。くだらない恋慕が消えなかったのだ。

「あたし一晩考えた。これからのこと」

 未来の消えそうな一言は、誰もが抱く不安を象徴していた。愛佳が下を向く中、前に出たのは富士彦だった。

「ああ。俺も一晩考えた。俺さ、安藤会長を尊敬してたんだよ。会員のこと親身に考えてくれてたし、みんなに優しかったし。自ずと、あの人の役に立ちたいと思ってた。なのにフタを開けてみればこれだよ」

「もう杏の役には立てない。あたしを恨む?」

 片足に体重をかけ、だるそうにターゲットを見据える。まるで煽り立てる、未来特有の言動である。

「そうじゃない。尊敬してた先輩は、例の法を盾に俺たちを裁こうとした、とんでもない人だった」

 予想に反して、富士彦は冷静だった。両眼で、しっかりと未来の顔を捉えている。

「あたしを正当化する?」

 未来が、怒りを鎮めるように言った。

「わからない。けど今は、死んだ人のためじゃなくて、生きてる人のためになりたい。未来さんが血反吐を吐く思いで食……材を処理するなら、俺も力になりたい」

「富士彦は馬鹿じゃないから、それがどういう意味かわかるね?」

「未来さんにどれだけ酷いことされようと、俺なりのけじめを果たしたい。今までのは全部、未来さんの優しさだと思ってるから。俺をここから引き離すための」

 綺麗事と捉えるか、理由をこじつけていると捉えるか。どちらにせよ、彼は飢えに耐えられなくなってきた。あるいは新たな恋の提示だ。そうだとすれば愛佳も黙っていなかった。

「な、なにそれ! わたしだって食べてたじゃん! てか、わたしの方がよっぽど優しいし! せっかくこの数時間でフジさんのこと好きになりかけてたのに……ア、アホー!」

「あたしたち本当に気が合うね」

 どういうわけか、室内の空気が緩和した。

 一方が興奮すると、一方が落ち着きを取り戻す。和箪笥の上段の引き出しを閉めると、下段の引き出しが開いてしまうコントではないが、それだけ心が接続し合っている証拠なのだと思った。反響する己の訴えを耳に残しながら、愛佳は冷静さを取り戻していた。

「みんなの平常を保つのは無理かもだけど、誰かが誰かの重荷を背負い、みんなで軽くし合うことはできるんじゃないかなあ?」

 愛佳がいつもの調子で、人間臭い溜息を吐きながら二人に向かって話題を持ちかけた。

「そうだな、一人だけが罪を背負うなんてできない。でも、一人だけが綺麗なままで居ることもできないんだ」

 愛佳の発信を接続するように、富士彦が会話をつなげてくれる。彼の一言があるかないかで、安心感が変動するのだ。

「例えば一人が田んぼに落ちた。助けようとした二人も田んぼに落ちて泥まみれになる。あたしはそういう方が清々しいと思う」

 結論を出すかのように、未来がまとめる。それも、大層けったいな言葉を用いて。

 食材を処理しているうちに逆三角関係になってしまったが、三人の崩れない関係性が証明された。今更、名トリオを意識させられたのだ。

「富士彦、本当に良いの? 今ならまだ綺麗なままで――」

「ありがとう未来さん。でも味見だけでも……しようかな」

 未来の配慮を突っぱねるように、少年が前に出た。自任ではないだろうが、一歩を踏み出さなくてはならない気合いが窺えた。食べたら最後、味見では済まない。始終を見知った上での行動だ。

「よく言った」と、後方から富士彦の両肩に手を乗せる未来は、近くの椅子へ移動し彼だけを座らせた。

 軽いタッチだが、両手は離れなかった。拘束できなくとも、メンタルをがんじがらめにする効能は発揮していたのだ。


 愛佳は食器棚から引っ張り出したお椀に具と汁をよそうと、富士彦にゆったりと近づいた。

「ほら、あーんして。優しい愛佳さんが食べさせてあげるね」

 絶望すら食してしまいそうな顔で、匙を富士彦の口の側へ持ってゆく。どれくらいか、平穏と不穏の狭間くらいの静けさが漂ったが、彼は存外素直だった。

 まずは鍋物のスープに口をつけた。反応はいまいちで、目を左右に動かしながら首を傾げるだけだった。もう一度スープだけをすくい彼の口に寄せると、大匙一杯を飲み込みながら小さく、そしてかすかに呻いた。

 それを確認した愛佳は、ついに肉をすくった。彼にとっては初めての味覚でもあり、食感でもある。絶体絶命が訪れた時に体から出るような脂汗を流し、そして舌鼓を打つのだ。

「ほら、次はお肉だよ。たんと食べようね」

「待って心の準備が」

「そんなのない。愛佳、一気にいって」

 逃げ道を失い、次第に涙目になりながらも、必死に未来の要望に応えようとする富士彦を客観的に眺めていると、匙を持つ手には無意識に力がこもっていった。

 富士彦が最も食べたくないであろう肉を口に運んであげる行為が、たまらなく嗜虐的で、また献身的で、全身が興奮で締めつけられた挙句、弾け飛んだ胸から内臓の代わりに様々な感情が飛び出すのだ。

 彼が嫌がった際は、匙をわずかに口元に近づけてあげれば良い。そうすれば圧迫に耐えきれず口を開く。それでも拒んだ場合は、頭を撫でながら、耳元でそっと囁くのだ。

「大丈夫、わたしたち側に居るよ」

 ここまでしても強情な場合は、肉体言語や実力行使になるが、目を閉じた富士彦は震える唇を徐々に開け始めた。ついに彼の口に料理が入るのだ。

 嬉しい反面、やりきれない快哉が、本音の収まった胸のチェストをこじ開けようとする。これは意地悪ではない。明日への一歩なのだ。

 たっぷり時間をかけ、一杯の糧を口の中へ運んであげると、吸い込まれるように匙の上から一口が消えた。咀嚼回数は一回、二回と穏やかに続いたが七、八回目で異変が訪れた。

「んっ……」

 嚥下できずに富士彦の喉が隆起したのだ。察知した愛佳は片手のお椀を調理台に置くと、開きそうな口に手を押し当てた。剥がれないよう強めに、そして改めて耳元で小さい声を発する。今度は優しい発声ではなく、強要に等しい力強さを備えていた。

「フジさんなら飲み込めるよねー?」

 元から吐き捨てるような味つけではない。ゆえに、少年の気持ちを察した。残酷に経過した五十九秒以内、二人に見守られながら富士彦はようやく食塊を食道に流した。

 彼の数十時間ぶりの食事はまさに偉業であると過大評価した愛佳は、匙に残った粕のような物体を満足げに舐め取りながら、「どう?」と不適格な質問をした。

「思ったより不味くない……」

 一瞬だけ目を合わせてきた富士彦にお椀と匙を渡すと、愛佳は堂々と言い放った。

「よし、戦力ゲット。さっそくスパートだ」

「こうなりゃヤケだ」

「ふう。結局こうなるのか」

 全員の意思が固まった。ここからは時間との勝負を告げるかのように、未来のスマートフォンから起床アラームが鳴った。

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