六食目 美食会
6-1 なんか野菜が足りないね
友人が人を殺した。その瞬間から、愛佳には選択する権利なんてなかった。
未来を見捨てれば助かるかもしれない。未来は友達想いだから、もし逮捕されても関与した愛佳のことは口にしないかもしれない。そう思わせて、共犯者に仕立て上げられるかもしれない。
信用していないわけではない。未来と友人である以上、共闘以外の選択なんて存在しなかった。困難を呑み込まない限り、自由は絶対に与えられない。友人を救うためでだけではなく、自分を救うためでもあるのだ。
恐怖は不思議となかった。食事の使命感が強く、バラバラになった杏のパーツを食材として置き換えられたのは、通過儀礼という思いも強かったからだ。
ゆったりと進む時間に、どれだけ胃を圧迫されていたのだろう。愛佳は大鍋でぐつぐつ音を立てている杏の破片をぼうっと見据えながら、次はどんな性格を演じようかと考えあぐねていた。
満喫町がいかれていると知った瞬間――数時間前から、正気を保とうとは思っていなかった。どこまでも自分を偽れば、怖いものなんて消えてしまう。一変したキャラクターを演じていないと、排水溝に脳を吸い取られそうだった。
あっけらかんとしたキャラクターを万人に見せている愛佳は、過食症の一面を持っている。満喫町では愛佳にとっての『当たり前』が大きな罪だった。すぐ隣にトイレがあるというのに、数メートルがとてつもなく遠いのだ。
吐き出したいのは人間の肉ばかりではなく、狂いかけた理性だったり、失いかけた常識だったり、次第に強くなってゆく友人に対する嫌悪だったり。それでも今回は、免罪符を謳っている以上、何事においても嘔吐という十八番が通用しない。
過食症なんかより、もっと恐ろしい非日常に囲まれ、五感への総攻撃を受けている現在、皆の性格に虚実があろうがなかろうが、この山を乗りきるのに必要なのはチームワークしかなかった。
チームメイトの未来は隅に立てかけられていたパイプ椅子を組み立て、調理台の横にどっかと座り、料理本を読みつつ、オーブンでローストしたランプを片手に着々と食材を処理していた。
同じくメイトの富士彦は、ハンターの視線をかいくぐるかのように気配を消し、部屋の隅で小さくまとまり体育座りをしている。
愛佳は数分前『あの肉』を、平然を装いながら口に運んだ。手伝うと力んだ分、未来に差し出されたローストに抵抗を見せるわけにはいかなかったのだ。
作った笑顔を見せながら一口目を味わった途端、普段から個室で行っている所業をさらけ出しそうになり、上がってくる物をぐっと堪えた。あえて、『これは至高の肉である』と自己催眠をかけ、咀嚼回数を増やした。
また虫嫌いの愛佳は、エビも海で生活するイモムシだと弁解し、イナゴやハチノコを食べるくらいなら人間を食する方がマシだと、最善の言い分を頭に散りばめた。
無茶だと知っていた。無茶に決まっていた。
するとどうだろう。二口、三口と、胃に沈めてゆくうち、次第に悪心が消えていったのだ。事実、慣れさえ生じれば食べられない肉ではない。それは味という観点であるがゆえ、嫌いな食べ物を克服した際の拍子抜けに酷似していた。
あとは人としての情や、禁忌に対するわずかな抑制、杏が持っている病気という未知なる恐怖を見限れば、仲の良い三人が共催する痛快な食事会になるのだ。
時に愛佳は、『汚らしい浮浪者を食えとか、殺したいほど憎い相手を食えと言われれば二の足を踏むけれど、こうして食べているのは、生前は顔の整った、ちんまりとした可愛らしい先輩だ。それを食べられるなんて光栄だ』と、自らを欺いた。
カニバリズムは最高の愛の形と表する者も居るが、ここに居る三人には決して当てはまらない。むしろ愛佳や未来は、杏に殺されかけている。が、不可解だった――日が沈むにつれて、安藤杏は以前からの思ひ人であると錯覚し始めていたのだ。
どうして彼女は死んでしまったのだろうか? 逝く必要なんてなかったのではないだろうか? 悲痛な罪過に体を震わせ、何もかも過食症のせいなのだと憤った。
ふと聴覚が働いた。業務用冷蔵庫が、やけに唸っていたのだ。
解体した死体――ではなく食材を、食べられる部位と、食べられない部分に分けて大方ぶっこんでしまったため、冷蔵庫の内から『霊』というやつが憤っているに違いない。ここには窓がないので、外にも出られないのだ――愛佳は不意に、笑いを浮かべた。
解体した甲斐もあり、調理台の上はもう何も残っておらず、消毒も行い綺麗さっぱり。今ではベッドにちょうど良い。
