5-5 ポーは知ってる?

 杏の音頭に合わせ、未来は自問した。

 なぜ、とんちんかん極まりないくじ引きをしているのだろうかと。思い起こすと今年はいやに疲れた、と。

 同好会に誘われた時は心が躍った。孤立しかけたクラスで、救済の手を差し伸べてくれたクラスメイトが居たからだ。

 が、根本を質せば杏のお陰で二人に出会えたのだ。彼と彼女のためならば、常人が考えつく困難は乗り越えてみせると誓った。

 小学校、中学校と至って普通の生徒で、高校に入っても普通の女子学生という肩書は変わらないと思っていた。友人ができにくいのは、多少コミュニケーションが苦手で、本当は組織内で認められるタイプだと、良いように自負していた。

 未来にとって同性とのロマンスや、好きな人を守るための食材転向は、規格外の壁だった。

 仮に、時間の神が現れ『過去へ戻してやる』と誘惑してきたら、首の動きだけで、ひたすら合点を繰り返すだろう。


 ――不意に舞い戻ってきた意識の中、杏の手中の闇から解き放たれた二膳と、ぴんと張り詰めた空気を感じた。未来は怖いもの見たさに、片目を箸の先端へ向けた。しばらくラグを置き、一気に歳を取ってしまったかのような息を吐き出すと、『安堵』により、全身から力が抜けていった。

 束の間、目線を順々に巡らせてゆく。食い先を隠し、印を確認している愛佳と富士彦の表情は、あるかないかの喜びが滲み出ていた。

「クソ……参ったな。だから私は嫌だったんだ」

 やがて一人が恨み言を漏らした。

「調理室でクソなんて言わない。そういや杏は読書する人? ポーは知ってる?」

「洋書は読まないよ……それがどうした」

 未来が、おおよそ杏が当たりを引く――と確信していたのは、四人の中で最も読書を嗜んでいたからだ。それでも、我先に菜箸を見たのは勇気ではなく恐怖に他ならなかった。

「いや。知らないなら良いけど」

 言いながら未来は、杏に一歩近寄った。余裕の一歩だった。そしてまたもう一歩。先程のくじの結果がどうあれ、ここで杏の背中に刃物を突き立てる意味も、食材にする意味もないと思っていたからだ。

 まず無害を証明し、美食会の退会を伝え、今後は愛佳と富士彦に関わらないことを約束させれば目的達成である。友人としての最後の仕事を遂行したかった。

「ねえ杏。あたしは――」

 近寄り様、未来は咄嗟に顔を逸らした。同時によろめきながら後退し、膝を曲げ中腰で踏ん張った。眼前、菜箸を逆手で握った杏が、スナップを利かせながら右手を振りきってきたからだ。危うく、顔面がとんでもない惨状になるところだった。

「あぶない! ちょっと!」

 矢のように閃く菜箸の食い先が、再び未来を襲った。あと十センチで眼球を抉られるかという距離で咄嗟に両手を出し、辛うじて杏の腕を鷲掴みにした。片膝を突きそうな低い態勢のまま時が硬直し、力比べのように、どんどんと重量が圧しかかってくる。

「下衆だな……約束も守れないの?」

「ちっ! 羊のくせに生意気なんだよ!」

 罵りと正論を兼ねた未来の声は届いていない。尚も杏は、菜箸の先端で顔を突き刺そうとしてきた。気を緩めれば血が流れる――思った矢先だった。拮抗する間もなく、杏の頭部で鈍い音が生まれた。後方から押し出されるように杏は床に転がった。

 目線の先に立っていたのは、水が滴るモップの柄を両手で握る愛佳だったのだ。彼女がモップの金具部分を杏の頭部に直撃させた、確たる証拠が揃っていた。灰色の水が顔に跳ねた不快感はあったものの、瞬きのあとに頭を下げざるを得なかった。

「助かった」

「大丈夫みぃちゃん?」

「お礼はあと」

 頭部を押さえながら起き上がろうとする小さな体に近寄った未来は、右手の菜箸踏みつけると、床を擦るように蹴り飛ばし、追撃のように顎を蹴り上げた。行動の理由は、たちまち湧いた憎しみだった。

 そのうち計り知れない殺意が湧いてきた。この床に転がった狂犬を放っておけば、再び舌をだらりと垂らし、涎をこぼしながら、こちらの首根っこに食いついてくる。やるべきはひとつなのだと。

 またもや夢遊病患者のようにふらっと足を進め、もがく杏に対してマウントポジションを取ると、絞殺を試みるべく両手を杏の首に回し力を込めた。

「やめ――」

 刹那の抗いは途切れ、次第に漏れ出したのは、一切の余裕がない、聞くに堪えない肉声と、排水溝が詰まり水が湧き上がるかのような不快音と、ちょっとの涙と涎だった。

 自慢の小顔は、みるみる晩秋のカラスウリ色に変わり、小さな体は殺虫剤をかけた芋虫さながらに暴れ始めた。

 杏は首に絡みつく両手を引き剥がそうとするが、未来の体重がかかっている分、華奢な体ではびくともしない。苦し紛れに顔面を引っ掻いてきたが、生死をかけている以上、多少の痛みはダメージとして加算されなかった。

 うっすら開いた杏の目線は、転がった菜箸を捉えていた。彼女は死に物狂いで手を伸ばしていたが、指先が床をタップする虚しい音が、学校から隔離された閉鎖的空間に響いた。恐ろしく寂寞としていたのだ。

 愛佳も富士彦も視界に入らない。二人は背後に確実に存在しているのに、こちらに介入してこようとはしないのだ。決して止めてほしかったわけではない。

「は、早く死んで! じゃないとあたしがおかしくなる!」

 生きるために殺人を遂行していると言い聞かせ、懺悔のように、観念のように、輪廻のように未来はかすれる声で叫んだ。

「うっ……が、ぐ……っ」

「早く弟のところへ逝け!」

 絞殺とは意外と時間がかかるものだ。十分ないし二十分と錯覚した地獄の刻みだったが、意識がぼうっとし始めると、終わりを迎えた。

 数センチ浮いていた杏の頭は、重さを支える力がなくなり、落下するボールのように床に激突した。音だけが実感させてくれる、現実の空気が身にまとう。

 必死に抵抗する者と、必死に息の根を止めようとする者は、いつしか抵抗を諦めた『物』と、殺人者に変わった。

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