5-6 あたしは、死ぬ気でこの食材を食べる
どんな表情をしていたのだろう――般若か、ひょっとこか、はたまた能面のように無表情だったのか。未来は今後、鏡のない生活を送る決意を固め、両手には永遠に消えない感触を手に入れた。
魔物のような手を離し、内股気味に転がる大の字を見下ろす。
「死んだ……死んだよ」
透かさず未来は、死体が着衣する制服のポケットを探り、二本の鍵を入手した。一本は調理室、もう一本はトイレの奥へ通ずる部屋の鍵だろう。
「っ、はあ……はぁ……ねえ運ぶの手伝って」
不思議だ、胡蝶の夢というのだろうか。一生のうちで取り返しのつかない悪事に手を染め、後悔と懺悔を繰り返すはずの心情は、不毛な浮世で生きてゆくための自己への擁護で上塗りされた。
だからこそ冷静で居られた。意思とは反して、とんでもなく恐ろしい心が組み上がっていたのだ。
「お疲れさま、みぃちゃん。どこに運ぶの?」
「トイレの奥に調理場があるって言ってた」
「オッケー。あれ、顔引っ掻かれた? 大丈夫? せっかくの白いモチ肌なのに」
万事に柔軟な愛佳。単に異常者の愛佳。
どちらにせよ、母音を絞り出すのがやっとという富士彦とは比べ物にならない鉄のメンタルをしていた。
涙を溜めて過食症を告白してくれたあの時の彼女は、一体どこへ行ってしまったのか。友人を守ったはずが、どうしてか無性に怯えが襲ってきた。
逆に罪悪感の圧迫やら、現実感の欠如やらで、まず頭がいっぱいになっている富士彦には苛立ちを覚えてしまった。彼はきっと、止められずに突っ立っていた自己嫌悪とか、自己憐憫とか、くだらない感情に苛まれているのだ。
未来は怒りの感情のあと、また悲しくなった。
「富士彦?」
呼んでも返事はない。いやいやと、子供のように首を振るだけだった。彼の意に介せず続けた。
「無理強いはしない。あとは好きなように動いて良いよ。警察行っても良いし、あたしとは縁を切っても良い。キミの自由だよ」
自棄糞だったとはいえ、つくづく中途半端な物言いだった。突き離さず、自分の思いのままに動かそうともしない。言葉の上では優しいと勘違いする輩も居るだろうが、未来は最も相手を傷つける表現をしたのだ。
「そうだねえ。フジさんは帰って良いよ」
愛佳の淡白な物言いが、優しさの塊に見えるほどである。それでも彼は、ゼンマイが止まったブリキのオモチャのように突っ立っている。顔に引っかき傷を残した未来は、見て見ぬふりを決め込み、死体の処理について思索した。物体がこの世にある以上、完全犯罪など不可能、そうであれば方法は限られている。
おもむろに未来が死体の両脇を持つと、愛佳も率先して運搬を手伝ってくれた。
「よいっしょ! はあ……いくら小柄とは言え、人間は重いやね」
「まったく骨が折れそう」
杏を体重四十キロ前後の小柄な少女と甘く見ていたが、女子二人で移動させるのは実に重労働だった。上半身と下半身を持って、えっさほいさ。
「二人じゃ厳しいや。フジさん、やっぱ手伝って? ほら早く」
力仕事が嫌で富士彦に応援を要請したのだろうが、この女は無茶苦茶である。
美食会で一番いかれている人物であると、胸を張って公言できるかもしれない。未来は、数分前の行いを棚に上げているわけではないが、持っているポテンシャルが違いすぎると思った。
「え……」
死体の側まで富士彦を引っ張ると、愛佳は「ほーら、足持って」と言い放った。されるがまま両足を持たされた男子一名と、両脇と胴体を持った女子二名が、三点を支えながら教室を出ると、普段通りの廊下がひっそりとしていた。
その足で向かった女子トイレは、入口から右手に用具入れ、左手に水道と鏡が備えてある。右奥に個室が三つ。突き当たりの壁に、鉄製の扉がはめ込まれている。ついているのはノブではなく、金属が溶接されたかのような取っ手だった。
禁断の扉は、人が一人やっと通れる大きさで、高さは二メートルにも満たず、幅も四、五〇センチあまりだった。
ふと未来の横目に鏡が飛び込んできた。
目を合わせている、セミロングの黒髪にウェーブをかけた、垂れ目で薄唇の、身長一六一センチ、体重四九キロのそいつは、数分前に人を殺したのだ。そいつは、この世で最も見覚えのある顔だった。言い訳はしない。開き直ると、吐き気が笑いに変化した。
扉の手前、死体から手を離すと、古びた二本のシリンダー錠のうち片方を鍵穴に差し込んだ。一本目でぎこちなく解錠し、鍵を抜くと扉を内開きにした。
先は暗中だった。嗅覚で捉えたのは、保健室のような鼻を突く消毒液の匂い。床の食感は柔らかく、うるさいくらいの無音がひしめいていた。