未来いわく、まず食べられる部位はとにかく食べる。その後、不必要な部位や遺留品などは、未来の祖父が所有する窯で焼き払うというのだ。
骨や歯はなるたけ血を洗い流し、トレーにまとめておき、肉を食べ終えたら最後にミキサーで粉砕し、骨粉として肥料にするつもりだったが、今回は時間も少ないので魚の餌に落ち着くという。
ほどよい計画性があり、先を予測した行動はさすが地元の犯罪者、と賛美に値するが、未来に今までどおりの好意を抱ける自信はなかった。数日前なら、彼女が咀嚼した料理を口移しで食べさせられても平気だったと思っていたのに、変態的な思考は食材と一緒に鍋の中でダシになってしまった。
「なんかさ、わたしたちだけの秘密みたいでドキドキするね」
「ありがとう愛佳。今ならあたし、愛佳の気持ちに応えられそう」
「本当に?」
愛佳は真顔で尋ねた。
光田未来という少女を垂涎していた鮎川愛佳は、オートロックの牢屋に監禁された。そいつは一生、冷たい床の上で、誰とも会わず、服も着ずに過ごすのだ。
未来を好きになったのは、単なる依存だ。元来、性別を問わずに人を好きになる性格だったし、過食症を初めて告白した相手が未来だったからだ。
『愛佳がやりたいことなら全力で協力するつもり』
夏の日の口約束に甘えていただけだったのだ。今でこそ、未来から目を逸らした先に居る富士彦が最も愛おしい相手として目に映っていた。
怯え、苦しみ、事件に巻き込まれた男子を度外視するなんて、できっこなかった。彼の想いに応えてやれない非力さを呵責した。
初めから彼と両想いになっていれば未来への恋慕はてんで無視され、三人は生クリームとスポンジと苺のように、アンバランスかつスイートな関係になっていただろう。すなわち、死人は出なかった。
――都合が良すぎるか。美食会を求め、この高校へやってきた時点で、負の方向に回り続ける時計は止められなかったのだ。
今すぐ外に出たい。外に出れば知者によって、数時間前に見た真実など、ただの幻想に置換される。知者は思いのほか無知だったりする。無知は怖い。なぜなら急に襲いかかってきたり、牢屋にぶち込もうとしたりするからだ。外は恐ろしいところで、今はまだ踏み出してはならない。
そうして幾度も辿り着いた結論に戻る――元会長を処理するまでは、部屋の寒さと、友人個々の感情に耐え忍ばなければならないと。外で待っているのは、どこまでも嘘を塗り重ねる自分との逃避行であると。
先ほど愛佳は口実を設け、本日は帰宅しない旨を親に伝えた。阿鼻のような食事を終えた先、自宅には母が居るし、父も居る。大食と肥満の代償を恐れ、両親は食事の量や間食に気を遣ってくれた。しっかり三食を与えてくれる善良な家族である。
愛佳は両親を騙し、普通の女の子に育ってほしいという願いを踏みにじり、四十八時間の大食い耐久レースに参加している。
心が痛まないわけがない。
「みぃちゃん、このあとの予定は? ほら、食材を片づけたあと」
「さっきのプランの末、パーティに何食わぬ顔で参加する」
未来が敷いてくれた舗道は、本当に未来に続いているのだろうか。鬼胎を抱き、メンタルの弱さを実感した。
「そっか」と相槌を打った愛佳は、存外美味しかった太ももの炭火焼を再び口にしながら、ガラパゴス携帯電話のサブディスプレイを一瞥した。杏が死んだのは十三時前後だった。あれから三時間が経過している。
「なんか野菜が足りないね」
愛佳は菜食主義ではないが、肉ばかりが続くと嫌でも口にしてしまう呪文を口にしてしまった。「確かに」と言いながら、未来は富士彦を見据えている。要求はひとつしかない。
「またパシリに使うのか?」
濁流に呑まれ続けている少年は、未来と見つめ合いながら嘆息を吐き捨てた。
「お金はちゃんと払うから」
「休日の学校って何時に閉まるんだよ」
「さあ? でも早いに越したこたあないでしょ。あたしたちは食べるのが精一杯なの。あとでご褒美あげるから行って、お願い。あと防犯カメラには気をつけて」
「ったく……」
ぶっきらぼうに対応しながら、富士彦は病人のように立ち上がり、「メモる」と言いスマートフォンを取り出した。未来は動作に合わせて白菜だったり人参だったり、そのうち歯ブラシや歯磨き粉まで要求していたが、適量の買い物を伝えると、自転車の鍵を取り出し富士彦に放った。
容易にキャッチし、富士彦が唯一の出入口に歩んでゆく。まるで出来上がった流れ。純粋な主従関係ではないが、どこかで見た光景だった。まるで二人が通じ合っているかのようで、歪んだ羨望が生まれた。
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