6-2 ふじひこくちあいて
富士彦が外に出ている間に鍋の内容は若干減ったが、肉だけでは食欲は衰えるばかりだった。食事に難航し会話が減ってきたところに、富士彦が戻ってきた。時刻は十七時前。彼は「カギ返す」と切り出しスーパーの袋を調理台の上に置いた。
「結局歩きで行った。正門はカメラに映るだろ。塀を乗り越えたよ」
彼の気づかいは、共犯に手を染めてゆく行為と同義だった。愛佳は見ていられず、レジ袋に手を伸ばし、中から彩りを手に取ると食事に加えていった。
支援物資のお陰でペースアップは成功した。揚げては食べ、焼いては食べ、煮ては食べ。食事を口に運ぶたびに、感情が一変する。
現在は、殺人ほう助とか死体損壊とかで捕まるくらいなら、死ぬ気で食べようという意気込みが強かった。
相も変わらず、むせ返る料理を食べ続ける二人の女子と、それらを黙って見続ける一人の男子。調理場の基本的な構図になりつつあった。
セラミックとアイアンの触れ合い。肉がごりごりと上下の歯にすり潰され、変わり果てた姿で喉を通る。時折だが鼻で息をする。換気扇のファンは永続的に回り続け、思考が回らなくなる。
富士彦がたまに姿勢を変えたり、女子たちは食事を皿に乗せるために立ち上がったり、会話がない代わりに、映えるのは効果音の数々だった。
愛佳は胃の重さを感じ、目を瞑りながら椅子の上で背伸びをした。あくびが誘発され、開眼と一緒に息を吐き、直立する。日はもう沈んでいるだろう、室内もかなり冷え込んできた。
ぐるりと小さな世界を見回し、目に留まったのは釣戸棚だった。収納家具に神秘を求めているわけでもなく、意図せず身の丈よりも高い釣戸棚に手を伸ばした。
扉の取っ手を引くと、ぎぃと音を立てる。いかにも古ぼけた作り、背伸びをして中を覗き込み、愛佳は愕然とした。身の毛立ち、全身は数えきれない鳥肌に覆われた。
「ひっ……」
戸棚はまるで収容所だったのだ。
今では目にしないストレート形の携帯電話、折り畳み式の携帯電話に、スマートフォンまで、あらゆる形状の端末が並べられていた。
「なにこれ。携帯の墓場?」
ややあって、未来が歩み寄ってきた。愛佳より少しばかり高い身長から、戸棚の中を覗き込み同じように眉をしかめた。
「捌かれた者たちの携帯じゃない? 安易に捨てるより、ここに保管しておいた方が安全なんでしょ。何代も前の会長たちから続いてる風習。墓場って表現は間違ってないかも」
たまらず無言で扉を閉めた愛佳は、冷たい床に尻をつく富士彦の隣にしゃがみこんだ。思った以上に尻の体温が奪われたため、体が触れ合うほど身を寄せてみた。彼は逃げようともせず、膝を抱えて固まっている。
「ねえフジさんや、もしかして外でなんか食べてきた?」
「なんも食べてないけど」
「お腹空かないの?」
首を横に振る富士彦は、自分専用の食料は持ちこんでいなかった。所思まで追求しないが、断食でもするつもりなのだろうか。ここに居ても、出てくる食べ物は『同族』というカテゴリだと見知っての選択か。
あるいは、心情の変化も考えられた。そうなれば彼も同じ立場で、対等に会話してくれるようになる。非道な嬉しさが込み上げてきた。
あたかも夏休みデビューのような、はたまた童貞を卒業するかのような身近な例えで、富士彦の心が食人という行為に近づいたのだと思った。
「――ねえ愛佳、まだ食べられる?」
不意に未来が側に寄ってきた。
「食休みちうー」
「そう。でも……もし吐いたら、あたしが残さず食べるから」
杏の言葉に憑依されているかのごとく、その焦点は合っていなかった。どこを向いているのだろう、また霊でも見えているのか。
「それはやりすぎ」
富士彦に対する妄想も相まって、愛佳の本来の感情が漏れ出した。
「愛佳は助ける。愛佳のやりたいことなら協力するから!」
過食症を告白した際にも同じ台詞でくどかれたが、過去のときめきは戻ってこなかった。代わりに、変人を好きになってしまった恥辱が数ヶ月遅れで戻ってきた。
未来の新しい告白を聞きながら、ひとまず距離を置いた。富士彦の側を離れず学校の語らいを続けた。授業の話題には「うん」とか、生徒の話題には「そっか」とか、なおざりな態度ばかり取られた。
さりげなく手を握りながら話題を提供し続ける愛佳だったが、視線を合わせてくれない富士彦がいつまでも凝視していたのは、狂ったように食事を摂取する未来だった。
「はあ」
うんざりし、愛佳はトイレに立った。ほのかな温もりがなくなり、一層冷え込む個室で屈んだまましばらく思案した。ところが、いつまでも答えが出なかった――なぜなら初めから無心だったのだ。