未来が初めに入室し、スマートフォンを用いて入口寄りのスイッチを探し当てると、人差し指で蛍光灯に明かりを灯した。
明かりの下に広がっていたのは床以外がコンクリートの、窓がひとつもない不気味な空間で、中央に鎮座する、あたかも手術台を模すかのような大きな調理台がまず目を引いた。
壁に設置されたステンレスシンク、ガス台、冷蔵庫は全部が業務用の大きさだった。部屋の奥には、天井から何かを吊るすための鉤が存在を誇示していた。下には水道と排水溝が備えられており、血抜きを行う光景が窺えた。
定期的にメンテナンスされているのだろうか。換気扇が油まみれになっているわけでもなく、またビニル系の床材やシンクに埃が被っている様子もなく、調理器具も万全の状態で管理され、調味料の賞味期限も問題はなかった。
場に圧倒されながらも、三人で死体を調理台に置くと、まず一息入れた。
「ふう。落ち着いたかなあ?」
愛佳は呑気に背伸びをしていた。
「落ち着いても居られない。まだ生暖かいけど、放っておけば死斑も出るし、すぐに腐る」
「それってまさか」
「免罪符があるならば、食材として杏を見ること。資格者が罪のない者を捌こうとした場合、その者は代償を受ける。要するにその者が食材にならなきゃいけないわけ」
空威張りしていただけだ。包丁を持てば、きっと胴震いする。それでも、やらなくてはならないのだ。調理台に乗せた死体――食材をじっと見据える。
「嘘だろ? 未来さん! もうやめろよ! やめてくれよ……」
「やっとしゃべった。富士彦、大声を出すのは恐怖があるから?」
「そうだよ。未来さんも愛佳も怖すぎるんだよ……お前らなんなんだよ! 人を殺して、こんな……おかしいだろ絶対!」
雑木林に捨てるとか、穴を掘って埋めるとか、平凡な発想は論外である。食材を無駄にすると同じ意味だからだ。《五大の罪》に引っかかれば、次は自分が調理台に転がる。
「幸い、美食会まであと四十八時間ある。あたしは、死ぬ気でこの食材を食べる」
「証拠を消すのか? 俺たちを守る自己犠牲のつもりか? ただの独善じゃねえか」
「あたしは……本当に二人を守りたい? 違う。ただ杏を食いたいだけかも。だって目の前に食い物があるから……ふふっ」
またもや、未来から無意識に笑いが漏れた。本能とは恐ろしいものである。
故人の上体を起こすと、紺色ブレザーから順に、ねずみ色のカーディガンを脱がし、赤色のネクタイ、白いワイシャツ、ピンクのババシャツを取り払った。
次に緑の上履き、青地のチェックのスカート、黒のタイツを取り去り、最後に桃色の下着を引っぺがした。
悪事を働こうとした杏を、正義を振りかざし成敗した。加えて追剥まがいまで行った。さながら、どこかの下人になった気分だった。
脱がした衣服をすべて部屋の隅に置くと、未来はブレザーとカーディガンを脱ぎ、ネクタイを外し、ワイシャツの袖を肘までまくったあとに髪をまとめた。
「さて、あとは」
棚を漁っているとニトリルゴム製の手袋と、使い捨てのエプロンを見つけた。それらを装着し、牛刀を手に取り小さな一呼吸――その後、深呼吸を行った。
いざ。未開の苦境へ飛び込もうとすると、
「みぃちゃん。あのね、わたしも手伝うよ」
横槍のように愛佳が手を差し伸べてきた。素っ頓狂な声を上げてしまった未来は、ただ目を丸くした。
「は?」
「そんなカリカリしないで。てか、わたし一回食べちゃったんだよね? だったら何人食っても同じだよ。味つけさえなんとかすりゃ食えるんだし。一人で食うのは無謀だよ?」
食に対する動機づけも、胃袋のでかさも人並みの未来は、高を括られていたようだ。横たわる奴さんも言っていたが、人間は本当にすぐ腐敗する。腐る前に調理し、さっさと食べてしまうには助力が必要なのだ。
目も見ずに「ありがとう」と漏らしながらも、未来の手は動かなかった。愛佳の善意に甘えたいが、望んだ明日がことごとく離れてゆく葛藤が手を止めていた。
「行動に移せないのはこの顔があるからだね。みぃちゃん、会長さんってわからなくなっちゃう前に、言い残したことはない?」
すると愛佳は独自の理論をばら撒き、いつの間にか未来と同じ格好に着替えながら横についた。
「はあ? 死んだら物になるの。なにも聞こえないの、わかる?」
「でも霊感があるなら、死体とも対話できるんじゃないかな。まだ部屋に居る?」
こうして聞くと、愛佳は完全に霊の存在を馬鹿にしている。加えて、『霊が見える』などと抜かしている人間も同じ扱いに決まっている。未来は羞恥を覚えた。
「人を殺した瞬間、そんなものは消え去った気がする。確かにあたしは見えてた。けど、本当に霊だったのか?」
最も恐ろしい生物は人間様だと自覚し、霊感が消えた。という言い訳は痛々しい皮肉だった。
「でもまだ物体あるからさあ。食べ物になったらもうわかんないけど、火葬前って死んじゃった人に言葉かけてあげるじゃん?」
愛佳はやはりおかしい。ここ数十分で急激に奇怪さを増した。――未来は納得するしかなかった、愛佳のぶっ飛んだ理論こそ正常な儀式なのだと。
「え、ああ。じゃあ、言い争う相手が居なくなって寂しいな」
「じゃあわたしは、せめて吐かないように食ってあげるね会長さん。儚い人だけに」
続いて愛佳が一息で言いきったあと、富士彦に視線を寄せたが、地球外生命体の認識を拒むかのように顔を逸らされていた。
「フジさんは?」と、作ったような微笑みで愛佳が問う。
「やめろ」と表情を作らずに富士彦が拒絶する。
三人しか存在しない、畳を十ほど並べられそうな部屋は、気を抜くと甚大ではない巨大な静寂に押しつぶされそうになる。
「タンパクだなあ。そういや、さっきはありがとうフジさんや」
「なんのことだよ」
「ほら、菜箸くじ引いた時だよ。わたしだけ助かってくれれば良いって願ってくれたんだよね。嬉しかったよ? 本当にありがとね」
「お前! 端から俺か安藤さんに当たってほしかったんだろ!」
「怒んないでよ。極論はそうかもしんないけど、フジさんの言葉を言い換えれば、当たるのみぃちゃんでも良かったんでしょ?」
言い返そうとした富士彦だったが、すんでのところで怒気を呑み込んでいた。未来も彼の立場だったら、同じ反応を取っただろう。
今の愛佳には、言葉が通用しないのだ。
「隠してもしょうがないよ。せっかく生き残ったんだから、これからも仲良くやろ。わたしはフジさんとも、もちろんみぃちゃんとも絶交したくないんだよ? ずっと一緒に居たいな。大人になっても、ずーっと」
「……ああ」
富士彦の諦めが心地良かったのだろうか、ぺたぺたと靴音を鳴らし調理台に戻ってきた愛佳に、笑顔で牛刀を奪い取られた。
発破のごとく、「行くよ!」と威勢の良い一声が反響した。愛佳は、目をかっと見開き刃先を首に宛がおうとした。
「愛佳、ちょっと待って」
流れるような動作に焦りを覚えた未来は、咄嗟に愛佳を制止した。肝心な作業を思い出したためである。
「先に血抜きしないと」
「そっか。じゃあ吊るすの?」
首を落とす寸前で愛佳の手が止まり、目線が再び富士彦を捉えた。力仕事を手伝わせる、羨望の眼差しだった。今回ばかりは彼も抗うかと思ったが、「手伝うよ」と、あっさりしたものだった。
何もかもがおかしかった。
三人で協力し食材を逆さに吊るし、愛佳が頸動脈に包丁の切っ先を入れると、蛇口をひねったかのようにこぼれ始めたのは、まるきり赤絵具だった。どろどろとした未知の生物を模し、次第に排水溝へと流れてゆく。
しばらく未来は恍惚としていたが、これ以上愛佳に主導権を握られるのが癪で、滴る血から目を離すと、出し抜けに富士彦へ指示を出した。
「ねえ富士彦。あたしたちのローファーと、この仏さんの靴を下駄箱から持ってきて。あとは仏さんの上履きを下駄箱に戻す作業もお願い」
「俺も共犯にしたいのか?」
「それから愛佳のゲロと、杏が焼いたクッキーも片づけて、調理室の鍵を閉めて」
質問には答えず、富士彦に鍵を放り投げると、彼は上手にキャッチしてくれた。一連の動作を通して、心が通じ合えた錯覚を起こした。
鍵を握り締めていた富士彦は、無言で秘密の調理室をあとにした。この先どこへ向かうかは彼次第である。
「なんでフジさん、みぃちゃんの言うこと聞くのかなあ? てか、女の子がゲロとか言わないの」
富士彦が去ってから、不満げに愛佳がつぶやいた。三人の中で最も素直で、わかりやすく、なつっこいと、心のどこかで軽んじていた友人が、今は最も畏怖の対象だった。接し方を考え直すほど。
「殺人犯には逆らわない、まともな心情かな」
「さっさと逃げて警察行けば良いのにねえ? 馬鹿みたい」
今日から二日間ここに籠る。教員も生徒も近づかないし、警備システムに引っかかる心配もない。安心しかない空間である。
さて、これからが本当の苦痛だ。未来は強迫観念を強く持っていたが、どこまで正気を保っていられるか楽しみも見出していた。
「さて。まずは美味しい尻から食べるよ」
「みぃちゃんエロい」
どうあれ丸二日は己との戦いである。他人の信用は禁物だった。
皆、狂ってしまうのだから。
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