変に遅いと怪しまれる。空間に呑まれつつ、さっさと済ませた愛佳は冷たい水で手を洗い、扉の取っ手に手をかけた。
「――ちょっと待て!」
開扉する間もなく、富士彦の声がトイレに漏れてきた。愛佳の心臓は跳ね上がり、体は硬直した。穏やかな性格の彼が声を張り上げるなんて、尋常ではない事態が発生しているに違いない。
軋みをなるべく抑え、振動にも気を配り半分ばかり扉を開くと、調理場の声がよりクリアになった。
「あたしのためなら食べられるでしょ? 優しい愛しい未来さんが、富士彦のために手料理作るから」
目に飛び込んできたワンシーンは、富士彦に馬乗りになった未来が、言葉と表情で圧倒している様だった。経緯は不明だが、たった数分で随分と関係が進展したものだ。愛佳の存在に気づいていないのか、二人の視線は宙で絡まり続けている。
「もうわかったから。だから下りてくれ」
「聞こえなかった? 手料理作ったげる」
富士彦は決して腕力での抵抗を見せていなかったが、未来はその精神を崩すかのように、右手に持った肉にかぶりつき、すっかり口内へ収めてしまうと、ちょうど空いたべとべとの右手で彼の顔を抑えつけた。
屈託した顔つきに豹変した富士彦は身を守ろうと、顔面に絡みつく触手のような五本指を引き剥がそうとしているが、イニシアチブを掌握されてしまった以上、思いのほか上手くいっていなかった。
「ふじひこくちあいて」
物を口に入れたまま、もごもご発した未来を見て、愛佳は『手料理』の正体を理解した。親鳥がヒナに餌を与えるかのように、口移しで郷土料理を食べさせようとしているのだ。それも、えらく官能的な体勢で。
愛佳は制止するか、傍観するかの瀬戸際でしばらく悩み――視線を注ぎ続けた。富士彦を助けるのはイージーだが、どこまでも勝ったのは興味だった。
延々と介入しなければ未来がどのように壊れるのか、富士彦は覚悟するのか。最終的に、二人の関係がどうなってしまうのか。背徳的に興奮していたのだ。
未来の顔が動くと、アケビと見紛うほど青くなった富士彦の顔に、蔦のような長い巻き毛がまとわりついた。
首を激しく振り、唇の触れ合いを拒絶していた富士彦だったが、食塊と共に未来の唇が迫撃した。衝突事故と錯覚するくらいの触れ合いだった。
「や、やめてくれ!」
未来の口の中で執拗に咀嚼された郷土料理が、富士彦の頬を伝い床にこぼれ落ちる。強い酒でも飲み込んでしまったかのような嘔吐きを耳にしながら、愛佳は眠っている嗜虐的な本性を必死に抑制していた。
二人とも、十中八九ファーストキスだっただろう。そもそも、今の攻防をキスに含めてしまえば、『青春』という議題でディベートが四十八時間続けられそうだ。
「なにむせてんの、汚い。そんなに嫌なら逃げれば良いでしょ」
「逃げられるかよ」
「強情……あたしは今まで、ずっと富士彦が好きだった。でも、あたしのために罪を一緒に背負ってくれる愛佳には勝てないの、わかる? キミには普通の男子として、普通の生活を送ってほしい。いつか普通に好きな人もできて、普通のキスもできる」
歯を食いしばり必死の抗いを見せる者と、いやに冷静な笑いを漏らす者とが一室にマッチしている。
「あたしのこと嫌いになった? 酷いことしてるあたしのこと嫌い?」
「乗りかかった船だから、二人を見捨てるのが忍びないんだ」
「ふん。吐き出すのは簡単なの、食べ物も綺麗事も。さあ、もう一度行くから。次はちゃんと飲み込ませるよ。これ以上、食べ物を無駄にさせないで、わかった?」
「こんな時まで《五大の罪》かよ。一体誰が見てるってんだ」
「神様。いや、今は愛佳か」
視線を一切動かさずに未来は、放心状態の富士彦を見下ろしながら立ち上がった。覗き見は端からばれていたようだ。
「激しいなあ。フジさん卒倒しちゃうよ?」
愛佳が調理場に入った途端、依然として口内でもごもごやっている未来が顔を迫らせてきた。あわや唇を奪われそうになり、本能で出した右手でおでこを引っ叩くと、爽快な音が反響し、未来の動きが止まった。
「痛い……。というか富士彦? 言っておくけど、ここに居る間は、今みたいな酷いことどんどんするからね」
返事がなく、未来の片眉が釣り上がった。一、二歩と靴音を立て、寝転がる富士彦に接近すると、片足を高く上げ顔を踏みつけようとしたが、靴底は虚しく床に打ち当たった。
すんでのところで回避されたのだ。
「チッ」
「ホントみぃちゃん際限ないねえ」
怒りどころか文句すら発しない富士彦の心なんて、もうわかりっこない。富士彦が『愛佳たち』の方に来るほか、共鳴するのは不可能だった。
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